伊賀市大内のうどん味でゆっくり寛いだ時間。
午後2時からと聞いていた宇陀市室生の夏神楽がはじまるまではたっぷりある。
その間に調べたい大内近辺の民俗。
コンビニもどこにあるのか調べてみたい。
トイレ休憩も兼ねて走らせる辺り一面が広がる田園地帯。
大内で出前販売していた人たちに教えてもらったコンビニは東側にもあるがちょっとややこしいらしい。
こっちなら北に向かって一直線。
道なりに走っていけばすぐ着くと教えてもらった農道。
市街地より景観も良いし、爽やかな空気感も良い農道。
真っ直ぐ、真っ直ぐ行ったらあった。
コンビニはイオン系のミニストップだった。
走ってきた車道から観る景観に不思議を感じる。
その情景は6月に利用した伊勢相差の食事ツアー。
帰路に見た観光バスの車窓の向こう。
どことなく高く作った垣根である。
観光バスの走る速度に瞬間で見た光景に暮らしの民俗がありそうだと思ったICの標識に久居市青山とある自動車道。
運輸会社の看板から津市一志町庄村の辺りだろう。
一瞬の光景が目に焼き付いた。
それと同じかどうかわからないが、農道沿いの何カ所かにそれがある。
生け垣の高さはやや高め。
少し走っていったそこは樹林帯に囲まれている。
樹林帯は相当な高さの巨木のように思える。
その樹林の隙間に垣間見た民家。
なんとなく鎮守の森のようにも思える。
木津川に沿って走る農道。
このまま真っすぐ行けば、どにに出るのだろうか。
163号線と交差する信号を東に行小田の市街地。
そこから北に向かえば関西本線の伊賀上野駅に着くようだ。
さて、なんであろうか。
遠目ではわかりにくいから少し近づいてみるが樹木帯の周りは分化した稲が育ちつつある田んぼ。
どこもかしこも緑色に広がる田園地帯に民家に向かう一本の道がある。
呼び鈴を押して尋ねたそこは伊賀市大野木字神ノ木竹島氏居館跡。
当主が不在なので説明はできませんが、という若婦人にお願いして門屋を拝見させてもらった。
頑丈な造りで重厚な門構えの門屋に圧倒される。
伊賀市教育委員会が設置した史跡、伊賀市指定文化財の解説板書がある。
解説文に「伊が地域には、室町後期のころに造られた小領主の城や居館である中世城居館がよく残されている。竹島氏居館跡は、平地に造られた中世城居館の一つ。主郭は郭内で、東西約27m。南北に役36の広さ。四方を高さ2m~4mの土塁に囲まれ、主郭南側に土塁の中央部が開き、長屋門を設けている。堀は土塁を取り囲むように設け、西側に水田として地割する云々・・」とある。
解説文によって知った室町後期の平城(ひらじろ)の形態。
まだ天守閣の時代が到達していないころの平城居館跡であった。
同時代の奈良県内においても平城(ひらじろ)が多々あった。
平たん部に建てられた村々の領主が住む平山城。
建物はまさに居館である。
居館の廻りに土塁で囲って掘割、或いは環濠も仕掛ける造り構造は同じであるが、現存するところはない。
平城に対して山間地に建てたのが山城。
険しい土地に建てる山城も少なくない室町期であるが、古くは平安時代からあった居館構造。
鎌倉期から南北朝時代を経た室町期。
小領主より規模が大きいかった代表格が筒井氏の筒井城であるが、建物は居館であった。
竹島氏居館跡を拝見してから気になる樹林帯に囲まれたその地である。
Uターンして戻ったミニストップへの道程。
その途中にあった樹林帯に囲まれた地。
お声をかけながら歩いたその先の民家。
お尋ねします、と声をかけたら玄関に出てこられたまだお若い男性。
樹林帯に囲まれた構造を知りたくてこちらに立ち寄らせてもらったと伝える。
先に拝見した竹島氏居館跡に、もしやと思って立ち寄った、と伝えたら教えてくださった。
1250年前、古事記にも名前がみられるふくぎた家。
中国からやってきて住み着いたという歴史あるお家。
室町期の戦国時代に活躍したというふくぎた家。
役職はしょうげん。
天正伊賀の争いに活躍したものの追いやられて四国の長曾我部家に匿われた。
その後の徳川時代に復帰してこの地に戻ったという。
漢字で言えば福喜多家だという。
関東にも福喜多家があるそうだが、発音は濁らずふくきた家。
ここ伊賀市の福喜多家が本家本元である、という。
立派な門屋があったあそうだが、先代が壊したという。
また、教育委員会から文化財指定の話もあったが、何のメリットもない指定は断ったという。
江戸時代から続く建物。
珍しさに伊賀市朝屋(ちょうや)庄・伊賀十二人衆福喜多将監(ふくぎたしょうげん)の存在を知ってか、いろんな人が写真を撮りにくるが、みな断っている。
今もこの建物で生活しているから、撮るもんではないだろうと・・・。
撮らせてくださいと何人もきたが、みな断った。
その際に「チッ」と舌打ちした人物には一喝したこともある。
それにも関わらず周囲から撮り続けた輩もいたので警察に届けたこともあるという。
そのことはともかく、ここ伊賀市内の田園地に室町期の歴史的構造物があると知って、これもまた民俗の学び。
建物構造もあるが、ここ福喜多家も当家の親戚にあたる竹島氏居館跡も掘割に防御のために仕掛けたと想定する樹林帯。
話してくださった男性は、ここだけでなく三重県には他地域にもあるという。
その地域は伊勢市。
ツアーに乗ったバス走行中に目にした生け垣に囲まれる民家もその一つであった。
もやっとしていた生け垣民家の構造。
話してくださったことで謎が解けた。
この場を借りて感謝申し上げる。
(R1. 7.15 SB805SH撮影)
午後2時からと聞いていた宇陀市室生の夏神楽がはじまるまではたっぷりある。
その間に調べたい大内近辺の民俗。
コンビニもどこにあるのか調べてみたい。
トイレ休憩も兼ねて走らせる辺り一面が広がる田園地帯。
大内で出前販売していた人たちに教えてもらったコンビニは東側にもあるがちょっとややこしいらしい。
こっちなら北に向かって一直線。
道なりに走っていけばすぐ着くと教えてもらった農道。
市街地より景観も良いし、爽やかな空気感も良い農道。
真っ直ぐ、真っ直ぐ行ったらあった。
コンビニはイオン系のミニストップだった。
走ってきた車道から観る景観に不思議を感じる。
その情景は6月に利用した伊勢相差の食事ツアー。
帰路に見た観光バスの車窓の向こう。
どことなく高く作った垣根である。
観光バスの走る速度に瞬間で見た光景に暮らしの民俗がありそうだと思ったICの標識に久居市青山とある自動車道。
運輸会社の看板から津市一志町庄村の辺りだろう。
一瞬の光景が目に焼き付いた。
それと同じかどうかわからないが、農道沿いの何カ所かにそれがある。
生け垣の高さはやや高め。
少し走っていったそこは樹林帯に囲まれている。
樹林帯は相当な高さの巨木のように思える。
その樹林の隙間に垣間見た民家。
なんとなく鎮守の森のようにも思える。
木津川に沿って走る農道。
このまま真っすぐ行けば、どにに出るのだろうか。
163号線と交差する信号を東に行小田の市街地。
そこから北に向かえば関西本線の伊賀上野駅に着くようだ。
さて、なんであろうか。
遠目ではわかりにくいから少し近づいてみるが樹木帯の周りは分化した稲が育ちつつある田んぼ。
どこもかしこも緑色に広がる田園地帯に民家に向かう一本の道がある。
呼び鈴を押して尋ねたそこは伊賀市大野木字神ノ木竹島氏居館跡。
当主が不在なので説明はできませんが、という若婦人にお願いして門屋を拝見させてもらった。
頑丈な造りで重厚な門構えの門屋に圧倒される。
伊賀市教育委員会が設置した史跡、伊賀市指定文化財の解説板書がある。
解説文に「伊が地域には、室町後期のころに造られた小領主の城や居館である中世城居館がよく残されている。竹島氏居館跡は、平地に造られた中世城居館の一つ。主郭は郭内で、東西約27m。南北に役36の広さ。四方を高さ2m~4mの土塁に囲まれ、主郭南側に土塁の中央部が開き、長屋門を設けている。堀は土塁を取り囲むように設け、西側に水田として地割する云々・・」とある。
解説文によって知った室町後期の平城(ひらじろ)の形態。
まだ天守閣の時代が到達していないころの平城居館跡であった。
同時代の奈良県内においても平城(ひらじろ)が多々あった。
平たん部に建てられた村々の領主が住む平山城。
建物はまさに居館である。
居館の廻りに土塁で囲って掘割、或いは環濠も仕掛ける造り構造は同じであるが、現存するところはない。
平城に対して山間地に建てたのが山城。
険しい土地に建てる山城も少なくない室町期であるが、古くは平安時代からあった居館構造。
鎌倉期から南北朝時代を経た室町期。
小領主より規模が大きいかった代表格が筒井氏の筒井城であるが、建物は居館であった。
竹島氏居館跡を拝見してから気になる樹林帯に囲まれたその地である。
Uターンして戻ったミニストップへの道程。
その途中にあった樹林帯に囲まれた地。
お声をかけながら歩いたその先の民家。
お尋ねします、と声をかけたら玄関に出てこられたまだお若い男性。
樹林帯に囲まれた構造を知りたくてこちらに立ち寄らせてもらったと伝える。
先に拝見した竹島氏居館跡に、もしやと思って立ち寄った、と伝えたら教えてくださった。
1250年前、古事記にも名前がみられるふくぎた家。
中国からやってきて住み着いたという歴史あるお家。
室町期の戦国時代に活躍したというふくぎた家。
役職はしょうげん。
天正伊賀の争いに活躍したものの追いやられて四国の長曾我部家に匿われた。
その後の徳川時代に復帰してこの地に戻ったという。
漢字で言えば福喜多家だという。
関東にも福喜多家があるそうだが、発音は濁らずふくきた家。
ここ伊賀市の福喜多家が本家本元である、という。
立派な門屋があったあそうだが、先代が壊したという。
また、教育委員会から文化財指定の話もあったが、何のメリットもない指定は断ったという。
江戸時代から続く建物。
珍しさに伊賀市朝屋(ちょうや)庄・伊賀十二人衆福喜多将監(ふくぎたしょうげん)の存在を知ってか、いろんな人が写真を撮りにくるが、みな断っている。
今もこの建物で生活しているから、撮るもんではないだろうと・・・。
撮らせてくださいと何人もきたが、みな断った。
その際に「チッ」と舌打ちした人物には一喝したこともある。
それにも関わらず周囲から撮り続けた輩もいたので警察に届けたこともあるという。
そのことはともかく、ここ伊賀市内の田園地に室町期の歴史的構造物があると知って、これもまた民俗の学び。
建物構造もあるが、ここ福喜多家も当家の親戚にあたる竹島氏居館跡も掘割に防御のために仕掛けたと想定する樹林帯。
話してくださった男性は、ここだけでなく三重県には他地域にもあるという。
その地域は伊勢市。
ツアーに乗ったバス走行中に目にした生け垣に囲まれる民家もその一つであった。
もやっとしていた生け垣民家の構造。
話してくださったことで謎が解けた。
この場を借りて感謝申し上げる。
(R1. 7.15 SB805SH撮影)