常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

三升漬け

2012年04月07日 | グルメ
昭和60年から、3年ほど80歳を過ぎた母と暮らした。
その頃は私も働き盛りで、妻も仕事を持ち、子供は学校だったので、母は家で一人の時間をもてあましていた。

子供のころ、私は母がそばを打ったり、漬物を漬けるのをみていたので、妻に料理の仕方を教えてくれるように頼んだ。また、暇な時間に、北海道の思い出を書いてはと、ノートと鉛筆を用意した。

蕎麦打ちはなかなか実現せずにしまったが、三升漬けの漬け方は実現した。
三升の意味は辛い青南蛮一升、麹一升、醤油一升合わせて三升ということだ。辛南蛮は細かく輪切りにし、ばらした麹とよく混ぜ合わせる。そこに醤油を加えて2週間ほどすると、南蛮の香りのいい麹漬けが完成した。

麹には不思議な力がある。最近では塩麹がブームだが、この三升漬けも捨てたものではない。納豆の醤油がわりに用いたり、冷奴に乗せても美味だ。母が残してくれた北海道の郷土料理は、今でも毎年秋に漬け込んで一年中我が家の食卓を彩っている。但し、醤油を同量一升にすると、塩辛過ぎるので半量にしている。これだと、常温で保存すると酸味が来るので冷凍にする必要がある。

残された母のノートを見ると、母が子供のころの食べ物のことが書いてある。

 主食は麦ですけれど、ご飯にして食べる麦は裸麦で穂の先にたくさん毛があるので、実にするのに毛を焼き落としカラ棹で叩いて脱穀しました。実にした麦を今度は臼を足で踏んで皮を剥いてはじめてご飯にできるのです。その頃は下川には水田はありません。米は買わなければならないので、麦一升に米は一合も入っていたかどうか、ほとんど麦ばかりでした。
 お正月とかお盆とか、特別の日には白いお米のご飯を炊いて食べさせて貰ったものです。今日はお祭りで白いおまんまが食べられるといって子供たちは踊って喜んだものです。お祭りの小遣いは2銭か3銭で、5銭も貰ったら大変なお金でした。いまでも北海道ではサツマイモは取れませんが、他地方から送られてきたものがありました。5銭あたりで小さいのが4本ほど買えました。それを買って弟たちと食べたのを覚えています。そのサツマイモのおいしかったこといまでも忘れられません。(中略)
秋になれば、トウモロコシ、芋、カボチャが主食です。先ず麦のご飯、野菜の味噌汁、お漬物と決まっていました。魚はたまに塩マスが食べられるくらいでした。でも春に、ニシンが獲れたときは箱でたくさん買って塩漬けにしたり、干物にしたりして夏中のおかずでした。数の子を干しておいて、お正月のご馳走だったと思います。

麦一つにしても、それが食卓にのるまでには、多くの手間がかかる。
自分の子供もころもそうだが、母の時代はさらに多くの手間ひまをかけてくらしてきた。便利な生活を手に入れたいま、時代を逆行させることはできないが、こんな暮らしの上に今があることを銘記しておかなければならない。

春になって野山からアサツキを取ってくる。一本づつ根を洗い、葉についたゴミを落として茹でる。台所で数時間もかけた手作業の後初めて新鮮な春の香りが味わえるのだ。山菜や野菜は店頭に並んだとき、すでに採れたての香気を失っている。
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田中菊雄先生

2012年04月06日 | 日記



田中菊雄先生に始めてお会いしたのは、昭和34年4月、山形大学文理学部の教室であった。
大柄な体躯、分厚い眼鏡、そして何よりも大きい声が印象に残った。
当時の山大にはどういうわけか、私もそうなのだが、北海道出身者が多かった。そのため道産子を集めた「熊の会」というのがあった。田中先生が北海道出身ということもあって「熊の会」の顧問をされていた。

もう記憶も定かではないが、その年の5月ごろであったと思う。
「熊の会 新入生歓迎コンパ」が催され、田中先生も出席された。先生の挨拶は気さくなものであった。「君たち単位認定の試験だがね、答案用紙に隅に小さく熊と書いておきなさい。必ず及第にするから」。先生のこんなサービス精神に甘えた学生がいたかどうか、知るよしもないが、先生を身近に感じさせる効果は十分であった。

先生の授業はテキストを教室中に響く大きな声で朗読し、エピソードを加えながら訳していくという式のものであったが、テキストから離れて自らの苦学や人生に触れて、学生に参考になる話を縦横にしてくださった。

先生は1893年(明治26年)北海道の小樽に生まれ、旭川の大成尋常小学校に入った。
あの厳冬のなか手袋もなく、マントも持たずに通学した。兄弟で共有した一枚の首巻を譲りあって通学する有様だった。8人の兄弟と祖父を含む10人が、父の薄給で養われていた。
まだ高等4年を卒業しないうちに、鉄道給仕となって一家の助けにならなければならなかった。15歳の時のことだ。

先生の回想が「私の人生探求」という本に記されている。

私は十能とデレッキを持って客車から客車へとストーブを焚いて歩いた。まだ丈の小さかった自分は座席の上に箱を載せては背のびして久美燈に点火して歩いた。当時の北海道の列車はいろいろの種類の車をピンとリンクで混結していたので車と車の間が往々2尺以上も離れていたし、高低も様々であったし、デッキは風雪に吹き曝されていた。客車から緩急車へ飛び移る時などは本当に命がけであった。

こんな過酷な環境のなかで、先生は奉仕という仕事に楽しみを見出し、高等4年から失わなかった向学心はさらに膨らんでいく。先生の向学心をみて、札幌に創設された北海道鉄道地方教習所の第一回生徒応募の道を上司や先輩が開いてくれた。

独歩、漱石、露伴、藤村、蘆花、二葉亭など熱読してやまなかった。特に独歩の武蔵野、逍遥の「ハムレット」の訳はみな諳んじていた。
こうした向学心が代用教員、訓導、中等教員、高等教員、大学教授への道を進むことになる。教職員の資格を独学で得ていった努力は並みのものではない。

先生は昭和35年には山形大学を退官された。
先生の名前が印刷されている岩波の英和辞典を引きながら、講義を聴いたのは不思議な気持ちであった。それにもまして、先生の学問へのかわることのない情熱に触れることができたのは、自分の人生の宝物であった。
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階段登り

2012年04月05日 | 日記
朝、雪降る。気温0.7℃。4月なのに、こんなに寒いのは気が滅入る。
気を取り直して、昨日さぼってしまった階段登りをする。10階建の階段を10往復、所要時間
約50分。寒いとはいえ、全身びっしょり汗をかく。

70キロ近くなった体重を落とす決意をしてから、2年近くが経つ。
血糖値、血圧、尿酸値。いずれも薬を服用しなければならない数値を示していた。医者の話では、先ずは減量ですねと、いうことであった。

血圧の本、ウォーキング、ダイエット等々本屋で目につく本を買い込んで、片っ端から読んだ。本から学んだことは、それほど多くない。要は適切な運動、そしてカロリーをとり過ぎないことに尽きる。毎日の食事を記録し、体重を記録する。gooの身体ログに登録して、生活習慣をを管理することを始めた。

酒を飲み歩いた過去の時間はもう取り戻すことはできない。
せめて生活習慣を変えることで、まっとうな余生が過ごせるのではと浅はかな願望を抱いていることを恥じ入るばかりだ。人生の行路の途中で癌に襲われた4人の姉弟の顔が目に浮かぶ。死を目の前にして、無念の表情を見せた彼らの胸中が偲ばれる。

生活習慣を見直した結果は、1年を過ぎて顕著に現れた。
6.8あったHba1Cは5.5となり、血圧も130台に落ちた。この数値を見て掛かりつけの先生が驚きの表情を見せた。運動のことを話す。一年以上階段を登り、近辺を歩いた結果、山登りではいつも先頭でラッセルができるようになった。

18歳のときの体重を手に入れ、強い足の筋肉が戻ってきたが、これは固定されものではない。少しでも生活が怠惰に流れると、たちまち体重が増加に向かう。
もっと早くに聞くべきだあったセネカの言葉が老いの身を容赦なく鞭打つ。

  
われわれは短い時間を持っているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。  
人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩や怠惰のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのために使われないならば、結局最後になって否応なしに気づかされることは今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。

  (セネカ『人生の短さについて』岩波文庫)
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暴風

2012年04月04日 | 日記
夜通し暴風に見舞われた。
強風が建物に当たり、大きな音を出す。この地方では台風もそれほど
通ることがないので、こんな暴風はめったにないことだ。

気象庁の発表におよると、日本海で異常に発達した低気圧が原因である
という。そもそも、低気圧は南の暖気と大陸の寒気がぶつかりあって
発生する。今回の暖気と寒気の落差が非常に大きいため、低気圧が台風
並に発達したのだという。

昨日山形市で吹いた最大風速は22m。今日の未明、山形県日本海よりで
40mを観測したいう報道もあった。昨日の最高気温は夕方17℃を記録し
ている。低気圧が北東に抜けたあと、気圧配置が冬型なり今朝は雪が降
っいる。

次々と日本列島を襲う異常気象は、炭酸ガスを発生せする人類の文明の
なせる業なのか。ガソリンが高騰し、電気料金が値上げになっても経済
への悪影響を心配する声はあっても、生活全体を見直そうという声は
高まっていない。

こんな日は読むことが中心になる。
「源氏物語」(瀬戸内寂聴訳)須磨の巻を開いてみる。

  全く思いもかけない悪天候に急変して、突風が何もかも吹き飛ばし
 たちまち未曾有の暴風雨になりました。
  海はこの上もなく波立って来て、人々は恐怖で足も地に着かない有
 様です。海面はまるで夜具をひろげたように盛り上がり、稲妻が走り、
 雷鳴が鳴りとどろき、今にも雷が落ちかかってきそうな気持ちがしま
 す。
  ようやく、ほうほうの態でどうにか源氏の君はお住居までたどり着
 かれました。
  「こんなひどい目にあったのははじめてだ。大風などが吹き出すと
 きは、前にその気配が前兆としてるものだ。何という呆れ返った無気
 味な天気だろう」
  と、皆々気も動転していますと、雷はまだ鳴りやまず、物凄い勢い
 で轟きわたっています。雨脚のあたったところは地が抜けるかと思う
 ほど、激しい音をたてながら降りつづけています。このままでは、や
 がて世界は滅びてしまうのかと、人々は不安にただもう惑乱して生き
 た心地もありません。

この時代の人々が不安をとり除くよすがとしたのは、神仏への祈りであ
った。京では厄除けの仁王会が執り行われ、源氏の君は色とりどりの幣
帛(みてぐら)を供え、住吉の明神にお祈りするのであった。
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山形温泉 蔵王荘

2012年04月03日 | 日記



若いころは一日の仕事が終わると、銭湯に通った。
結婚してアパートに住んでも、銭湯通いで、内風呂が夢であった。
アパートで初めて買った木の浴槽の香りは、いまも忘れられない。

しかし老人になったいま、毎日の楽しみは温泉に行くことだ。
山形は方々に安い日帰り温泉があり、老人のそんな楽しみを満たして
くれる。老人福祉施設の温泉は100円で入れるし、山形温泉蔵王荘は
300円で、ことのほかのあったまりの湯である。自宅にも近い。

もう自宅の風呂には入らないで、毎日日帰り温泉を堪能している。
今年の冬は本当に寒い冬であった。こんな寒い冬を無事に過ごせたのも
温泉のおかげだと思っている。

蔵王荘の浴槽は狭い。6,7人も入ればいっぱいになってしまう。
それだけに家族的な雰囲気がある。ここに入ってくる人は、見知らぬ
人でも、「こんにちは、きょうは寒いですね」と気軽に挨拶する。
顔見知りになると、いろんな話題でもりあがる。

ここに来るi社長は、この温泉の女将の兄である。
私とは50年も前からの知り合いだ。昭和34年に、私はある広告代理店
の支局に就職した。iさんはそのときs広告社の社長さんであった。
いわば、同業のライバルであった。

iさんは酒造業の社長の集まりを取り持って、共同広告を色んな媒体を
使って実施した。その会は山酉会といった。どうすればそんなことが
できるのか、若い私は羨ましくもあり、自分の営業について考えさせら
れることが多かった。

iさんと顔を合わせると、昔話に花が咲く。だが、彼も年なのか、前回
と同じ質問が以外に多い。「t支局長は元気かな」「y社のo氏はどう
しているかね」やはり、そんな会話の裏側に失った若さへの懐旧の切
ない思いが潜んでいるのかも知れない。



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