常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

長寿の記録

2013年09月15日 | 日記


今日は敬老の日。現在日本で100歳以上の人は、54000人を数えるという。10万人に40.6人が100歳以上という勘定である。世界にはさすがに驚くほどの長寿記録がある。旧ソ連邦コーカサス地方のアゼルバイジャン共和国のミスリモフさんは1805年に生まれ、1973年に死んだ。168歳という驚くべき長寿である。

ミスリモフさんは死ぬ168歳まで、馬に乗り、羊を追い、木を伐りそして菜園を耕した。晩年の記録では、1850年のクリミア戦争の記憶も確かであった。アゼルバイジャンでは長寿は珍しいことではない。100歳以上の人は2500人、10万人に63人という統計がある。ミスりモフさんの死んだとき、妻は107歳であった。65歳で妻を娶り、子、孫、曾孫は219人で、孫のなかには100歳を超えるものいた。

この長寿に異を唱える論評も出た。当時ソ連邦では、懲役を免れるため年齢をサバ読んで登録する風潮があったことがその論拠であった。だが、この地方に徴兵制は及んでいなかった。この国には長寿に有利な環境があった。清潔な山の空気、ゆっくりした生活のリズム、脂肪の少ない食べもの。イスラムの禁忌のため、酒、煙草を嗜まなかった。

日本の長野県は男女とも、長寿日本一である。10万人あたりの100歳以上の人は、50.8人であるという。テレビの特集で、長野の長寿に貢献している活動に食改というのがあった。地域の家を廻って、塩分の摂取量を測り、減塩食の提案や公民館で体操を皆で実施するのである。この活動で医療費が減り、高齢での勤務も可能になるなど、いいことづくめである。

今年1月、101歳で亡くなった詩人柴田トヨさんは死を迎えるまで詩作を続けた。「100歳」と名づけた詩集がある。100歳を超えて生きることの意味を教えてくれる。

くじけないで 柴田 トヨ

ねぇ 不幸だなんて
溜息をつかないで

陽射しやそよ風は
えこひいきしない

夢は
平等に見られるのよ

私 辛いことが
あったけれど
生きていてよかった

あなたもくじけずに


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ナナカマド

2013年09月14日 | 日記


ナナカマドの実が赤味を増した。山形では、ナナカマドが市の木になっているので、市が管理する公園にはたいていナナカマドの木が植えてある。この木は山で自生し、秋になるとその葉の紅葉が見事で、実は雪が降るころ真赤になるので、人気がある木だ。事実、赤い実の上にうっすらと雪が積もる景色は捨てがたい。

この木は燃えにくく、七度炭窯に入れても炭にならないのでこの名ついたという俗説がある。北海道にはナナカマドが多く、ヤチダモが混生している林ではみごとな紅葉の錦を織りなす。もっとも北海道で暮していた自分には、自然と触れ合う機会も少なく、せいぜい秋のヤマブドウ採りに行ったぐらいで、紅葉の美しさに心を打たれたのは山形の山に登るようになってからだ。

赤き実の一葉とどめずななかまど 水原秋桜子

この実を採取して果実酒にしたり、ジャムとしても利用される。とくに北ヨーロッパでは昔から利用されてきたらしい。

「ナナカマドの挽歌」という映画があった。零下30℃を超える真冬の大雪山山麓にある造材小屋に、飯炊き女として働く極貧の暮らしと、連続して起る不幸の物語である。主人公のヤエ子は母が自殺し、炭鉱を転々する父に育てられる。炭工夫と結婚して一児を設けるが、夫は博打にのめりこんで家を顧みなくなる。こんな不幸のなかで、自殺未遂をおかすが、父に母の自殺の理由を聞いて、荒くれの工夫たちに入り混じって強く生きる姿が描き出される。

ナナカマドの赤い実には、落葉して淋しくなっていく山を彩る秋から冬にその存在感を増して行く。9月の山行は天候不順でまだ実現しないが、来週の浅草岳、10月に入っての紅葉狩りを兼ねた計画が楽しみだ。




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志田周子

2013年09月13日 | 


志田周子が生まれた大井沢に行ったのは昨年の11月16日である。目指す大井沢峠は、すでに紅葉も終わり、山に何度目かの雪が降っていた。この峠道の沢筋で、天然のナメコが面白いように見つかった。

大井沢は南に大朝日岳、鳥原山などの朝日連峰、北に月山、湯殿山を臨む山に囲まれた山村である。周子は大井沢小学校を卒業後、山形第一高女(現山形西高)を経て、東京女子医専に進んで女医となった。大井沢では初めての女学生であり、一番星であった。

父荘次郎は教員であり、周子の母校でも教えていたが、後年に大井沢村の村長に選ばれた。村での有力者であった。父は村に医師がいないことを嘆き、村に医師を呼ぶことを悲願としていた。とくに冬季に雪に降り込められた村に急患が出ると、橇を馬に引かせ患者を医者のいる大江町まで峠を越えて運ばなければならなかった。村民のために是が非でも医師をと考えていた。

荘次郎は、東京女子医専の小児科教室に勤めていた周子に、村に帰って医師として働くように懇願した。村の診療所に医師が見つかるまで、3年でいいからと。父の願いを知って上京した周子は、父の願いを断り切れなかった。医師として経験も充分に積んでいないが、自分が村に役にたつのであれば。東京に未練を残して、周子は大井沢に帰った。

山桜の蕾わづかに膨らみし峡に青葉の便とどきぬ 志田周子

周子が和歌をつくり始めたのは昭和20年のころである。結城哀草果の指導を受けた。哀草果は斉藤茂吉の一番弟子であるから、周子は孫弟子ということになる。茂吉が医師の傍ら作歌生活を続けていたから、そこにある縁を感じる。

志田周子の生涯を演劇にする企画があった。この演劇のクライマックスは、患者を馬橇に乗せて雪の峠道を運ぶ場面であった。診療所に医師が来るまで、という父の言葉はむなしくいつまでも雪深い大井沢へ赴任してくる医師は見つからなかった。村で唯一人の医師とて、周子はこの村を見捨てることはできなかった。

雪山にオリオン星座かかるを見つつ患家に急ぐ雪路を踏みて 周子

大井沢に建つ周子の歌碑である。生涯結婚することもなく、昭和37年食堂癌のため仙台の病院に入院したまま帰らぬ人となった。









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青柿

2013年09月12日 | 日記


柿の青い実をみると、昔聞いた「サルカニ合戦」を思い出す。カニと猿が、持っていたおにぎりと柿の種を交換する話だ。まんまとカニを騙した猿が、おにぎりを平らげてしまい、木に自由に登ることができるので、柿の実も自分のものにしてしまう。木に登れないカニが猿に柿の実をくれるように頼むと、これでも食らえと青くて硬い柿の実をカニにぶつける。そのショックでカニのお腹の子が生まれたが、カニは死んでしまう。

カニの子供たちが、栗や蜂、臼と語らって親の敵撃ちをする。この話で出てくる決まり文句がある。カニが猿から貰った柿の種を育てるときのことである。「早く芽を出せ柿のタネ。出さなきゃハサミでチョン切るぞ」と呪文のように唱える。この呪文を聞いて、柿はたちまち芽を出し、葉を出し幹が成長する。植えて一週間もすると柿に実が生った。

こんな他愛もない話を何故か記憶している。柿の実を見ても、猿がこの実をカニに投げつけるのは無理であるように思うが、話の筋はとても分りやすくなっている。子供ごころに、猿はとても悪で、憎らしい動物のような気がした。尾花沢のスイカ畑に猿が入って、食べごろのスイカを荒らしまわっている。サルカニ合戦より。猿のイメージさらに悪化し、憎まれる存在になっている。

最近、噛み付き猿が出没しているという。カニを騙すどころか、人家で餌をあさり、あまつさえ人を傷つけている。昔話はカニと猿がその後、仲直りをする筋たてにしているようだが、人との共存にはなかなか解決しがたい難しい問題がある。
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ススキ

2013年09月11日 | 日記


9月の名月にススキは欠かせない。花言葉は隠退、閑寂。秋の川原にみるもの淋しい感じは、ススキが演出しているといってもいいだろう。古来言われてきた尾花は、ススキに穂がでたものを言う。花ススキも同じことである。秋の七草のひとつである。

人皆は萩を秋と云ふよし我は尾花が末(うれ)を秋とは云はむ  山上 憶良

もうすぐ中秋の名月が見られる。一昨日きれいな三日月であったが、あっという間に満月となる。満月をさして望月ともいう。欠けるところのない月は、人の幸福を現していることでもあろう。この月にススキや畑で採れた野菜をを供えて、感謝をささげる。古来からの風習である。満月翌日(16日)の月は「いざよひの月」という。満月に比べて地平線から顔を出すのが遅いので、躊躇(いざよ)ひながら出てくるからこう呼ばれる。次の17日は「立待ち月」になり、出てくるまで立ち尽くして待つ月である。月の出はどんどん遅くなる。次の18には、立って待っていられないほど遅い。そのために「居待ち月」という。

月の呼び名が、これほど多彩であるのは、月が古人の生活密着していたことの証しでもあるだろう。電灯が普及し、夜も暗さから解放された現代人は、豊かな生活を享受していると言えるが、月の美しさが心に響くという微妙な自然の営みとは縁遠くなった。

山は暮れ野は黄昏の芒かな 蕪村




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