スカパーの260チャンネル「洋画★シネフィル・イマジカ」でジャン・ルノワール監督の'46年作品「ピクニック」を見ました。字幕は山田宏一氏のものです。
川面のタイトルバックにタイトルロールが流れます。「この映画はやむおえない事情で未完に終わった。滞米中のジャン・ルノワール監督に代わって、私たちは作品と登場人物のイメージを失わないように配慮し、あるがままをお見せする。話の筋が分かるように、字幕を2ケ所挿入した。」の字幕。
「1860年の夏の日曜日、パリの金物商デュフール氏と妻と義母と娘のアンリエット(シルヴィア・バタイユ)と未来の婿養子アナトールを連れて、隣の牛乳屋から借りた馬車でピクニックに出かけた」の字幕。橋を渡る馬車の一行は、この辺のレストランで昼食を食べることにする。川辺のブーラン亭には常連の男アンリ(ジョルジュ・サン=サーンス)とその友人がいて、この静かな場所もやがて都会人だらけになってしまう、とアンリは嘆く。都会から来た女たちを見るために、友人が窓を開けると、娘と母がはしゃいでブランコに乗っていた。ブランコと一緒に揺れるカメラ。行き掛りの神学生も女性がブランコをしている姿に見とれてしまう。娘が立ちこぎから座りこぎになり、カメラは彼女のスカートの中を覗き込むように下から撮る。アンリは友人が娘をものにすると言うと、それによって娘の人生が台なしになると言って、アンリは反対する。
母娘は川べりのさくらんぼの木の木陰に座り、娘は自然に囲まれて、優しさが込み上げて来て、草木にも愛を感じ、快い欲望が湧き、何かが胸にこみあげてきて、泣きたくなる気持ちだと言う。母もそうした気持ちになるが、ただ今は分別がそうした気持ちを抑えていると言う。
友人はどうしても娘を誘惑すると言い、アンリはしょうがなく母のお供をさせられることになる。そらには雨雲が迫って来る。一家はサクランボの木の下で食事をしようと川から戻ると、アンリと友人がその場所に寝そべっている。友人は娘が置き忘れた帽子を彼女に返し、場所を一家に譲る。
昼食後、夫は寝てしまい、アナトールはしゃっくりをして母の気分を害したため、夫に連れられて治しにいく。夫とアナトールがいなくなったところで、アンリと友人が母娘に取り入り、夫とアナトールには釣りの道具を貸して釣りをさせている間に、母娘を船に乗せるが、アンリは娘と乗ってしまい、友人は母で我慢する。
流れ行く川辺の景色。川の静けさにうっとりする娘。アンリは森に誘うが、娘は母が心配して待っているだろうから帰った方がいいと言う。帰ってみると、母はアンリの友人とまだ船の上ではしゃいでいた。アンリと娘は上陸して森に行き、鳴くウグイスを見ている娘をアンリは押し倒し、無理矢理キスをしようとすると、最初は抵抗していた娘も最後には自分の方からアンリにしがみついていく。風で揺れる木々。雨が降り、濁流と化す川。二人は愛の行為の後、茫然と空を眺める。
「月曜日のように悲しい日曜日がめぐり、数年がたった。アンリエットはアナトールと結婚した。そしてある日曜日‥‥」の字幕。アンリは1人で船をこぎ、娘との思い出の場所を訪れる。するとそこには、昼寝をしているアナトールとアンリエットがいた。アンリはよくここに来ると言い、アンリエットもよくここのことを思い出すと言う。昼寝から覚めたアナトールがアンリエットを呼び、目を潤ませたアンリエットはアナトールのもとへ戻って行く。アンリエットが舟を漕ぎ、アナトールとともに川を下って行く。そしてカメラが、残されたアンリの舟から川面へパンして、映画は終わる。
ジャン・ルノワールの最高作と言う人もいるぐらい、素晴らしい作品。最初の字幕で述べられているように、未完のフィルムをヌーヴェル・ヴァーグのプロデューサーとして有名なピエール・ブロンベルジェが再構成し、この作品が誕生しました。
有名なブランコのシーン(山田宏一氏は『カメラが発情している』と絶賛しました)はもとより、自然描写の美しさ、哲学者ジョルジュ・バタイユの妻であり、主演のアンリエットを演じているシルヴィア・バタイユのういういしさ、そして人生の楽しさ、悲しさ。たった41分の映画の中にあまりに多くの要素が写し出されています。まだ見てない方は必見です。
川面のタイトルバックにタイトルロールが流れます。「この映画はやむおえない事情で未完に終わった。滞米中のジャン・ルノワール監督に代わって、私たちは作品と登場人物のイメージを失わないように配慮し、あるがままをお見せする。話の筋が分かるように、字幕を2ケ所挿入した。」の字幕。
「1860年の夏の日曜日、パリの金物商デュフール氏と妻と義母と娘のアンリエット(シルヴィア・バタイユ)と未来の婿養子アナトールを連れて、隣の牛乳屋から借りた馬車でピクニックに出かけた」の字幕。橋を渡る馬車の一行は、この辺のレストランで昼食を食べることにする。川辺のブーラン亭には常連の男アンリ(ジョルジュ・サン=サーンス)とその友人がいて、この静かな場所もやがて都会人だらけになってしまう、とアンリは嘆く。都会から来た女たちを見るために、友人が窓を開けると、娘と母がはしゃいでブランコに乗っていた。ブランコと一緒に揺れるカメラ。行き掛りの神学生も女性がブランコをしている姿に見とれてしまう。娘が立ちこぎから座りこぎになり、カメラは彼女のスカートの中を覗き込むように下から撮る。アンリは友人が娘をものにすると言うと、それによって娘の人生が台なしになると言って、アンリは反対する。
母娘は川べりのさくらんぼの木の木陰に座り、娘は自然に囲まれて、優しさが込み上げて来て、草木にも愛を感じ、快い欲望が湧き、何かが胸にこみあげてきて、泣きたくなる気持ちだと言う。母もそうした気持ちになるが、ただ今は分別がそうした気持ちを抑えていると言う。
友人はどうしても娘を誘惑すると言い、アンリはしょうがなく母のお供をさせられることになる。そらには雨雲が迫って来る。一家はサクランボの木の下で食事をしようと川から戻ると、アンリと友人がその場所に寝そべっている。友人は娘が置き忘れた帽子を彼女に返し、場所を一家に譲る。
昼食後、夫は寝てしまい、アナトールはしゃっくりをして母の気分を害したため、夫に連れられて治しにいく。夫とアナトールがいなくなったところで、アンリと友人が母娘に取り入り、夫とアナトールには釣りの道具を貸して釣りをさせている間に、母娘を船に乗せるが、アンリは娘と乗ってしまい、友人は母で我慢する。
流れ行く川辺の景色。川の静けさにうっとりする娘。アンリは森に誘うが、娘は母が心配して待っているだろうから帰った方がいいと言う。帰ってみると、母はアンリの友人とまだ船の上ではしゃいでいた。アンリと娘は上陸して森に行き、鳴くウグイスを見ている娘をアンリは押し倒し、無理矢理キスをしようとすると、最初は抵抗していた娘も最後には自分の方からアンリにしがみついていく。風で揺れる木々。雨が降り、濁流と化す川。二人は愛の行為の後、茫然と空を眺める。
「月曜日のように悲しい日曜日がめぐり、数年がたった。アンリエットはアナトールと結婚した。そしてある日曜日‥‥」の字幕。アンリは1人で船をこぎ、娘との思い出の場所を訪れる。するとそこには、昼寝をしているアナトールとアンリエットがいた。アンリはよくここに来ると言い、アンリエットもよくここのことを思い出すと言う。昼寝から覚めたアナトールがアンリエットを呼び、目を潤ませたアンリエットはアナトールのもとへ戻って行く。アンリエットが舟を漕ぎ、アナトールとともに川を下って行く。そしてカメラが、残されたアンリの舟から川面へパンして、映画は終わる。
ジャン・ルノワールの最高作と言う人もいるぐらい、素晴らしい作品。最初の字幕で述べられているように、未完のフィルムをヌーヴェル・ヴァーグのプロデューサーとして有名なピエール・ブロンベルジェが再構成し、この作品が誕生しました。
有名なブランコのシーン(山田宏一氏は『カメラが発情している』と絶賛しました)はもとより、自然描写の美しさ、哲学者ジョルジュ・バタイユの妻であり、主演のアンリエットを演じているシルヴィア・バタイユのういういしさ、そして人生の楽しさ、悲しさ。たった41分の映画の中にあまりに多くの要素が写し出されています。まだ見てない方は必見です。