みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

ししユズジャム・いろいろ大根料理、ほか。

2008-12-26 14:54:44 | おいしいもの/食について
紅葉を見に行ったときに買った「シシユズ」がしなびてきたので、
シシユズジャムを作ることにしました。

半分に切ってみると、中は白いところが多くてザボンのようです。


細かく切って見たら、たった一個でボールにいっぱい。
  
皮に苦味があるといけないので2,3回ゆでこぼし、
皮が透き通ってきたら、やわらかくなるまで煮て、
  
甘みには蜂蜜を入れました。

はい。シシユスジャムのできあがり。

 

冷えたらちょっとかためになりましたが、小分けしてビンにつめ、
ストーブで焼いたフランスパンやクラッカーにつけて食べます。

去年のユズジャムや、イチジクや洋ナシのコンポートと食べくらべ。
ペクチンが多くて、さっぱりしたヘルシーなジャムになりました。

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沢庵漬けをつくるために、大根を干している所ですが、
まだ漬けるまでに時間がかかるので、すぐに食べられる大根の生漬を作りました。

生の大根は皮をむいて(皮は捨てずに料理に使います)、
縦に二つか三つに割り、適当な長さにきってビンに詰めます。
  
ここに塩と蜂蜜少々を混ぜた千鳥酢をひたひたに注ぐだけ。
ユズ酢を絞った皮も香り付けに入れました。
冷蔵庫に保存して、3日ほどすれば食べられるようになります。
生の大根とは違う、れっきとした生漬け大根の食感で、
塩分もきつくないので、ポリポリといくらでも食べられます。


切り干し大根用の千切り大根を沢山つくったら、
まずは、それで大根サラダいろいろ。
ハムや人参や柿や、ドライフルーツやドライナッツで
その時の気分で合えただけのシンプルサラダ。
   
好みのドレッシングをかけてもよし、そのままでもよし、
これがとってもおいしいのです。

残った大根葉はお揚げと炊いて、大根の皮は人参と金平に。
  
皮を千切り用のピーラーでむいて甘酢に漬ければ、即席漬けに。
今回はしょうがの酢に漬けてみました。

いろいろ大根料理のできあがり。


おいしい大根の定番は「ふろふき大根」。

2008.12.19 中日新聞

わが家は大根を薪ストーブのうえで、ことこと炊いています。
 
大根が減ってきたら、具を足しておでんにします。



お仕事の合間に、薪ストーブの前で寝ているのはつれあい。
パソコン疲れで両手にサポーターとシップを貼ってます。
 

鏡に写っているのはだれだ??(笑)。
 
マーサで見つけたフリースの着ぐるみ。
だれも買いそうにないくらい目立ってたので、超ダンピングで980円。
すっぽりと暖かくて、寒い日など一度着たら脱げません。

わたし、こんな姿でブログを書いてたのか・・・・(爆)。


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『愛と痛み―死刑をめぐって』(辺見庸/毎日新聞社)

2008-12-26 00:00:00 | ほん/新聞/ニュース
『悼む人』を読んだ翌日、『愛と痛み―死刑をめぐって』を読んだ。
愛と痛み、底に流れるのは、『悼む人』とも共通のテーマだ。


『愛と痛み―死刑をめぐって』
(辺見庸/毎日新聞社/2008/11/29)


辺見庸の本をはじめて読んだのは『もの食う人びと』だった。
病を得てからも、かれは言葉をつむぎつづけ、
『いまここに在ることの恥 』『たんば色の覚書 私たちの日常』と毎年、
本を出していて、わたしはそのほとんどを読んでいる。

かれの思索は深く、その言葉は心にずしんと響く。

21日の中日新聞の星野智幸さんの書評がとてもいい。

書 評
『愛と痛み』[著者]辺見 庸
 
毎日新聞社/1050円
[評者]星野 智幸(作家)
■誰が死刑と決めるのか?

 裁判員制度が始まる今、自分が選ばれたら死刑判決を下せるのか、という不安を抱く人は多いだろう。そんな人には、死刑をめぐる講演録である本書を強くお薦めする。
 日本の大多数同様、私も死刑は必要悪だと思ってきた。けれど、ここ数年、死刑判決や死刑執行が急増するうち、殺すことが奨励されているような嫌な空気を感じ始めた。「誰が死刑と決めたんですか?」「みんなですよ」と、まるで雰囲気で死刑が決まるかのようだ。裁判員制度が始まれば、「死刑と決めたのは自分だ」とはっきりする。もう、他人に責任転嫁はできない。私たちはその重責に耐えられるのか。
 辺見庸は言う。
 「死刑は国権の発動ではないのか。国権の発動とは、自国民への生殺与奪の権利を国家にあたえるということです」
 死刑の責任主体は、国家だというのだ。ところが日本では、その仕組みがよく見えない。「世間」が存在するからだ。
 本書で最も厳しく批判されているのが、この「世間」である。個人が集まって共存する「社会」とは異なり、「言葉で強要されることはないけれど、かわりに気配や空気で無私であることが期待される」、自分のない者たちの集合体。誰も自分を持たないのだから、国が暗黙のうちに死刑を欲すれば、「そうだ、死刑だ」と空気を読んで同調する。死刑判決にお墨つきを与えながら、痛みを感じるべき自分がない。
 裁判員になると、国家が負うべきこの責任を、数人の個人が負わされる。辺見庸は、死刑が執行される場面を執拗(しつよう)に描写する。私たちは間接的に、こんなグロテスクで残虐で痛みに満ちた行為を行っているのだ、と認識するために。
 私たち個人が責任を負えない死刑を、制度として認め続けてよいのだろうか。もう、「みんなの責任」と逃れることはできない。自らの心で考えて結論を出す時期が来たと、本書は告げている。
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へんみ・よう 1944年生まれ。作家。著書に『永遠の不服従のために』など「抵抗3部作」や『眼の探索』など。辺見庸コレクションを刊行中。
(2008.12.21 中日新聞)



辺見庸さん自身もブログで本を紹介している。

辺見庸ブログ
『愛と痛み―死刑をめぐって』刊行
私たちは〈不都合なものたち〉を愛せるだろうか?
私たちは他者の痛みを痛むことができるのだろうか?
愛と痛覚のふかみから死刑について考え、
私たちの無関心が国家による殺人を支えてしまう恐るべき構造を明らかにする。
死刑の本質をあぶりだす新たな思考! 写真・森山大道

■目次より
究極の試薬――まえがきにかえて
第1章 愛と死と痛みと
    〈不都合なもの〉への愛
    マザー・テレサの言葉の衝撃
    私の痛みから他の痛みへ
第2章 日常と諧調
    可変的な時間体としての人間
    日常はなにを維持しようとするのか
    壊れゆくものにたいする畏怖
    被造物の最期のにおい
    死の間際の痙攣
    死刑は有史以来、
    存在しつづけてきたが・・・
    いっさい情動のない殺人
    なぜ犬だと泣けるのか
第3章 日常と世間
    鵺のようなファシズム
    戦後民主主義は世間を超克しえなかった
    世間とメディアが合体する
第4章 世間と死刑
    「公共敵」というバッシング
    公共と世間は真逆の概念
    世間では個人が陥没する
    天皇制と世間
    執行の瞬間
    死刑は私たち世間が支えている
第5章 日本はなぜ死刑制度を廃止できないか
    文学は死刑と関係がないのか
    EUの死刑廃止宣言
    世間が司法を支配する
    ギュンター・グラスと恥の感覚
    恥なき国の日常
    臆病者の暗い眼で見る
    マザー・テレサのこころの叫び
第6章 死刑と戦争
    国権の発動たる死刑と戦争
    憲法第九条と死刑
    「私がスパルタクスです」


辺見さんはいう。

「他国民にも死刑を拡大していくのが戦争。
死刑と戦争は通底すると考えざるを得ない」と。


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