まさに参議院選挙で自民党の歴史的大敗のニュースを見ているさなかだった。
「小田実さん死去」の速報が、TV画面に流れた。
末期ガンで治療中と聞いていたのだが、いっしゅん驚き言葉を失う、
と同時に、
あまりにも早い死に、残念な思いがつのった。
岐阜の市民運動は、70年代の「ベ平連」の流れをくんでいる。
小田さんの本をはじめて読んだのは、
『なんでも見てやろう』(河出書房新社)だった。
小田さんは、たくさんの本を書かれたが、
なかでもわたしは、『「難死」の思想』(岩波書店/1991)、
『ひとりでもやる、ひとりでもやめる―「良心的軍事拒否国家」日本・市民の選択 』
(筑摩書房/2000)が心にのこっている。
『われ=われの旅―NY・ベルリン・神戸・済州島 』(小田 実, 玄 順恵/岩波書店/1996) は、
「人生の同行者」玄順恵さんとの共著で、
おつれあいが在日朝鮮人ということにも親近感を感じていた。
その後も、図書館で見つけるたびに、読むようにしていたが、
どの本も、ずっしりと分厚くて、けっこう難解だった。
小田さんの目線は低く、立ち位置はいつも「市民」の側にあり、
権力に対峙した、その姿勢は生涯ゆるぐことがなかった。
小田実さんの著書のかずかず
小田実さんの葬儀は、今日東京で行われ、
鶴見俊輔さんが「わずかの間でも、平和に向かって歩いていきたい」
と参列者に呼びかけて、追悼のデモをしたそうだ。
平和求めた小田さんしのぶ 東京で告別式と追悼デモ
中日新聞 2007年8月4日 18時40分
7月30日に胃がんのため75歳で死去した作家小田実さんの告別式が4日午後、東京都港区の青山葬儀所で行われ、平和、護憲運動でともに活動してきた文化人や市民ら約800人が小田さんをしのんだ。
評論家の加藤周一さんは弔辞で「小田さんは実に誠実で、ベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)や、阪神大震災の被災者支援運動、九条の会などの驚くべき呼び掛け人でした。社会における文学者の新しい型を確立した有言実行の人でした」と述べた。
小田さんとベ平連を結成し、葬儀委員長を務めた哲学者の鶴見俊輔さんが告別式後、「わずかの間でも、平和に向かって歩いていきたい」と呼び掛け、参列者有志が周辺で約15分間、追悼のデモ行進をした。
告別式には作家の大江健三郎さんや井上ひさしさん、文芸評論家のドナルド・キーンさんといった文学関係者のほか、土井たか子社民党名誉党首ら護憲、平和運動の関係者らも参列した。
(共同)
----------------------------------------------------------------------
一昨日の毎日新聞夕刊には、小田実さんを偲んで、色川大吉さんの
「ほんものの行動的国際知識人 疾走した小田実君の生涯」の文章が掲載されていた。

疾走した小田実君の生涯
参院選で自民党の「歴史的大敗」のニュースが飛び交っていた30日の朝、小田実急死の報せをうけた。雷鳴がとどろき、あたりが暗くなるほどの豪雨がたたきつけていたときだ。
彼の4月21日付、最後の手紙では、「あと3ヶ月、あと6カ月、9カ月、あわよくば1年」と書かれていたのに、最短の3ヶ月で逝ってしまった。疾走しぬいた生涯になった。倒れる直前までオランダのハーグに出かけて民衆法廷の判事をつとめ、さらにトルコを回ったりしていた。
世界のどこかで不正があり、それを知ったら沈黙しているのは罪であり、恥であるという感覚を持ち続けていた小田は、この国では数少ないほんものの行動的国際知識人だった。
それは『なんでも見てやろう』(1961年)からはじまり、「ベ平連」(ベトナムに平和を! 市民連合)、「日韓・パレスチナ連帯」「日市連」(日本はこれでいいのか 市民連合)、阪神大震災を契機に出来た「被災者生活再建支援法」、「市民の意見30の会」、「9条の会」などの運動に一貫している。それでいて多くの文学作品を残した。かけがえのない人を失ったとの思いがつよいが、見事な行動の軌跡を残した生涯だったとの感慨もある。
私が小田と親密な関係になったのはベ平連事務局長だった吉川勇一の仲介で、80年1月から「現状を考える会」という月例集会をかさね、12月にそれを発展解消し、「日市連」を旗揚げしてからである。その代表世話人を小田と私が引きうけた。彼がいうには、考えてばかりいてもしょうがない。日本と世界の現状に異議を申し立て、行動を起こそうということであった。
この年、衆参同一選挙で自民党が圧勝し、火のついたロッキード事件に介入しかねない状況になっていた。翌年、海外からはポーランドで「連帯」が弾圧され、ワレサが軟禁されたというニュースが入った。82年には中韓とのあいだで教科書問題が起こる。米国からは3海峡封鎖などの防衛分担要求があり、組閣したばかりの中曽根首相がひしせょうに危険な発言をして国際緊張を高めた。
日市連はこういう問題にいちいち緊急声明を出し、関係した機関に直ちに抗議デモをかけるということを繰り返した。85年のスパイ防止法案から防衛費1%枠突破問題などでは、防衛庁への抗議デモをつづけた。
こうした行動は発案したものが自己責任で直ちに実行する。会議はそのあと。はじめは20人でも30人のデモでもよい。問題提起が時代の本質をえぐる緊急性のあるものならば、かならずメディアがとりあげる。報道されれば30人の行動が3000人にも30万人にも波になって広がり、はねかえる。そうしたマスコミ取り込みの情報戦略を市民運動に取り入れたのは小田実らの功績だった。
昭和天皇が危篤状態になり、日本中が「自粛」の沈黙状態に陥ったとき、日市連がマズ声をあげ、「天皇が死んでも戦争の責任は消えない」との横断幕をかかげて都心デモを5日間にわたってくりかえした。そのとき、30人ほどのデモに最初に集まったのは警官隊と外国人記者たちであり、次いで日本のメディア、3日目からはテレビで見たという参加市民であった。自粛ムードに風穴をあけたのはよいが、私は右翼からの電話にさんざん悩まされた。そのとき、小田はそんな私たちの報告を楽しそうに笑って聞いていたのを想い出す。
小田よ、そういう昔話を君とすることも、もう、お互い出来なくなった。無神論者の君は信じまいが、一足先に行った鶴見良行ら多くの同志たちが、三途の川のへりで、「長いことご苦労さん、よく来たな」と迎えてくれるかもしれない。もう疾走はやめ、ゆっくり休んでくれたまえ。
(いろかわ・だいきち=東京経済大名誉教授、日本近代史、思想史)
◆
作家の小田実さんは7月30日死去、75歳。
(毎日新聞 2007.8.2)
--------------------------------------------------------------
死を覚悟した小田さん自身の手によって、
「市民の皆さん方へ」と最後のメッセージが、アップされている。
作家 小田実のホームページ
市民の皆さん方へ 小田実 2007.6.2
友人への手紙
同封してお送りするのは、この3月、私が juryのひとりとして参加した「恒久民族民衆法廷」(Permanent Peoples' Tribunal――「PPT」)のフィリピンの怖るべき事態にかかわっての「判決文」のコピーです。現在のフィリピンの事態について、日本では、また世界では、あまりにも知られていないので、お送りします。
「PPT」は、日本ではまったくと言っていいほど知られていませんが、ヨーロッパ、「第三世界」ではよく知られた民衆の国際的組織ですが、私は、イタリアの思想家、レリオ・バッソによって設立され、現在ローマに本拠をおいて活動をつづけているこの組織に、1979年の設立当初から参加して来ています。これは、一口に言ってしまえば、ベトナム戦争時の「バートランド・ラッセル裁判」の衣鉢を継ぐものと言えるでしょうが、国家の犯罪を「民」(民族・民衆)の側から裁く――そこで理非曲直をあきらかにしようとする企てです。私はこの企てに加わることを78年に来日されたバッソ氏に求められ、彼のその主張を聞いたあと、主張に賛同し、私は法律の専門家でないが、Common People としての common sense, Human Beings のひとりとしての Human Wisdom は持っているつもりだ、その二つに基いて参加すると答えました。
以後、1979年にボローニャでの発足の式典に参加、さらには80年のアントワープで開かれたマルコス政権下でのフィリピンの事態にかかわっての第一回の法廷に jury として参加しました。実は、この3月の法廷は、その80年の第一回につづいての第二回のもので、第一回に参加した以上、第二回に参加するのが私のはたすべきことだと考えて、後述するような体調不良にかかわらず、オランダのハーグまで出かけたのですが、第一回の場合のマルコス政権下でのフィリピンの事態については、私もよく知っていたにもかかわらず、第二回の法廷に出た私は、現在の事態について、ほとんど何ひとつ知っていないことが、参加し、審議にくわわっているなかで判りました。しかし、これは私だけのことではない、世界の多くの人にとって同じだと考えて、この判決文を同封してお送りする次第です。
今、フィリピンで起こっている事態は、まとめ上げて言えば、ブッシュ政権がひきいるアメリカが民主主義と自由を標榜しながら、「9・11」をタテにとって、アメリカに完全に支えられ、結託したアロヨ政権の下で、「 impunity 」(合法をよそおって、非合法の殺し、抑圧、拷問をする)の犯罪を大々的に反対勢力(のなかには、「左」はおろか、一般民衆、カソリック、プロテスタントの神職者たちも入る)の一掃をはかっていることです。私たちの「判決文」がブッシュ・アメリカ大統領とアロヨ・フィリピン大統領に対するものになっているのはそのためですが、「法廷」は五日間にわたっていろんな立場のフィリピンの証言を聞きました。(子細は「判決文」につけた文書のなかにあります)。
この「 impunity 」の事態はまったくひどいものです。この「 impunity 」で、今、大きな役割を演じているのは、フィリピン軍とそれと深く結びついた在フィリピンの米軍です。いろんな証言者の証言を聞いていると、今さらながらあらためて、軍隊のこわさと、私たちの平和憲法――「九条」の意義、重要性が、浮きぼりになって来る感じです。
今、こうした「 impunity 」をアメリカは、フィリピンの他にも、コロンビアで大々的に行なっているようです。フィリピン同様、コロンビアも、アメリカが大きな支配力をもって来た、アメリカの世界支配の軍事力の展開にとって重要な国としてあるので、民主主義と自由をうたい上げながら、同時に、「 impunity 」を強力に行なう必要のある国です。
昨年秋、私たちの「PPT」とはちがった主体によるものでしたが、その名も「 Tribunal Contra La Impunida 」(「 Impunity 」に反対する法廷)と題した民衆法廷が開かれていて、そこから二人が、このハーグでの「PPT」に来て、参加されていました。(そのひとり、ベルギーのウータール教授は、ボゴタの「民衆法廷」の議長をして来た人物ですが、このハーグでの「PPT」の議長もしました。彼は今年82歳になる、ベルギーで「第三世界研究所」を開いた高名な学者です)。
これ以上、くだくだと「法廷」について、述べることはやめます。五日間の「PPT」に出席して、「民主主義と自由」に加えて、「平和主義」の「九条」をもつ日本の思想的、また、現実政治的重要性をあらためて考えたとひと言申しそえて、あとは、ぜひとも、「判決文」をお読み下さい――と申し上げることにとどめます。私自身をふくめて、私たちは、世界のこうした事態について、あまりにも知らなさすぎるように思われます。私は「PPT」の「法廷」の席で、自分の無知を恥じると言いました。無知は犯罪であるとも言いました。帰国後、せめてホンコンの市民たちがしたように、事実調査の一団を組織して、現地におもむきたいと考えて、フィリピンの人たちに言ったものでしたが、以下に述べる私の健康状態では、それはかなわぬことになってしまっています。どなたか、そうしたことをしていただける人がいられたら、ありがたいと存じます。
これまで、この手紙をお読み下さったことを感謝します。これからここで書くことは、私個人のみにかかわることなので、書くべきことでないといったん考えたのですが、上記の私の「頼み」にもかかわることなので、あえて書かせていただくことにしました。
私は、この手紙の先のところで、体調を崩していたのにかかわらず、ハーグへ出かけたと書いていましたが、体調不良はそのあと、トルコへ出かけたときも、かわらずつづいていました。このトルコ行は、さらにいっそう「私事」にかかわることで書くべきことでないかも知れませんが、現在のアメリカの民主主義と自由をふりかざしての覇権行使にもかかわることなので、少し書いておきたいので、書いておきます。
トルコ行のひとつの目的は、古代ギリシア(ことにアテナイ)の民主主義と自由、その繁栄をウラから大いに支えたのが黒海沿岸のギリシア植民都市であったことを現地へ出かけて少しでも確認したかったことと、私は、マーティン・バナールが『黒いアテナ』で主張する「古代文明のアジア・アフリカ起源」に根本的に賛成するもので、藤原書店に強引にたのみ込むかたちで出版してもらったのですが(訳者にも、私の「弟子」格の金井和子君に強引にたのみ込んでなってもらいました)、もう少しヨーロッパやアジアをひろがりのある視点で考えておきたかった――それが、トルコ行きの第二の目的でした。そう考えれば、トルコはユーラシア大陸のまさにカナメになる位置の国です。今回出かけたのは、トロイに始まるエーゲ海のギリシアとともに、黒海の沿岸地域で、シルクロードの西端のトラブゾンまで足を伸ばしました。マーティン・バナールは最近出した『黒いアテナ』の最終巻Vol.Ⅲで、言語の起源は一本のカシの木のようなものでなく、マングローブの根のようにゴチャゴチャとつらなり合ったものだと主張していますが、私は、言語にかかわらず、人間の文化、文明、思想、論理、倫理もそうしたものでないかと、長年の世界とのつきあいから考えて来ています(この点で、ヘロドトスの『歴史』はギリシア中心の史観がなくて、きわめて示唆にとんだものだと、最近、あらためて考えています)。
以上のようなことを考え、たしかめながら、体調不良をなんとかしのぎながら、強引にトルコも旅して歩いて帰国したのですが、帰国後病院で受けた検査で、体調不良は末期――またはそれに近いガンによるものであることが判明しました。
英語の言い方で、「 His days are numbered 」(余命は限られている)というのがありますが、私の状態はまさにそれで、あと、3カ月、6カ月、9カ月、あわよくば1年――というぐあいに考えています(検査を受けた病院は、大阪の大阪駅近くの福島の病院ですが、福島は私が生まれた場所です。今年6月2日に私は75歳になりますが――生きていればの話ですが――75年、人生を一巡してもとのところに戻ってきた感があります)。
短かいあいだですが、デモ行進に出ることも、集会でしゃべることももうありませんが、書くことはできるので、できるかぎり、書きつづけて行きたいと考えています。5月に手術して、あと、化学療法などやりますが、できるかぎり自宅にいようと考えています(この手紙も、病院からいったん出て、自宅でかいています)。
「私事」にわたる報告は以上です。ではおたがい、奇妙な言い方かも知れませんが、生きているかぎり、お元気で。
2007年4月21日
小田 実
------------------------------------------------------------------
さようなら、小田実さん。
あなたの蒔いた種は、かくじつに、わたしのなかに、
あなたに出会った、ひとりひとりのなかに育っています。
写真をクリックすると拡大。その右下のマークをクリックするとさらに拡大
最後まで読んでくださってありがとう

「一期一会」に




