マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

鴨神實講の宵宮還幸

2015年05月22日 09時36分27秒 | 御所市へ
戌亥講が会食されている時間帯。

もしかとすれば上頭講が参拝しているかもしれないと思って高鴨神社に向かった。

到着していた講中はネクタイを締めたスーツ姿である。

講中は4人。

宮司の承諾を得て撮らせていただくが、神事であるゆえ邪魔にならないようにと指示があった。

平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』によれば鴨神の宮座講は9講ある。

「土地永住の子孫の組織せるものにして、最も権威のあるものゆえ、決して座外の氏子は加入せしめず。今後、新座を組織する場合も同じ。座の首座を一老または年頭という」と書いてあった。

発刊当時の宮座講は8座から新座を加えた9座である。

内訳は上頭(19人)・諸頭(10人)・戌亥(4人)・実の出座(8人)・冨田(6人)・古捿(3人)・弥栄(7人)・垣内(6人)・実寿毛登(4人)である。

奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』に載っている鴨神の宮座講の内訳は上頭座(19人)・諸頭座(10人)・戌亥座(4人)・實(巳)の出座(8人)・冨田座(6人・上頭座にも加入)・古捿座(3人)・彌榮座(7人)・垣内座(6人・5人は上頭座にも加入)・實壽毛登座(4人)とある。

中田太造著の宮座講の引用は『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によるものであろう。

水野垣内で聞いた「やさか講」はおそらく彌榮座のことであろう。

訪れた時間帯に参拝されていた宮座講は「みのり講(實講)」と呼んでいた。

宮司が一礼されて祓え詞を唱える。

サカキを左右に振って講中を祓い清める。



そして、「ヨロコビノ ヨロコビノ ゴヘイガ マイルーマイルー ワーイ」と発声されて最奥に鎮座する社殿に向かった。

「みのり講」はおそらく實壽毛登座であると思われる。

会食をしていた戌亥講のYさんの話しによれば西佐味の人たちのようだ。



高鴨神社への宵宮参拝は9講それぞれが順に参拝されて夜8時までに終わらなければならない。

それは8時から東佐味・西佐味・鴨神下・鴨神上の4カ大字における寿々伎提灯の献灯があるからである。

なお、大御幣を持って参拝する翌日11日のマツリは朝8時頃から10時過ぎまで各宮座講が順次行われるようだ。

(H26.10.10 EOS40D撮影)

鴨神戌亥講の宵宮還幸

2015年05月21日 08時44分19秒 | 御所市へ
度々訪れる御所市鴨神の行事取材。

この日は高鴨神社の分霊を祀っていたそれぞれの宮座講が還る還幸祭が行われる。

そのうちの一つである上頭講(じょうとうこう)がある。

講中の一人は鴨神の大西垣内に在住する。

12月に行われる大西垣内の申講でもある。

訪れる度に一度来てほしいと云われていた。

昼には講中のトヤ(当家)家でヨバレがある。

会食を済ませて高鴨神社に参ると話していた。

上頭講は7軒。かつては倍以上もあったそうだ。

尋ねていった鴨神は佐味郷と呼ばれる地域。

東佐味・西佐味・鴨神下・鴨神上の4カ大字からなる郷村であるが、営みの場となるトヤ家が見つからなかった。

毎度停めさせてもらっている場で佇んでいたときのことだ。

下にある民家の前庭で動き出した男性。

屋内から運んだ社や行燈を設営されたのだ。

男性は申講の一人でもある顔馴染みの人である。

設営された社は何であるのか尋ねてみた。

この日の夕刻には高鴨神社へ参拝する。

出発するにあたって分霊を祀った社に向かって拝礼をする。

その際には太鼓を打って「ゴヘイガマイルゾー マイルゾ ワーイ」と囃すと云うのだ。

男性は上頭講でもなく「いぬい講」であると云う。

方角を示す漢字であったと話しで思い出した。

平成19年の10月10日は高鴨神社に献灯される秋祭りの寿々伎提灯取材だ。

それより始まる2時間前。

神社鳥居付近に集まる3人の男性がおられた。

話しを聞けば宵宮の日には白い幣を掲げて参拝をすると云うのだ。

その際に囃す詞がある。

「ヨロコビノ ヨロコビノ ゴヘイガマイルー ウワーハハーイ」である。

高鴨神社の宮司にも承諾を得て撮影させていただいたのが戌亥講(いぬいこう)だった。

当時、参られたのは男性の父親だった。

引退された父親を継いで講中を勤めている。

なんという出合いであろうか、不思議な縁は7年後の再会である。

設営された男性は神前に米・酒・水やサツマイモ・ナシ・コンブも供えてローソクを灯す。

手を合わせて戌亥講の神さんに手を合わせる。

これより2時間半後には二人の講中が参集する。

それまでの時間は上頭講のトヤ家を探すのだが見つからない。

家の玄関前には提灯を下げていたが不在であった。

仕方なく大西垣内を探索してみる。

1軒が見つかったが「やさか講」だと云うのだ。

講中のトヤ家は水野垣内。

山の神弁天さんとんど焼き観音さんなどの水野垣内の行事を取材させていただいた地である。

訪ねて行ったM家には大西垣内のFさんの奥さんが居た。

奥さんはM家の奥さんと親しい間柄。話しが弾むのである。

「やさか講」は夕方5時にトヤ家でヨバレ。

それより先に御幣を作る。

お米を包んだ紙包みを御幣に括る。

今ではパック詰め料理になったが、かつてのヨバレはすき焼きだった。

今では簡略化したそうだ。

高鴨神社に参るのは夜の7時。

歩いていくというが遠方地である。

その際に囃す詞は「マイルゾ マイルゾ オヘーガマイル」だそうだ。

「オヘー」はおそらく御幣のことであろう。

再び戻って戌亥講のトヤ(当家)家に向かう。

戌亥講はかつて4軒であったが、今は3軒。

平成19年に取材させてもらったときも3軒であった。

そうこうしているうちに二人の講中がやってきた。

二人は福西垣内。

お一人の顔は覚えているYさんだ。

平成21年12月から翌年にかけてカメラのキタムラ奈良南店で「御渡りのトーニン」をテーマに鴨神の還幸祭も展示したことがある。

「写真が展示してあった」と村の人から伝えられたそうだ。

平成19年にはトヤを勤めたYさんも私のことを思い出してくれた。

懐かしい話しで盛り上がったのは云うまでもない。

講中が揃ったところで御幣作りが始まった。

この日は翌日のマツリの御幣も作る。

始めに手掛けたのは大御幣。

三枚の扇を括りつけた日の丸御幣である。



御幣の扇には赤紙を半月のように切り取って貼り付ける。

一つはお月さん。

もう一つはより鋭角に切った半月を二枚重ねで貼り合わせる。

それはカラスだと云う。

一枚の扇にそれぞれ貼り付ける御幣である。

宵宮のこの日に持っていくのは小御幣だ。



シノベダケの先端をナタで割って20枚ぐらい重ねた幣を取り付ける。

幣は一枚、一枚ひっくり返すように反転させる。

盛り上げはまるで雪洞のように見えるような形にした。

適量のお米を半紙で包んだ御供を小御幣に結び付ける。



ハチクに取り付ける大御幣。

挟む部分を伐り落として紙片を充てる。



キリで穴を開けて水引きで括る際には二枚重ねの赤・白の幣も通す。

小御幣とも長さは七尺および六尺だそうだが、小御幣よりもひときわ大きいように見える幣である。



これは翌日のマツリ参拝の際に持っていく大御幣である。

御幣ができあがればトヤ家でのヨバレ。

参拝に出発するまでの時間帯は会食である。

鴨神の宮座講ではそれぞれ参拝する時間が決まっているようだ。

トヤ家には太鼓があった。



片面は破れているが、打った音色はドン、ドンと鳴る太鼓には「大正村字鎌田丸や佐五郎 大正六年拾月□□太鼓張替」と書いてあった。

数時間の会食を終えた講中。

そろそろ出発の時間がきたと云って腰をあげた講中はネクタイを締めたスーツ姿だ。

この時間帯は真っ暗である。



傍に小御幣を立て、分霊を祀った社にローソクを灯す。

拝礼をされて立ちあがる講中は小御幣を一人ずつ手にした。

「ヨロコビノ ヨロコビノ ゴヘイガ マイルーマイル ワッハァーイ」と2度発声されて出発だ。



本来ならトヤ家から歩いて出かけるが、この日は乗用車で向かう。

運転手は奥さんだ。

小学生に幼稚園児の子供も連れて向かっていった。

出発の際には太鼓を打つと云っていたが、この日は打つことはなかった。

道中にある福西垣内のY家辺りや適当な場の数か所でも発声するお渡りの先頭はトヤ家だ。

神社に着けば鳥居を潜って宮司を待つ。

お祓いをしてもらって発声する。

その様相を拝見したのが7年前だったのだ。

この日は談山神社の御供作りの取材がある。

申しわけないが神社参拝を拝見する時間はない。

(H26.10.10 EOS40D撮影)

東佐味弥勒寺千灯供養

2015年03月22日 09時01分58秒 | 御所市へ
4月に行われた峰山百体観音祭は時間的に間に合わず拝見できなかったが、寺総代らから御所市東佐味の弥勒寺で千本灯明が行われると聞いていた。

同寺でかつて8月13日に東佐味の六斎講による六斎念仏が行われていた。

講中はお一人であるため現在は中断している。

お寺さんや寺総代らに話しを伺いたく早めに出かけた。

到着した時間帯は寺総代や村役員たちが本堂前や弁天さん、地蔵石仏、墓石などにローソクを立てていた。

千本灯明というだけに多いローソクの本数。

いったいいくらであるのか尋ねてみた。

使用したローソクの箱は空っぽだ。

箱には20本入りと書いてあった。

このローソク箱を数えてみれば60箱にもなる。

単純計算してみれば1200本。

風でローソクの火が消えないようにすべてのローソクは紙で巻いていた。

役員たちは手分けして作業した。

「けっこうな時間がかかった」と云うのに納得する。

この日の寺行事は千灯供養。

始めに施餓鬼供養が行われる。

この日は14時に行われたようだ。

しばらく間をおいて19時より千灯供養が行われる。

千灯供養は巡拝する地蔵菩薩や弁天さんに紅白の御供餅を供えていた。

2斗も搗いた御供餅。

木桶の内部にいっぱい詰まっている。

その上にはセンベイのような形の「テンゴク」と呼ぶ餅も供えている。

こうした御供餅を予め供えておいて始まった千灯供養。

まずは本堂にあがった住職が本尊に向かって法要を営まれる。

お堂には数人の婦人らが上がっていた。

手を合わせてご真言を唱えている。

弥勒寺は高野山真言宗派である。



本尊法要は18時40分ころより始められて数分間の法要が行われる。

その間に何人かの村人たちが参拝に来られる。

「誰でもいいから」と云って鐘楼を撞く。

総代も鐘を撞いていた。



やってきたご婦人も撞けば連れてきた子供も撞く。

いわゆる呼び出しの鐘撞き。

これより千灯供養が始めるという村人への合図である。



鐘の音色を聞いた村人たちはぞろぞろとやってきて、本堂前庭に立てたローソクに火を点けていく。

ローソク立ては前庭だけでなく地蔵菩薩の前にも立ててある。



そこにもローソクに火を点ける。

村人はあっちこっち、と火点けに移動する。

葛城山系に陽が落ちて夜に移る寸前の地蔵法要である。



地蔵菩薩の石仏は高野山開創1200記念の大法会奉修供、弥勒寺改築の際に亡くなられた物故者の追善法要の為に造立したそうだ。

檀家たちは我が家の墓地にもそれぞれローソクを灯していく。



その間も住職は地蔵菩薩に向かって法要をされる。

暮れていく夕闇に灯したローソクの灯りが幻想的になってきた。



子供連れの家族もやってきてローソクの火点け。

水平にすれば火が消える、立てれば蝋が落ちてやけどをする。

始まる前に注意事項を述べた住職が話した通りに火を点けるが、子供たちは遊びのつもりもあってかトーチにする子もいた。



地蔵さんに法要をした住職は本堂本尊、弁天さんにも弔いの供養念仏をされる。



そのころともなれば婦人たちが住職の後列について並んでいた。



ぐるりと境内墓地を巡って再び地蔵さんに参る。

これを3回繰り返すのであるが、この夜はサービスがあったのか4回も巡った。

巡礼或いは巡拝のような千灯供養の在り方のように思えたが、墓石の前で拝む人は見られなかった。

ちなみにこの辺りで行われている施餓鬼は弥勒寺が最後だと云う。

千灯供養も〆になるのでは・・と思った。

1時間20分も保つというローソクの火。

30分も経てば消えているローソクもあった。

紙で巻いていたことから風に煽られて燃え方が早かったようだ。

ぞろぞろ住職についていく檀家たち。その数は多く、子供もついていく。

伸びた行列は20数人にもなった。

「千灯供養の巡礼は昔からこういう感じだった」と寺総代らが話していた。

こうして千灯供養を終えたら「ゴクマキ」に転じる。

供えた餅を撒く場合は「ゴクマキ」。

供えずに単に餅を撒く場合は「モチマキ」と呼ぶが、そういうことも知らないのは見かけしか知ろうとしない町の人。

誤解する人も多いので敢えてここで書かせていただく。

弥勒寺では争いに巻き込まれないように配慮して先に小さな子供にお菓子を手渡し。

狭い境内前庭にひしめくように座った村人たち。



夜のゴクマキをとらえるのは難しい。

(H26. 8.20 EOS40D撮影)

鴨神上郷大西垣内の愛宕参り

2015年02月14日 08時28分22秒 | 御所市へ
12月に申講の山の神参りをされている御所市鴨神上郷大西垣内。

垣内に建つ石燈籠は刻印が見られないが「愛宕さん」と呼んでいる。

愛宕さんは火伏せの神さん。垣内が火事に会わないように願って建てたと思われるが「伝え」はないようだ。

三つの桶に盛った紅白の餅を供えた石燈籠に集まる。

丸餅はコモチ。

煎餅のような形はカガミモチと呼んでいた御供は、ヤド家はこの日までに集落を巡った米集め、蒸した米で餅を搗いた。

三つの桶に盛った紅白の餅は1斗。

餅搗きは農協に頼んで搗いてもらったと話す。

神饌はタイ・モモ・ナス・ピーマン。

「そろそろ始めようか」と声を掛けた垣内の人たちが燈籠前に集まりだす。



導師が前に立って大祓えを唱える。

元々は虫を弔う虫供養だったと話す。

愛宕さんと虫供養の関係は判らないが、一同、手を合わせて拝礼で終えた。

直ちに場を替えてゴクマキに転じる。



ゴクマキの櫓はトラックの荷台。

適当な人がモチを撒いて拾う人たち。

笑いが絶えないゴクマキはあっという間に終わった。



これを「秒殺のゴクマキや」と話していた。

子供や婦人たちは手に入れたゴクモチをもらって帰るが、男性たちは手料理などで酒宴。

延々と飲食されるそうなので大西垣内を離れた。

ここら辺りでは地蔵盆の様相は見られないが、愛宕さんは隣村の伏見の北窪や西佐味にもしているようだと話していた。

(H26. 7.24 EOS40D撮影)

御所鳥井戸ひ孫のコイノボリ支柱

2014年11月18日 08時45分17秒 | 御所市へ
風の森から峠越え。国道24号線を北上していた。

昼過ぎから降りだした雨で葛城山系が霞んでいる。

五百家(いおか)を通りぬけてしばらくは下り坂。

往路にも通っていた国道である。

そのときに気がついた。

高く伸ばした木製の支柱があった。

支柱の先は矢羽根でもなく、木の葉でもない。

どことなくカマの形に似ていたのだ。

それは一体何であるのか。

気がかりにしたまま帰宅するわけにもいかず、念のためと思って訪ねた家は鳥井戸の住民。

母屋から出てこられた婦人は95歳。

支柱に掲げてあった正体を教えてもらった。

それはカマでもなく、ひ孫が生まれたときに立てたコイノボリの支柱であったが、最初の年は木の葉付きで2年目はくるくる回る矢羽根に取り替えた。

ひ孫は大きくなったが、そのままにしておいた。

もう何年も経っているという、それは矢羽根の欠片。

一枚が残っていたものがカマに見えたのである。

同家にはもう一本あったが、孫の誕生のときのもの。

どちらも山から伐り出したヒノキの木である。

それは門屋の前に立てていた。

用を終えたコイノボリの支柱は記念に門屋のツシに掲げている。

長い支柱は立派な太さ。

でんと構えている。

婦人の出里は五條市の野原。

それほど遠くない。

嫁入りしたときの家は現在の国道24号線よりも下の旧街道だった。

今でも田畑はそこにあって、この日は若い者がモミオトシをしてきたという。

この日は数か所で田んぼ作りをしている農家があった。

東佐味ではすでに苗代を済ませている田んぼもあった。

旧道はかつての本道。

バスの終着点でもあった。

国道24号線は山麓を走る新道になったころに旧道からあがって、この地に新居を建てた。

建築材は近くの山から伐り出して10年の廻り。

それから旦那とともに自前で建てたという。

かつての鳥井戸は葛城の心斎橋の名がつくぐらいの賑やかさがあったと思い出話。

いずれひ孫の支柱にもコイノボリを泳がせたいという支柱はネジで止めているから、緩めて倒すこともできるそうだ。

(H26. 4.28 EOS40D撮影)

西佐味水野の観音さん

2014年11月04日 09時07分55秒 | 御所市へ
この日は西佐味で行われるもう一つの観音さん行事の取材がある。

山の神、弁天さん、とんどを拝見した西佐味の水野垣内である。

この日に集まったのは3軒の講中だ。

降っていた雨もやんで、水野の墓地に安置している観音さんに参る。

安置する墓地周辺(小字堂ノ前)はかつて観音寺と呼ぶお寺があったそうだ。

鎌倉時代の終わり頃は葛城修験道が最も盛んな時代。

金剛山頂の転法輪寺、朝原寺、高天寺、大沢寺などとともに金剛七坊の一つであった西佐味であった。

今では小さな金銅観音仏を安置しているが、かつてあった本尊は下った中垣内の常福寺へ遷して安置していると云う。

小さな観音さんはその本尊から数えて三代目。

平成18年4月にF家が寄進したそうだ。

では、二代目は・・・。

これもまた常福寺にあると云う。

その二代目は昭和5年9月10日に開眼供養したと伝える札木が残されていた。



この日の法要は三巻の般若心経。

以前は観音経だったと云う講中もおれば、「般若心経や」と云う講中も。

「どっちゃでも構わん」と笑った。

心経を終えれば、昭和58年8月に建之した墓石に向きを替えて「なーむだいしへんじょうそんこんごう」と三回唱えた。

没年はいつの時代か判らないが、水野の観音堂に住まいしていた坊さんらしく、この辺りの田地や谷川分け水などすべてを村に寄進したえらい坊さんの名は傳道。

村に徳行をした傳道は「毎年の観音さんの日には供養をしてくれ」と遺言を残した。

そういうことから毎年の4月18日は今でも続けているのだと講中は話すが、常福寺には墓がないから参ることはないと云った。

(H26. 4.18 EOS40D撮影)

東佐味茶屋出垣内のとんど

2014年06月27日 07時20分37秒 | 御所市へ
鴨神下垣内住民に教えてもらった東佐味のとんどは3カ所で行われている。

すでに北垣内・南垣内の2カ所は火点けされて残り火。

時間的にも間に合わないと判断して思ってモーテル付近に出かけた。

平成5年辺りに建てられたモーテルは「御所ホテル リトルチャペルクラシック」である。

それより僅か北側は風ノ森だ。

そのモーテル西傍に立ててあったとんどは茶屋出垣内。

とんどの横には門松もあった。

しばらくすれば、何人かがやってきた。

高鴨神社に飾っていた門松をいただいて一緒に燃やすと云う。

当番の人が持ってきたゴゼン(御膳)はお神酒、洗い米に塩だ。



導師が前に立って大祓えの詞を3度唱和された。

とんどを立てた通り道はアスファルトになっているが、古来行き交う人が多かった街道。

面影は見られないが、高野街道だと云う。

当時往来する旅人に摂待する茶屋を営んでいた家は今でも屋号は「まっしゃ」と呼んでいる。

名字が益田やから「まっしゃ」で通っていると話すのは弥勒寺の檀家総代の一人。

毎年、4月18日に山の上にある峰山百体観音で観音祭をしていると云う。

「今年は奇麗にしたので見にきてくれや」と話す百体観音は西国・坂東・秩父の写し霊場。

103体もあるという観音さんはレンガ造りの祠で囲っていると云う。

「落慶法要をしますんや」と云っていた。

かつては峰山こと、観音山の広場で稽古した村芝居もしていたと云う観音祭。

相撲もあった祭りはそうとうな賑わいであったと話す時代は昭和26年頃の様相である。

とんどの煙がなびく右側の山がそうである。

子供が少なくなった茶屋出垣内のとんど。



昔しは小学校が終わった夕方ぐらいに行っていたが、今ではそれより早い15時に点火をすると云う。

かつては子供が大勢やってきた。

とんどの火に習字の書を翳して天に向かって飛ばした。

それは「天筆(てんぴつ)」の名があると云う。



燃えたとんどの火はランタンで持ち帰る人もおられた。

以前は提灯が多かったようだが、今は僅か数人になったと云う。

下火になれば先を割いた二股の竹にモチを挿して焼いていく。



その場で食べるモチ焼きである。

「そういえばモチ焼くときに「ブトノクチ カノクチ 云々」とかの台詞があって、千切ったモチをとんどに入れてたな」と話す人もおられたが行為はなかった。

72歳の男性が云うには、「持ち帰ったとんど火で荒神さんや竃の神さんにおました。翌朝はアズキ粥を炊いて一年間の無病息災を祈った。穂があるカヤススキを刈り取ってきて、それを箸代わりにアズキ粥を食べている」と云う。

「アズキ粥はビワの葉を小皿代わりに載せて、実が成るカキとかミカンの木の下に供えている」とも云う。

「おばあさんがおった頃は門屋の両脇にもおました」と話すとんどとアズキ粥の風習だ。

「アズキ粥を炊いているときは鍋蓋から噴きこぼれないようしやんとあかん。大風が吹いて米の出来が悪くなる」とおばあさんに云われたことを話してくださった。

そのおばあさんは田んぼの苗代作りをする場に12本のカヤススキを立てていたそうだ。

それはしなくなったが、11日の早朝にはオカガミを苗代場に供えていると話す。

ここでもとんど火とアズキ粥の風習があったことを知ったのである。

男性が話した正月のモチ搗き。

12月30日に杵で搗いたモチは高鴨神社に供えると云う。

そういう話しを聞いていた16時頃、高台で煙が上がった。

高天(たかま)でもとんどが始まったようだ。

(H26. 1.14 EOS40D撮影)

鴨神下垣内のとんど

2014年06月26日 08時20分31秒 | 御所市へ
西佐味水野垣内を下った中出垣内のとんどは既に終わっていた。

そこから道なりに下っていけばとんどの煙が見えた。

そこはどこだろうと思って着いた地は鴨神下垣内。

南小田(南幸田かも)と呼ぶ小字である。

たった今、燃え尽きたばかりだと云う下垣内とんどは周りに竹を打ちこんで支えていたようだ。

今では数人となった大祓えの詞を3度奏上したあとで、とんどに火点けをしたと云う。

火点けの方角は恵方。

この年は東北東だった。

とんどで暖をとっていた村の人が話すかつてのとんどの在り方。



「とんどの残り火を持ち帰って朝にアズキ粥を炊いた。ビワの葉に載せて神さんに供えた。アズキ粥は穂付きのカヤススキを箸代わりに用いて食べた。一口、二口ぐらいやった。田んぼ(苗代の場)にカヤススキをその場に立てた。家族が5人おれば、束にして10本を立てた。一人一膳ちゅうことや」と話す。

「アズキ粥は食べるだけで田んぼには持っていかなんだ」と話した長老は83歳。

戦後間もないころに止めたと云う。

長老曰く、「今ではせんようになったが、とんど火でモチを焼いた。「カノクチ ブヨ(ブト)ノクチ ハチノクチ」と云いながら千切ったモチをとんどに投げ込んでいた。蚊とか、ブヨ(ブト)に刺されると叶わんのでまじないをしていた」と話す。

「小学生の頃は書き初めをした習字の書も燃やしていたが、今では何もせんようになった」と云う。

そのようなかつての風習を聞いていた時間帯だ。



「あっちの方でもとんどするんや」と指をさした処から煙が上がった。

場所は東佐味である。

「もう一つがあるはずや」と云っている最中に煙が上がった。

最初の方が北垣内で、次は南垣内のようで14時に点火したもようだ。



北垣内は陸橋の手前。弥勒寺付近のようである。

「東佐味はもう一つあるんや」と云う。

「モーテル右側にあるもやもやとしたもんが見えるやろ」と云われて急行した。

(H26. 1.14 EOS40D撮影)

西佐味水野垣内のとんど

2014年06月25日 07時23分29秒 | 御所市へ
五條市の取材を終えて立ち寄った御所市西佐味の水野。

これまで山の神や弁天さんのイノコを取材した処である。

水野垣内では正月初めにシンギョもあれば、観音さんもある。

今ではたったの4軒で営む水野の行事の廻り当番がぜんぶやってきたという婦人。

とんどにはゴゼン(御膳)をおまして般若心経を唱えると話していた。

年寄り講中には寒さが堪える。寒くならないうちに行いたいと申し合わせて、この年は例年より1時間も繰り上げて始めた。

水野から見渡す東の山脈。

東吉野村・川上村・天川村辺りである。

連なる山脈は標高1700mから1900m級。

山間に積もった雪で神々しく見える。

水野の弁天さんを祀る向かい側にあるため池堤でとんどを組む講中。

「人手がなんせ少ないからたいへんですわ」と話しながら組んでいた。

当地在住の高鴨神社の宮司も講中の一人。

「支え棒を持ってきた」と云って倒れないように組む。



ゴゼンの御供はタイ一尾、コーヤドーフにブロッコリーだ。

ローソクに火を灯して一同が並んだ。



導師は宮司が勤めて、一同は大祓えの詞を唱和する。

そうして火を点けたとんど。

この年の恵方は東北東の方角やと云いながら、なぜか一言主神社のしおりを参照して「あっちや」と示した。

火を点ける人は特に決まっていないが、この年は長老が勤めた。



またたくまに・・・ではなく、なぜか広がらないとんどの火。

何本も重ねたしのべ竹を括ったのはフジツル。

これを10束ぐらいでとんど組みをされたのだが、湿っていたので広がらない。

その間には供えたお神酒をいただいて燃えるさまを見る講中たち。

もくもくと煙をあげたと思った瞬間に倒れた。



鏡のように池に映る姿を撮りたかったが、そうは上手くはいかない。

ほぼ同時間に始まった西佐味の中出垣内は「ここから下にある」と云っていたので急行したが、結局判らずであった。

隣村の大西・福西は二日前に行われた。

そこではお供えはなく、「ただ燃やすだけや」と話していた。

とんどは水野の他に国道沿いの鳥井戸や新五百家もあるらしい。

(H26. 1.14 EOS40D撮影)

鴨神申講の山の神さん

2014年04月16日 07時07分08秒 | 御所市へ
昔は12軒もあった御所市鴨神の大西垣内の申講。

平成19年、24年に行われた申講の山の神さん参りのときは7軒だった。

1軒が退講されて、この年は6軒の営みになった。

講中が少なくなって、これからも続けていくことが難しくなったと話す。

山の神参りはかのえ(庚)の申の日に行われる。

12月に申の日が2回ある年は月初め。3回あるときは中日となる。

稀に11月に行ったときもあったが、基本は12月初めの庚申の日である。

14時ころから炊き始めたアズキメシ。

例年使っている大釜で煮炊きをする。

お米一升に水一升の割合で炊く。

大釜は山の神さん以外にも使われる。

葬儀の際に炊くのはアブラゲメシ、道造りでは肉ごはん。

肉入りのイロゴハンはとても美味しいと話す。

茹でた小豆の煮汁を入れて30分が経過した。

頃合を見計らって茶碗に注いだ酒を二杯入れる。



塩はどっさりで、汁椀が溢れるほどの一杯を入れてさらに炊いていくアズキメシはセキハンとも呼ぶようだ。

釜縁あたりに焦げ目がつくが、まだ炊きあがってはいない。

芯があるのだ。

もう少しの焚きあげだと云ってしばらく待つ。

昔は八升の米を炊いていた。

この年は六升。

やや少なめになったという。

これ以上の炊きあげには火の勢いが強すぎる。

焚き木を除けて勢いを弱め、加減をみる。

炊いているお米と小豆は子供たちが集落を巡って貰ってきたもの。



1時間もかかると云う20戸の大西垣内を巡って御供を集めたのは一週間ほど前。

この年は5人の子供が集めてきた。

平成19年にヤク(ヤドとも)を勤めたF家のご主人は今年も回りのヤド勤め。

息子さんも米集めをしていたと話す。

子供が少なくなった大西垣内。

来年は3人になるそうだ。

できあがったのは炊き始めてから1時間40分後。



「まだ米の芯があるようだが・・」と話す講中。

「これぐらいであれば山の神さんに食べてもらってもいいだろう」とお櫃に入れる。

この日行われた奈良マラソンでボランティアされていた男性も早めに切り上げて参加する。



男性が沢登りに使っていた草鞋を竹の幣に括りつけた。

本来なら正真正銘の牛の草鞋を取り付けるのだが、それは貴重なもの。

大切に保管され、登山家が利用していた人の草鞋になった。

草鞋は片足のみ。

山の神さんはあわてん坊だから中途半端にしておくと云う。

かつての草鞋の大きさは今の倍ほどもあった長さ20cm。

その時代も片足であったそうだ。

山の神参りの祭具のすべてが揃ったが、農や山の仕事道具が若干すくない。



本来ならクワ、スキ、マングワ、カラスキにカマ、ナタ、オノであるが、ナタやオノ、カラスキも作っておきたがったが、難しいから断念したと話すヤクは当家とも呼ぶようだ。

当家が作る仕事道具の個数に決まりはないようだ。



笹御幣を持つ当家を先頭に申講の人たちが向う先は山の神。

小字クロバラの地である。

今年は珍しく子供たちも参加した山の神参り。



講中とともに「やーまのかーみの オロオロー」と声を掛けて歩く道中は例年通りの行程だ。



山の神さんに御供を供えて灯明に火を灯す。



山の神の祠の前で山の仕事の安全や豊作に感謝する祈りを捧げて「身潔祓詞(みそぎはらへのことば)」を唱える。

参ったあとはその場で直会だ。



供えたアズキメシ手で受けて口にする。

手御供(てごく)と呼ぶ作法である。

作業場に戻れば村の人たちが重箱や鍋を持ってきてアズキメシを詰める。

山の神さんのありがたいメシである。

パックにわざわざ盛ってくれたアズキメシ。

手御供の際にいただいたアズキメシは香ばしくて美味かったが、冷めれば芯があるような感触でした。



大西垣内の申講の山の神参りを終えて下った里に吊っていたツルシガキとタマネギ。

正月はもうすぐだ。

(H25.12. 8 EOS40D撮影)