みどりの一期一会

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原爆ドーム、「原爆の子」の像、広島・平和公園/原爆ドーム・沖縄戦「美しく」覆い隠した不都合

2015-11-16 16:56:02 | たび/紀行/温泉
先週、車で山口に行った帰りに、
広島の平和公園の近くのホテルに宿泊しました。

広島に到着したのは夜、翌朝、平和公園の方向にウォーキングしていたら、
空いっぱいに大きくかかる二重の虹をみました。

平和公園を通って原爆ドームにつくまで虹は天にくっきりと出ていて、
朝陽のあたりはじめた原爆ドームの上に二重にかかって、感動しました。

あいにくカメラをっていなかったので、ともちゃんの携帯で撮ったのですが、
虹はうつらず、画像もぼやけ気味。

翌日は、デジカメをしっかり持って出かけたのですが、
晴れていて、虹は出ていませんでした。

世界遺産「原爆ドーム」







  原爆ドーム・沖縄戦跡…「美しく」覆い隠した不都合 
2015年11月5日 朝日新聞

 戦争の記憶を伝える戦跡はいかに形作られ、継承されてきたか。近著「『戦跡』の戦後史 せめぎあう遺構とモニュメント」(岩波書店)で、広島の原爆ドームなどを対象に分析した福間良明・立命館大教授(メディア史、歴史社会学)に聞いた。

特集:核といのちを考える
特集:沖縄はいま

■福間良明・立命館大教授に聞く
 今では世界遺産の広島の原爆ドームも1960年代半ばまでは、被爆の悲惨さを思い起こさせると撤去論も根強かった。それが60年代後半になると、後世に残すべき神聖な遺構として見いだされるようになった。

 背景に政治的状況とメディアの影響があった。当時、党派的対立で分裂しつつあった原水爆禁止運動が、政治的立場を超えて一つになれる課題として原爆ドーム保存を発見し、取り組むようになった。

 当初広島で低調だった保存のための募金活動も、中央のメディアが報道し、東京で文化人らが街頭募金を呼びかけた。その様子が逆輸入の形で広島に伝えられ、保存に向けた世論が高まった。

 沖縄の戦跡も、米軍統治下だった60年代に転機を迎える。渡航規制が緩和され、本土の遺族会や戦友会の関係者が訪れるようになり、沖縄戦最後の激戦地、糸満市の摩文仁(まぶに)の丘に各都道府県の慰霊塔が建立されるようになった。

 競って建てられた慰霊塔に合祀(ごうし)された戦没者の総数は約127万人。中国や南方での戦没者も含まれ、沖縄戦の戦没者は約6%しかいなかった。本土側にとり、摩文仁の丘は戦没者全体を慰霊する場だった。本土復帰を望んでいた沖縄側はそれを受け入れて整備を進め、64年以降は「慰霊の日」の追悼式を摩文仁の丘で行うようになった。

 今では「特攻の町」として知られ、多くの人々が訪れる知覧(鹿児島県南九州市)。戦前の陸軍航空基地は戦後早々に茶畑に戻されたが、50年代に元軍幹部らによって特攻平和観音堂が飛行場跡に建立され、隣に護国神社が移設された。60年代には戦記ブームや特攻の映画、戦友会の活動などで知覧の聖域化が進み、その動きを受け75年、現在の知覧特攻平和会館の前身である特攻遺品館が建設された。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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夜明け前の原爆ドーム




    

平和公園


「原爆の子」の像


紅葉











お昼ごはんは、ホテルのフロントの女性オススメのお店
「みっちゃん」で広島名物のお好み焼き。
そばが入っていて「こちらではモダン焼き」と呼ばれているもの。
行ってみたら、行列ができる有名店で、ほんとおいしかったです。

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