飫肥(おび)の城下町見学を終え、バスは一路、都城へ。廃藩置県のとき、一年ほどは、宮崎県ではなく、都城県であったとのこと。そのときは、現在の鹿児島県大隅半島の一部も含まれていた。だから、ここは日向と薩摩が入り混じったところ。最初に訪れたところが、都城島津邸。島津といえば、薩摩と思っていたが、都城にも島津家が根を下ろしていた。
むしろ、島津姓の由来は、ここ都城の”地名”から来ているのだそうだ。平安時代に”島津荘”という大荘園があった場所で、頼朝が平家を滅ぼし、惟宗忠久をここの地頭に任命した。忠久は、以後、島津姓を名乗り、島津家初代となった。のちに、(鹿児島県)出水に本拠を移した。一方、都城の地は、室町時代に分家の北郷義久が治め、城をつくり”都之城”と命名したとのこと。北郷家は、江戸時代に姓を島津に戻し、通称”都城島津家”と呼ばれるようになったとのことだ。
都城島津邸 明治12年(1879)に都城島津家の邸宅として、島津久寛が建てたもの。その後、改築している。
玄関口
室内 畳敷きの渡り廊下
お食事処。昭和48年、昭和天皇・皇后両陛下が小林市での全国植樹祭に出席された折り、島津邸で宿泊された。そのときの夕食が再現されている。
古文書もよく保存されている。
日本庭園
さて、そこを離れて、向かうは霧島神社。本降りになっていく雨。途中で、関の尾の滝を見物する。ここに伝わる物語がある。今から600年前、時の城主、北郷資忠が、当地にて月見の宴を催した。そのとき、庄内一の美人、18歳のお雪(おしず)が資忠にお酌をしたとき、誤って酒をこぼしてしまった。このことを苦にしたお雪は杯を持って滝つぼに身を投げた。お雪の恋人であった経幸は、日夜滝の上からお雪の名を呼び、嘆き悲しんだが、ある日、「書きおくもかたみとなれや筆のあとまた会うときのしるしなるらん」と岩に鑓で刻み姿を消した。それ以来、名月の夜になると滝つぼに朱塗りの杯が浮かんでくるようになった。(説明板より)。
関之尾の滝
吊り橋から観る
そして、霧島神宮へ。建国神話の主人公である瓊々杵尊(ニニギノミコト)を祀っている。創建が6世紀で、初めは高千穂峰と火常峰の間にある背門丘に建てられたという。約500年前に現在地に。現社殿は島津家第21代当主(第4代薩摩藩主)島津吉貴が、1715年に建立・寄進したもの。
霧島神宮
三の鳥居
社殿
新神楽殿
ご神木(大杉)
唯我独尊のしるしがある!さすが、ご神木。神仏習合でごわす。
坂本龍馬・おりょうさん新婚旅行記念。京都伏見の寺田屋事件で九死に一生を得て、妻おりょうと共に当地へ。霧島の山奥の温泉で傷を癒し、天の逆鉾をみようと、高千穂に登山する。その足で、霧島神宮にも参拝する。日本で最初の新婚旅行とされる。
天孫降臨の地も訪れる。ここは霧島神宮のあった処。途中で鹿に出会う。
そして、いよいよ南九州の旅シリーズの最終回は、楽しみにしていた、えびの高原。高原歩きは天候次第。果たして、結果はどうなったでしょうか。お楽しみに。