常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

三夕の歌

2014年10月22日 | 介護


寂蓮法師は、藤原俊成の弟で醍醐寺の阿闍梨俊海の子である。十四歳のとき、俊成の養子となり、その後出家して寂蓮法師となった。藤原定家とは、兄弟ということになる。一説には、俊成が歌の家の跡継ぎにしようとしたが、その後実子に定家などの歌人が出て、跡継ぎには実子にというので出家したという話もある。

さびしさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮法師

歌のなかにある槇は杉や檜の針葉樹のことである。意味は、「さびしさは、色のせいとはいえない。紅葉しない針葉樹林の秋の暮れのさびしさは」と読むことができる。

西行法師も秋の暮れを詠んでいる。

心なき身にもあわれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮れ 西行法師

寂蓮の弟にあたる定家の秋の夕暮れは

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家

この三首が「三夕の歌」である。それぞれ、山、沢、浦と異なる景色のなかの秋の夕暮れである。誰もが愛でる紅葉からは離れた秋の淋しさを詠んでいる。

出家した寂蓮法師は、その真髄を究めようとして、歌の道に分け入った。執着したと言えるかも知れない。ある人が語ったところによると、
「くたびれて口が合わなくなり、小便の色も変わってこそ秀歌はできる」と言っていたという逸話があるし、女流歌人である宮内卿が歌に執着して病死したことに感心し、それに引きかえ兄が歌に身を入れないことを嘆いたという。この時代の歌人は、自らの命をかけて歌を追求した。


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石行寺の庭園

2014年10月21日 | 介護


山形市では光禅寺が名園として知られるが、近年手入れがあまり行われず、名園としての影は薄くなった。岩波にある石行寺の庭園が、紅葉の美しさが注目され、庭の手入れも行き届き、園内へ渓流を引き入れた様子はすっかり名園として定着した。今日も、園内を散策する人々が団体で訪れていた。ただ期待したモミジの紅葉は、もう少し先である。池には大きな鯉が悠々と泳いでいた。

ここは小立にある滝山小学校から八森、土坂、神尾の集落を経て西蔵王高原へ至る登り口にある。この坂道は道の両際に岩が重なる渓谷に沿っていて、滝山から流れ落ちる水が、ここから下の農村を潤す恵みの水である。水田の刈り入れは終り、山村はすっかり秋のたたずまいを見せている。石行寺は最上三十三観音の七番札所岩波観音として近隣集落の人々の信仰を集めている。

古い歴史を持つ寺が、今日なお維持され、その庭園に手を加えて市民の目を楽しませてくれのはありがたい。もう十日もすれば、みごとな紅葉をみることができるだろう。


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老いの将に至らんとするを知らず

2014年10月20日 | 論語


平均寿命になるまでまだ長い時間があると、最近まで思っていた。ふと考えてみると、あと6年である。孔子の言った、「老いの将に至らんとすると知らず」などという心境ではない。やりたいことをできないまま、時間だけが超スピードで過ぎていく。そんな老年の生活のなかで、孔子の言葉はこれからの生き方に強い示唆を与えてくれる。

孔子の晩年のことである。楚の国の名臣である葉公を任地に訪ねたおり、弟子の子路に孔子の人となりを聞いた。子路は何と言ってよいか分からず、答えられなかった。そのことを孔子に話したところ、「何故こう言わなかったのだ」と言って自らの人柄を語った。

「憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんするを知らざるのみ」こう答えればよかったのだよ。

憤りをどう解釈するべきか、疑問がのこるが、孔子は国をいかに統治するべきかを考え続けた学者であったから、憤りはこの問題に関してもののように思える。精神が高揚してくると、食べることも忘れて熱中し、楽しいことがあると心配事も忘れてそのことに没頭する。老いがその身に近づいてくることにも気づかぬ様子の人だ。

みずみずしく清新な心、日々学ばんとする情熱、物事に対する関心と感激、自己感性への孜々とした努力。孔子はこのような若々しい心を終生持ち続けた。

サムエル・ウルマンの詩にもある。

真の青春とは

若き肉体のなかにあるのではなく

若き精神のなかにこそある

このような、心を持ち続けられるならば、6年という時間は図り知れない長さを持つことができるだろう。

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歴史の道 栗子隧道

2014年10月19日 | 日記


山形の地形は奥羽山脈によって、囲まれている盆地である。その中央を貫流する最上川が、人体の血管のような役割を果した。日本海航路によって、上方や北海道から入ってくる物資や文化はこの血管を通って、山形の内陸部へと送り込まれた。福島や宮城へ通るには、参勤交代に使った陸路がかろうじて確保されていたが、どの道も険しい峠道を通らねばならなかった。そのため、大量の物資、特にこの地域で取れる米、紅花、果物などは舟運によってしか、交易する交通手段が近代に至るまでなかった。

事態が変わるのは、明治9年に山形県初代県令に三島通庸が就任してからである。三島は明治15年に福島県令に転出するまで、6年間、山形県令として腕をふるった。後進県といわれた山形県に殖産興産の事業は多岐を極め、県庁舎、西田川郡郡役所、警察署、師範学校、製糸工場、済生館病院、などの勧業施設を次々と建設し、それらの施設を結ぶ幹線道路の整備にまい進した。なかでも目を引く大事業は、奥羽山脈の栗子山を貫く栗子隧道は、車馬がトンネルを通って、米沢から福島へ抜ける画期的なものであった。人々は三島を土木県令と呼んだ。それほど、就任6年間に手がけた工事は多い。

画家の高橋由一は、三島に請われて、栗子隧道の図を描き残している。



絵はトンネルの内側から、外をみたものであるが、現在残っている隧道は半ば崩れ、道路には草が伸びて絵の雰囲気は失われしまった。しかし、砕石場のところから残る廃道となった万世大路をたどれば、当時の人々が道路をどのように利用していたかが偲ぶことができる。この隧道の脇には、昭和41年まで使用していた旧栗子トンネルも形骸を残している。



このトンネルは、同行した山中の二人の方が、このトンネルと通って仕事をしていたことを語っていた。このトンネルに来るまでの道は狭いヘアピンカーブが連続してしている。明治に人馬の通る道として整備されたものが、モータリゼーションの時代にも、長く使用されたきた。トンネルの内部は所々に崩落が起き、もう入ることはできない。

このトンネルの福島県側にも、廃道になった道がある。当然のことだが訪ねてその模様もネットで語られている。そちら側は、山形県側よりも薮が深く険しい様子である。


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栗子山の紅葉

2014年10月18日 | 登山


この秋、最高と言っていい好天気。栗子山の紅葉がみえる、旧栗子隧道まで廃道になった旧国道を歩いてきた。砕石場からトンネルまでの標高は、600mから900m。見え隠れする栗子山は全山みごとな紅葉に包まれていた。一年を通してこんな美しい紅葉が見られるのは、滅多にない。山に行く喜び、健康でいられることへの感謝を改めて感じる。(続く)





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