マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

石木町登弥神社・廻り当番の燈明箱

2020年04月17日 09時38分29秒 | 奈良市へ
この日、朝から出かけた京都山城町・涌出宮の百味御食取材を筆頭に、帰路に見かけた木津の布団太鼓巡行もあれば、奈良に戻ってからご挨拶と思って訪ねた奈良市高樋町へも。

予定していた民俗探訪を終え、帰り道に買い物を済ませてようやく戻ってきた居住地。

ここからは狭い道になる。

これまでは奈良交通のバスが運行していたが、現在は奈良県総合医療センターに向かう新道(※平成30年5月開通の石木―城線)に移ったが、以前は対向車のにらみ合いに、無理して抜けようとする車がよく水路に落ちてしまうこともあった狭い道。ここは奈良市石木町。

登弥神社に向かう参道道でもある。

神社前の通りを抜けようとしたそのときである。

一人の男性が燈明箱をもっていた。

行先は、言わずもがなの登弥神社。

夕刻に火を灯す燈明番の人である。

急なことだが、ここで停車してお声をかけた。

午後4時半である。すぐさま火を点ける場所は、鳥居前に建つ石灯籠である。

土台の刻印は四面それぞれに「施主」、「木嶋屋」、「平井氏」、「源右衛門」があり、灯籠本体は「天保四癸巳(1833)九月」、「油料 自領字吉山 田地七枚 高領 壹斗 五斗」である。

燈明を灯す油料を寄進していた施主の名である。

願主氏子でなく、屋号木嶋屋の平井源右衛門が建てた石嶋大明神灯籠の火袋に灯す蝋燭。燈明番は14軒で廻しているというから旧城村の氏子中。

登弥神社は石木町、大和田町、そして大和郡山市の城町(東城)の人たち3カ大字の氏子中が守っている神社である。



現在の燈明箱は新調したもの。

薄っすら墨書文字の「垣内安全 ■十九年一月吉日」までが読み取れた。

以前、古びた燈明箱で廻していたが、玄関前に置いていたら盗人に盗られたので新調した、というⅠさん。

生まれも育ちも大和郡山であるが、サラリーマンゆえ茨城県で仕事に就いていたが、近年になってUターン。

生まれ故郷に戻ってきたそうだ。

息子の長男さんは茨城県に居るが、奥さんと次男さんとともに戻ってきた、という。

奈良に戻って奈良の良さをあらためて知り、氏子入りをした。

Ⅰさんのお兄さんは、なんでもNPO法人ならソムリエの会に入って勉強した結果、奈良検定の奈良通1級に合格した、という。

県人としても誇らしい奈良まほろばソムリエ検定(主催は奈良商工会議所)の合格である。

私ももっと学ばなければならないと思うのだが、県内行事の記録取材で目いっぱいである。

(H30.10.21 SB932SH撮影)

額縁にはまったお気に入りの撮影地

2019年11月28日 10時47分54秒 | 奈良市へ
ここら辺りは何度も伝統行事取材に訪れる地。

すぐそばにあるお池は、また自然観察会にも訪れる景観地。

額縁にすっぽり入ったお気に入り作品。

作者は知人のNさん。

めきめき腕をあげられた作品がなんとも美しい。

リアルなお池を、へぇー、なるほどと思うような景観に映し出す凄腕の持ち主。

撮影地の人たちともすんなり溶け込む会話の名人。

話題を引き込む聞き取りにも身につける力をお持ちだ。

百均仕様だが、えー感じに我が家の書棚に収まった。

携帯画像のためか、色合い、風合いが違ってしまって申しわけない。

(H30. 6.16 SB932SH撮影)

秋篠町の水口まつり

2019年09月30日 09時34分52秒 | 奈良市へ
天理市中山町で堪能させてもらった水口まつり

されているところが実に多くてお腹は満腹状態になった。

勝手なことを云うが、それほど多い、しかも味のある立て方、景観に見惚れてシャッターを押していた。

中山町を離れた時間帯は午後3時。

夕暮れにはまだまだ時間がある。

探してみたい地域は奈良市の北部である。

前年の5月12日にYさんがアップされた奈良市押熊町の松苗にハナカズラだった。

苗代に立てている情景におそらくあそこであろうと思って探してみたが見つからない。

思っている場所にたどり着かなかったようだ。

諦めて近くを探してみれば見つかった。



その地は奈良市秋篠町であった。

枯れた松苗はどこで授かったのか。カーナビゲーションが示す地が秋篠町であれば、八所御霊神社に違いない。

毎年の1月11日に行われるおんだ祭に奉る模擬苗の松苗である。

ここら辺りを探してみるが苗代田そのものが見当たらない。

作業小屋の反対側に水路がある。



すぐ傍に橋が架かっていたそこに2基の石塔が建っていた。

地蔵仏でもない石塔は五輪塔のようだ。

右の五輪塔に梵字らしきものが見えるが、風化激しく判読不能。

左の石塔は線刻された五輪塔であった。

一般的に上から順に空輪、風輪、火輪、水輪、地輪の5文字。

これもそうだろうと思うが、私は梵字の知識はまったくない。

この線刻五輪塔の下部に刻印文字がある。



誤読であるかもしれないが「永禄」とか「戊辰」、「清雲」、「六月」、「小一日」のように読める。

永禄戊辰年であれば西暦1568年。

450年前の線刻五輪塔になるのだが・・。

(H30. 5. 4 EOS7D撮影)

山陵町・山上八幡神社の節分

2019年08月15日 12時34分32秒 | 奈良市へ
佐紀東町乾垣内葛木神の節分祭を拝見した次はすぐ近くになる山陵町字山上の八幡神社に向かう。

同神社は幾たびか訪れていた。

初めて訪れたのは平成19年の10月7日であるが、祭りの祭典中であったから声もかけずに場を離れた。

それから数年後の平成26年の12月31日

2人の写真家に、神社で合流した知人とともに拝見した大晦日の様相に感動し、設えた板注連縄に用立てする稲刈り作業を撮らせてもらったことのある神社。

その後の平成28年12月15日

板注連縄を設えるころだろうと判断して出かけたが、既に終わっていた。

今の村神主は前年の平成29年12月に前村神主から引き継いだ、老人会会長も兼務するMさん。

当社の大祭は年に3回ある。

その都度に出仕してもらう神職とともに祭祀する。

自治会は47軒であるが、氏子数は34軒。

宮さん務めする人が少なくなり、Mさん自身も務める村神主は今回で3度目。

実質、六人衆の5人が順に一年交替で役を廻している。

節分に供える豆は六人衆めいめいが仕入れてきたもの。



開封、バラした豆を枡に入れたものと袋詰め二通りに整えて供えている。

時間ともなれば村神主が動き出す。



用意しておいた台燈明に火を点ける準備をする。

神主家で預かっている古い燈明箱。

歴史風情がある燈明箱は黒光りの照り。

代々の神主、六人衆が大切に継承してきた燈明箱に感動する。



丸い窓はお日さん、反対側の窓はお月さん。

灯籠にも見られる造りに蝋燭の火が美しい。



実は、燈明箱に移したオヒカリは風で消えないように神社に持ってきたという。

そのオヒカリで台燈明に火を移す。



今年は風にあたって消えてしまわないように工夫をしている。

風の通り道になる西風。

社殿より西側に設えた透明シートの風除けである。

この在り方は斑鳩町の龍田神社で拝見したことがある。

行事は風祈祷。

台風など大風で育ってきた稲が倒れないように祈る農事行事。

風に負けないように何本もの燈明を灯す。

行事日が微弱な風であれば燈明の火は消えることはないが、強い風の場合は何度灯してもすぐに消える。

その風を避けて通れないから透明シートを設える風除け。

平成23年の7月16日に拝見した。

さて、山上八幡神社の節分である。

先に準備していた福豆を供えてから台燈明に一本ずつ蝋燭に火を点ける村神主。

台燈明の形は仏具であれば燭台。

台燈明にも同じように溶けて流れる蝋を受ける部分にそれがある。



すべて灯したら、参拝者が頭を下げる。

次々に訪れる氏子たち。

割拝殿に設えた暖房機。



2月初めの空気は冷たい。

おまけに風もある夜の参拝に準備したストープが身体を温めてくれる。



下げたお神酒に割きスルメをいただく氏子たち。

仲のいい宮守経験者の話題はつきない。



しばらくしたら、ストープの上で焼く干しスルメも登場した。

焼けたスルメの匂いでお神酒をいただく。

もちろん焼けたスルメも手で割いていただく。

スルメの他に干し魚も焼いていた酒の肴にお神酒がすすむ。

そのころともなれば続々と参拝者がやってくる。



いつもなら、半紙に包んでオヒネリの形にしてお供えしていたが、今年は枡に入れてきたという若年層の男性。

家から持参した豆を供えて参拝する。

空になった枡に村神主が準備してくれた福豆をたばってきた。

枡いっぱいに盛った福豆たばりの様相を撮らせてもらった。



台燈明のローソク火が消えるまではこうして参拝者を待っている村神主に六人衆。

この日は節分。

割拝殿の柱に取り付けたヒイラギイワシを拝見していた。



柱だけでなく本社殿前にある柱にもあると云われたヒイラギイワシ。

藁縄を柱に結んで落ちないようにしている。



鰯の頭を刺したヒイラギの枝を藁に差し込む。

なるほどの仕掛け。

神社らしさがいい感じ、である。

六人衆が揃ったところで神社の決め事を伝えられる。

先だって決まった板注連縄の決定事項の通知である。

これまでずっと毎年してきた板注連縄を廃止して、一般的な形の注連縄に移行する、という件である。

一般的な形を手作りするのではなく、業者から購入することになった、という。

この日も架けていた板注連縄。

師走まではこのままの状態であるが、大晦日になれば、新しく購入する一般的な形の注連縄にするという決定事項である。

なお、Mさんが云うには、板注連縄は七、五、三編みでなく、すべて七本ずつの藁束単位で繋げていたもの。

ある年に数えた藁の本数は1680本だった、という。



この本数、村の記録に残したく付記しておく。

(H30. 2. 3 EOS40D撮影)

佐紀東町・葛木神の節分祭

2019年08月08日 08時57分46秒 | 奈良市へ
東町の座中から教えてもらった2月3日の節分祭。

枡に盛った節分の福豆を交換すると聞いた再訪である。

節分祭に相応しい福豆を供えておく。

村神主、八人衆が乾垣内に鎮座する葛木神社の本殿に吊るす四つの吊り提灯。



しばらくしてから村神主がお祓いをされた。

神事を終えた村神主は供えた福豆を下げて拝殿の前に移す。



お神酒にカワラケ。

スルメイカに捻り昆布を盛っておく。

これより来られる参拝者によばれてもらうお神酒に肴である。

神事を終えてすぐに来られる参拝者。



鈴を振って手を合わせていた。



ただ、下げた福豆やお神酒にカワラケ。



スルメイカに捻り昆布を並べた状態を見られた参拝者。

さてどうするのか、迷っておられた。

初めてこられたのだろうか。

節分祭の要領を知らないのか、「どうしたらいいのでしょう」と尋ねられる。



「参拝を済ませたら、どうぞいただいてください」と伝えていた座中。

参拝の一番手は隆光僧正の初名、川辺隆長が先祖にあたる川辺家の人だった。

豆を供えることなく熱心に手を合わせて拝んでおられた。

次の人も参拝するが、豆ではなく、栗が良いだろうと供えた。

栗を供える形式は初見である。

節分或いはトシコシ(年越し)とも呼ばれる旧村行事につきものの豆交換。

参拝に豆を供えて、先に参拝した人が供えた豆を持ち帰る。

簡単にいえば豆の交換であるが、ごくごく普通にある習俗である。

ここ佐紀町では、かつてあったのかどうかわからないが、参拝者が“福”を持ち帰る福豆交換の習俗信仰が薄らいでいるのでは・・と思った。

平成26年の2月3日。

すぐ近くになる佐紀中町の門外神社にも節分祭がある。

福豆の交換をしていた村の習俗。

個々参拝に持ち帰るには少しの懸念、村の人が申し出た意見を取り上げ、中身の見えるビニールの袋詰めに切り替えた。

斑鳩町目安の春日神社にも豆交換はあるが、袋詰めでなく半紙を摘まんだオヒネリの形である。

大和郡山市新木町(にきちょう)の新城神社の節分祭。

ここには袋詰め、オヒネリの形は見られない。

参拝者は別器に持ってきた豆を供えて、村神主が別途用意していた器に盛った福豆を一握り持ち帰る。



地域によって一定の形でない福豆交換。

本来のあり方よりも清潔さを考えた手段はさまざまな形式を生む。

境内にずっと立ち尽くす男性がおられた。

大阪の堺から来たという男性。

堺のある神社。

仁徳天皇というか、おほさざきのみこと(大鷦鷯尊)に導かれて当地に来たという。

男性がいうには、若宮さんという神々が枕元に立たれて「葛木神社に参られよ」とお告げがあった、という。

ネットなどで探した結果、お告げがあった神社は佐紀町だった。

今日初めての参拝でなく、初参拝は昨年の12月。

その後にまたお告げがあった。

「神さんにお酒を供えよ」というお告げだった。

そのお告げがあったから、本日も参ったと語る男性。

お神酒として献酒をしたいが、どうするのかわからなくて拝殿に置かせてもらった。

しばらくして拝殿に寄進者名のあるお神酒があるとわかって本社殿に供えたと・・。

その経緯を村神主に伝えて場を離れた。

そういえば、すぐ近くにヒシアゲ古墳がある。

仁徳天皇の皇后、磐之媛命(いわのひめのみこと)の陵墓とされる。

佐紀町との繋がりはここにあった。



さて、参拝の波が和らいだところで拝見させてもらった社務所保管の絵馬。

大正元年拾月吉日に寄贈された武者絵である。

寄進者は東部青年會。

連名された寄進者数は55人。

京都・山城町の祝園(ほうその)の人も併せて寄進された武者絵馬。



描いた製造人は大阪の難波。

御堂筋南本町の稲垣製、とある。

墨書された寄進者名はどなたも存じていないという。

大正元年生まれの人なら107歳。

大正元年に寄進した青年會(青年団)なら、さらに下って、仮に二十歳として計算すれば明治25年のころの生まれ。

存知し難い127年前のころの寄進者である。

(H30. 2. 3 EOS40D撮影)

佐紀東町の火鎮祭

2019年07月27日 08時59分11秒 | 奈良市へ
かつて都跡村は奈良県北西部に位置する生駒郡に属していた。

添下郡のうち平城宮の一角だったことから都跡村(※みあとむら)と名付けられた。

明治22年の町村施行によって佐紀村や尼ヶ辻村、北新村、 横領村、南新村、五条村、六条村、砂村、七条村が編成されたとウキペディアにある。

この日に行われる佐紀東町の火鎮祭(かちんさい)。

奈良市の北寄り。

行政町名は佐紀町であるが、旧家の人たちに言わせれば佐紀東町である。



佐紀東町の氏神さんは葛木神社

年中行事を務める宮関係者は八人衆。

いわゆる座中における祭祀を執行する八人衆であるが、数年前より人の数が減ったことによって、4人組の八人衆にされた。

八人衆で構成するだけの人数不足。

八人だった構成人数を四人組にしたが、“八人衆”の名前だけは残した、ということである。

それまでの八人衆だったころ。

春の麦寄せ(※二毛作をしていた時代の名残の名称)に秋の収穫したとき、米をもって米寄せをしていた。

春の麦寄せに秋の米寄せ時期に合わせて順繰りに入れ替わっていく八人衆。

例えば、8番目の人は半年後に7番目。

2番手の人は半年後に1番手に繰り上がる。

1番手になった人は村神主を務め、祝詞を奏上する役に就く。

当地に生まれた男子は宮入りをする。

その宮入りの順に決まった氏子が、やがて八人衆を務めることになる。

村神主を務めた人は八人衆を退けば総代の役に就く村の制度。

半年ごとに繰り上がる八人衆が村行事を務める期間は、実質のところ4年間である。

現在は四人組の八人衆。

12月の米寄せの日に繰り上がり交替。

1年ごとに繰り上がる務めは同じく4年間である。

一年に3度の大祭がある葛木神社。

そのときの祭主は漢国(かんごう)神社宮司の梅津さん。

かれこれ何年も前になるが、漢国神社の神社行事にずいぶんお世話になったことがある。

平成18年の4月19日は漢国神社末社にある林神社の饅頭祭。

同年の6月5日は鎮華菖蒲祭。

翌年の平成17年の6月17日は鎮華三枝祭に行われた包丁奉納式を拝見していた。

春の4月は大阪・千早赤阪村と奈良・御所市の境目にある金剛山山頂に鎮座する葛木神社に登って参拝する。

参拝時季は山頂に駆け上るマラソン大会と同じ日。

なぜか、重なる日になってしまうそうだ。



なお、佐紀東町に鎮座する葛木神社境内に大日堂が建つ。

その大日堂行事も支えている八人衆。

1番手の村神主は神社祭祀、2番手が大日堂の役を務める仏行事もある。

実はこの日の早朝に佐紀東町のとんど行事が行われたようだ。

先に集まった八人衆のお勤めは大日堂行事。

朝時半から始めた般若心経。

三巻を唱和してからとんど焼きに移る。

知人のFさんの話によれば、かつて佐紀東町のとんど焼きは2月1日だった。

2月1日のとんどであれば2度目の正月。

いわゆる二ノ正月のとんどであったろう。

その昔し、氏子入りする子どもが生まれた家がとんど組みをしたという。

それ以前の、そのまた昔しのとんどは各家が立てて作る形は三角錐型の小とんどだった。

「奈良の昔話」を綴る増尾正子さんが筆をとったHPにとんどの件を次のような文で紹介していた。

「二月一日に葛木神社の境内に、町内中のシメ縄を持ち寄って大がかりなトンドをするそうだ。その時、前年に長男が産まれた家では、正月に、青竹に種々の色紙で作った短冊を吊るして家に祀り、このトンドの日にトンド場でそれを焼き、子どもの健やかな成長と、家の繁栄を祈る風習があるという」とある。

また、ある人のブログに不思議な祭りごとの形態を見た、とアップしていた。

「神社の石に半割の青竹とウラジロを・・」である。

増尾正子さんの文中にある「青竹に種々の色紙で作った短冊・・・云々」が、その印しではないだろうか。

さて、とんど場である。

今では葛木神社境内に設えるとんど場に移っているが、かつては神社前の道の西にある農小屋の辺りであった。

当時はまだ舗装のしていない里道。

やがて境内に移されたが、当時のとんどは今よりもっと大きく設える大型ののとんど組み。

境内となれば鎮守の森などの延焼が心配で小さくしたそうだ。

また、鎮守の樹木も伐採作業をしてきた八人衆。

分担作業でいつも奇麗な境内。

今も同じように奇麗さを保っている。

とんどの火点けは、とんどから見てアキとも呼ぶ恵方の方角。

この年は南南東が恵方になる。

これより始まる火鎮祭の弓打ちもまた恵方に向けて矢を放つ。

竹を割って曲げて作っていた弓。



矢は北の地にある竹林に生える細い竹。

おそらくはススンボとも呼ばれる女竹を採取して作っていたが、やがて竹林は消え、見つけるのも困難になったことから使い回しの弓矢になった。

弓打ちの前にしておく神社神事がある。

大宮、小宮に献饌。

2本の弓と8本の矢を奉って祓の儀に祝詞奏上。

それから弓打ちの祭場に移動する。



先頭に矢を抱える1番手の八人衆。

白衣着用姿に烏帽子被りの村神主を務めるIさんが行く。

手に笏をもつ。続いて2番手の八人衆。

大日役を務めるTさんは的に矢を持つ。

3番手は3本の幣持ち。

4番手はダンボール箱に替わった御膳桶(※本物はかじや保管らしい)。

前日までに設えた弓場の砂盛り。



三つの砂盛りにもってきた御幣を立て、中央の砂盛りに的も立てる。

御膳桶もまた中央の砂盛り付近に置いて蓋を開けるが、現用はダンボール箱になった関係でそれらしき行為は見られなかった。

村神主は弓をもって構える。

初めの1本は天に向けて矢を射る。



次に射る向きは地である。

そして、四方を祓う東、西、南、北。



そこで登場する2番手が手持ちする的である。

まともに持っておれば身体に当ててしまうことになる。



腕を伸ばして身を除ける。

四方祓いの次は恵方打ち。



この年は南南東に向けて矢を放つ。

そして、最後は村の安寧を願い、的をめがけて矢を放った。

(H30. 1.27 SB932SH撮影)
(H30. 1.28 EOS40D撮影)

マトウチ所作のある佐紀町の葛木神社を探す

2019年05月20日 08時25分31秒 | 奈良市へ
知人のNさんがご自身のHPに挙げていた行事がある。

彼とはずいぶんご無沙汰しているが賀状のやり取りは続けてきた。

今年の賀状のコメントに「今年は5歳になる戌年生まれになった」と伝えていた。

5歳の戌年とは・・・。

彼らしい年齢の表現である。

戌年生まれに違いない。

5歳ということは・・今年は戌年。

繰り下がって数えて5×12干支になるわけだから、ずばり昭和33年生まれの60歳の年。

とうとう彼も還暦を迎えることになった。

仕事が忙しくなってきたからと云ってそれまで熱心に取り組んでいた民俗に関する写真撮りがストップしたままになっている。

尤も6年前に、それを理由に7年も続いている奈良県立民俗博物館で開催している「私がとらえた大和の民俗」の参加を辞退した。

実際は、少しの休みを利用して出かけているかもしれないが、HPの「大和フォト歳時記」の更新は平成25年以降の動きはない。

尤も実態実質は平成18年の更新が最後になっている。

彼が挙げた行事に「佐紀東の火鎮」がある。

男性9人が弓、矢、供物などを手にして神社を出発した。

一行はどれぐらいの距離を歩いたのかわからないが、三つの砂盛りをした地に到着する。

白衣を着用した村神主らしき人が先導役のようだ。

砂盛りすべてに大幣を立てて、空中に向けて矢を放つ。

天を射る作法である。

その次は下方に向けて。

地を打つ矢である。

ただ、興味深いのはその映像にある的である。

的は竹の棒に取り付けた構造。

それを中央の砂盛りに的がむき出しになるように据えている。

その的を目がけて矢を射っているように見える。

所作はそれだけにようだが、これまで県内各地で行われている「ケイチン」行事から推定するに、天、地、東、西、南、北、的の順で打っているように思えるのだが・・。

彼のHPにはその行事に関する記事は書いていない。

ならば、訪ねてみたいと思ってから数年も経った。

彼が「佐紀東の火鎮」をとらえた映像は平成20年の2月2日である。

あれから10年も経過している。思い立って重い腰をあげて、その地を訪ねる。

経過年数を考えれば、何らかの変容があるかもしれない・・。

実は、「佐紀東の火鎮」をとらえたもう一人の知人がいる。

Sさんもまた、前述した「私がとらえた大和の民俗」の参加者である。

彼女もまた「佐紀東町 葛木神社の火鎮祭」を取材していたのだ。

とらえる映像は、Nさんの映像とは違う角度でとらえたものだ。

また、所作をする人たちを神主、八人衆と紹介していた。

本社殿にマトウチ祭具を奉ってお祓い。

八人衆にもお祓い。

時間帯は朝のようだが、陽は昇っているように思える時間帯。

神さんに祝詞奏上されたことは書いていない。

あるのは、大日如来堂で唱える般若心経である。

不思議な在り方である。

また、弓場用に供える御膳桶もある。

弓場で所作をする矢打ちの方角は、天と地に東、西、南、北。

そして、その年の恵方の方角に的へと打つ矢っつの方向とあった。

所作はそれぐらいだが、気になるコメントがあった。

それは、八人衆はいずれ四人になる、ということだ。

取材された日は平成22年の1月31日だった。

Nさんがとらえてから2年の間に変化の前触れが気にかかる。

いずれにしてお二人がとらえた地はどこであるのか。

取材する気になったもう一つのきっかけがある。

今月の1月4日である。

第16回目の写真展をしていたカメラのキタムラ奈良南店でばったりお会いしたFさん。

久しぶりのご対面に驚いたものだが、後日の7日に電話をしてくださった。

それが佐紀町葛木神社で行われる火鎮祭行事であった。

日程、時間を教えてくださったが、生憎のところのダブルブッキングになってしまうので、翌年廻しとさせてもらい断った。

ところが、当初予定であった習俗取材は先方さんの都合でできなくなってしまった。

ならば、と思い起こして出かけた佐紀町葛木神社の所在地探し、である。

ネット地図に載っていた神社の所在地。

どこらへんになるのか、すぐにわかった。

当地西にある神社行事のいくつかは取材したことがある。

ところが東になる葛木神社は、まったくもってこれまで行ったことのない地であるが、その地よりさらに足を伸ばした東の地に「水上池」がある。

この辺りは何年か前に野鳥観察をしていた場所。

馴染みはあるが、池から西の集落は入ったことがなかった。

平城京跡にある第一次大極殿より東にある信号を北に向かう。

その街道は歌姫街道。かつて何度も走った道だから迷うことはない。

さて、佐紀町の集落である。

だいたいの土地感覚があるので、集落に入るが車を停める処が見当たらない。



葛木神社はすぐに見つかったが、どなたも居ない。

冷たい風が吹くなかの人探し。

西に人が動く気配があった。

車を停めて声をかけたが、行事どころか神社も存じないという婦人。

家は神社より西百メートルも行かない地であったが・・。

神社前にある旧家。

呼び鈴がなく、大声を揚げたが、届かなかったようだ。

仕方なく畑地が拡がる南の地に移動する。

たまたま畑の方から携行型荷物車を曳きながら歩いていた高齢の婦人に声をかけた。

火鎮祭のこともご存じであった婦人の話しによれば、行事日を聞けば、二日後の日曜日。

それは村のとんど焼きで朝の6時に点火するという。

そのとんど焼き終えた神社境内を綺麗に掃除してから火鎮祭をしていると話してくれた。

その婦人はすぐ近くの弓打ち場も教えてくださる。

砂盛りは三つ分けではなく、ひと盛りである。



運んできた軽トラの荷台から落としたように見える。

行事をされる八人衆若しくは神主に挨拶しておきたいと伝えたら、現神主は集落南の方だが、わかり難い所におられるので、昨年まで神主勤めをした総代家を紹介してくださる。

だが、残念なことに生憎の不在だった。

明日の午後の時間帯であれば、とんど組みをしているからと云われたが・・。

ちなみにその総代家前の道を北に少し行ったところに掲示板があるからと云っていたので、足を伸ばす。



そこに貼ってあった神社行事の案内は、とんど焼きだった。

ただ、下の方に書いてあった火鎮祭。

午前11時ころということである。

ちなみにここら辺りで駐車できる処はないでしょうか、と尋ねたら、うちの畑の前のここなら停めていいと云ってくださる。

ありがたいお言葉に甘えさせていただくことにした。

このような経緯をFBメールで連絡したFさん。

すぐさま電話を架けてくださる。

とんど焼きは恵方の方角から火を点ける。

現在は1月末の日曜日に移っているが、元々は2月1日にしていたという佐紀町のとんど焼き。

日程的に二ノ正月とんどであった。

そういえば弓打ちの場を教えてくださった婦人は弓を打つ方角はアキの方角。

つまりは恵方に向けて打っているということだった。

こうした恵方を大事にしている佐紀町には伝統的な民俗の匂いがしてきた。

とんど話しをしてくれるFさんが元々住んでいた地もとんど焼きをしている。

その地の日程は1月15日の小正月。

現在は15日に近い日曜日の朝。

サイレンを鳴らして点火を合図する。

この年のとんど焼きは1月14日の朝にしたと伝えてくれる。

現在の彼の住まいは葛木神社のすぐ近くであるが、元々は佐紀町の中町。

住所標記にない町内であるが、歌姫街道筋にはバス停留所表示に中町がある。

とんどの場は大極殿前の道路向こう側の地である。

後日にお会いしたときに話すもう一つのとんど。

それは愛宕講の小とんどであるらしい。

佐紀町・中町に愛宕講がある。

毎夕にお燈明番が廻ってくる。

40軒の廻りだから一年に9回以上。

街道にある愛宕さんに参ってはいるが、火を灯すことはない。

どうやら灯したローソクの火が愛宕さんの祠に燃え移りそうになったことから、火灯しをしなくなったという。

ちなみに“しゅんにちこう”があったという。

上の六人衆の2番目の神主家に集まって昆布茶に饅頭を食べていた。

朝に集まった上六人衆。昼の会食。

夕方の午後4時に牛すき焼きの会食をしていたが、掛軸もなく、ただ食べる会合であった。

今は神主家でなく料理屋に替えた“しゅんにちこう”を充てる漢字は“親日講”。

中町の釣殿神社の年中行事を拝見したことがある。

資料によれば、“親日講”は上・下の六人衆の引退者が2月11日の祭日に集まって、近くの料理屋「なか川」ですき焼きをいただくことになっている。

“親日講”は“しゅんにちこう”と呼んでいる。

“親日講”そのままを発音すれば“しんにちこう”であるが、なぜか“しゅんにちこう”と発音する。

かつては春日神を祭る「春日講(しゅんにちこう)であったかもしれないが、そのことを示す証拠は一切がないらしいとFさんは話す。

電話の話しは佐紀町・中町の話題になったが、気になるのは佐紀町の火鎮祭である。

午前11時と掲示にあったが、念のためと思って翌日の27日も訪れる。

訪ねるお家は現総代家。

前日が不在だっただけに、念のためと思って出かけたら、在宅されていた。

取材をされるなら正確な時間を、と云われて八人衆の2番手に連絡してくださる。

その結果は10時だった。

掲示を信じていたら1時間遅れ。

とうに終わって、途方に暮れていたことであろう。

総代の話しによれば、現在の八人衆は4人組。

廻りの人数が少なくなってきたこともあって、名は八人衆であるが4人で年中行事をしているようだ。

以前の8人の時代は、春の麦寄せ日と秋の米寄せの日の半年ごとに繰り上がる交替制だった。

つまりは一年に二人が抜けて、二人が新参で衆中に加わる。

半年ごとに新加入があるということだから、任期は丸々4年間である。

これが4人制になった現在は、12月2日の米寄せの日に繰り上がる。

新参は4年間務めて卒業すれば総代になる。

総代になる一年前は神主。

神職業ではない村神主である。

その次を継ぐ2番手は大日さんの役になるようだ。

ちなみに「麦寄せ」は二毛作時代の名残。

麦、米の収穫ごとに新参が加わり、村神主が引退していくという仕組みだった。

一年に3回が大祭。

そのときは漢国神社の宮司が出仕される。

春は佐紀町葛木神社の本家本元に御所市にある金剛山頂に鎮座する葛木神社にお参りをする。

参拝するのは村神主を含めた八人衆である。

参拝の時期はなぜか山頂目指して駆け上がるマラソン大会と同じ日にちになるらしい。

今のとんど場は神社境内であるが、かつては神社より西に数百メートルの地。

舗装のない時代は、農小屋の辺りでしていたという。

その当時は大とんどであったが、境内の樹木に火が移らないように小さくした。

また、延焼しないように年に一度は業者に発注して伐採してもらっている。

境内の掃除も八人衆の分担作業。



この日も実に綺麗にされていた。

とんどの火点けはとんどから見て恵方の方角。

この年は南南東になるという。

弓打ちも同じく恵方の方角に向けて矢を打つ。

その矢は話しの様相からススンボのような細さだと思えた。

矢を採取していた北方の竹林。

伐採してしまったのか、矢竹が生える場は消えた。

仕方なく、今では弓も含めて、行事が終わってからも保管して、翌年に使い廻しをしているそうだ。



ちなみに話してくださった現総代さんは現役のオートバイレーサー

専用のガレージに十数台もある。

立ち姿がなんせ格好いいし、精悍な表情だったことを付記しておこう。

(H30. 1.26 SB932SH撮影)
(H30. 1.27 SB932SH撮影)

古市町のこうぜんさん参り

2018年11月16日 10時00分50秒 | 奈良市へ
この年の地蔵盆に伺った奈良市古市町。

場は町の北方にある北の地蔵さんである。

地蔵さんの祭りに来られていたKさんが話してくれた「こうぜんさん参り」に興味をもった。

「こうぜんさん」は一般人の進入禁止区域になっている春日山中にある。

その一角に鎮座する鳴雷神社のことである。

一般人である私は入山することできないが、参拝される古市町の人たちに同行する形で承諾してもらった「こうぜんさん参り」である。

聞いていた当日に集まってこられた水利組合組合長に経緯を伝えて同行させていただくが、組合員によるこの参拝は参拝後の寄り合いも組まれている。

寄り合い場へも行く行程に組合員が乗る車は会場の送迎バス。

バスの後方についてきてくださいと、云われて走る第一の関所は新若草山・高円山ドライブウエイの料金所。

軽自動車の場合は往復通行料が670円だった。



何十年ぶりになるのだろうか。

家族で連れだってやってきたことがあるが随分前のことだ。

奈良奥山ドライブウエイが正式名所のコースに「万葉若草の宿三笠」に「ホテル平城」がある。

宿泊利用したのはたしか「三笠」だったと思う。

メインに鍋料理を食べた記憶があるというかーさん。

思い出の映像は白く混濁した鍋だったというから、それは飛鳥鍋だと思う。

当店は柳生鍋。

創館以来ずっとそうであるらしいから記憶違いだったろう。

さて、余談はそれくらいにして「こうぜんさん参り」である。

料金所を通過してしばらく走った先で組合員は降車する。

足元は完全装備。

山地に生息するヤマビルに噛まれないように長靴は必需品。

忘れた場合はズボンの裾をしっかりとバンドなどで〆て侵入されないようにする。

また、首元には肌をみせないようにタオルで首に巻いて覆う。

地蔵まつりの際に聞いていたヤマビル対策。

普段着で禁足地にはいるが、装備は万全にと聞いていたが、すっかり失念していた。

縛るものも、隠すものも持ち合わせていない。

普段着のままの入山に思い出すヤマビルの被害。

ヤマビルの洗礼を浴びた場はここよりほぼ近い柳生へ向かう滝坂の道であった。

気がついたらぬるぬる赤い血がべったり。

ジーパンが赤色状態でわかったヤマビルの仕業には驚いたものだ。

特に湿気が多い時季に出没するヤマビル。

頭上にある樹木からおりてくる場合もあるが、9月の山はカラカラ。

乾いた季節は出没しないと組合員が話していた。

まさにその通りであるが、「こうぜんさん参り」は里に下りるまでヒヤヒヤしていた。



なお、貝を吹いておられるが、水利組合としてではなく、趣味で吹いているとのことだった。

目的地は香山(こうぜん)或いは荒神の高山(こうぜん)と呼ぶ地に鎮座する鳴雷(なるいかづち)神社である。

ずるずる滑りやすい道なき道なのか、それともあるようで、ないようなわからない道をゆく。

すぐ下は池だという。



水源地の池は干上がることがないという竜王池。

写真ではわかりにくいが、水面は斜光によって煌めいている。

入山する場に拝見した略図。



掲示板の地図を見ても現地はどこであるのかわからない。

かつて、この林道を下って鶯の滝にたどり着いたことがある。

滝は花山川の上流地。

距離がどれくらいだったかまったく記憶に残っていない。

組合員の一人が資料をくださった。

それはネットからプリントした「奈良歴史漫歩 春日山の水神信仰」。

鳴雷神社について詳しいことが書いてあるという。

その竜王池の向かい側。

西面に建つ社殿が見えてくる。

登りやすい石段。



踏みしめて登っていったところに到着と同時に拝礼したくなる鳴雷神社がある。

春日大社の末社である鳴雷神社の祭神は天水分神(あめのみくまりのかみ)。

史料によれば「延喜式神名帳の大和国添上三十七座の筆頭にくる鳴雷神社に擬される。明治時代の初年までは“高山(香山)竜王社”と呼ばれていた」とあった。

「二月の祈年祭、十一月の新嘗祭には中央から中臣氏の官人がさし遣わされた格の高い神社。現在も春日大社の末社の中で唯一新嘗祭が行われている」と書いてあった。



組合員は到着するとともに直ちに準備するローソク立て。

スルメに塩、お神酒を供える。



中央に、このときだけに置かれる水利組合専用のさい銭箱も。

めいめいが手を合わせて参拝する願いは一つ。



水たんもれである。

大和豊年米喰わず」という。

溜池が多い大和平野は水に恵まれる豊かな土地。

その土地が豊作を育む天の恵み。

旱にも水を満々とたたえる竜王池。

「こうぜんさん」は水の神さんだから、こうして毎年に参拝してきたという。

2拝、2拍、1拝。

それぞれが参拝を済ませたら直ちにその場で直会である。



供えたスルメを千切って配る。

お神酒も注がれて水の恵みを飲み干す。

しばらく滞在した直会。



お神酒は社殿周りに撒かれる。

社殿周辺に石柱がある。



社殿右手の石柱にあった刻印は「高山龍王社」。

裏面に「安政四巳年(1857)閏五月吉日」。



もう一面、側面に寄進者らしき四人の名が刻まれていた。

ほとんど判別できないなかで読み取れたのは「戸田一東明寺」であるが・・・。



社殿より左側にあった石柱の正面は「奉納 願満」。



側面に「郡山大字高田 農民中」とある。

寄進されたのは現在の大和郡山市高田町の農民であろう。

右側面に年号らしき刻印がある。判読できたのは「明□二十六年・・」。

26年もあるのは明治時代にしかないから「明治26年」の寄進とわかる。

江戸時代、明治時代に行われていた「高山(こうぜん)」参りの記録でもある。

今もなお参拝し続ける農家や水利組合の人たち。

おそらく古市町以外の地区も雨乞い祈願に登坂していたのだろう。

参拝を済ませた組合員は当地を下っていく。



樹齢はかなりのものだと思った大杉の際を廻って下った先は送迎の車。

宴の場に出かけていった。

ここで別れてそのまま帰路につくにはもったいない。



折角ここまで来たのだからと思って高円山ドライブウエイから大和平野を一望する。

天候状態の関係だろうか、遠くも近くも霞んでいる。

溜池多しと云われている大和平野。

ここからの眺望に見えるのはごくごく一部。



手前の山並みは二上山あたりから南に伸びる葛城山系。

その奥にかすかに見える山並みは和歌山・大阪を境界に東西に連なる紀泉山脈だ



右にレンズを大きくパンしてみれば住宅に団地がぎっしり。

ずっと、ずっと先に見えた建物は現在建造中の奈良県総合医療センター

開院は平成30年5月初めになる。

とらえた映像の中心点より右上に見られる建物である。

ここから見て、とてつもなく大きい建物である。

この建物からの距離は測り難いが、我が家はすぐ傍。

見えない位置にある。

向こう側に山々が見える。

手前の山並みは矢田丘陵地。

その向こう側が平群から生駒山に繋がる生駒山地である。

少しだけ右にパンしてみれば山頂にある電波塔などの鉄塔が見える。



左に戻したら信貴山向こうに見える大阪のビル群も視野に入る。

展望地の標高が高ければもっと見えただろうな。

(H29. 9. 1 SB932SH撮影)
(H29. 9. 1 EOS40D撮影)

ミストシャワーのあるならまち界隈のカフエ

2018年09月21日 09時47分36秒 | 奈良市へ
午後は暑い。

所要で訪れたならまち界隈。

どこからか冷たい風が吹いて顔にあたる。

近寄ってみればミストシャワーだった。

長時間おればずぶ濡れになる可能性があるからすぐに離れようとしたが、これは民俗と思って奥に・・。



そこにあった観光用途化した井戸の手動式ポンプ。

鉄棒レバーを上げ下げして使用するらしいが、「飲まないで」と書いてある。

かつてこの場にあった民家が使っていた井戸も観光素材になった一例であろう。

ミストも井戸も「水」。

「水」をテーマに三枚組の写真。

もう一品が欲しいところであるが、この日は見つからなかった。

(H29. 8. 3 SB932SH撮影)

古市町・北の地蔵さんの宵縁日

2018年09月09日 18時57分00秒 | 奈良市へ
奈良市の今市、山町を抜けて車を走らせる。

目的地はさらに東へ行った奈良市古市町である。

目的地は未だ探したことのない北の地蔵さん。

この地で地蔵盆をしているとわかったのは町内掲示板に案内する掲示物があったからだ。

物は試しと思って探索のつもりで北の地蔵さんを探してみたい。

そう、思ってやってきた。

古市町集落の南の端に念佛寺がある。

以前、同寺で地蔵盆をしているらしいと他村の人から聞いたことがある。

手がかりでもあれば、と思って立ち寄った前年の平成28年7月18日。

お寺の掲示板に貼ってあった2枚の行事案内に飛びついた。

一つは今年、求めて探した北の地蔵さんの地蔵盆。

もう一枚は念佛寺の「くつはき地蔵尊」の地蔵祭りである。



平成28年9月5日の取材で知った明日香村・飛鳥の弥勒さんの祭り場の小屋内部にある「くつぬぎ石」に対するわけではないが「くつはき地蔵尊」の二つが揃えば靴を履いて、脱ぐ状態が成立する。

両者とも草鞋を奉納しているのも、同じ足に関する願掛けであるが、この日の祭りではなかったようだ。

あれば、写経に紙絵馬。

くつはぎ地蔵の恩謝回向に祈祷や戦没者法要、法話、写経奉納・祈願などがある。

後日にわかったことだが、この年は7月20日に行われたようだ。

「くつはき地蔵尊」の地蔵祭は外したが、地蔵講の営みはどこでしているのだろうか。

念佛寺は南の端。

集落を抜ける旧街道を北上する。

一部は一方通行になっている旧街道へ行くには遠回りせざるを得ない。

北の端から入ってしばらく行けば、貼ってあった掲示物に目がいった。



前年に見た掲示物と同じであるが、色塗りが増えていた。

だが、地蔵盆の時間帯は書いていない。

結局は集落の尤も北部にあった北の地蔵さん。

地蔵堂は平成8年7月23日に落成したと記している。

寄進した講中は地蔵講。

昔も今も変わらず9軒の講中が寄進したと堂内に板書はあるが、どなたも現れない。

訪れた時間帯は午後5時20分。

付近には一般的な長机もあるしパイプ椅子もある。

しばらく待っていたが、どなたも来られない。

真新しい赤と白の涎掛けに替えたと思われる地蔵石仏の前にはお供えがどっさりある。



なかでも気になったのは白い団子。

個数は何個であろうか。

その横にある御膳は朱塗りの膳に朱塗りの椀だ。



中央の椀はぶどうにトマト。

白飯は見た目でわかるが、他は蓋が半開き。

手前右の椀は赤いニンジンがあるから野菜などの煮しめであろう。

その左横の椀はキュウリに麺が見える。

汁けがあるからニュウメンであろう。

左奥の椀にも麺が見える。

小さなカマボコにワカメを盛った汁椀であろう。

これまで各地の膳を拝見したことがあるが、はじめて見る様式だけに供えられた人に伺ってみたいが、おそらく返ってくる言葉はそのときの気分でそうしています、と云われそうだ。

何時来られるやもしれない講中を待っていても仕方がない。

この調子であれば、始まる時間は午後7時と判断して、近くのスーパーに出かけて我が家の買物を済ませていた。

戻ってきた時間帯は午後6時50分。

長机に座って歓談されていた十数人の人たちが居る。

雰囲気的には始まりの体制ではなく、終わってゆったりの落ち着いた状態である。

パック詰め料理を肴に缶ビール中であった。

自己紹介に取材の申し出をすれば、ついさきほどの午後6時半は法螺貝を吹いて心経を唱えていたという。

北の地蔵講の参拝は終えたばかりで、これより参拝に来られる村の人たちを待っているという。

その間に撮らせてもらった北の地蔵さんのお供えはさきほど拝見したときよりも増えていた。

参拝者が来られたのは午後7時。

講中の孫さんたちを連れ添ってやってきた。

子どもたちは揃って浴衣姿にパジャマ姿。

幼子がこれほど多いとは、想定していなかっただけに感動ものである。

他村と比較すれば少ない方になるが、以前に取材した千軒講の営みのセンゲンサン参りもほぼ同数ぐらい。

講中のお爺ちゃん方が孫を連れてくる。

古川町の講の特徴のような気がした。

手を合わせることはなかったが、小っちゃな幼子も地蔵さんにお参りする。



後ろの母親たちに見守られて始まったお地蔵さんの参拝。

鉦に吊るした名前入りの鈴緒が風に揺れる。



戯れる幼子の動きが可愛らしくシャッターを押させてもらった。

この日が特別なのかわからないが先導は幼子の参拝であった。

それがはじまりの合図かもしれない北の地蔵講の佇まいはこの時間帯が、実質の始まり時間。

次から次へと訪れる村の参拝者は順番待ちの参拝。

それぞれは地蔵堂に祀っている地蔵さんに手を合わせていた。

それほど多くなると認識していたのは、予め供えていた御供の数である。

お供えをしている人は必ずや子供たちを連れてくると想定していた。



参拝を終えた子どもたちに手渡すお菓子。

幼子にとっては一番の幸せではないだろうか。

ゲームに熱中する子は独りもいない。

風情に佇まい情景は想定以上である。



私の粗相で講中の参拝タイミングを逃したが、ここへ寄せてもらってよかったと思っている。

数分も経たないうちに夕闇が迫ってくる。

子どもの参拝が終われば一段落する。

賑やかさもどこかに行ってしまったかのような・・・静けさも佇まい。



少し間をあけて、一人、二人と参拝される人はたいがいが婦人だった。

その間の講中は会食に歓談で和気あいあい。

講中の仲の良さがよくわかる。

子どもたちの参拝を終えてからの30分後。

時間帯は午後7時半になっていた。



小規模な夕焼けであるが、マジックアワーに心が躍る。

スマホでも撮れますよ、と、声をかけた女性は喜んでくれた。

昔は当番の家で会食をしていたという。

自前の食事にお寿司とか弁当も持ってきていたが、手間のかかる当番家の負担をなくして場所を地蔵尊の前に移した。

心地いい場で歓談は、御供した人が御供下げに来るまで会食しているという。



御供は講中以外の村の人も持ち寄るそうだ。

御供下げの時間は午後9時くらい。

たばりに来る人の時間も考慮して、設営の後片付けは翌朝になると話していた。



ちなみに9月1日は春日山に登って「こうぜんさん」参りをするという。

「こうぜんさん」は「鳴雷神社」のことらしい。

山歩きにヤマビルが出没するから足まわりは万全の体制にしておく必要がある。

また、参る先は春日山の禁足地。

普段はだれも侵入できない地を普段着で参る。

午前10時に集合する人たちの中には地蔵講の人たちも居るが、古川町の水利組合員が総勢になるのでバスに乗って出かける参拝。

春日山に行く道は有料通行の「奈良奥山ドライブウエイ」の利用。

その日の参拝に取材をお願いしたら了解してくださったが、バスには乗ることはできない。

なぜなら参拝後の組合員は一席を設けるので、バスの後ろに付いていく条件である。

(H28. 7.18 SB932SH撮影)
(H29. 7.23 SB932SH撮影)
(H29. 7.23 EOS40D撮影)