マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

伊賀市・室町期小領主の平城居館を探訪

2021年04月10日 09時49分39秒 | もっと遠くへ(三重編)
伊賀市大内のうどん味でゆっくり寛いだ時間。

午後2時からと聞いていた宇陀市室生の夏神楽がはじまるまではたっぷりある。

その間に調べたい大内近辺の民俗。

コンビニもどこにあるのか調べてみたい。

トイレ休憩も兼ねて走らせる辺り一面が広がる田園地帯。

大内で出前販売していた人たちに教えてもらったコンビニは東側にもあるがちょっとややこしいらしい。

こっちなら北に向かって一直線。

道なりに走っていけばすぐ着くと教えてもらった農道。

市街地より景観も良いし、爽やかな空気感も良い農道。

真っ直ぐ、真っ直ぐ行ったらあった。

コンビニはイオン系のミニストップだった。

走ってきた車道から観る景観に不思議を感じる。

その情景は6月に利用した伊勢相差の食事ツアー。

帰路に見た観光バスの車窓の向こう

どことなく高く作った垣根である。

観光バスの走る速度に瞬間で見た光景に暮らしの民俗がありそうだと思ったICの標識に久居市青山とある自動車道。

運輸会社の看板から津市一志町庄村の辺りだろう。

一瞬の光景が目に焼き付いた。



それと同じかどうかわからないが、農道沿いの何カ所かにそれがある。

生け垣の高さはやや高め。

少し走っていったそこは樹林帯に囲まれている。

樹林帯は相当な高さの巨木のように思える。

その樹林の隙間に垣間見た民家。

なんとなく鎮守の森のようにも思える。

木津川に沿って走る農道。

このまま真っすぐ行けば、どにに出るのだろうか。

163号線と交差する信号を東に行小田の市街地。

そこから北に向かえば関西本線の伊賀上野駅に着くようだ。

さて、なんであろうか。



遠目ではわかりにくいから少し近づいてみるが樹木帯の周りは分化した稲が育ちつつある田んぼ。

どこもかしこも緑色に広がる田園地帯に民家に向かう一本の道がある。

呼び鈴を押して尋ねたそこは伊賀市大野木字神ノ木竹島氏居館跡。



当主が不在なので説明はできませんが、という若婦人にお願いして門屋を拝見させてもらった。

頑丈な造りで重厚な門構えの門屋に圧倒される。



伊賀市教育委員会が設置した史跡、伊賀市指定文化財の解説板書がある。

解説文に「伊が地域には、室町後期のころに造られた小領主の城や居館である中世城居館がよく残されている。竹島氏居館跡は、平地に造られた中世城居館の一つ。主郭は郭内で、東西約27m。南北に役36の広さ。四方を高さ2m~4mの土塁に囲まれ、主郭南側に土塁の中央部が開き、長屋門を設けている。堀は土塁を取り囲むように設け、西側に水田として地割する云々・・」とある。



解説文によって知った室町後期の平城(ひらじろ)の形態。

まだ天守閣の時代が到達していないころの平城居館跡であった。

同時代の奈良県内においても平城(ひらじろ)が多々あった。

平たん部に建てられた村々の領主が住む平山城。

建物はまさに居館である。

居館の廻りに土塁で囲って掘割、或いは環濠も仕掛ける造り構造は同じであるが、現存するところはない。

平城に対して山間地に建てたのが山城。

険しい土地に建てる山城も少なくない室町期であるが、古くは平安時代からあった居館構造。

鎌倉期から南北朝時代を経た室町期。

小領主より規模が大きいかった代表格が筒井氏の筒井城であるが、建物は居館であった。

竹島氏居館跡を拝見してから気になる樹林帯に囲まれたその地である。

Uターンして戻ったミニストップへの道程。

その途中にあった樹林帯に囲まれた地。

お声をかけながら歩いたその先の民家。

お尋ねします、と声をかけたら玄関に出てこられたまだお若い男性。

樹林帯に囲まれた構造を知りたくてこちらに立ち寄らせてもらったと伝える。

先に拝見した竹島氏居館跡に、もしやと思って立ち寄った、と伝えたら教えてくださった。

1250年前、古事記にも名前がみられるふくぎた家。

中国からやってきて住み着いたという歴史あるお家。

室町期の戦国時代に活躍したというふくぎた家。

役職はしょうげん。

天正伊賀の争いに活躍したものの追いやられて四国の長曾我部家に匿われた。

その後の徳川時代に復帰してこの地に戻ったという。

漢字で言えば福喜多家だという。

関東にも福喜多家があるそうだが、発音は濁らずふくきた家。

ここ伊賀市の福喜多家が本家本元である、という。

立派な門屋があったあそうだが、先代が壊したという。

また、教育委員会から文化財指定の話もあったが、何のメリットもない指定は断ったという。

江戸時代から続く建物。

珍しさに伊賀市朝屋(ちょうや)庄・伊賀十二人衆福喜多将監(ふくぎたしょうげん)の存在を知ってか、いろんな人が写真を撮りにくるが、みな断っている。

今もこの建物で生活しているから、撮るもんではないだろうと・・・。

撮らせてくださいと何人もきたが、みな断った。

その際に「チッ」と舌打ちした人物には一喝したこともある。

それにも関わらず周囲から撮り続けた輩もいたので警察に届けたこともあるという。

そのことはともかく、ここ伊賀市内の田園地に室町期の歴史的構造物があると知って、これもまた民俗の学び。

建物構造もあるが、ここ福喜多家も当家の親戚にあたる竹島氏居館跡も掘割に防御のために仕掛けたと想定する樹林帯。

話してくださった男性は、ここだけでなく三重県には他地域にもあるという。

その地域は伊勢市。

ツアーに乗ったバス走行中に目にした生け垣に囲まれる民家もその一つであった。

もやっとしていた生け垣民家の構造。

話してくださったことで謎が解けた。

この場を借りて感謝申し上げる。

(R1. 7.15 SB805SH撮影)

ツアー旅に見る相差の民俗

2021年03月11日 09時24分59秒 | もっと遠くへ(三重編)
クラブツーリズム主催のツアー。

一人1万円の「※豪快!伊勢海老・鮑・栄螺・雲丹 美し国三重の旅館で食する海幸づくしツアー」に美味し食事を味わった。

食後に味わう参拝。女性の神さん、特に海女さんが古来より信仰してきた女性の守り神は石神神社。

そこで見た数々の民俗シーンを撮っていた。

三重県鳥羽市の南の端。

伊勢神宮・内宮から40分。

車で走った地にある相差(おうさつ)は、まさに「海」。

綺麗な渚が広がる海浜地。



そういう地から”大砂津(おうさつ)” あるいは、”大砂洲(おおさす)”と、呼ばれていたのが転化し、相差(おうさつ)になった、と考えられる説がある。

風光明媚な海。

古より御食国(みけつくに)として朝廷に献上していた美食の源泉は、海にあり。

海の恵みを獲ってくる海女と漁師の町に、海の民俗の香りがしてきた。

石神神社に参るには、相差の集落を通るしかない。

初夏とも思える、この日の気温は高い。

歩きで向かう道にツアコンも慣れない。

地図を見間違った先頭にぞろぞろ歩くツアー客。

たまたまビジネスに歩いていた男性が、その道を、と教えてくれた。

おかげでUターンは短距離で済んだ。

ようやく入った相差の集落地。

団体だけに大勢が移動する。

集落内では騒がないように、と指示がでる。

相差の戸数は何軒になるのだろうか。

すべてではないが、いずれのお家もみな玄関にしめ縄をかけている。



じっくり見たお家のしめ縄。

右にヒイラギの木。

左は何であろうか。

中央に寄せた札は「千客万来」だった。

網目の袋にあるモノも気になるが、尋ねる時間はツアー客にない。



続けて拝見した隣家のしめ縄もまた「千客万来」だ。

つくりは同じような類だが、ヒイラギはなさそうだ。

少し歩いた次の家は、伊勢のしめ縄と云えばこれだ、といいたいくらいの「蘇民将来」。



右に「七難即滅」。左が「七福即生」。

大きく書いた「門」に「蘇民将来子孫家」。

毎年の12月16日に、頒布始祭を行い、県内外に頒布している伊勢から志摩方面に多く見られる正月のしめ縄。

門口に飾って一年間。悪疫退散、厄除け開運、家内安全などを守護する護符札である。

ここもヒイラギは見られないが、どの家もあった棘のない葉はなんだろう。

ちなみに、伊勢神宮においても、正月に頒布する伊勢しめ縄にヒイラギを飾っているそうだ。

もう少し歩いたその家に驚く。

まるで欄間職人が仕事の合間に作ったんでは、と思った手彫りの板間。

屋外に見えるように何枚も張っていた板。

よくみれば透かし彫り。

美しい透かし彫りの1枚に、思わず声がもれた。



この文様、鳳凰、それとも手塚先生が描いた火の鳥・・。

趣味に高じた人が彫った板間では、とも思えるが・・。

美しい姿の鳥がまるで空を飛んでいるかのようは飛翔の羽根。

ため息がでるほどに美しい。

寺院にすごく立派な、立体的に表現した透かし彫り彫刻の欄間はあるが、ここは民家。

格式は違うが、見事さに惚れて「火の鳥 降臨」と題した。

そのお家から、また少し離れたところに建っていたお家の壁模様に、シャッターが反応した。

塗ったペンキ剥がれのような気がする。



そういえば、私が子どものころに暮らしたときの住宅に同じような剥がれ文様があったな。

またまた感動するほどの驚き。

古いギター。



それもアコースティックギターにしかけたしめ縄。

伊勢にお馴染みの笑門札もあるくらいだから、飾りではないのだろう。

あとでわかったことだが、ここはライブハウス。

頷ける飾りしめ縄だった。

しめ縄の形態は、家それぞれ。

一律、一様でもないしめ縄のカタチに、1軒、1軒に足を止めて魅入る。

しめ縄は暖簾に隠れ、全身が見えない「現役海女リサちゃんの店 久兵衛」は海の食堂。



若い女性が経営する食堂。

あるブログによれば、相差生まれ。

海女さんになるつもりはなく、一旦は相差を離れた店主。

都会から戻って、立ち上げた食堂経営。

海の恵みを直に仕入れる海女漁をしているそうだ。



その久兵衛に、カートに乗った高齢の女性がやってきた。

その姿、恰好から現役を引退した海女さんかもしれない。

ここら辺りを歩けば、相差漁師の暮らしが伺える姿がある。



干し物は、衣服やウエットスーツの他に野菜類も干す家がある。

「干す」をテーマにいろんな形態を撮らせてもらった。



軒先に干した、にんにく、赤玉ねぎに、一般的な玉ねぎも。

相差に限らず、農村集落にはよく見る光景に見惚れてシャッターを押す。

石神神社は、まだ先だ。

緩い登坂を坦々と登る。

足は重たく、動きはとろい。

息切れはないが、身体全体に勢いがでない。

時間にしてわずか数分の距離。

ようやく到着した石神神社。

ツアー客女性のほとんどが、ご利益をいただきに参拝する石神神社

本社の神明神社の境内社の一つである石神神社。



親しみを込めて、通称石神さんと呼ばれている。

女性の願いを一つ、叶えてくれるありがたい石神さん

鳥居を潜ったすぐそこにある手水舎の水に清めてから参る。

願掛けに並ぶ女性の人たち。



稀に、男性も参拝しているようだ。

この日は、6月20日。



早くも茅の輪くぐりを調えているが、暑い盛りの毎日に、萱も枯れ状態。



参拝を済ませて下った道にあったカフェ&土産物ショップの古民家・海女の家 五差屋



ドーマン・セーマングッズや海をテーマにした商品、「牡蠣醤油」「牡蠣ドレッシング」などが売りもの。

屋外テラスに飾ってあった相差の民俗。



1月5日は、相差獅子舞(※神明神社の獅子舞神事)。

7月14日が鯨まつり(※青峰山正福寺に由来する天王くじら祭り)など、相差の年中行事を紹介する木枠プレートは、版木で刷った陶板焼きのように見える。



なお、プレートは見なかったが、5月7日は、石神さんの春祭りもあるようだ。

相差にあった数々の民俗。

土地の人に伺いたいが、ツアー中はどうにもこうにも・・。

いつかは、また再訪してみたい相差。

最後に見た民俗は暮らし。



家の周りにあったたくさんのサザエの蓋。

単に並べ、置いているだけなのか、謎含みのあり方に後ろ髪が引かれるようだ。

(R1. 6.20 EOS7D撮影)

クラブツーリズム主催の美し国相差の浜の雅亭一井で食す海幸づくしツアー・後編

2021年03月09日 10時22分50秒 | もっと遠くへ(三重編)
これより、午前の部から午後の部に移る。

食事を終えて向かう先は石神神社。

女性の神さん、特に海女さんが古来より信仰してきた女性の守り神。

親しみを込めて石神さんと呼んでいる神さん。

数年前になるが、三重テレビで放映していた番組「ええじゃないか」で紹介していた映像が記憶にあるが、現在の社殿は平成29年12月3日に新しく建て替えられた。

以前の様相を記録していたブログがあった。

毎年の5月7日は石神さんの春祭り

信仰する海女さんたちが参拝する「磯日待ち」の安息日

海女さんの苦労を労い、男性たちが料理を作ってもてなす。

昨今は参拝ご利益のあることから開運女子の旅とかで人気になっている石神さん。

このブログに掲載されている社殿は建て替え前の様相である。

観光三重も紹介するブログはテレビ的映像

モデルの表情ばかりが強調される構成に本質的なことを見失ってしまいそうになる。

正午32分に浜の雅亭一井を出発した参拝組。

およそ25人くらいでしょうか。

2人の男性を除いて他はみな女性。

前述したように女性の守り神に参るのは女性なのだ。

とは云っても男性は参ってはなるぬというおふれもないから自由行動の参拝。

添乗員の旗振るツアーコンダクターの引導で石神さんに向かう。

もらった地図によればままある距離。

海岸沿いの集落民家を避けて大きく迂回する。

一旦は西側にある車道に出て三角路を南下、すぐに東に向けて集落民家の方へ。

ところが先を行っていたツアーコンダクターが間違いに気がついた。

戻った道でたまたま遭遇したビジネスマン風のスーツ姿の男性に道を尋ねる。

どうやら道を間違ったと判明。

申しわけないと伝えて歩く、歩く。

お腹がパンパンで歩きが苦しいながらも集落にある民俗に目がとまってしまう。

相差もそうだが宿舎、民家どこもかしこも玄関に飾っている蘇民将来の注連縄飾り

若干の差異があるものだからついついあれもこれもと撮らせてもらう。

そのうちの一軒に、えっ、これはと思った木彫りの透かし彫り。

遠くからではわからなかったが、手塚治虫先生の火の鳥のデザイン

4枚の透かし彫りすべても向きは同じように思う。

ゆっくり観察でもしておれば置いてきぼりになる。

駆け足すらできない身体に無理はできない。

長岡局郵便局辺りからの参道は坂道。

足があがらないのが辛い。

長岡局の前にある施設。

時間があれば拝見してみたい海女文化資料館がある。

施設の前にある椅子に座ってタクシーを待つ観光客がずらり。

参道沿いにある数軒のお店。



おばあちゃんは不在だったが、風情が良いから撮っていた。

その次にあった無人販売店。



あおさ、あらめ、ひじき、めかぶ・・見ている時間もない。

出発してからおよそ20分。



ようやく着いた神明神社の鳥居。

一礼して一歩進める。

正中は砂利道。

ここは左側の道を歩くよう石畳を敷設している。

この先、右手にあるのが石神さん。

前述したように鳥居も社殿も奇麗にしている石神さんである。

まずは手水舎で清める。

手水作法をしっかり身につけている女性は多い。

いろんなところの神さんに願い事をしているのだろう。

次に願掛け。



願い事を記入したら鈴を鳴らして願い事を書いた用紙を収めて2礼2拍手、一礼。

心を込めて願掛けをする。

石神さんの願掛けを済ませたら神明神社に参拝。



この月の末日30日は夏越しの祓え。

既に設営していた茅の輪を潜って身を祓う。

茅の輪潜りは8の字潜り。

左、右、左の順に潜って社殿前に用意している人形(ひとがた)で左右の肩を祓って、そっと息を吹きかけて半年間に積もり積もった身の穢れを移す。

本殿前にあったお白石持ち(おしらもち)の幣。



平成26年11月29日に行われたお白石持ちに奉献され、本殿の床下に敷き詰めた、と書いてあった。

神明神社の末社は石神さんだけでなく稲荷社に山の神も祀っていた。

石神さんは海女さんが信仰する女の神さん。

山の神さんに参拝できるのは男たちだけ。

なぜなら山の神さんは女性。

女性が参るとなれば怒ってとんでもないことが起こると云われている。

尤も、そのことは奈良県内にある山の神さんの祭りごとの話。

伊勢志摩地方にそれが通じるのかどうかは聞き及ばないが、あるブログに南伊勢町・斉田の山の神のあり方を紹介していた。

また、津市三里町・高座原にもある山の神のあり方を紹介するブログもあった。

また美里には山の神の他、無形民俗文化財行事を紹介するブログも見つかった。

参拝を済ませたら一目散に駆け下りてバスが待つ浜の雅亭一井に急ぐ。

途中で拝見した民家。

お白石持ちかと思えば違った。



白石に見えたのは栄螺の蓋だった。

何かの信仰ではなくそこに貼ったという感じである。

出発時間ぎりぎりに到着した集合地。

神社参拝にトイレもなく、旅館で用を足してもらって、いざ出発。

出発後、すぐに夢の中。

目が覚めたときに遭遇した山の上にあるキンキラに輝くお城。



どこかで見たような城郭。

車窓からでは遠すぎる山の上。



そこは伊勢・安土桃山文化村、と看板にあるが、ネット調べによれば「伊勢・安土桃山文化城」閉鎖改め「伊勢忍者キングダム」になったようだ。

そこからすぐ、10分後に到着した真珠の店は「パールファルコ」。



女性陣は目の色を輝かせるように見ていたショーケース。

かーさんは1品買い。

真珠の珠でなく、真珠の粉末を混ぜたお茶だった。

店内利用は給水にトイレ。

ありがたく受け入れた。

そして伊勢参拝。



内宮の参拝に就くことにないツアーコンダクターの説明を受けて参拝コースを選ぶ大多数のツアー客。

正中は神さんがお通りになるところですから、外してくださいと、伝えられていたのかどうか、数人は堂々と正中歩きをしていた。

ここお伊勢さんの参拝はどなたも首を垂れて拝礼している。



五十鈴川に架かる宇治橋を渡る前。

鳥居手前でまず拝礼。

その後もいくつかの鳥居があるから、その都度において拝礼。

儀礼を尽くす拝礼は、帰りの際にも。

尤も帰りの際は正宮社殿の建つ方角に向かってで、あるが・・。



正宮までに建つ鳥居柱のすべてに榊を括りつけている。

伊勢神宮は鳥居だけでなく板垣の柱にも幣を結んだ榊がある。

参拝に往復した参道。



およそ40分も費やした参拝。

残りの自由時間にぶらぶら散策する古くからあるおはらい町地図に載っている土産物屋。

小学生のときの修学旅行は伊勢参拝。

記憶にあるのは二見が浦に、ここおはらい町入ったすぐそこに建つ岩戸屋に赤福。

岩戸屋2階の会場で昼ごはん。

何を食べていたのかさっぱり記憶にないが、生姜糖と赤福の味だけはしっかり、舌が覚えている。



写真は物産店にどんと構えて座っている巨大な姿のお多福。

古事記に登場する天鈿女命(あめのうずめのみこと)。

年季の入った立体看板が客を呼び込む。

お土産物探しにいろいろと入店するお店。


金魚グッズに蛙マスコットがいっぱいあるお店は布遊舎。



面白いがゆっくり見ている時間はない。

お店はどこかわからないがここもまた商店ごとに飾っている蘇民将来の注連縄



伊勢特有の形に何がある。

2枚を垂らしたウラジロにシデの幣はわかるが、右にヒイラギ。

ネットに包んでいるのは赤い実のオレンジだ、という人もいるようだが、一般的にいえばダイダイなどの柑橘類。

それにしても枯れた状態ではわからない左側にある木の枝である。

ヒイラギの葉は尖がっているが、これは丸葉に近い。

さてなんだろう。

「七福即生 七難即滅 蘇民将来子孫家之(成り)」の門符。

先に相差に見ていた数々の門符もあるが、詳しいことは大屋行正氏が執筆された論文『伊勢志摩地方の蘇民符と注連縄』を参照願いたい。

おかげ横丁に向かってぶらぶらしていたあるお店。



店前に並べた木製のオールドカーやヘリコプター。

1180円に1280円の値札があった。

時間帯は午後3時35分。

本日はお休みのお店もある通り。



賑やかさが少し引けた時間帯の方が落ち着ける。

喉がごっつう乾いてきた。



自動販売機のペットボトル飲料でもいいのだが、座ってゆっくりできる処はないだろうか・・。



トイレを済ませて寛いだ空間に今でも現役だと思える手押しの井戸ポンプ。

風情を感じる通路にチリン、チリンの音を聞かせる風鈴が風に揺れる。



冷たいかき氷を注文したフルーツラボ。



カチコチのかき氷を想定していたが、今流行の頭がキーンとしないふわっふわのかき氷。

1杯が500円のふるーつ氷の美味しさに癒される。

かき氷の上にのっかっていた色とりどりのフルーツ。

食べきってから掘り起こしたかき氷。

底内部にどっさりあるある。

これもまた美味しくいただいたふるーつ氷に汗も引けた。



赤福本店を後に出発時間を考えながら戻っていくおはらい町の午後4時。



お店がどこだったのか存知しないが、そこに多数の風鈴を見る。

格子枠に吊っていた風鈴。



えー音で鳴る風鈴に心地良い涼を求める。

帰りに買っておこうと思って立ち寄った屋台売りのお店。

多品種の伊勢うどんや海苔佃煮を売るお店。



男性の売り子さんに尋ねた多品種の伊勢うどん。

商品に値段差はあるが、基本的にあまり変わりのない味。

どれもこれも美味しいが高いのはパッケージ原価によるもの。

シンプルな袋麺で十分ですよ、と奨める売り子さん。

伊勢うどんの味は、食感なども含めて味に大差はないという。

常温保存に日持ちもする伊勢うどん。

お手頃価格で十分と云われて選んだ岩佐商店製の伊勢うどんは2玉で400円。

店頭販売のなかで一番の低価格に味のお土産を追加。



大内の上野ドライブインで買い逃した山葵入りあおさ海苔佃煮。

量が丁度良い小瓶売りの400円。

試食させてもらった美味しい味に酒が欲しくなるが、帰ってからのお楽しみ。

封を開けた翌月の7月6日。



旨さに酔いしれて酒がすすむ。

さて、お土産処はそろそろ閉店への動き。



そこへ通りがかった人力車。

昨今はどこの観光地でも見かけるようになった人力車。

当地では光勢屋が運営している。

さて、お土産屋さんはどこへ。



ここならたくさんありそうだと思って入店した広間。

母体の岩戸屋が経営するフロアーは1階の物産店。



昨年の平成30年に全面改装したとある。

テナント店舗数は9店舗。

かーさんがトイレ利用している間につまみ食い、ではなく店員さんがどうぞといわれて食べた試食品。

これがまたなんと。むちゃ美味い品物。

口の中いっぱいに美味しさが拡がる絶品味。

爪楊枝にさした一口分の絶品味は子宝帆立。

おかずに一品寄せであるが、酒の肴にぴったし味。

これもどうぞと云われて口にしたもう一品は磯のつぶちゃん。

兵庫県の魚の棚で売っていたニシ貝と同じ食材。

カリコリ感は同じだが、小粒切り。

食感異なりもあるが、味付けは魚の棚の勝ち。

朝吹きはまぐりも試食させてもらったが、福屋伊勢内宮前店での買いは子宝帆立。

ダントツの旨味に心がほろほろ折れるくらいに美味い。

今夜のおかずに、と思って1箱(2袋入り)が税抜き千円の子宝帆立を手に入れた。

支払いはおはらい町初利用のクレジットカードで・・。

かーさんは、他にもお土産をと探して買った5枚入り550円の伊勢茶ラングドシャ。

クレジットカード支払いをしようとしたら、本日の会計は締めましたから、現金払いでという。

そんなあほな。まだ4時半にも至っていない時間帯にレジ締めするお店(三重寿庵)はなにをどう考えているんや、とぼやきたくなる。

内宮駐車場に待っていたバスの出発時間は午後4時35分。

帰路に走る伊勢自動車道。

何気に見ていた車窓風景。

あれは、と思わず口走った久居IC手前の1kmの地。

ICの標識に久居市青山とある自動車道。

その北側になる田園地帯にあった高さのある生け垣に囲まれた民家。

どことなく輪中農家のように感じた農家の家に民俗を感じた。



帰宅してからネットで探したベスト運輸の看板から津市一志町庄村の辺り。

機会があれば現地探しをしてみたいものだが・・・。



トイレ休憩も兼ねて停車した関ドライブイン

ここで注文していた関ドライブインオリジナル松阪牛肉弁当を受け取る。



ここもまた往路に停めた上野ドライブンイン同様に安くて旨そうな軽食コーナーがある。



中国からの来店客が多いのか、メニュー表記は中国語。

なんの料理なのかさっぱりわからないから写真で判断するしかない。

一通りぐるっと回遊した店内。



テナントショップにさきほど買った福屋の子宝帆立があった。

隣のテナントも同じような佃煮屋。



ここも試食コーナーがあったので一口。

福屋とはまたっ違う味。

不味くはないが、福屋の方が身が大きいと思った。



午後5時25分に着いて出発した時間は5時45分。

わずかの時間に見て廻るのも面白い。

帰りに書いたアンケート。

当然といえば当然。

料理が抜群に美味かったお昼の食事。

仲居さんの動きに憤懣たらたら。

まったく同じことを書いていたかーさん。



回収されるツアーコンダクターが見られたら、どう思うだろうか。

ようやく着いたJR奈良が午後6時5分。



西大寺駅は駅北側の開かずの遮断機の影響を受けて降車は午後25分。

ロスタイムは2年後に解決されそうだ。

さて、本日の歩数である。

一つは石神さん参拝の歩数が3800歩。

往復した換算距離数は2.8km。

二つ目が伊勢参拝におかげ参りの7250歩。

換算距離数が3km。

合計した歩数は11050歩。

距離は5.8km。

まま歩いたものだ。

帰路の名阪国道で見た山添村の落ちる夕景を旅のお土産にもらった。

(R1. 6.20 SB805SH撮影)
(R1. 7. 6 SB805SH撮影)

クラブツーリズム主催の美し国相差の浜の雅亭一井で食す海幸づくしツアー・前編

2021年03月08日 08時11分55秒 | もっと遠くへ(三重編)
チラシにある一日ツアーに行きたいと申し出たかーさん。

異論もないので大いに賛成したクラブツーリズム主催のツアーは「瀬戸内産海の幸グルメを1日で食す岡山倉敷ごちそうツアー」。

電話で問い合わせしたら受け付けてくれた。

一人当たりの旅行代金は7990円。

クレジットカード支払いで済ました。

海の幸グルメのお品書きは、瀬戸内産ばかりの料理。

旬を迎える鱧3品は、梅肉和え湯引きに吸い物、天ぷらだ。

また、捕れたて刺身に西京焼き、タタキ、木の芽和え、蒲鉾もある。

蛸グルメは天ぷらに蛸飯、柔らか煮、酢味噌和え。さらに穴子の4品も。

タレ焼き、玉子とじ、佃煮に天ぷらもあれば、ボイル海老に刻み穴子入り素麺に、岡山倉敷名物の祭り寿司に野菜の天ぷら。

盛りだくさんの料理に滞在する児島の1時間。

散策コースは鷲羽山展望台。

瀬戸内の島々と瀬戸大橋を眺めて倉敷美観地区を愉しむツアーだったが、最少携行人員に達しなかったと契約は取りやめ、旅行代金は払い戻しの連絡にがっくりしても仕方ないので、他のツアーを探してみる。

代わりに選んだツアーは、一人1万円の「※豪快!伊勢海老・鮑・栄螺・雲丹 美し国三重の旅館で食する海幸づくしツアー」。

2000年前に伊勢神宮を五十鈴川畔の現在地に定めた、と云われている美し国。

美し国といえば、三重県・伊勢志摩周辺を思い起こす海や山の自然に恵まれ、心が満たされる地域。

内宮参拝に相差の石神神社参拝もある美し料理をいただくツアー。

チラシに掲載されている料理に圧倒されて決めたツアー。



地元の駅から集合地の近鉄西大寺駅まで乗り継いでやってきた。

いち早く運航バスが来ている、と思ったが別のツアー行きだった。

案内人がもうしばらくしたら到着しますと伝えられて待った。



ほぼ予定時間に出発したツアーバス。

生駒駅では1組。

西大寺駅は5組。

次の集合地になるJR奈良駅では9組。



ほぼ満席状態のバスツアーが出発した時間は午前8時20分。

天理インターから入って名阪国道を走るトイレ付き大型バス。



最初のトイレ休憩は午後7時まで営業する大内にある名阪上野の忍者ドライブイン



うどん、ラーメンなどの軽食は午前10時に開店

着いた時間はまだ9時過ぎだったから、利用時間までまだまだである。



トイレ休憩は20分間。



その間に美味しいものを試食する。

販売店員お奨めの美味し一品が山葵入りあおさ海苔佃煮。

一口ちょっといただいて酒の肴に欲しいと思ったが、帰りの際にと伝えた珍味のアクアエイト。



もう一品のお奨めはてんこ盛りのししゃもきくらげ。

これもまた美味い

ツアーバスは一路、相差(おうさつ)を目指す。

名阪国道から伊勢自動車道への分岐点は亀山ICでなく伊勢関IC

そこから東南の方角になる相差の料理旅館までの行程は・・。

芸濃IC、安濃SA、津IC、久居IC、一誌嬉野IC、嬉野PA、松阪IC、勢和多気JCT、多気PA、玉城IC・・宮川・・伊勢西IC・・伊勢鳥羽二見ライン・・伊勢IC、朝霧IC、松下JCT・・第二伊勢道路・・鳥羽南白木IC入口・・国道167号線・・松尾信号南折れ・・国道47線合流・・鳥羽磯部線・・相差浜の雅亭一井ルート

大内から相差までの総距離は129km。

片道所用平均時間が1時間40分。

いや、ほんまに遠いから、どうしても気になる利尿効果。

なんとかならん場合はバストイレが利用できるから安心だ。

相差に到着した時間帯は午前11時15分。

目の前に広がる千鳥ヶ浜は海水浴場。



大内を出発した時間は午前9時25分。

途中休憩もなく一直線。



予定時間丁度の1時間40分だった。

お食事処は相差浜の雅亭一井の2階にある大宴会場翔の間。

食後は出発時間の午後1時半までは自由行動。

ガイドラインは当地から歩きで参拝する石神神社参拝か、浜の雅亭一井の温泉にゆっくり寛ぐか。

まず選んだ行先はトイレであるが・・。

用を済ませて上がってきた会場。

扉の向こうから廊下に漂う美味しい匂い。

翔の間に入ったとたんにお腹が反応する美味しい匂いは海鮮料理の目玉になる鮑のおどり焼き。

席に着くまでに火入れをしていたようだ。



かーさんはすでに座っていて箸がもう動いている。

宴会場にちゃちゃか動く仲居さんが運んでいるアレは・・。

生ビールジョッキ。

早々と注文するツアー客に私も一杯頼んだ生ビールジョッキの中。

普段なら850円のところ入館時に手渡された特別割引チケットの提示で、本日木曜日限り有効の700円で飲める。

トイレに行きたくなっても、生ビールが動く誘惑に勝てん。

小さなテーブルにあれもこれもと所狭しに並べた海の幸づくし海鮮料理。



お品書きに、1.蒸し雲丹 2.サザエの壺焼き 3.ローストビーフ(梅ドレッシング和え野菜サラダ) 4.鮑のおどり焼き 5.伊勢海老のコキール焼き 6.伊勢海老の陶板焼き 7.真鯛・烏賊・鰤・鮪の造り盛り合わせ 8.鮑のお造り 9.海老と野菜の天ぷら 10.車海老の塩焼き 11.海鮮鍋→小鍋の海鮮寄せ鍋 12.山菜の釜飯 13.前菜三種盛り(稚鮎干瓢巻き+彩玉子+和餡饅頭) 14.小鉢(旬の和え物鮑昆布卵和え) 15.酢の物(季節の物もずく) 16.海老と南瓜の煮物 17.山葵入り蕎麦 18.茶碗蒸し 19.お吸い物(和布の赤出汁) 20.水菓子・・・の他に三種の香の物や季節の果物も。


                   ・


どれから手を付けるかといえば、美味しそうな匂いに誘われる鮑のおどり焼きしかない。

食べようとしたら男性カメラマンが1ショット。

後でわかったカメラマンは浜の雅亭一井の職員。

食後に売り出すお持ち帰り写真は1枚が千円だった。

スマホが流行る時代に、昔ながらの商売は今も現役活動中だった。

これら料理の数々を撮ったカメラはガラホのSB805SH。

テーブルいっぱいに写すのもラクではない。

左上から順に鮑のおどり焼き、小鍋の海鮮寄せ鍋、伊勢海老の陶板焼き、山菜の釜飯、鮑のお造り、真鯛・烏賊・鰤・鮪の造り盛り合わせ、梅ドレッシング和え野菜サラダ添えローストビーフ、伊勢海老のコキール焼き。



一段下がって、海老と南瓜の煮物、旬の和え物鮑昆布卵和えの小鉢、稚鮎干瓢巻き、彩玉子、和餡饅頭の三種盛り前菜、季節の酢の物のもずく、同じ皿に盛った蒸し雲丹とサザエの壺焼き(※お品書きを置いたものだから見えないが・・)。



一番下の段に、車海老の塩焼き、水菓子、三種の香の物が・・。

なんせ狭い食卓。

会場は椅子に座って食べられるのはラクでいいが、この狭さはなんとかならんだろうか。

追加で注文した生ビールジョッキを置くスペース確保をなんとかしなければ・・・。

宴会場の窓から浜の景色を眺めながらいただくなんととてもじゃないがまったく余裕のない食事のあり方にまいった。

小鍋の海鮮寄せ鍋は煮えてきたが熱々料理にはーふー。



団子になった海鮮小鍋は冷ましてから食べることにしよう。

尤も、急がされたのは山菜の釜飯。



湯気が吹きあがって炊き立ての釜飯は茶碗によそう。



その間にできがった伊勢海老の陶板焼きも冷ましてからにしよう。



あれこれ撮ってようやく口にした鮑のおどり焼き。

ナイフで切って口にする。



あー、なんと、美味しい鮑。

柔らかく焼きあがった鮑が実に美味いが、隣の席で食べているツアー客にカチャカチャ。

お客さんがだす音でなく仲居さんの動きによって発生する音。

そのうちこちらの席にも寄ってきて次の料理を配膳しようとする仲居さんに思わず口に出たのは「もっとゆっくり落ち着いて食べさせてよ」。

美味しい料理は味わって食べたい。

そんなせかすような配膳はお断り。

済ませた皿や椀は床置きしておくから・・と伝えて食に集中する。

鮑の次は雲丹。

生雲丹、いや焼き雲丹でなく蒸し焼きとある雲丹。

箸を入れても身は取りにくい。



棘を手にして持ってみて口元まで。

箸をつついて身を摘まもうとするがつるつるの箸では身を取るのが実に難しい。

スプーンでもと思ったが先が尖がっていないし、雲丹口より大きいスプーンだから入りもしない。

なんとか食べたが雲丹の味がしない。

潮の味がない雲丹は美味くない。

1個食べて2個目はお預け。



横にあるサザエの壺焼きに味替え。

小ぶりのササエであるがしっかりした味。

肝も美味い。

ぺろっと食べた次はどれにしようか。

まずは釜飯。

意外と美味いが2杯目がキツイ。

ローストビーフは厚め。



噛んだら肉汁がジュワ。

これって美味いね。

サダダは梅ドレッシング。

さっぱりした味わいに食がすすむ。

そのうちに空きスペースが出だした。

まずは山葵入り蕎麦。



意外と美味かった山葵入り。

出汁も良かったからすぐになくなった小鉢蕎麦。

次は味噌汁でなく赤出汁。



新鮮ワカメがつるつると喉を通る。

これも美味い。

撮っても結局はピントが合わなかった山葵入り蕎麦。

味はそこそこ美味かった。

忘れていた前菜の稚鮎干瓢巻き、彩玉子、和餡饅頭。



彩玉子の味は良い。

稚鮎干瓢巻きも美味いが、和菓子は口に合わない。

口直しに和食必須の煮物。

あんかけ料理の煮物はカボチャに小海老。

とろっと溶けそうなカボチャに小海老が美味し。

美味しかった鮑にサザエですっかり忘れていたお造り盛り。

真鯛・烏賊・鰤・鮪のどれをとっても新鮮で美味い。

厚みのある海鮮もんは海辺の食事処で食べるのがイチバン。

なのに鮑は何故に不味いのか。



鮑の味がまったくしないうえにコリコリ感もない。

海の味にがっくりして食べたもずく酢の美味いこと。

酢は強調、でなく協調する出汁の味。

お酒が欲しいところだが・・。

次に選んだメニューは海老、海老、海老・・。

手が汚れるからどうしても後回しになる。



伊勢海老のコキール焼きは美味い。



陶板焼きの伊勢海老も美味いし、車海老の塩焼きも。



もう1杯追加に生ビールを頼みたいが・・・。

ここらあたりでお腹がパンパンに膨れ上がっていた。

どうしても残ってしまった場合に備えてタッパーウェアを持ってきたが、腹の中に入ってしまったあと。

うまいものは先に食べろ、であるがお腹のパンパンさは尋常じゃないが、2杯の釜飯は三種の香の物でかき込むようにして食べた。

ところで揚げ物はどこにある。

いつのまにか置いてあった天ぷらはラスト。

えび天に野菜天。

塩も添えてあったようが、もひとつ。

揚げる天ぷら油の味がどうにもこうにも。

えび天なぞプリプリ食感もなく・・。

概ね良好な味具合。

海鮮ものも差異がある。

お品書きに料理長の名が記載されていたが、ここでは伏せておこう。

食べ終わった時間は正午の25分。



ほぼ1時間も食卓についていたことになる。

ここで午前の部を終えて午後の部に・・・

(R1. 5.20 SB805SH撮影)
(R1. 6.20 SB805SH撮影)

伊賀市・下阿波の民俗

2018年06月10日 09時18分36秒 | もっと遠くへ(三重編)
体験する食事会にもてなしのフキダワラに同席させてもらった三重県伊賀市下阿波在住のM家。

ありがたいことに田植えを終えた田圃の一角にフキダワラを供えてくれた。

形式だけでも記録させてくださいと願った取材に応えてくださったのが嬉しい。

そのM家の屋内にある神棚に珍しい形の注連縄を飾っていた。

大黒さんを祭っているという神棚に、である。

その注連縄は「ウマ」と呼んでいる。

「ウマ」はご近所に住まいする老人が藁で作っていたという。

その「ウマ」は買ったもの。

年神さんを祭る注連縄に「ウマ」があった。

奈良県内ではたぶんに、この形を見ることはないだろう。

この注連縄が「ウマ(馬)」であると紹介されていた本がある。写真家Kさんが、この年の平成29年の暮れに「この本、凄くない」と手渡されて読み始めた本である。

尤も写真が多いから、見るに読むであるが・・。

凄い本は、平成29年11月に工作舎より発刊された『しめかざり—新年の願いを結ぶかたち―』。

著者は香川県生まれの森須磨子氏。

グラフィックデザインの仕事を続けながら、年末年始は全国各地へ出向いて、調査探訪するさまざまなしめ飾りの形態。

20年間も探訪し続けて収録したしめ飾りの写真のすべては著者の撮影。

取材もすごいことだが、収集力もすごい。

とらえたしめ飾り映像が眼前に迫ってくる。

集めたしめ飾り標本は、なんと400点も。

そのすべてを載せているわけではないが、それでもむちゃ多い。

蒐集されたしめ飾りは「かたち」別に分類され、それぞれに解説を入れている。

現地で聞取りした生の声というのも嬉しい書物。

「かたち」は宝珠、打出の小槌、松竹梅、鶴、亀、宝船、俵、ちょろけん、海老、蛇、椀、杓子、馬、鋏、鶏、正月魚、縣の魚、鳩、眼鏡、蘇民将来、お顔隠し、七五三縄、おっかけ、玉飾り系、牛蒡じめ・大根じめ系、前垂れ系、輪飾り系などを27分類。

多数の実物しめ飾りをもってこれほど整備した人は見たことも、聞いたこともない。

ただ、私が知らないだけなのか・・。

とにかくすごい人が凄い本を出版された。

『しめかざり—新年の願いを結ぶかたち―』に掲載された「馬」の形とほとんど同形態だったのが、M家の「ウマ」注連縄である。

それもそのはず、森須磨子氏が著書に載せた「馬」の蒐集先が三重県伊賀市だった。

森氏はキャプションに「馬」注連縄を「トシガミ様の乗り物」と紹介していた。

また、蒐集された「馬」注連縄を作っていた人は80歳を過ぎた職人さん。

もしかとすれば、M家が買った人と同一人物である可能性が高くなった。

M家にはもう一つの架けモノがあった。

匂いが臭くなったので捨てたというカケダイだった。

これまでカケダイの民俗は奈良県室生の下笠間で拝見したことがある。

1カ所は地元で今でもカケダイを作って、馴染みのお客さんに売ってきた宮崎商店のMさん。

もう1カ所は同地区にお住まいのI家のカケダイ

Iさんがいうには、地元の宮崎商店で買ったものではなく、三重県名張市まで買い出しして買ったカケダイ。

名張市に年に一度のハマグリ市で売っているカケダイを買っていたと話す。

ハマグリ売りの露天商市は三重県名張市鍛冶町の蛭子神社で行われる八日市祭りにある。

別名が戎祭りである八日市祭りは毎年の2月7日、8日の両日に亘って行われているようだ。

下阿波のMさんは、おそらくこの祭りに出かけて買ったのではないだろうか。

詳しく聞いている時間がなかったので、「馬」作り人を訪ねるまたの機会にしたい。

M家の神棚にあったもう一つの祭具。

Mさんの話しによれば「わくぐり神事」で授かったようだ。

これもまた調べてみれば、三重県四日市の大宮神明社で行われている夏祓い神事の「輪くぐり神事」。

授かった祭具は破魔矢であろう。

(H29. 5.11 EOS40D撮影)

伊賀市下阿波・M家のフキダワラ御供

2018年06月09日 08時47分46秒 | もっと遠くへ(三重編)
フキダワラの季節には少し早いが、仲間の集まるからと云ってこの日の食事会の主役を飾ったザル盛りのフキダワラ。

これらはもてなしの食事用である。

食事を済ませて、これから田植えを終えている一角に供えるために作るフキダワラ。

Mさんは蕗の葉を慣れた手つきで漏斗状にして炊いた大豆ご飯を詰め込む。

三つ作ってボール型のザルに盛った。

それを抱えて田んぼにでる。

土手より下ったところにコンクリート造りの水路口がある。

そこはいわゆる水口にあたる処。

縁に置きましょう、と云われて供えたシーンを撮らせてもらった。



念願叶ったフキダワラ御供の記録撮影である。

この日、特別に実施してくださったMさんに感謝申しあげる。

ところで、取材させていただいた女性のうち、一人がこの日のことをFBのトモダチらに伝えていた。

なかでもお一人が反応された。

それは伊賀市霧生の地で高齢者が“さぶらき”と称して昔にしていた様子を再現、伝えるものであった。

「それはサブラキ・・・田植え前の儀式。煎り大豆をご飯に炊き込み。蕗を摘んで準備する。大豆ご飯を握って黄金の稲穂をイメージしたきな粉をトッピング。蕗で包む。蕗のスジで上を縛ったら完成。いざ田んぼへ。田の神様に祈りを捧げ、直会として共に食し、みんなで田植え・・・豊穣の秋となりますように」と結んでいた。

それを「サブラキ神事」だというが、アップされていた動画を拝見してなんとなく真似事的創作イベントのように思えたが、どうだろうか。

(H29. 5.11 EOS40D撮影)

伊賀市下阿波・もてなしフキダワラ作りの体験学習食事会@園飯

2018年06月08日 08時43分13秒 | もっと遠くへ(三重編)
今年も相も変わらずの水口参りに遁走している。

奈良県内の事例を求めて各地域を駆け回る。

山間では4月初めにする地域もみられるが数は少ない。

多くみられるのは盆地部の平坦である。

早い処では4月半ばという地域が多いが、最も多くされている時期は4月末から5月初めの連休のころ。

世間の人たちは遊びにでかけるGWであるが、農村はこの時期に焦点を合わせているかのように集中している。

例年は見られても再訪してみればやむを得ない事情で止めた処もある。

地域の都合ではなくお家の事情である。

その状況は常に見ておかなければならないと奈良県内各地を走り回っては白い幌を被せた苗代を探す。

そのころの時期の山間部は田植えが始まっている。

それも東山中にあたる地域でしかみられない田植え前の農家の儀式がある。

儀式といっても大層なことでない。

田植え機を入れて始めて田植えをする場にウエゾメ(植え初め)と呼ぶ儀式である。

地域、或はお家によって供え方は異なるが、これまで拝見してきたウエゾメにフキダワラを供える処がある。

田植え始めの場に12本のカヤを挿すとか、クリの枝木に幣を垂らすとか。

地域によっては初祈祷でたばったお札を立てるという地域もある。

また、すべての田植えを終えたときの在り方もある。

いわゆる植え終い(※仕舞いとも)である。

田植えに残しておいた苗さんである。

その苗を手にしてサシナエをしている人はよく見かけるが、残った苗さんをオクドサンに供える処がある。

そのときにもフキダワラを作って供えるお家がある。

また、田植え作業の休憩中に自宅で作ったフキダワラを食べることがある。

かつてというか、今では想像しがたい農作業中における小腹を満足させるケンズイ(間食)時間帯のフキダワラ喰い。

藁紐で括って腰にぶら下げて田んぼに出かけたと話す人もいたが、いずれも高齢者である。

近年、数か所においてその記録を録ってきた。

今ではしていないが、高齢者の記憶は文字で記録してきた。

昨年に状況を調べた結果は・・辛い現状である。

今年もそうであるのか現地を訪れる。

やはりである。

この日の午後は天理市の山田町(上山田・中山田下山田)から山添村の北野のフキダワラ探し。

昨年に拝見した天理市山田町の下山田

一軒のお家がしていたフキダワラはない。

ないどころでない。

例年していたハウスは荒れ放題。

廃れるどころか田植えもしていない現状に危機感を覚える。

大字北野はもちろん、ない。

訪ねた大字大塩の住民は奥さんが緊急入院でそれどころではない状態だった。

隣村の大字箕輪在住の女性は昨年までしていたという。

身体が思うように動けなくなったというのが理由である。

一年早ければ、と悔やまれるが、部外者の私が口にするわけにはいかない仕方のないことである。

平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』にフキダワラのことを書いてあった。

大字の石打、尾山、長引の神社では苗代祭や種蒔祭を行っている。

旧月ヶ瀬村は三重県寄りの村落。

北に向かえば京都の南山城が近い。

米の豊作願いに収穫を感謝する行事は新年祭(祈年祭)から始まって収穫感謝祭(新嘗祭)で終える。

神社行事と連動するかのように農家自身で行われてきた家の習俗行事がある。

さびらきの名で呼ばれる田の植え初めの行事。

そのさびらきにフキダワラを田んぼで食べて祝った。

フキダワラは煎り豆のご飯をフキの葉に包んだものである。

また、さなぶりの名がある植えじまい(※終い若しくは仕舞い)に茹でたソラマメを食べる。

稔った稲を刈り終えたときも行事をしていた。

稲刈りに要した農具を祭るのである。

農具はカマ、ナタ、ノコギリなど。

それら纏めて箕に並べて炊いたセキハン(赤飯)を一升枡に盛って供える。

その場に供えて燈明を灯した。

いわゆる刈りじまい(※終い若しくは仕舞い)とか、カマ納めと呼ばれる儀式である。

大和郡山市の田中町の農家はこれを「カリヌケ」と呼んでいた。

収穫後には二股のダイコンと煎った大豆をえべっさん(エビス天)に供えるところもあったそうだ。

そこで思い出したのが奈良県ではなく、三重県である。

山添村からまっすぐ東へ名阪国道を走る目的地は三重県の伊賀市下阿波である。

昨年の平成28年8月17日にBSで放送されたBS-TBS放送の「美しい日本に出合う旅―三重で歴史散歩―家康と伊賀忍者の里・絶景の滝めぐり」という番組である。

サブタイトルに惹かれたわけでもない三重県の美しい日本にどういう出会いがあるのか、少しだけ興味があったので録画していた。

朝食時間の合間に見る録り溜めたビデオ映像。

その日の気分で録画した番組を決める。

この放送を見たのはずいぶん後だ。

1、2カ月も経ってからのことだったと思う。

何気なく見ていた番組に突然現れたフキダワラ。

出演している女性は煎った大豆を入れたご飯を炊いていた。

付近にあるフキを採ってきて茎軸の筋を引いていた。

何本かの筋を引いていた。

その様子は私のおばあさんもそうしていた。

ずいぶん前のことは記憶の片隅に残している。

私の子どものころの様子であるが、たぶんに私もしていたような気がする。

引いていた手が黒くなることを知ったのはそれから十数年も経ったころである。

引いた筋だけを残して本体の茎は取ってしまう。

フキは佃煮にしていたことも記憶にある。

おばあさんか、おふくろが煮ていたのか、それまでは覚えていないが味は記憶にある。

はっきり言って旨くない。

子どもの口には合わなかったが、いつしか大人になるにつれ旅の宿でだされる料理で味わうようになった。

山野草の味を覚えたのは信州、岐阜、或は福島などで泊まった民宿だったと思う。

それた話しは戻しておこう。

炊きあがったアツアツの煎り大豆入りのご飯をロート状にしたフキの葉に入れる。

一旦は椀に盛って、それをロート状にして持ったフキの葉に押し込む。

葉は全体を包み込むように端っこを絞る。

絞った先をフキの茎を引いた何本かの紐をくるくると巻いて締める。

形は丸い。

これまで私が拝見してきた奈良県のフキダワラにない形である。

フキダワラはその名の通りに「俵」型。

米俵を意識した包み方である。

俵型に握ったおにぎりもそうだが、どちらも豊作を願った形である。

地域によっては俵型でなく他のにぎり方。

フキダワラも同じように他の包み方。

その差は地域だけでなくお家の在り方によっても違いがでる。

決して誤りではなく、それもまたそこにとっては正統なのである。

フキダワラを作った女性は田植えを終えてすくすくと育った田んぼに向かう。

丸い型のザルに盛ったフキダワラは数個を選んで藁製のサンダワラに盛った。

その場で手を合わせて拝んでいたことからさぶらき、若しくはさびらきの作法であろう。

名称もまた地域差はあるが、いずれも農家における田植え初めの儀式である。

番組ナレーターが伝える言葉は「伊賀の郷土料理はお供え物。伊賀の里山で食べるご飯を紹介する」であった。

こうした一連のフキダワラの映像に喰いついた。

地区場所はテロップに表示された「三重県伊賀市下阿波」。

その地のどこかに住んでおられる女性を求めて車を走らせる。

山添村からおよそ40分弱。

カーナビゲーションにインプットした下阿波へは川沿いの県道163号線を走る。

ビデオ映像の景色は山間部辺り。

そう思って車を走らせる。

カーナビゲーションが指示したルートは村中の狭い道。

集落は目と鼻の先にあるが、狭くて車が入れない。

軽自動車であっても入れなさそうな道は不入の道である。

ゆるゆるバックして県道に戻った。

すぐ近くに二人の婦人がおられたので集落並びにフキダワラのことを聞いてみた。

そこは下阿波でもあるが、須原(すはら)の地。

80歳代の婦人がいうには子供のころの記憶。

キナコ飯を包んだフキダワラは午前10時に午後3時のケンズイ(間食)のときに食べていた、であった。

探してみても、今どきそんなことをしている人はおらんやろ、という。

そりゃそうである。

80歳代であれば子どものころは70年前になる。

継いでいる家はみられないという。

下阿波の集落はそこより少し戻った地。

県道を挟むように民家がある。

そこで尋ねてみては、と云われていくがどなたもいない。

たまたま来られたのは年老いた婦人と娘さん。

コイン型精米所に米袋を運んで精米する。

その人たちにも声をかけて聞いてみた結果は・・。

高齢の婦人が云うには娘はすることないが、かつておばあさんがしていたという。

本人も継がなかったが、おばあさんはフキダワラに包んだご飯を美味しそうに食べていたそうだ。

フキダワラを作っている人であれば料理好き。

〇〇さんかもしれないと云われて探してみる。

服部川に架かる橋を渡って真っすぐ。

どんつきを左折れしたら神社がある。

そこよりすぐ近くにある家を訪ねたらテレビに出演されていた婦人が家から現れた。

都合、ここまでやって来た経緯を伝えたら驚きの様子。

なんでもそのテレビ出演の前にも出たことがあるという。

番組はタレントが日本国じゅうの民家を巡って、お家の方が作った料理をよばれるBS-ジャパン制作の「トムさんの田舎のごちそう」という番組だ。

奈良県では奈良テレビ放送でたんまに放送していたので見覚えがある。

女性がこの番組に出演されたときもフキダワラがテーマ。

昔ながらの「野上がり食」に食べていたフキダワラを平成25年6月23日の放送に出演していたそうだ。

この年の田植えは訪れた2日前の5月5日にされた。

蕗の葉はまだまだ若い。

熱々のご飯を包んだら破れてしまうからしなかったという。

この日の自宅に生えている蕗の葉の状態を見ていわれた。

これならなんとかできるであろうということで数日後の11日を設定された。

その日は彼女の女性友だちが来訪する。

それに合わせて友だちに作り方を教えてあげようということで日にちが決まった。

そしてその日がやってきた。



先に到着したのは私だった。

この日のもてなしフキダワラ食事会のプレゼンターは主催者のMさん。

おもてなしを受ける人たちはMさんが繋げるFBトモダチ。

そのオフ会も兼ねているという。

この日のために考えてくださった献立メニューは4品。

お品書きを見せてくださる、1.フキダワラ、2.春野菜のハーブパン粉焼、3.みょうが芽のおよごし、4.ぎぼうし茎の炒め物。



“およごし”は聞き始めの言葉。

長野県の方言でゴマ和えのこと。

ゴマ和えは胡麻で汚すことから胡麻の“御汚し“の名が付いたと教えてくださる。

汚すというマイナス用語に”御“を付加したように思える”およごし“。

例えば”おつりがくる“の”釣り“に”御“を付けるのと同じように思える。

長野県がご出身のMさん。

長野県の上田高校に通っていたという。

ご縁があって長野県から遠く離れた当地に住まいされてさまざまな活動をされているようだ。

ちなみに先に簡単説明してくれた4品の料理ポイント。

フキダワラは煎った大豆を入れてご飯を炊く。

ご飯を蕗の葉で包む。

春野菜のハーブパン粉焼はパン粉を塗してオーブン焼き。

スナップエンドウやニンジン、ジャガイモ、パプリカ、アスパラに帆立のワイン塗しにパセリ、バジル、ニンニク、チーズ、塩、胡椒で味付けする。

茗荷芽のおよごしは茹でが決め手。

ぎぼうし茎の炒め物は塩揉み。

塩の量に揉み加減で味を決めるなどなど聞いているうちに、今日は素敵な日になりそうだと思った。

FBのトモダチに繋がる人たちは3人の若い女性。

伊賀市や名張市で有機農法をしている人たち。

お部屋でしばらく待っていたらやってきた。

取材に寄らせてもらっているゆえ3人に自己紹介。

本日の取材の主旨を伝えてご一緒させてもらうが、撮影は極力、お顔を写さないように最大限の努力をする。

本日の献立に料理をする材料集めがある。

ご自宅周辺にある食材を採取する。

本来、どのような土地に生えているのか、どういう具合に育っていくのか、自然農法に目覚め、学習されてきた女性たちに、教えもするMさん。

勉強は目で見るだけでなく、自らの手で触って感触を確かめ、場合によっては生の味も・・。

本日の料理はだんどりがある。

料理に詳しいMさんが若い女性に伝える場でもある。



まずは綺麗な大豆を選り分けする選別作業。

カメムシが齧った痕は黒くなる。

農薬を使わずに育てた自家製大豆だからカメムシも齧る。

つまりは虫も美味しいということ。

カメムシが若いとき、育ってきた大豆の汁を吸う。

その痕跡がある大豆は不味いという。

色具合で除ける。

薄い緑色の大豆は除外する。

細かいところだが、微妙な色具合で選別するには時間がかかる。

農薬を撒けば、それはラクであるが、無農薬大豆の選別作業は5倍の時間がかかるそうだ。



ちなみに老眼の私の目でははっきり認識できないが、ぐっと近づいたらその違いがよくわかる。

選別作業に並行して次の作業にも取り掛かる。

お米も自家生産。

一般的な炊き方と同じようにお米の量と適量の塩に水加減。



選別した綺麗な大豆をフライパンで煎る。

少し煎った大豆は軽量して炊くご飯の量に合わせて、再度煎る。

適当に木のしゃもじで混ぜて火を通す。

黒くなる手前で火を止める。



パン粉をボールに落してパセリ切り。

鋏で切って細かくする。



オリーブオイルを垂らして混ぜる。

一方、ざく切りしたニンジンとジャガイモは小鍋に入れて下茹で。

あっちもこっちもいろんな作業があるからカメラマンは忙しく動き回る。

その都度、メモにする調理方法も、である。



煎った大豆と云えば炊飯器のお釜に沈んでいる。

若干ぷかぷか浮く大豆は実が少ないから除けておく。



エクストラバージンオイルを混ぜたパセリ混ぜパン粉に生の帆立も入れて、次はお外に出て生野菜の収穫移動。



ぷっくら膨らんだスナップエンドウを採取する。

手で摘まんだだけで採れる。



私の大好きなスナップエンドウ。

この時期になれば道の駅とかで売っているから見つけては買ってくる。

調理はかーさん任せ。

私は食べる専門でいただくスナップエンドウ。

食べ方といえば塩は無用のマヨネーズオンリー。

噛んだらぶちゅっと飛び出す甘い汁。

皮も甘いし、発泡酒が実に美味しく飲める。



真っ赤な苺も収穫。

採れたて苺はデザートに・・。

持ち帰って調理を続行する春野菜のハーブパン粉焼。

下茹でしたニンジンとジャガイモにパプリカ。

見た目で美味しさが伝わる艶々の帆立。



その上にパラパラと落とすスナップエンドウは水洗いしておくが、忘れてならないスジ取りである。

生で食べても美味しいスナップエンドウ。

甘さがわかる。

生で食べて美味しければそうする。

茹でて美味しければ茹での料理。

炒めて美味しければそうする。

まずは自分の口で確かめて料理法を決める、というMさんの食育指針である。

春野菜のハーブパン粉焼は下にパセリ混ぜのパン粉を敷いた。

今度は上からも振りかける。

覆いかぶせるようにパン粉を落とす。



適当な長さに切ったアスパラやあしらいのプチトマトも盛ってバージンオイルをたっぷりまんべんなく落とす。



そうして最後に市販のとろけるミックスチーズもたっぷり盛る。

料理はこれで終わりでなく高性能のオーブン焼き。

焼きは機械任せ、である。

再び外に飛び出して山菜の収穫。

ご自宅周りに自生する茗荷の新芽にぎぼうし茎と蕗の収穫である。

ニョキニョキとこんなに新芽が出ているのは初めてだ。



曲げて、ポキッと折れるところがある。

ポキ、ポキと折って収穫する茗荷の新芽。

こりゃ美味いだろうな。

次はぎぼうし茎。

花の咲く時期はまだまだ。

初々しい葉の色であるが、料理に使うのは茎の部分。



これもポキっと折れる。

ワラビもゼンマイもそうだが、ポキッと折れる箇所が採れ位置。

それを知らずに根っこ辺りまでぐぐっと無理やりする人もいるが、いかに自然慣れしている、していないかの極みの別れ道。

近年、道の駅によく売られるようになっているが、どのような土地に生えているか出かけて探ってみるのが近道。

生えている土地が平たんなのか、それとも斜めなのか。

乾燥地か湿地帯か。

陽当たり、日陰に半日陰。

生息地周辺にどのような植物が植生しているか。

そういったことを現地で学習するのが大切だと思っている。

ただ、ときおりニュースに出る誤った認識で、或いは見間違い、判断誤りなどで食害事故に遭う情報にいつも困惑してしまう。

Mさんはしっかりとした見識をお持ちだし、経験も豊富である。

長野県ではぎぼうしをコウレッパと呼ぶ。

春の山野草の王者の一つにウルイがある。

これもまたぎぼうしの仲間のオオバギボウシ。

懐かしいと云えば嘘になるが、私は山野草がたまらなく好きである。

30歳前後のころからはまった趣味の一つ。

美味しいものがどこら辺りに自生しているか探しまわったことがある。

ただ、ウルイは東北地方に見られる山野草。

ネガマリタケも食べてみたいが、その地方まで出かけないと食べられないのが悔しい。

ちなみに私の山野草熱は市内で行われていた自然観察会の参加が発端。

学習本は市販の本。

1冊は昭和58年4月に主婦の友社が発刊した『山野草カラー百科』。

もう1冊は平成元年に日本放送協会が発刊した『別冊NHK趣味の園芸―山野草ハンドブック―』。

他にもシュンラン、カンランが充実していた山野草本をもっていたが、未だ行方不明。

どこに雲隠れしたやら、である。

セリの葉っぱにとてもよく似ているチャービルもあるという。



食の情報を教えながら大きな葉になった蕗の葉も採取していた。

両手では抱えられなくなった大量の収穫山野草に思わず笑みが毀れる。

お部屋に戻って再び調理に移る。



ぎぼうしも蕗も水洗いする。



ぎぼうし茎はさらに塩揉みをしておく。

茗荷は鍋で湯掻いておく。



そろそろ下準備ということではじまった蕗の茎の軸の筋取り。

蕗の茎を手にもって葉を下に。

茎の折口からちょっと摘まんで筋を指先掴み。

そのままざっと下ろす。

葉の付け根のところで停止する。

取った筋は切らずにそのままにして下に垂らす。



何本もの筋ができあがる。

こういう具合にして作ると若い女性たちに実演で示すお手本学習。



何枚もしていくうちに慣れて、手際も良くなる。

何枚かの蕗の軸取りをしている間に茗荷が茹で上がった。

湯気の上がった茗荷が美しい。

一方、茗荷の胡麻和えに欠かせない胡麻摺り作業。

昔懐かしいすり鉢にすりこ木。

ゴリゴリ、ゴリゴリと胡麻を摺って潰せば香ばしい匂いが立ち上がる。



汁気がでたところで湯掻いた茗荷を投入する。

ここからはお箸の出番。



混ぜて、混ぜて胡麻を和えてできあがる。

丁度そのころに炊きあがった大豆ご飯。



炊飯器の蓋を開けたら、まるで大豆の海である。

しゃもじで掻き混ぜて、これまたできあがり。



あとは蕗の葉に包むだけだ。

蕗の葉の軸取りは順調に捗っていた。

何枚も重ねた蕗の葉に細い軸の皮を付けたままの状態。

芯となる柔らかい茎は切りとって他の料理に使う。

ここからがフキダワラ作りの本番。

蕗の葉の中心部。

利き腕が右手の人は左手。

手のひらを広げるのではなくげんこつ。

ぐっと握りしめるのではなく、そっと広げる。

ぽっかり口があいたような感じ。

そこに蕗の葉の中心部を入れて窄める。

写真ではわかりやすいが、文で説明にするのはとても難しい。

要は蕗の葉を漏斗状にしてご飯を入れる壺のように形作るのだ。

壺口はやや広い。



広げた口に予め茶碗一杯に盛っていたアツアツの大豆ご飯をそっと落とす。



蕗の葉の大きさもあるからそれほど多くない量を窄めた蕗の葉に詰める。



そうして蕗の葉を丸めて包み込むように萎める。



葉の縁を寄せるような感じで萎めて、皮を削いだ軸片を紐代わりに結ぶ。



外れないように内に通して、一丁できあがり。

軸取り作業は皮を引いて剥ぎ取った紐状のもの。

大豆ご飯を包んだフキダワラがバラバラにならないよう括る道具であった。

M家で作られるフキダワラの形は丸っぽい茶巾袋のようである。

ところが、である。

2カ月もすれば第一子誕生予定の女性が云った言葉。

私の記憶にあるのは俵型。



たしかこんな形やったと思うといって実験的にそうされた。

私が奈良県内で拝見してきたフキダワラはまさにその形。

フキダワラはその名前の通り“蕗で作った俵”である。俵は米俵を模している。

つまりは豊作を願った形である。

三重県名張市にある「名張近鉄ガス」が料理教室で紹介するフキダワラ作りがある。

その形は俵型でなく茶巾袋型である。

三重県では田植えの農耕神事に供えられてきた蕗俵(フキダワラ)として紹介している三重県の郷土料理の一つである。

ほんのちょっと間で作り方を覚えた女性たちの手造りフキダワラ。



大きなザルに形を調えながら盛っていく。

六号の分量で炊いた大豆ご飯。



数えてみたら30個にもなったフキダワラの姿がとても魅力的に見える。

オーブンで焼いた春野菜のハーブパン粉焼ができたし、キンピラ風に炒めたぎぼうしにみょうが芽のおよごしも。

予定していたお品書き料理のすべてができあがった時間帯は午後1時。

できあがったご馳走は山小屋風のお家でよばれる。

3人の女性たちの満足なお顔で伝わる料理の美味しさ。



蕗の葉の香りがすごく良い。

アツアツの炊きたてご飯だから、蕗の葉の香りがより一層わかる。



三重県の郷土料理にあがっているフキダワラをメインに据えたこの日のもてなし食事会は大盛況。

ぎぼうしはアゲサン(油揚げ)と塩麹で炒めたもの。

美味いと一言。



茗荷は初春の味。

旬の味わいを新芽で味わうとは思ってもみなった。



オーブン焼きの春野菜ハーブパン粉焼きは美味すぎる。

特別にMさんが作った料理にピクルス漬けがある。



タケノコ、ニンジン、蕗の茎、黒豆は贅沢な一品。

デザートにこれまた自家栽培の苺。



無農薬の苺はとても甘くて美味しかった。

ゆったり寛がせてくれたもてなしの会を銘々しておこうと決まったその会名は「園飯」。

読み名はそのまんまの「そのまんま」に思わず拍手。

上手いこと名付けたものだと感心した。

(H29. 5.11 SB932SH撮影)
(H29. 5.11 EOS40D撮影)

伊賀市下阿波のフキダワラ調査

2018年05月27日 08時28分09秒 | もっと遠くへ(三重編)
午前中いっぱいは奈良市米谷町で行われていたノヤスミのタケノコ飯を取材していた。

午後に訪れたのは奈良県でなく、三重県である。

米谷町は旧五ケ谷村。

名阪国道にはすぐ入れる地。

そこより福住、そして針。

まだ先の山添村からまっすぐ東へ名阪国道を走る目的地は三重県の伊賀市下阿波である。

平成28年8月17日にBSで放送されたBS-TBS放送の「美しい日本に出合う旅―三重で歴史散歩―家康と伊賀忍者の里・絶景の滝めぐり」という番組があった。

サブタイトルに惹かれたわけでもない三重県の美しい日本にどういう出会いがあるのか、少しだけ興味があったので録画していた。

朝食時間の合間に見る録溜めのビデオ。

その日の気分で録画した番組を決める。

この放送を見たのはずいぶん後になってからだ。

1、2カ月も経過したころだったと思う。

何気に見ていた番組に突然現れたフキダワラ。

出演している女性は煎った大豆を入れたご飯を炊いていた。

付近にあるフキを採ってきて茎軸の筋を引いていた。

シーンが替わってフキダワラの形になっていた。

女性は田植えを終えた田んぼに向かう。

丸い型のザルに盛ったフキダワラ。

中から数個を選んで藁製のサンダワラに盛った。

その場で手を合わせて拝んでいたことからさぶらき、或はさびらきの作法であろう。

名称もまた地域差があるが、これは農家における田植え初め儀式、若しくは田植え終わりのさなぶりであるかもしれない。

番組ナレーターが伝える言葉は「伊賀の郷土料理はお供え物。伊賀の里山で食べるご飯を紹介する」であった。

こうした一連のフキダワラの映像に飛びついた。

場所はテロップに表示された「三重県伊賀市下阿波」。

その地のどこかに住んでおられる女性を求めて車を走らせる。

山添村からおよそ40分弱。

カーナビゲーションにセットした下阿波へは川沿いの県道163号線を走る。

ビデオ映像の景色は山間部辺り。

そう思って車を走らせる。

カーナビゲーションが指示したルートは村中の狭い道。

集落は目と鼻の先にあるが、狭くて車が入れない。

軽自動車であっても入れなさそうな道は不入の道である。

ゆるゆるバックして県道に戻った。

すぐ近くに民家があった。

二人の婦人がおられたので、下阿波集落ならびにフキダワラのことを聞いてみた。

そこは下阿波でもあるが、須原(すはら)の地。

80歳代の婦人の子供のころの記憶である。

キナコ飯を包んだフキダワラを午前10時と午後3時のケンズイのときに食べていた、という。

探してみても、今どきそんなことをしている人はおらんという。

そりゃそうだろう。

80歳代であれば子どものころは70年前になる。

継いでいる家はみられないという。

下阿波の集落はそこより少し戻った地。

県道を挟むように民家がある。

そこで尋ねてみてはと云われていくがどなたもいない。

少し広い場で待っていた。

来られたのは年老いた婦人と娘さん。

コイン型精米所に米袋を運んで精米をし始めた。その人たちにも声をかけて聞いてみた。

結果は・・。

高齢の婦人が云うには娘はすることないが、かつておばあさんがしていたという。

ご本人は継がなかったが、その当時のおばあさんはフキダワラに包んだご飯を美味しそうに食べていた、という。

フキダワラを作っている人であれば料理好き。

あの人かもしれないと云われて探してみる。

服部川に架かる橋を渡って真っすぐ。

どんつきを左折れしたら神社がある。

そこよりすぐ近くにある家を訪ねたらテレビに出演されていた婦人が家から現れた。

都合、ここまでやって来た経緯を話したら驚きの様子である。

取材主旨を伝えたら、丁度いいという。

四日後の11日にお友達を呼んでもてなし料理の一つにフキダワラを作るという。

田植えはこのGWに期間中に済ませていたが、良ければ、それを拝見したテレビ映像と同じようにしましょうか、という返事に嬉しさがこみ上げる。

ここまで来た甲斐があった。

帰路につくその前に拝見しておきたい地元氏神さんを祀る神社にお礼の参拝をしておこうと思った。

神社は延喜式内郷社の阿波神社。

延喜式といえば修正会・オコナイで作法される神名帳詠みがある。

神名帳に東海道・伊賀の国に阿波神社

そう同名神社であるだけに神名帳に載る比定社になるそうだ。

四国・徳島の阿波国。阿波国造を務めた息長田別命の子孫が、伊賀の国に移住し、阿波君の祖人である息長田別命を祀ったのが阿波神社とも・・。

社務所か参籠所かよくわからないが境内に併設する建物がある。

看板を拝見したら下阿波小規模多目的集会所の表示があった。

(H29. 5. 7 SB932SH撮影)

南山城村・田山の花踊りの類事例を探す

2016年07月19日 08時48分51秒 | もっと遠くへ(三重編)
三重県内で羯鼓踊りを継承している地域が12例もある。

伊賀市下柘植・愛田地区に伊賀市(旧阿山町の)大江、伊賀市山畑(やはた)がある。

京都南山城より東に向けて15kmから20kmの距離に三カ村が集約している。

一方、そこよりぐっと下がった南方に宮川が流れる。

その流域にある多気郡大台町下三瀬、伊勢市の円座町・佐八町・小股町の共敬・下小股・中小股・東豊浜町の土路、度会郡南伊勢町の道方、度会郡度会町の麻加江だ。

平成21年度に記録された「ふるさと文化再興事業地域伝統文化事業」を参照して整理した。

一に、伊賀市下柘植愛田地区・日置神社の「神事踊(別称宮踊り)」がある。

下柘植は南山城より東方の地。

直線距離で20kmも離れている。

雨乞い願掛け・満願の太鼓踊りで古くから伝わる羯鼓踊りの一種だ。

実施日はかつて7月24日の祇園祭り、現在は4月10日の大祭の午後に行われる。

一時途絶えていたが大正十三年に復活した。

戦中にも中断したが昭和31年に復興するも再び中断。

氏子青年会によって昭和51年に復帰する。

踊り子の構成はかんこ(羯鼓)を胸に背はシナイ姿の踊り子や歌役の「唄」に貝吹きの「貝」だ。

踊り子は薄青地の着物に浅黄地に狩猟文様の栽ち着け袴を履いて山鳥の羽飾りや冠の造花で飾ったオチズイ(かつてはヲチズエ)、締太鼓をつける。

10本の花が広がり垂れ下がるような恰好の花笠のように見えるのがオチズイと呼んでいるのだろう。

「唄」と「貝」は紺の着流しに紺の羽織を着て、菅(すげ)製の妻折れ笠(剣術を志す女性の道中笠で男性用が三度笠)を被る。

扇を上下に振って調子をとることもあれば円を描いて躍ることもある。

笠を被る「唄」は本歌、別に無笠のスケが補助につく。

「貝」はボーボーと単調な音色で法螺貝を吹き鳴らす。

鬼の衣装を着た道化役の鬼は赤熊をつけて面を被り、足は草鞋だ。

「御庭しずめ」、「御庭踊り」、「小祝入り」、「世の中踊り」に平成7年に復活した「順逆踊りと考えられるじゅんやく踊り」の五曲を継承している。

二に、伊賀市大江(旧阿山町)・陽夫多(やぶた)神社(在所は旧阿山町大字馬場)に奉納される「羯鼓(かっこ)踊」がある。

大江も南山城より東方の地。

直線距離で15kmも離れている。

雨乞い願掛け・満願・豊年の太鼓踊りは江戸時代の寛永年間(1624~)に始まったと伝わる。

現在の実施日は4月20日の陽夫多(やぶた)神社・例大祭に行われる奉納踊りであるが、かつては大字大江の氏神こと旧火明(ほあかし)神社の夏祭りだった。

当時は旧暦6月14日の祇園祭に奉納されていた踊りである。

明治41年、火明神社は他地区の神社とともに河合郷の郷社である陽夫多神社に合祀された。

躍る機会を失った結果、長い期間において中断していた。

大正二年、大旱魃に見舞われたことによって、陽夫多神社で雨乞い祈願、満願のときに羯鼓(かっこ)踊りが行われた。

その後、徴兵などで人手が集まらなかった昭和の戦時下に中断したが、出征兵士が戻った昭和22年に奉納するも高度成長期に突入する。

昭和35年、人手不足となり、再び中断。その後の昭和47年に踊り保存会を結成され復活した。

陽夫多神社は千貝、馬田、田中、馬場、川合、円徳院、大江(26戸)、波敷野を氏子圏ととする郷社である。

大江は河合郷の枝郷にあったが、それ以前は大江村であった。

昭和29年、鞆田村と合併した阿山村は、昭和42年に施行された町制によって阿山町となる。

平成16年、平成の大合併によって阿山町は伊賀市に含まれることになった。

踊り子が背に負うオチズイやオノフサ(苧の房の呼び名がある御幣)をマツリ前に大江・観音堂で調製する。

オチズイは2メートル近い長さのヒゴ竹。枝垂れに桜の造花と緑の花を取り付ける。

これを花造りと呼んでいる。

オノフサはオチズイの中心部に立てる白い御幣榊である。

青・赤鬼が手にする団扇はバイと呼ぶバチだ。

踊り子の構成は子供が法螺貝を吹く貝吹き、菅笠を被り三つ紋の浅葱色の着物を着て大太鼓を打つ楽打ち。

頭に山鳥・孔雀・雉・鶏の尾羽の飾り物を挿して、小紋の裁着(たっつけ)袴を履いた羯鼓の踊り子。

団扇で調子をとる歌出しは妻折れ笠(記録映像では三度笠のようだ)を被り、角帯を締めた五つ紋の黒地木綿を羽織る。

道化役の赤鬼・青鬼は大きな団扇を右手、竹製の金棒を左手に赤または紺の襦袢に股引き姿である。

「祠入り(しくいり)」、「お宮踊」、「世の中踊」、「御城踊」、「御殿踊」、「虎松踊」、「信玄踊」、「鐘巻踊」、「小順逆」、「大樹逆」、「四季踊」、「姫子踊」、「所望」、「かえせ」の14曲が伝承されているが、実際は10曲のようだ。

三に、伊賀市山畑(やはた)に鎮座する勝手神社に奉納される羯鼓型の神事踊がある。

山畑は南山城より東方の地。直線距離で20kmも離れている。

雨乞い願掛け後の満願返礼の際に躍られた神事踊は、毎年10月の第二日曜の勝手神社の祭礼に奉納している。

神事踊りは、何度も何度も中断の時期があったが、その都度、郷土の熱意によって復興してきた。

昭和10年に保存会組織を立ち上げ、今日まで伝承してきた。

神事踊は勝手神社奉仕団踊子部が作成した『勝手神社祭礼神事踊沿革史が』が詳しいそうだ。

起源は明らかでないが、明治40年までは勝手神社より離れた津島神社境内で旧暦6月13日に奉納されていた。

当時は「祇園祭神事花踊」と呼ばれ、悪疫平癒を願って踊っていた。

津島神社名は奈良県田原本町に鎮座する津島神社と同様にかつては祇園社の呼称があった。

伊賀市山畑も同じ神社名の津島神社。

明治時代の廃仏毀釈などで神社名を換えた経緯があると推測される。

話しを戻そう。

明治41年のことである。

理由は定かでないが、山畑の津島神社は勝手神社に合祀された機に中断となった。

その後の大正二年、大旱魃に見舞われたことによって雨乞いの踊りが行われたが継続することはなかった。

それから十数年後、昭和7年、青年団による復興運動が盛んになったことから、翌年の昭和8年に勝手神社の10月祭礼に躍ることになった。

慣例化されたものの、戦時下は中断する。

やがて、昭和27年に復興し踊りの在り方は崩れることなく現在に至る。

疫病退散に雨乞いのために行う山畑の神事踊りは、かつて笹踊りと花踊りの名称をもつものであった。

他地区の類例より、願掛けは笹竹などをつけて省略的な踊りの笹踊りと願済。

願解或は返礼の踊りとする花踊りであった。

勝手神社拝殿には明治二十六年に寄進奉納された絵馬が残されている。

その図柄によれば、現在の様式と同じようだというから貴重な史料である。

山畑の神事踊りは先に挙げた同市下柘植・愛田地区や旧阿山町の大江にない多くの特徴をもっている。

踊り子装束などに飾る付ける祭り用具は祭礼までに予め作っておく。

9月26日は「花きり」で社務所に関係者が集まって作業をする。

「花きり」は中踊りが背負うオチズイに取り付ける花や葉を作りあげる作業である。

白花に赤花を束ねてコヨリを通して作る。

葉は緑の紙を切って作る。

大太鼓が打つ楽打ちが付けるサイハイと呼ぶ五色幣もハサミを入れて作る。

ジャバラのような白い幣は「鉢の巣」の名がある。

これも中踊りが付ける。

踊り子の構成はハタカキと呼ぶ楽長(がくちょう)と鋲打ち大太鼓を打つ楽太鼓やかんこ打ちの中踊り、立歌いと地歌いの歌出し、地歌い兼任の横笛吹き、棒振りの鬼だ。

お渡りに付随する役もある。

籠馬(かごうま)にチャリと呼ばれる道化役の猿とひょっとこの馬子がつく。

楽長は一文字笠を被り、白着物に黒紋付羽織を着る。

楽太鼓は緋モミの前垂れのついた花笠を被り、腰に五色の御幣をつけて、赤の襦袢に広袖の白着物を黒の角帯で締める。

頭に山鳥、孔雀、雉、鶏などの羽根を取り付け白鉢巻き。

木綿地に唐獅子牡丹を染め出しした着物にウサギ染めの幕をつけた羯鼓を身につける。

両手にバイを持って造花で作ったホロ花を背負う。

蜂の巣やマキチリと呼び名がある緋の幟もつける。

ユニークなのは猿を表現したマルゴチの飾りもぶら下げる。

中踊りでは羯鼓を打つ仕草をするが、実際は打たない。

歌出しの地歌い役は妻折れ笠を被り、白着物に五つ紋の紋付羽織を着る。

一方、立歌い役は緋モミの前垂れのついた花笠を被り、白着物に紋付羽織で右手にもった団扇で踊りを振りつけるようにしながら歌う。

棒振りの鬼は青鬼と赤鬼。

頭に山鳥の毛冠、紺の襦袢に股引姿になる。

10月3日は参籠舎で行われる「花つくり」だ。

割竹は白い布を巻きつける。

「花きり」で作った花と葉をしなやかに曲がる4mほどの割竹に貼り付ける。

それらを終えれば境内に広げてホロ花を乾燥させる。

この日はお渡りに参列する黒と赤の籠馬には五色のタテガミやシュロで作った尻尾もある。

中踊りが背負う28本のホロ花も調製する。

出来上がれば下部を閉じてしなやかさが出るように曲げておく。

山畑には屋敷出、瀬古奥、上出(かんで)、谷出(たんで)、湯屋、湯屋奥、山王、瀬古、奥出、的場東、的場西、子守、中央、同満、宮西の15組がある。

祭り用具を作るのは廻り当番の二組があたる。

さらなる作業がある。

有志の人たちが作る赤い紙の牡丹花だ。

芯花に花びらを一枚、一枚、丹念にノリ付けする。

牡丹花は中踊りが背負うオチズイや楽打ちと立歌いの花笠に挿す。

なお、楽打ちは帯に薬入れの印籠を帯に着けたりするし、笠に緋色の布で顔を覆う「フクメン」もする。

このフクメンは立歌いの花笠にもある。

立歌いの花笠には12本の桜花も取り付ける。

祭り用具ができあがってほぼ2週間後の10月第二土曜日は宵宮。

この日は奉納相撲が手作り土俵の上で行われる。

夜、祈願祭が行われたのちに相撲が始まる。

裸姿の子供たちは白いふんどしをしている。

大正十五年より始まった青年会主催の「奉納角力」は小学生の部と成人の部がある。

成人の部は化粧回しを身につけた中入りや行司、呼び出しらも土俵に上がって角力甚句と力士歌を披露する。

奉納相撲の最後を飾る幣角力がある。

力士に大錦がある。

行司が幣を大錦に差し出すや否や幣を持った大錦が大きな声を掛けながらシコを踏む。

祝いの儀式になるそうだ。

そして、「ようてしゃんの」と声をかけてパン、パン、パン・・パンと手打ちする。

マツリの日は始めにお旅所へ向けてオチズイなどを運び出す。

オチズイの全容は美しいホロ花。

お旅所に持ち込んで立てることから「花あげ」の呼び名がある。

籠馬と猿はお旅所に建つ庚申堂に運ぶ。

お旅所の裏山は春日社跡地。

つまり津島神社があったとされる地であるが牛頭系ではなく春日というのが考えさせる。

お渡りを経て奉納される踊りは「式入踊り」、「御宮踊り」、「神役踊り(大神役・小神役の2曲)」、「津島踊り」の4曲であるが、かつては19曲の踊りがあったそうだ。

なお、神役踊りを終えれば左舞式入と呼ぶ「庭鎮め」の一節もある。

四に、宮川流域のひとつにある三重県多気郡大台町下三瀬(しもみせ)に羯鼓踊りがある。<資料なし>

大台町は名張市より東南の方角。

直線距離は35kmもある処だ。

元和元年(1615)大阪夏の陣に出陣し討死した三瀬左京祐の供養に由来すると云われている羯鼓踊りである。

三瀬左京祐は出陣にあたって、万一、討死の際は屋敷を地区のものとして、供養して欲しい旨を残したと云い、現存の慶雲寺は三瀬左京祐の屋敷跡と伝えられている。

五に、宮川流域のひとつである三重県多気郡明和町の有爾中(うになか)。

当地では毎年7月14日に近い日曜日に天王踊が行われる。

祭礼の場は宇爾桜神社。

疫病除けの天王祭行事の中で奉納される踊りが天王踊だ。

有爾中の羯鼓踊とも呼んでいる。

天王踊の主役となる踊り子は白馬の尾毛で作った円筒形の「シャグマ」を被って顔を隠し、羯鼓を打ちながら踊る大人に花笠を被って羯鼓を打ちながら踊る高学年の小学生。

綾踊りを演じる綾子と呼ばれる低学年の小学生が務める。

踊りは江戸時代半ばから行われてきたが、明治41年の神社合祀に伴って中断する。

その後は度々復活するも断続的に中断となっていた。

時代は昭和57年に移る。

伝統を絶やすまいと声をあげて当時の有志たちが造営を機会に復興する。

菅を編んで作ったシャグマは腰蓑にする。

竹ひごに紙で作った花を取り付け枝垂れ状にした飾りは「ヤナギ」と呼ぶ。

「ヤナギ」の原点は室町時代末のころから江戸時代にかけて全国的に広まった風流囃子の疫神祓いの造り物の一つにある「傘鉾」とされる。

「ヤナギ」はさらに緋色の円形布も取り付ける。

形から云えば伊賀市山畑(やはた)で行われる神事踊に登場する楽打ちや立歌いが顔を覆う「フクメン」と同型だと思った。

踊り子は皆、「ザイ」と呼ばれる飾り物を腰に挿す。

「ザイ」は形から采配のように思える。

演目は「入込み」を始めに、願済の「流願(立願の名もある)」、「世の中」、「世の中打ち抜き」。踊りが終われば境内に立ててあった「ヤナギ」こと傘鉾の花飾りを奪い合うように引き抜いて持ち帰る。

これを「ヤナギトリ」と呼ぶ。

その後の踊りは「きよまくま」、「三ツ願」、「回りズーデン」とも呼ばれる中踊りの「綾踊り」。休憩を挟んで「流願」で終えるが、このときの大人はシャグマを外して鉢巻き姿になる。


六に、三重県宮川流域にお盆の精霊を供養するカンコ(羯鼓)踊りがある。

下流域のカンコ踊りは菅の腰蓑にシャグマ姿という特異な扮装で踊る地域もあれば、円陣になって普段着で踊る盆踊りのような形態もある。

伊勢市の円座町(松阪より南方30km)・佐八町(松阪より南方18km)・小俣町の共敬(きょうけい)(松阪より南方16km)・下小俣(ホケソ踊り保存会)・中小俣・東豊浜町の土路、度会郡南伊勢町の道方、大台町の下三瀬、度会郡度会町の麻加江(大名行列踊りもある)など流域24カ所で行われている。

これらはお盆に踊る精霊初盆供養の踊りである。

地区によっては六斎鉦を打ち鳴らし「ガンニシクドク・・・念仏を唱えよう・・」などの詞章も入る。

「大踊り」、「念仏踊り」、「精霊踊り」、「大念仏」、「豊後」、「御所踊り」などがある。

昔からしていた念仏踊りに娯楽要素のある風流踊り(室町時代)が加味されたことによるものらしい。


七に、三重県松阪市小阿坂町のかんこ踊りがある。<資料なし>

年中行事として、今から200年前に起こったと伝えられるかんこ踊りは氏神に願礼報賽のために毎年1月14日に近い土曜日(12~18日間の土曜日)に小阿坂町阿射加神社境内に於いて奉納されている。

古来は、豊作の悦びと感謝の気持ちを込めて神に踊りを奉納する他、干害著しいときの雨乞い・諸祈願・慶事等に随時奉納していた。

踊りの内容は、太鼓を掛けた子供や大人の周りを和服姿で団扇を持った女子、その外側には赤采と白采を持った大人が唄・笛・洞貝に合わせて踊る世の中踊りなどがある。


八に、三重県松阪市西野町の西野子踊り(羯鼓型)がある。<資料なし>

いつ頃に始まったのか、定かではないが、言い伝えによれば、室町時代か安土桃山時代からとも考えられている。

明治末期から昭和初期にかけて最も盛大であったが、昭和27年以降、若い衆が少なくなったことから中断した。

その後、昭和54年に保存会を結成し、踊りを復活し、現在に至っている。

和歌山県日高市日高川町にある安珍清姫悲恋物語で知られる道成寺の流れをくむ郷土芸能である。

道成寺に展示してあった「道成寺から発信した郷土芸能の図」の中に、西野の子踊りがあった。

また、子踊りの「鐘巻踊」の歌の中にも安珍清姫悲恋物語が歌われている。

資料の一部によれば大江の羯鼓踊に近い様式をもつ地域は三重県の他、滋賀県にもあると書かれていた。

地区は甲賀市油日・油日神社の太鼓踊りがそうであるらしい。

こうした類事例の現状を調査するには何年もかかることであろう、と思う。

トップの写真は取材させていただいた南山城村・田山の花踊りである。

(H27.11. 3 EOS40D撮影)

名張市鵜山福龍寺のオコナイ

2013年04月26日 08時34分39秒 | もっと遠くへ(三重編)
午前中いっぱいかけてオコナイの飾りつけを終えた一行は頭屋家で接待料理をいただく。

男の子が誕生した頭屋家の祝いのもてなしだと云う。

子供の誕生がなければ公民館で行われる区長の接待だそうだ。

会食を済ませた人たちは再び公民館に集まってくる。

午後も作業がある。

村人が到着するまでに作るのが「キョウ」である。



型押しして作るキョウのメシは四角。

四隅に僅かな尖がりが見られる蒸しメシである。

「キョウ」を充てる漢字は「饗」。

午前中に村の戸数分を作っておく。



そのうちの一つは風呂敷に包んで氏神さんに供える。

地主神とされる地の神さんこと八柱神社はかつて八王子社と呼ばれていた。

膳に乗せて本殿に供える。

寺行事であっても御供を地の神さんに食べてもらうのだ。

かつては蒸したキョウのメシを一旦は菰に広げていた。



冷ましてから型枠に詰め込んでいたが、現在は炊いた炊飯器からしゃもじでよそって型枠に詰め込む。



「キョウ」の膳には2本のゴボウと角切りのダイコンに水漬け大豆を添える。

やってきた村の人が公民館に上がって席に着けば汁椀とともに配膳する。

汁椀はトーフと乾燥した赤いサトイモの葉っぱを入れた味噌汁。

ダシジャコの香りが漂ってくる。



キョウ作りや接待役は区長と手伝いさん。

午後の時間帯も接待に忙しい。



キョウの膳は食べることなく汁椀をよばれて本堂に上がる。

かつては福龍寺本堂に上がってキョウの膳をいただいていたそうだ。

なお、汁椀については見学者にも振舞われるありがたい鵜山のもてなし。



この年は頭屋の子供も席に着いた。



生まれて間もない赤ちゃんは祖母が抱いて村人たちへのお披露目。

蘇民将来の子孫誕生をみなで喜び合う。

キョウの膳を公民館でよばれたあとは本堂でのオコナイに移る。

オコナイの法要をする僧侶は薦生(こもう)の妙応院住職。

鐘が撞かれて始まりの合図。



この日のオコナイに参集した村人は24人。

本堂がいっぱいになった。

導師の真言読経、般若心経に続くお経の途中で「ランジョー」が発せられると縁にある太鼓(奈良県無山で大正11年に製作 中川祭太郎張替)を打ち鳴らす。

太鼓は本堂廻りの回廊にある。

堂外で鳴らすのであるが扉は閉めたまま。

「ランジョー」の声が聞こえにくい。

ドンドコドンドンと太鼓を打ちながら心経を唱えるは6分間。

ぴたりと止んだ太鼓打ちの僧侶は斎壇に座り直す。

村の人の名を詠みあげる時が流れる。

耳を澄ませてじっと待つこと25分後のことだ。



「ランジョー」が発せられた。

「今だ」と気合を込めてドン、ドン、ドンと叩く太鼓打ちは組長の役目。

わずかに1回の作法で終えたランジョー(乱声)は村から悪霊を追い出す所作である。

2月11日には大般若経の転読法要があると案内される僧侶もほっとした顔つきになった。

福龍寺には六百巻の大般若経が現存しているが法要には使わない。

「奉施主入飯道寺 正和二年(1313)」に寄進された大般若経典。

飯道寺は近江の国。

甲賀郡の経典がなぜに鵜山にあるのか、記録も伝承もない。

昔は経典を納めた箱をオーコで担いで村中を巡ったものだと話す。

また、地主の神さんとされる八柱神社の棟札に「正和六年(1317)」の年代が書かれてあったそうだ。

時代的に一致する大般若経典と棟札が伝わることから福龍寺とともに社殿があったと思われる。

八柱神社は五男三女神を祀り、江戸期には八王子社と呼ばれていたというから牛頭天王社であろう。



こうして長丁場のオコナイを終えた村人たちは祈祷された「大地主神 八柱神社 大御歳神」のお札と「ソミノシソンナリ」の護符を授かる。

大正時代の末頃まではランジョーが発せられるとともにナリバナを奪いあった。

現在は争奪戦にならないようにコヨリクジを引いて当たりのナリバナを背負って持ち帰る。



祈祷札はT字型に切り込みを入れたハゼの木に挿して持ち帰る。



お堂の下ではそれらを受け取る人でいっぱいになるが名前を呼びだしてのことだから争奪戦にはならないのである。



「チバイ」はと言えば生まれたての子供を抱く頭屋と6歳以下の子供(男女)がいる家だけが受け取る印だ。

この年は生まれたての頭屋があったが、なければ区長が代役を勤めると云う「チバイ」はすくすくと育ってほしいという願いがあるようで、神棚に一年間奉って翌年のどんどで燃やすそうだ。



ナリバナを貰って家路につく笑顔の婦人たちの顔は実に嬉しそうだ。

背負った婦人たち表情がなんとも言えない鵜山の風情を醸し出す。



重たいから細かく刻む人や軽トラに乗せる人もいる。

風呂敷に包んだキョウのメシは地主神こと八柱神社のお札をハゼの木に挟んで持ち帰る。

お札とハゼの木は苗代、或いは田植え時の田んぼの畦に挿して、今年も豊作になりますようにと立てる。

ちなみにケズリカケとサラエは今年の頭屋が記念に持ち帰るが、その他の飾りやナリバナの台、ケズリカケ、サラエなどすべてが燃やされる。



かつてはダンジョーの作法を終えると始まった争奪戦。

子供たちも大勢おってサラエやスズメを奪い取ったと云う縁起ものだそうだ。

なお、手伝いにあたった頭屋家親戚のⅠ氏は東大寺二月堂修二会における「香水講」で、12日は神官装束になる泊りだそうだ。

この辺りは鵜山を含める地域(山添村広代など)で香水講の集団があるようだ。

お水取りの際に閼伽井屋に提灯を掲げる東香水講だと思われるのである。

また、鵜山には般若心経を唱える観音講もあると云う。

昔は大勢おられた観音講は今では3人。

少なくなったが毎月のお勤め。

般若心経を100巻も唱える。

大勢おられたときは早めに終わった般若心経は3人で唱えるには多い。

一人あたりが33、34巻にもなると云う観音講の営みは毎月17日。

かつては僧侶も来ていたが今は婦人だけの営みは14時から始めるそうだ。

何巻唱えたか判るように小豆を数取りにしている。

一般的には婦人の観音講であるが鵜山では男性もいる。

男性は3人でオトナ講でもあるそうだ。

10月中旬(第三日曜)辺りの日曜日に行われるマツリの頭屋は4軒で勤める。

ダイコン、ゴボウ、コンニャクの「タイテン」に大きな生の丸イワシを膳に盛ると云う。

山添村の広瀬住民のひと言から拝見した名張市鵜山のオコナイ。

奈良県内のオコナイと比較研究する意味合いも見つかった鵜山のオコナイは周辺行事も含めてさらなる民俗行事を取材したくなった一日である。

(H25. 1.13 EOS40D撮影)