『反貧困─「すべり台社会」からの脱出』(湯浅誠著)と、
『ルポ貧困大国アメリカ』(堤未果著)。
ともに岩波新書。
『反貧困─「すべり台社会」からの脱出』(湯浅誠著/岩波書店/2008/04)
『ルポ貧困大国アメリカ』(堤未果著/岩波書店/2008/1)
湯浅誠さんの前著、『貧困襲来』(伊吹書店)を読んだときは、
見えない貧困が社会に広がっていることに衝撃を受けた。
『反貧困』は、─「すべり台社会」からの脱出、とあるように、
「見えない貧困」を、見えるようにし、
「一つ一つ行動し、仲間を集め、場所をつくり、声をあげ」
わたしたちの社会を変えよう、という呼びかけである。
この本は、こう結んでいる。
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・・・・私たち市民には、お金もなければ権力もない。団体を作り、組織に所属している場合でも、その力は大企業・大政党にかなうものではない。しかし私たちは、日々の生活と活動を通じて、貧困が今ここに「ある」ことを知っている。貧困問題に関しては、それこそが最大の強みである。貧困は自己責任ではない。貧困は、社会と政治に対する問いかけである。その問いを正面から受け止め、逃げずに立ち向かう強さをもった社会を作りたい。
過ちを正すのに、遅すぎるということはない。私たちは、この社会に生きている。この社会を変えていく以外に、「すべり台社会」から脱出する方途はない。
『反貧困』P220より)
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本の帯には「いまのニッポンも”貧困大国”だ
誰もが人間らしく生きられる社会を!」とある。
問われているのは、わたしたち自身です。
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湯浅誠さん 貧困大国・ニッポンの現実と変化の兆し
これは社会への危険信号(2008.6.6毎日新聞)
日刊新書レビュー「自分で何とかしなければ」そんな人ほど落ちていく ~『反貧困』湯浅誠著(評:澁川祐子) 日経BP 2008年6月13日 『反貧困──「すべり台社会」からの脱出』湯浅誠著、岩波新書、740円(税別) 「ネットカフェ難民」という言葉が初めて使われたのは、2007年1月に放映された「NNNドキュメント」(日本テレビ)だった。たまたま深夜にこの番組を観た私は、暗澹たる気持ちを抱えたまま、布団にもぐりこんだことを鮮明に覚えている。 番組では、10代、20代の男女が昼は日雇い派遣で働き、夜はネットカフェの椅子で眠りながら、100円200円を必死で切り詰めて生活している姿が映し出されていた。ある18歳の女の子の手帳には、「強くなる」「責任感を持つ」の言葉の後に「夜ご飯食べない」という文字が書かれていた。 どうしてそういう生活に陥ってしまったのか。誰も頼る人はいなかったのか。這い上がるチャンスはどこにもないのか──「夜ご飯食べない」という言葉が放つ切実さに衝撃を受け、疑問が次から次へとわいた。以降気がつけば、私は貧困やワーキングプアを取り上げたドキュメンタリーをチェックするようになっていた。 この手の話になると、必ず登場するのが「努力が足りないから、貧困に陥った」という「自己責任論」である。むろん、楽して保護を受けようというフリーライダー(ただ乗り)や、仕事を選り好みして夢を追い続けるフリーターもいるだろう。だが、はたしてすべてを「努力不足」の一言で片付けてしまっていいのだろうか。 家族との離別や死、自身の病気、リストラといった思いがけぬ事態に直面し、それらが引き金となって貧困へと転落していく人々。ひとたび落ちてしまえば、必死で働いても這い上がることは容易ではない。 「他にやりようがあるんじゃないか」と問われれば、確かに抜け出す道が一つもないとは言い切れないだろう。だが最大の問題は、その日暮らしの不安定な生活によって考える余裕や行動を起こす意欲が徐々に奪われていき、思考停止状態に陥ってしまうことなのではないだろうか。 そんな私のモヤモヤとした考えを、より明確に言語化してくれたのが本書だ。 著者の湯浅誠氏は、反貧困ネットワークの事務局長であり、NPO法人自立生活センター「もやい」の事務局長を務めている。貧困が起きている現場での活動を続け、早くからこの問題に声を上げてきた、いわば貧困問題のリーダー的存在である。 なるほどと思ったのは、貧困の定義を「“溜め”のない状態」と言い表したことだ。 努力する「だけ」だって、必要な条件はある “溜め”とは貯金など、金銭的な余剰分だけを指すのではない。頼れる家族や友人などがいるのも人間関係の“溜め”であり、自尊心や自信などを持っていることも精神的な“溜め”となる。貧困とは、単に「お金に困っている」だけでなく、あらゆる“溜め”が失われた状態だというのだ。 〈三層(雇用・社会保険・公的扶助)のセーフティネットに支えられて生活が安定しているとき、あるいは自らの生活は不安定でも家族のセーフティネットに支えられているとき、その人たちには“溜め”がある。逆に、それらから排除されていけば、“溜め”は失われ、最後の砦である自信や自尊心をも失うに至る。“溜め”を失う過程は、さまざまな可能性から排除され、選択肢を失っていく過程でもある〉 こうした個々人の“溜め”は、傍からは見えにくい。自己責任論を持ち出す人は、多くの場合、自分の努力や大変さだけにスポットを当て、偶然にも自らに備わっていた“溜め”の存在に気づいていないのだと著者は指摘する。そして、誰だって〈がんばるためには、条件(“溜め”)が要る〉、と。 “溜め”のない人間にいくら「がんばれ」とハッパをかけても、事態はなんら好転しない。それどころか、〈貧困当事者本人を呪縛し、問題解決から遠ざける〉という。 〈ほとんどの人が自己責任論を内面化してしまっているので、生活が厳しくても「人の世話にはなってはいけない。なんとか自分でがんばらなければいけない」と思い込み、相談メールにあるような状態(※)になるまでSOSを発信してこない〉 ※「このままでは、自殺を考えるしかありません」「お金もなく野宿も限界です」「マンガ喫茶で朝の数時間の暖をとるのも最後です」「今の所全財産が七円しかありません」「もう死ぬ事ばかりを考えています」といったメール(本書より評者抜粋) というのが現状だ。つまり、「自助努力が足りない」のではなく、「自助努力にしがみつきすぎ」たために、落ちるところまで落ちていってしまう人が後を絶たないというのである。 また、貧困問題を「自己責任論」で放置することは、普通に暮らしている人々、ひいては社会全体の首を絞めることにもつながると警鐘を鳴らす。 非正規雇用を容認することは、「いつクビを切られるかわからない」という不安を抱えることとセットだ。結果、厳しい成果を求められ、長時間労働を強いられても文句は言えない。しかも現在の日本経済は停滞していて、税金の負担額は増える一方だ。そうなると、「俺だって大変なんだから甘えるな」と他人にも厳しくなる。 一方のアルバイトや派遣社員は、「正社員というだけで、同じ仕事をしているのに給料が高すぎる」と不満を噴出させ、自分たちが「不当な扱いを受けている」と声高に叫ぶ。 こうした状況を、著者は〈手近に悪者を仕立て上げて、末端で割を食った者同士が対立し、結果的にはどちらの利益にもならない「底辺への競争」〉と呼び、「もうこうした現象はたくさんだ」と憤りを隠さない。 じゃあどうすればいいのか。個人の“溜め”を増やすと同時に、社会全体の“溜め”をも増やそう、というのが著者の主張だ。 そのための具体的な取り組みとして、当事者を直接支援する連帯保証人の提供やネットワーク作りはもちろん、個人加盟労働組合である「派遣ユニオン」や、弁護士や司法書士が集まってできた「生活保護問題対策全国会議」との連携運動、メディアを通じて世論や政治への訴えかけまで、著者のこれまでの活動が幅広く紹介されている。 そして終盤には、 〈貧困が大量に生み出される社会は弱い。(中略)そのような社会では、人間が人間らしく再生産されていかないからである。誰も、弱い者イジメをする子どもを「強い子」とは思わないだろう。/人間を再生産できない社会に「持続可能性」はない。私たちは、誰に対しても人間らしい労働と生活を保障できる、「強い社会」を目指すべきである〉 との力のこもったメッセージが発せられている。文中では明確に述べられていないが、ここで言う「人間を再生産できる社会」とは、人が人らしく生きられない状態に陥ったとき、新たに生き直すための手を差し伸べてあげられる社会のことを指すのだろう。 そもそも、弱者を救えない社会は弱い 本書には、貧困問題を研究している学者たちが試算した、日本の補足率がいくつか記されている。補足率とは、実際に生活保護基準(年齢や居住地域、世帯構成によって異なる)以下で暮らす人たちのうち、どれだけの人たちが生活保護を受けているのかを示す指標である。 これらの調査を総合するに、現在の日本の補足率は概ね15~20%だという(ちなみにイギリスは90%)。2006年に生活保護を受けたのは、107万世帯151万人。補足率を仮に20%だとすると、実に約400万世帯600万人が生活保護の網から漏れている。 だが、これはあくまで「学者」によるデータであり、「政府」による公的な数字ではない。他の先進国では政府自らがなんらかの実態調査に乗り出しているのに対し、日本政府は調査を行うことに消極的であるという。 真面目に働いていれば、いいことがあるさ──そんなささやかな希望さえ、描くことが難しい社会。それがはたして生きやすいかといえば、誰もそうは思わないだろう。お互いの足を引っ張りあい、転落への不安に怯えながら生きていくことは、社会全体にとってなんのプラスにもならない。 いったいこの社会で何が現在進行中なのか。まずは現状を把握してみないことには始まらない。それすら調査しないで、社会保障費削減云々などと議論すべきではないと思うのだが、どうだろうか。 (文/澁川祐子、企画・編集/須藤輝&連結社) |
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