共同の田植え機で植えるので、わたしは特にすることがないのです。
紙ロールは、田植え機本体の真後ろの下につけて、
機械の左右・両側では、補充用の1本ずつを携行。
植えているときに紙や苗がなくなってもすぐに補充できます。
機械の植え残しの部分だけ、手植えします。
機械で植え終わった2ヶ所の水田
ともちゃんは議会、オペレーターの友人と子どもたちに任せておいて、
午前中、病院に大腸検査を届けに行って、母を温泉に送って、
図書館に行って帰ってきたら、もう終わっていました。
先日の手植えの水田の植え終わり
今年の田植えはこれでおしまい。
紙マルチが雑草を抑えてくれるので、
あとは、稲が活着して、すくすく育つのを待つだけです。
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ところで、
気になっているのが、ミャンマーの水害と中国・四川大地震k被災者のこと。
と思っていたら、毎日新聞【記者の目】にタイムリーな記事が載っていました。
この【記者の目】は署名入りで、記事を書く記者の視点と立ち位置がよく分かり、
きらりと光る記事が多いので、欠かさず読んでいます。
ちなみに、「ミャンマー国軍に奪われた青春」を書いてみえる黒岩揺光さんは、
友人の息子さんです。
記者の目:■ミャンマー国軍に奪われた青春=黒岩揺光(尾道通信部) 2008.6.6毎日新聞 天災追い打ち 募る遺恨 日本人 寄り添えぬか 大型サイクロン「ナルギス」に襲われたミャンマーの軍事政権が国民投票を強行した5月10日、大阪市城東区の非政府組織(NGO)「日本ビルマ救援センター」に1枚の写真がメールで届いた。被害が集中したエヤワディ管区で、無数の子どもの遺体が水田に浮いている写真だった。なぜ、国民投票より救援を優先できないのか。軍事政権は5月23日にようやく、それまで拒んできた外国の人的援助の全面受け入れを表明したが、学生時代からミャンマーの人たちと接してきた者として、不信感と怒りが募るばかりだ。 5年前、大学院生だった私は修士論文の調査などで、ミャンマーやミャンマー人が暮らすタイの難民キャンプを10回以上訪れた。サイクロンでの軍事政権の対応を見て、キャンプ内の孤児院にいた当時19歳のミャンマー人、モーモー君のことを思い出した。 モーモー君は12歳の時、友人6人とヤンゴンの映画館の前で兵士10人に囲まれ、家族へ連絡できないまま国軍の訓練施設に連行された。昼間は射撃や行進の訓練、夜は料理や掃除。一緒に連行された友人が拷問され、十分な治療を受けられずに死亡した。怖くなって脱走を試みたが失敗し、数日間、独房に放置された。施設は死者や逃亡者が相次ぎ、250人いた少年は4カ月の訓練が終わると200人になっていたという。 訓練の後、タイ国境近くの紛争地帯に送られ、国軍の物運びとしてジャングルを歩いた。他の兵士が寝ている間に少数民族の武装組織に逃げ込み、タイの難民キャンプに来た。「敵軍に逃げ込むのは怖くなかったか」という私の質問に、モーモー君は「どんな所でも、国軍にいるよりはましだ」と震えながら答えた。 ミャンマーではモーモー君のような少年兵は珍しくないという。米国の人権団体「ヒューマン・ライツ・ウオッチ」が02年に出した報告書によると、国軍の兵士35万人中、約7万人が未成年と見られている。 タイにはミャンマー難民のキャンプが現在9カ所あり、武装闘争を続けるカレンやカレニなどの少数民族10万人以上が暮らしている。国軍に村を焼かれ、家族を殺された若者たちは「我が身を犠牲にしても、国軍を倒すために戦う」と話していた。モーモー君の夢も「少数民族の兵隊になって国軍を倒すこと」。戦うことにしか存在価値を見いだせない人生を目の当たりにしてショックだった。 日本からも、ミャンマーの惨状はうかがえる。 法務省入国管理局によると、昨年1年間だけで500人のミャンマー人が日本政府に難民申請し、35人が認定を受け、69人が「人道的配慮」で在留特別許可を得ている。 私は入社前の05年10月に在日ミャンマー人支援NGO「ビルマ市民フォーラム」(東京都新宿区)の運営委員になり、半年間、交流会や勉強会をした。難民申請中の人たちは立場が弱く堂々と声を上げにくいと思い、日本語のスピーチコンテストを開いた。 少数民族出身のチンカイさん(35)は88年の民主化運動に参加し、92年に軍の事件に巻き込まれ、観光ビザで日本へ逃れた。日本で結婚した同胞の夫が強制退去になり、コンテストでは日本生まれの長男(3)を抱いて「外国人、母子家庭、低賃金で、この子を立派に育てられるか不安です」と話した。07年に在留特別許可を得て、今は職業訓練校に通っている。 サイクロンの後、多くの在日ミャンマー人は祖国と連絡が取れず、家族の無事を祈る日々を送っている。東京都にいるミャンマー難民のノートレポーさん(42)は、95%が破壊され1万人以上が亡くなったというエヤワディ管区ボガレイ近くの村で育った。「もう村はない。祖父母も親類もみんな亡くなっていると思う」と話しながらも、祖国の被災者の無事を願って毎晩手を合わせている。 私も何かできないかと思い、5月上旬、大阪市城東区に住むミャンマー難民のマウンマウンさん(40)と駅前で募金活動をした。しかし、1日に集まるのは3000~4000円。大半の人は素通りで、募金に応じてくれても、ミャンマーを心配してマウンマウンさんに話しかける人はほとんどいなかった。 ミャンマーの若者たちは皆、「日本語を教えて」と私に歩み寄ってくれた。日本に親しみを感じる国の人々が軍政の下で夢を失い、日本で毎日のように私たちの政府に保護を求め、サイクロン被害に心を痛めている。私たちも彼らに寄り添うことはできないものか。社会全体で考えていかなければならないと思う。(尾道通信部) 毎日新聞 2008年6月6日 ---------------------------------------------------------------------- 記者の目:■四川大地震 被災者困窮=鈴木玲子(上海支局) 2008.6.11毎日新聞 日本から「心のケア」急げ 間接支援できるはず 被災者総数4500万人以上という数字は日本の総人口の3分の1に相当する。死者・行方不明者9万人近い中国・四川大地震。発生した5月12日、現地に入った。1カ月がたつ今、再び被災地を歩いている。 多くの被災者は30度を超す暑さの中、テント生活を続けている。北京五輪を前に、「隆盛する大国」のイメージの強い中国だが、未曽有の災害に襲われたのは発展の恩恵が及ばない、この国の弱い部分であることを報告したい。 大地震の活断層のほぼ真上にある北川(ほくせん)県曲山地区。直径10メートルもの岩が建物や車を押しつぶし、数歩進むごとに遺体が横たわっていた。にぎやかだった通りは、高さ20メートルを超すがれきの山に変ぼうしていた。 愛する人を捜しに家族がその山をはい上がっていく。後を追いながら、自問し続けた。「この下にまだ人がいるだろう。がれきを除去するのは簡単ではない。なぜ登るのか」。何人もの被災者から「報道機関なら、情報が入るかも」と連絡先の電話番号を渡された。その数が増えるほど、無力感に襲われた。 曲山地区の被災者の一人、李清江さん(25)に出会ったのはそんなころだ。綿陽市内の九洲体育館で避難生活を続けながら、夫の沈啓軍さん(28)ら親類11人を捜していた。 負傷者名簿が張り出された病院を一緒に回っても、手がかりはない。ある日、李さんから携帯電話にこんなメールが届いた。 「彼の後を追いたい。なぜ、こんなにも早く私と娘を置いていってしまったの。彼のいない人生なんて意味がない。苦しくて苦しくてたまらない」。5月12日は李さんの誕生日だった。私は途方にくれながら「大事な娘さんがいるのだから、今は体を休めて」と返信するしかなかった。 自宅は全壊し、仕事もない。親類がインターネット上に掲載された負傷者名簿の中に、夫と同姓同名の人を見つけた。望みをかけて電話したが、別人だった。 避難所で被災児への資金援助の登録が行われていた。北京から来たボランティアが篤志家を募って被災地の農村で親を亡くした子供への教育資金を援助する活動だ。スタッフは「篤志家が現れたら電話するから」と告げたが、連絡はない。 李さんの元に、中国の慈善基金会から支援の話が舞い込んだ。子供を抱えた女性被災者の自立を促すため、5万元(約76万円)を貸与するという。私は基金会に内容を確認し、李さんに電話で説明した。 いったん上海に戻ったあと9日ぶりに李さんと再会した。だが、彼女は自立支援に応募していなかった。「私は理髪ができるけれど、すぐ店を開くなんて無理だから」。学ぶ機会もなく、商売の才覚もなく、将来を考える余裕もない。どれほどの人が苦しみ続けているのだろうか。李さんの不幸はほんの一例だろう。 大地震は山間に点在する農村を中心に襲った。経済発展著しい中国社会だが、都市部と農村部の貧富の格差は広がる一方だ。私が生活する上海と比べれば、発展の遅れにがく然とする。 生活苦から大都市へ出稼ぎに向かう農民が後を絶たない。四川省は全国一の出稼ぎ労働者供給地だ。07年は2002万人(前年比6.8%増)と過去最高を更新した。親が出稼ぎに出ていて、残された子供やその世話をする祖父母が地震で死んだ例も数え切れない。 道路は分断され、インフラ再建は都市部以上に困難だ。地割れや崩落でわずかな畑を失った農民も少なくない。家族や生活の糧を奪われた貧しい農民たちが生活を立て直すのは並大抵ではない。 わずかな救いは、日本からの救助隊や医療隊の活動を多くの被災者から感謝されたことだった。日本人ということで取材の先々で「来てくれてありがとう」「日本人は好きじゃなかったけれど、少し印象が変わった」と声をかけられた。日本から差し伸べた手は、中国のへき地で苦しむ人々に確実に届いている。 幾多の震災を経験し、苦難を乗り越えてきた日本だからこそ、できることがあるはずだ。被災地で強くそう思う。傷ついた人々の心を慰め、励ますことはできないだろうか。例えば、金銭的・物的支援だけではなく、「心のケア」は「目に見える支援」以上の助けになる。現地での取り組みに直接携われなくても、日本にいながら間接的に参加できるはずだ。 この記事を書いている今も余震が続く。復興への道は遠い。被災者一人一人の心に届く長期的支援とは何か。それを考えてほしい。 (毎日新聞 2008年6月11日) |
阪神大震災が起きたときは、すぐに現地に行って、
その後、20回ほど救援物資を直接届けましたが、
今回は、自分のことにかまけてて、気になりながら何もできていません。
記事を読んで、あらためて、
「わたしに何ができるのか」、問いかけられた気がしました。
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