みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

福島第一原発の敷地内初公開/3号機前で1ミリシーベルト

2011-11-14 20:34:20 | 地震・原発・災害
一昨日の11月12日に、福島第一原発が報道関係者に初公開されました。
事故から8か月、いまだに放射線量が高いままで、防護服を着てバスの中からの見学だそうです。
3号機にさしかかると放射線量が急上昇、一ミリシーベルトを記録したそうです。

わたしが1886年に事故を起こしたチェルノブイリ原発に行ったのは、
事故からちょうど10年目の1996年4月24日。

ゾーンと呼ばれる10キロ圏内に入ると、
除染してある道路以外の場所の放射線量は高いままでした。
爆発事故を起こした4号炉は厚いコンクリートで覆われて「石棺」と呼ばれ、
その正面ゲートから200メートルのところの広場では7~10マイクロシーベルト。

   1996年4月24日 チェルノブイリ原発4号炉「石棺」前。


バスを降りて石棺のほうに歩いていくと、原発から風が吹いてきて放射線量が急上昇、
カウンターの音がピーと連続音になり、背筋が寒くなるような恐怖で、
あわててバスに戻った覚えがあります。

福島第一原発の敷地内初公開  
2011年11月13日 朝日新聞

 政府は十二日、東京電力福島第一原発の敷地内を、三月の事故発生後初めて報道陣に公開した。収束作業の指揮を執る吉田昌郎(まさお)所長が現地で初めて取材に応じ、「炉は最も重要な冷却が進んでおり、安定しているが、放射線量が高いなど環境は今も厳しい」との認識を示した。 
 吉田所長は福島県民と国民に対し、「心よりおわび申し上げたい」と陳謝した上で、「今、働いている人はほとんどが福島の人。私も十四年ここに住んでおり、なんとかしたいと思っている」と述べた。
 事故発生当時を振り返り、「次がどうなるか想像もつかない中でできうる限りやった。『死ぬだろう』と思うことが数度あった」。2号機に冷却水を入れられなかった三月半ばには「コントロール不能になって終わりかなと感じた」という。
 当面の課題として放射線量の高さを挙げ、「敷地内はまだ危険な状態」との認識を示した上で、次第に作業員の被ばく線量が増えていく状況に、「人繰りが頭の痛いところだ」と語った。
 報道陣は、細野豪志原発事故担当相の現地視察に同行する名目で原発敷地内に入った。内閣記者会加盟の報道各社や地元新聞社、テレビ局、外国報道機関が参加した。
 敷地内の滞在時間は三時間余りで、防護服や全面マスクを着用。1~4号機を中心に、車内から見て回った。ただ取材場所や撮影は厳しく制限された。国は「核物質の安全や記者を被ばくから守ることを考えた」と制限の理由を説明している。

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3号機前で急上昇 1ミリシーベルト 
2011年11月13日 朝日新聞

ようやく福島第一原発の事故現場をこの目で見ることができた。驚いたのは、放射線量の高さだった。厳しさを実感した。
 作業の拠点「Jヴィレッジ」(福島県楢葉町)を出発した時のバス車内の線量は〇・〇〇一五ミリシーベルト。同行の東京電力社員が伝えてくれた。しばらく走っていよいよ原発の正門に差しかかると、線量はJヴィレッジの十倍の毎時〇・〇一五ミリシーベルトに上昇した。
 「特に高いのが3号機。近くへ行くと、数値が跳ね上がります」
 社員が“予告”した通り、原子炉に比較的近い海沿いの道に差しかかると線量はさらに十倍以上に。
 そして、空高く煙を上げ水素爆発した3号機のタービン建屋横に差しかかると、最高値の一ミリシーベルトを記録。ここに一時間いれば、一般人の年間被ばく線量限度に達する値だ。バスもやや速度を上げて走り抜けた。今回の取材は団体旅行のように行動が厳しく制限された。免震重要棟以外ではバスを降りることも許されなかった。
 ガラス越しではあったが、4号機の原子炉建屋は南側最上部の鉄骨が崩れ、ぶら下がったコンクリート壁が今にも落ちそうな状態。鉄骨のすき間からは、黄色い原子炉格納容器のふたや使用済み核燃料プールの燃料を出し入れする緑色のクレーンが見えた。
 その奥の3号機は、がれきが積み重なった山のよう。当初は建屋の四角い形を残していたのに、一部の鉄骨を残して崩れたという。水素爆発のすさまじさを感じた。
 さらに奥には2号機の建屋、カバーで覆われた1号機が見え、三台の巨大クレーンが見えた。
 がれきの撤去がかなり進んだと聞いていたが、海側を進むと、道端には津波で流された車やプレハブ、がれきが転がっていた。
 1号機北東の海沿いには、事故発生直後に炉心へ海水を送ったポンプがそのまま置かれていた。中型トラックの荷台に三台並んだポンプはさびで赤茶け、炉心とつながる赤いホースは想像より細く頼りなかった。だが、このポンプとホースが最悪の事態を避けるための「命綱」だったことは間違いない。
 浄化した汚染水を循環させて炉心へと送っているホースも無造作に道端をはっていた。「車が乗って切れたりしないのか」と聞くと、東電社員は「その危険性はある。本当はU字溝で保護したいが…」と答えた。
 全面マスクには多くの記者が頭痛や汗で悩まされたが、重要免震棟で外すことが許された。棟内は換気の音がゴーと響き、Jヴィレッジ並みの放射線量に管理されている。防護服を着ていない作業員も多い。細野豪志原発事故担当相は「私が最初に来たのは五月。そのときには考えられなかったほど状況は落ち着いた」と語った。
 取材を終えて外部被ばく線量を確認すると〇・〇四八ミリシーベルト。二十日間ほど浴び続けると、年間の線量限度に達する計算だ。他の記者もほぼ同じ値だった。 (加藤裕治)


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福島第一原発の敷地内初公開

2011年11月13日 東京新聞

 政府は十二日、東京電力福島第一原発の敷地内を、三月の事故発生後初めて報道陣に公開した。収束作業の指揮を執る吉田昌郎(まさお)所長が現地で初めて取材に応じ、「炉は最も重要な冷却が進んでおり、安定しているが、放射線量が高いなど環境は今も厳しい」との認識を示した。
 吉田所長は福島県民と国民に対し、「心よりおわび申し上げたい」と陳謝した上で、「今、働いている人はほとんどが福島の人。私も十四年ここに住んでおり、なんとかしたいと思っている」と述べた。
 事故発生当時を振り返り、「次がどうなるか想像もつかない中でできうる限りやった。『死ぬだろう』と思うことが数度あった」。2号機に冷却水を入れられなかった三月半ばには「コントロール不能になって終わりかなと感じた」という。
 当面の課題として放射線量の高さを挙げ、「敷地内はまだ危険な状態」との認識を示した上で、次第に作業員の被ばく線量が増えていく状況に、「人繰りが頭の痛いところだ」と語った。
 報道陣は、細野豪志原発事故担当相の現地視察に同行する名目で原発敷地内に入った。内閣記者会加盟の報道各社や地元新聞社、テレビ局、外国報道機関が参加した。
 敷地内の滞在時間は三時間余りで、防護服や全面マスクを着用。1~4号機を中心に、車内から見て回った。ただ取材場所や撮影は厳しく制限された。国は「核物質の安全や記者を被ばくから守ることを考えた」と制限の理由を説明している。
(東京新聞) 


   厚さ1メートルの壁、粉々に 爆発の惨状生々しく 高線量に体こわばる
2011/11/12 共同通信

 「1ミリシーベルト!」。1時間当たりの放射線量を知らせる声が響き、体が瞬時にこわばる。3号機の原子炉を覆うコンクリートの建屋は上半分が跡形もなく崩れ落ち、無残な姿をさらして爆発のすさまじさを伝えていた。世界を揺るがした「レベル7」の事故から8カ月。冷温停止に向けた作業が続く12日、報道陣に初めて公開された東京電力福島第1原発に入った。
 午前10時、事故の対応拠点「Jヴィレッジ」。軽い不織布でできた「つなぎ」のような防護服「タイベック」に着替え、2台のバスで北に約20キロ離れた第1原発へと出発した。手には綿製とゴム製の手袋を重ねてはめ、靴は二重のビニールでカバー。帽子と布のマスクも着用した。
 検問を通って原発の半径20キロの警戒区域内に入り北上。バス出発時に毎時1・5マイクロシーベルトだった車内の線量はみるみる上昇し、約20分後には毎時10マイクロシーベルトに達した。車窓からは歩道に生い茂る背の高い雑草や、無人のコンビニ、地震でガラスの壁が割れ、机やいすが散乱したままの自動車販売店が見えた。
 原発の約3キロ手前でフィルター付きの全面マスクを装着するよう指示されたが、息苦しさと強い圧迫感ですぐに頭が痛くなる。 防護服も着ているので11月半ばでも汗がにじみ、夏場を中心に40人以上の作業員が熱中症の症状を訴えたのも理解できた。
 正門をくぐり1~4号機を見下ろす高台に出た。3号機の建屋は巨人に踏まれたように上半分がなく、4号機も外壁がほとんど吹き飛んで、中にある格納容器上部の黄色いふたが見える。原形を残す高さ45メートルほどの2号機が3、4号機の惨状を際立たせており、厚さ1メートルのコンクリート壁を粉々にした水素爆発のすさまじさに息をのんだ。1号機は最近完成した白いカバーに覆われていた。
 原子炉建屋側へ向かう途中、線量は一気に毎時200マイクロシーベルトに。「3号機の近くでは特に線量が高い」(東電の担当者)といい、敷地内には毎時10シーベルト以上という、短時間でも浴びると死に至るほどの高線量が測定された場所もある。
 同行した東電社員が「800マイクロシーベルト」「1ミリシーベルト! 1000マイクロシーベルト」と叫ぶようにして知らせるたびに、車内には緊張が走った。当初の600倍以上だ。
 海側のヤードには、ひっくり返った作業車がそのままにされ、がれきも多く散乱。下半分が握りつぶされたようにへこんだ白い円筒形タンクも見える。高さ13~14メートルまで浸水し、電源喪失を招いた津波の爪痕は至るところに残されている。放射性物質の飛散防止剤がまかれた場所があちこちで緑色に染まり、事故直後の混乱ぶりを物語る。
 午前11時半ごろ、緊急時対策本部が入る免震重要棟に到着。全面マスクを外して息をつき、身に着けていた二つの線量計を見ると、 積算線量はそれぞれ「52マイクロシーベルト」と「77マイクロシーベルト」を示していた。前日、Jヴィレッジで話を聞いた男性作業員(61)は「放射線量は落ち着いているし、特に心配していない」と教えてくれたが、目に見えぬ放射能との闘いはまだまだ厳しく、容易にはうなずけないと感じた。(共同=大倉喬之)



  
福島第一原発なお高線量、危険な日々の作業

 東京電力福島第一原子力発電所では、東日本大震災後に1~3号機がメルトダウン(炉心溶融)を起こし、大量の放射性物質を外部に放出した。
 国際的な尺度でチェルノブイリ原発事故と並ぶレベル7と評価され、日本の原子力開発史上最悪となった事故の発生から8か月。現場では事故収束に向けた取り組みが続く。
 事故を一層深刻にしたのは水素爆発だ。1、3号機のほか、定期検査中で炉内に燃料がない4号機でも、隣の3号機から流入したとみられる水素が爆発。いずれも、コンクリート製の建屋が大破し、内部の設備がめちゃめちゃに壊れた。
 被害が大きく作業が長期にわたるため、政府と東電は事故収束への道筋をまとめた工程表を作った。最大の目標は、原子炉を100度以下に冷やし、放射性物質の放出を抑える「冷温停止状態」の達成。6月には、放射性物質で汚染された大量の水を専用の処理装置で浄化して冷却に再利用する「循環注水冷却」が始まった。9月末には、原子炉底部の温度も1~3号機全機で100度を切り、現在はさらに約40~70度に下がった。冷温停止状態は年内に実現する見通しだ。
 福島第一原発の吉田昌郎所長は12日、記者団に対し、「安定しているといっても、(敷地内の)線量はまだ高く、日々の作業は危険もある」と述べた。
(2011年11月13日20時16分 読売新聞))

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