みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

『加害者は変われるか?-DVと虐待をみつめながら』&『母が重くてたまらない』(信田さよ子著) 

2008-06-26 21:27:05 | ほん/新聞/ニュース
先日紹介した信田さよ子さんの『母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き』の書評が、
「ふぇみん 婦人民主新聞」(6月25日号)に載っていました。

  

『母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き』
(信田さよ子/春秋社 /2008/04)
 
(ふぇみん 婦人民主新聞6月25日号) 

信田さんは3月にも、『加害者は変われるか?―DVと虐待をみつめながら』
という新刊を出していて、朝日新聞の書評欄に紹介されていました。 

加害者は変われるか?―DVと虐待をみつめながら 
信田さよ子[著]筑摩書房・1575円

[評者]耳塚寛明(お茶の水女子大学教授・教育社会学)
朝日新聞 2008年6月1日

■敵視するだけでは解決にならない
 家族は、正真正銘の暴力をしつけや夫婦げんかとして長い間隠蔽(いんぺい)してきた無法地帯である。著者は、『アダルト・チルドレンという物語』などを通じて、機能不全家族を告発してきた臨床心理士である。
 DV(ドメスティック・バイオレンス)や虐待にかかわる援助者は、最近すっかり被害者支援、ケアへと力点を移した。被害者に集中し、加害者を敵視するだけの現場の視線の中で、著者はそれでよいのかと考える。臨床事例と事例から作られた架空の挿話が、加害者とは誰か、彼らは変われるか、被害者はなにを望んでいるのかを問う。
 加害者の多くは、虐待とDVの被害経験者、目撃者である。大人になった彼らにとって、妻は自分の思い通りになりどんな自分も受け入れてくれる「母」(であるべき)なのだ。加害者を敵視するだけの問題構成は、そうした理解を妨げ適切な対処方策から目をそらせてしまう。彼らは特殊ではなくどこにでもいる。
 著者には、虐待やDVの根を個人の心理に求めるのではなく、夫と妻、親と子の間の非対称的な権力関係の中に位置づける社会学的発想が見える。心理学界ではやや異端かもしれないが、私には常套(じょうとう)手段にとらわれずに真の被害者支援を追求する、勇敢な実践家に思えた。
(2008.6.1 朝日新聞)



『加害者は変われるか?―DVと虐待をみつめながら』
(信田さよ子著/筑摩書房/2008.3)
  
「加害者」という言葉の魔術 芹沢一也 
 『加害者は変われるか?』、一見、シンプルな内容の本に思われるかもしれない。加害者といえば、何らかのかたちで他人に危害を加えた存在だし、それが変われるのかというのだから、どうすればそうした加害行為を反省させて、善良な人間にすることができるのかということかと、タイトルから連想してしまうかもしれない。だが本書はもっと複雑で、それでいながらもっとリアルな本なのだ。加害者の問題など自分にはまったく無縁だ。いわゆる「普通の人」のこうした思い込みは、本書を読めば根底から覆されることだろう。
 ポイントは「加害者」という言葉にある。この言葉は本書では、ふたつの異なったかたちで用いられている。ふたつの目に見えない事柄をあぶりだすためにだ。一方では、加害者と名指すことで、見えなくなってしまう重要な視角が指摘される。他方ではまったく反対に、加害者とはっきり名指さなければ、見えない関係性が明るみに出される。前者からみてみよう。
 いわゆる凶悪犯罪を知ったとき、ひとは、あるいは社会はどう反応するだろうか。新聞やテレビ、雑誌をみれば明らかだろう。たとえば二〇〇六年に秋田県で起きた豪憲君殺害事件。無垢な子どもを殺害した極悪非道な女として、激しいバッシングがなされたことは記憶に新しい。加害者に向けられるとめどない社会の憎悪。自分たちの日常とはまったく無関係な存在として、ひとが正義を振りかざしてその悪を批判できる、加害者という言葉はそうした行為を可能にする言葉なのだ。とはいえ、こういったからといって、罪を憎んでひとを憎まずといったような話をしているのではない。ここでいわれているのは、もっとリアルなことだ。
 加害者という言葉は、そこに憎悪を向ける以外の想像力を枯渇させてしまう。本書は指摘する。もしかしたら娘の殺害は虐待死だったかもしれない。そうだとしたら児童相談所などの専門機関が機能しなかったことこそが問題なのだと。加害者=悪という等式をふり払ったとき、自分たちとは無縁の極悪非道な女が起こした凶悪犯罪から、児童虐待という多くのひとにとって身近な出来事へと、事件をめぐる想像力が変容する。わたしたちが事件から何らかの社会的教訓を得ようと思うのならば、こうした想像力こそが必要なのではないだろうか。そうすれば、たんに加害者をバッシングして溜飲を下げるという不毛な振る舞いから、虐待を防ぐために行政や専門家のネットワークを整備するという建設的な議論へ、わたしたちは進むことができるはずだ。
 そして、本書の主題である虐待やDV。ここではまったく反対に、加害者という言葉を使うことこそが、真に問題を把握するための視角を提供する。DVや虐待が起こる場所、すなわち家族という密室での暴力。これまではしつけや夫婦喧嘩といった言葉によって正当化されてきた暴力を、はっきりと「暴力」としてとらえるためには、「親が子どもの、夫が妻の加害者になりうること」を認めることが必要なのだ。そして、親や夫を加害者と名指すことによってはじめて、そのような加害行為をコントロールするという実践的な課題に取り組むことができる。はたして、「加害者は変われるか?」。
 具体的なケースについては、本書で読んでいただきたい。カウンセラーとして数多のケースに立ち会った筆者による描写は、善と悪というかたちに単純には割り切れない、複雑な関係のあり方を浮かび上がらせる。だが、問題をあいまいにしようというのではない。それどころか、そこにあるのは一貫して徹底したリアリズムである。それはたとえば次のような言葉からも明らかだろう。「いたずらに美しい家族、温かい家族を称揚することの意味はどこにあるのだろう」。本書では「親の心構えや愛情不足」などといった、言葉だけのお題目が振り回されることは一切ない。家族のなかでもっとも弱い存在である子ども、そして女性が、安心して暮らすために何ができるのか、あるいは何をしなければならないのか、本書で問われているのはただこの一点のみである。
(せりざわ・かずや 社会学者)


どちらも読み応えのある、おもしろい本で、おススメめです。

信田さんは岐阜県出身で、それも郷里は旧高富町(山県市)で、
福井の集会でお会いしたこともあるし、とても親近感を感じてて、
信田さんの著書はだいたい読んでいます。

前にも書きましたが、ご実家は「カルコス」(ナレッジデザイン)という本屋さんで、
信田さんの本は(他の本も)できるだけそこで買うようにしています。

「カルコス」は品揃えのよいユニークな書店で「座り読みコーナー」もあり、
ちょっと遠いのですが、わたしは「カルコス」が好きでよく行きます。
(さりげなく信田さんの本が平積みになっています)

もちろん、この2冊も「カルコス」で買いましたよ(笑)。


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