マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

鴨神の牛の草鞋

2014年04月15日 09時10分26秒 | 御所市へ
今年度、鴨神申講の当家を勤められるF家にはかつて農耕に使っていた牛の草鞋を残していた。

申講の山の神さんに参る際、笹竹の括りつける草鞋は試しに手作りしようと考えていた当家。

ネットで探した草鞋作りの映像を参照しながら手がけたが、難しすぎて断念された。

仕方なく家に保存してあった牛の草鞋を括ろうとされていた。

「こんなんです」と奥さんが家から持ってきてくれた牛の草鞋は初めて見る代物。

90歳になる親父さんが作った草鞋は左右で1足。

前足であったのか、それとも後ろ足であったのか判らない。

どのようにして牛の足に履かせたのか・・・。

集まってきた講中の人たちも覚えておらず、である。

牛の蹄は二本。

偶蹄目の牛である。

草鞋の履かせ方は判らないが、田んぼに連れていった若いころを思い出された講中の一人が云った。

「道は狭くて個石がゴロゴロあって、牛は痛そうにしていた」と話す。

大和郡山市の小林町に住むHさんが話していた牛の話題

「飼っていた牛は貸し借りをしていた。相手先は宇陀市の榛原や都祁村の白石だった。牛は歩いて連れて行く。裸足では痛かろうと編んだ草履を履かせた。蹄の爪を剥がすから2足要る。牛は四ツ足の動物やから8枚編んだという。4枚は道中で傷む可能性があるから予備に持っていった」と話していたことを思い出した。

草鞋を履かせた牛は山の木の伐り出しの使役に遣っていたと云う鴨神申講の講中。

伐採する木に三つの「トチカン」を打ちこんで牛が引っぱっていたと云う。

トチカンは鉄のクサビで輪っかを通した道具である。

牛が引っぱっている最中にトチカンが抜けることもある。

勢いがついた牛は「走って逃げていきよったわ」と話す。

山の仕事はたいへんだった。

伐り出した材木は野猿(やえん)に積みこんで運んでいたと云う。

野猿に乗って下ればラクやといって乗り込んだ人はブレーキをかけ損ない、落ちて亡くなったとも話す。

貴重な牛の草鞋は大切に保管されるようお願いをしたが、奈良県立民俗博物館に所蔵されているのだろうか。

学芸課長に、拝見した草鞋の映像を見てもらった。

あるにはあるようだが、どうも形が違うようだと云う。

ネットで調べれば岩手県奥州市前沢区に施設「牛の博物館」に所蔵されているようだ。

所蔵品は直接出かけないと判らないが、競争競馬総合研究所の関口隆氏が「蹄鉄雑記帳」に纏めていた映像が公開されている。

よく似ているが、若干の違いがあるように感じた。

牛の草鞋話題で広がった鴨神の野辺送り。

かつては野辺送りのときに草鞋を履いて棺桶を担いでいた。

墓地に着けば草鞋を脱ぐ。

脱いで捨ててあった草鞋はいっぱいあった。

川の水が滲んでいる細い道はぐじゃぐじゃだったと云う記憶話し。

葬儀の際にだされる料理はアブラゲメシだったそうだ。

(H25.12. 8 EOS40D撮影)

西佐味水野亥の日の弁天さん

2014年03月30日 07時55分16秒 | 御所市へ
平成18年に赤い鳥居を寄進された御所市西佐味水野の弁天さん。

水野の集落は8戸であるが、講中は5戸。

講中の年中行事はシンギョ、とんど、弁天さん、観音さん、亥の日、山の神。他にも大師講、伊勢講もあるそうだ。

赤い鳥居を寄進された講中は施設に入所されて欠席され、なにかと忙しい講中のお勤めはいつも同じ顔ぶれ。

山の神もそうであったがが、「いつまで続けられるかどころか、数年後には止めてしまうかも」、と話す。

シンボルタワーのようにそそり立つ樹齢数百年の大川杉の下に市杵島姫の神を祀る弁天さんが鎮座する水野の地である。

水野在住の高鴨神社の宮司さんが今回の当番にあたった。

ゴザであったら貧しかろうと赤いカーペットを敷かれる。

弁天さんは年に一度の開扉。

御簾もきちんと垂らしている。

山の神の当番だった男性の奥さんや宮司の奥さんも参列されて神饌を供える。



講中揃って身潔祓詞を三巻唱える。

開扉している弁天さんが見ておられる、お姿が写り込んではならないと伝えられて祝詞奏上はシャッターオフのお断り。

手を合わせて静かに見守る。

「旧暦、夜十時ぐらいから行われていた宮中行事に食べる習慣があった。

その日は亥の日。イノコのモチを食べる。

小学校の頃はゴクマキもしていた」と話す宮司。

2番目の亥の日にされる地域もあるが、水野の弁天さんは月始めの亥の日。

弁天さんにモチを供えられた。

空は晴れ晴れ、穏やかな風が流れるこの日は温かい。

「いつもならもっと寒いんやけどなぁ」と口々に云う講中。

しばらくはこの弁天さんの前で直会をされ、気持ちの良い時間を過ごす。



天狗が住んでいるのかと思えた西佐味水野の一本杉の樹高は約28m、幹周りは6mにもおよぶ。

「下界のおまえたちよ、騙しも嘘もしてはならん、正直で暮らせよ」なんて声が聞こえてくるようだ。

水野には「ジンジョウ、五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツ、暮六ツ、初夜」の時間割を書いた「番水」板書がある。



ここら辺りは数多くのため池がある。

子供の頃は釣り糸を垂らして大きな鯉を釣ったと云う池は、今でも魚影が濃く、水底も見えるほどに美しい池の佇まいに時間を忘れる。

(H25.11.17 EOS40D撮影)

蛇穴の汁かけ・蛇曳き祭

2013年08月29日 06時43分55秒 | 御所市へ
蛇穴の野口行事の日は朝が早い。

夜が明ける前から始まった野口行事は太鼓打ち。

頭屋(トヤ)家垣内の役員らが集落を巡って合図する。

数時間に亘って地区を巡る振れ太鼓であったそうだ。

朝も6時になれば自治会館に集まってくる青壮年会(評議員)の人たち。

頭屋家を手伝う垣内の隣組の人たちも自治会館に集まってくる。

野口行事に参集する村の人たちを接待するご馳走作りに心を尽くして料理される婦人たち。

お揃いの帽子を被っている。

振る舞い料理の下ごしらえは昨日もされていた。

カラアゲの鶏は下味をつけてタレに浸けこむ。

ウインナーソーセージは飾りの切り込みを入れていた。

3日に搗いたモチは袋に詰めた。

なにかと忙しい婦人の作業である。

集合時間ともなれば、揃いの法被に豆絞りを受け取って自治会館にあがる村の男性ら。

そうしてやってきた三人の男性。



座敷に並んで座った区長や青壮年会、青年団らに向かって、お神酒を差し出し、口上を述べる。

「よろしくお願いします」と挨拶をされる当主の頭屋。

挨拶を受ける自治会館の炊事場では美味しそうな香りが漂っている。

一つ一つ割って玉子焼き。

出汁が良いのか、朝食を食べてきたにも関わらずお腹がサインを送る。

大鍋で煮たタケノコ、コンニャクなども良い香りだ。

口上を受けた人たちはこの日の朝まで野口の神さんを祀っていた頭屋家に向かう。



振れ回った太鼓は「昭和拾四年四月参拾日 新調 野口神社用」とある。

頭屋家の玄関前に置いていた。

お渡りの一行がやってくる前に駆け足で急いだ頭屋家。

前日に納めた蛇頭がある。

一行が到着するまでの僅かな時間に座った頭屋家の婦人。

この日を最後に神さんが野口神社、次の受け頭屋へ行く。



平穏無事に一年間も守り続けてきた安堵する頭屋家のご婦人。

お嫁さんととも座した祝いの記念写真を撮らせていただいた。

「野口神社」の高張提灯を掲げた頭屋家の手前で手拍子が始まった。

伊勢音頭である。「枝も栄えてよーいと みなさん 葉も繁る~」に手拍子しながら「そりゃーよー どっこいせー よーいやな あれわいせ これわいせ こりゃーよーいんとせえー」と高らかに囃しながら座敷にあがる。

7時半までにトヤ家へ到着するよう進められたお渡りだ。



一同は揃って一年間を祀ってきた頭屋の神さんに向かって頭をさげる。

今日のお祝いに区長が一節歌う謙良節(けんりょうぶし)。

北海道松前、青森津軽の民謡を伊勢音頭風にアレンジして歌詞をつけたという。「あーよーいなー めでた めでたいな (ヨイヨイ」 この宿座敷 (ヨーイセコーリャセ)・・・」。



酒を一杯飲みほして頭屋家の御礼挨拶を述べたあとに蛇を運び出す。

青年団が担ぐ太鼓を先頭に桶に納めたご神体の龍(蛇穴ではジャと呼ぶ)を頭に上に掲げる団長。

提灯、蛇担ぎの一行はドン、ドン、ドンドンドンの拍子に合わせて野口神社を目指してお渡りをする。

集落の道を通り抜けて旧家の野口本家が建つ集落道をゆく。



高張提灯は鳥居に括りつけて、ご神体の龍は本殿前に置く。

頭屋家で一年間守ってきた神さんは一年ぶりに本殿に戻ったのである。



拝殿内には蛇頭も置かれてからの3時間余りは蛇の胴作り。

櫓に移動するので、僅かな時間帯だけの蛇頭の立ち位置である。

まずは、櫓を組んだ場所に蛇頭を穴から引き上げる。



長い胴体になる「ホネ」が三本。

ぶら下げた状態で見ればまるでダイオウイカである。

モチワラを継ぎ足して胴体を作っていく。

掛け声を揃えて三つ編に結っていく。

長さは14mぐらいになるという胴体作りは力仕事。

およそ2時間半も続く。

その間のご神体は新しく掛けた注連縄下の本殿で静かに見守っている。

大きな鏡餅、米、塩などを盛った器にタケノコ、ダイコン、ニンジン、ナスビなどの生御膳がある。

野菜の生御膳は立て御膳だ。

パイナップルやリンゴなどの果物もある。

中央にはのちほど作り立てのワカメ汁を入れる椀もある。

その前が桶に大量に盛った紅白のモチである。

中央には汁かけ祭で営まれる杉葉の祭具もある。

一方、接待料理をこしらえていた炊事場奥の部屋にはできあがった料理を大皿に盛っていた。

作業を手伝ってくれた人たちや村人に振舞う頭屋家のご馳走である。



タケノコ、コンニャク、キュウリ詰めのチクワ、カマボコ、サツマアゲ、ゴボウテン、コーヤドーフ、ウインナーソーセージに玉子焼きだ。

別途にカラアゲもある。

これらは神主・評議員が座る社務所、宮さんの広場、子供の広場、曳き手・青壮年・青年団らが飲食する自治会館用に分けておく。



運び間違いがないように場所を示す札も付けておく。

汁かけ神事に仕掛けるワカメ汁は大釜で作られた。

四方竹で囲われた神事の場に据えた大鍋にできたてのワカメ汁が注がれる。

一杯は黒い椀に盛ってご神体を祭った場に置く。

そうして始まった野口行事の神事は関係者が拝殿に集まって執り行われる。

神事を終えた神職は胴体とともに境内に持ちだされた蛇頭を祓う。



一升びんすべてのお神酒を蛇頭に注ぐ。

赤い目、赤い口がとても印象的だ。

集落を巡行する安全を祈願する祓い清めだと思われる作法である。

そして、神事の場はワカメ汁の大鍋に移る。

白紙をミズヒキで括った杉の葉を持つ鴨都波神社の神職。

シャバシャバと大鍋に浸けて一気に引き上げる。



それを参拝者に向けてぱぁーと振った。

各地で見られる御湯(みゆ)儀式の湯祓いのようだ。

左右にひと振り、ふた振り、み振りの僅か3秒で行われた一瞬の作法である。

身を構える余裕もなくワカメ汁を被る参拝者たち。

邪気祓いとも思える汁かけ祭の神事はこうして終えた。

なお、ワカメ汁の汁かけ儀式は、平成2年より形式が整えられた作法と聞いている。

前日の蛇頭作りの際に拝見したかつての湯釜。

区長総代らの了解を得て釜の刻印を確認した。

15年前に社務所を建て替えた際に発見された湯釜だそうだ。

湯釜をどのように使っていたか、時期も伝承もなく不明であるが、「和葛上郡三室村御湯釜頭主米田(こめだ)磯七 文化十四年(1818)九月吉日 淠(津)田大名(和)大様(掾) 藤原定次」とある。

大切なものと判断された湯釜は三本脚。

一本が欠損していたことから倒れないように特注のガラスケースで収納している。

刻印の周囲全容が判るように動かしてくださった区長総代に感謝する貴重な湯釜である。


(H25. 5. 4 EOS40D撮影)

三室村はどこにあるのか。

村人に尋ねた結果は蛇穴から国道を越えた西北地にこんもりとした森が見える。

そこは孝昭天皇山上陵。

在地の大字は三室。

小高い丘に坐ます御陵がある「三宝塚」とも呼ばれる台地の小字は博多山だ。

三室は御室を意味していたのである。

その辺りかどうか判らないが、湯釜を寄進した頭主は米田(こめだ)磯七だと記す刻印である。

およそ200年前には御湯の儀式があったのか定かでないが湯釜の製作者は津田大和大掾藤原定次に違いない。

津田大和大掾藤原定次は香芝市五位堂に代々続いた鑄物師。

五位堂は香芝市下田鑄物師のあとを受ける形で16世紀末から17世紀初頭にかけて台頭してきた。

慶長十九年(1614)、「国家安康」で著名な京都方広寺大佛殿の梵鐘鋳造がある。

協力した脇棟梁鑄物師の一人が五位堂の津田五郎兵衛。

功績が認められ「藤原求次周防少掾」の名を賜わった。

津田家子孫はその後の享保十五年(1730)に「大工津田大和藤原家次」の呼名許状を拝領したと伝わる。

蛇穴に残された湯釜の「藤原定次」は名を継いだ後裔であろう。

「文化五年(1808) 明日香村 岡寺鐘 禁裏御鋳物師 大和大目藤原定次 津田五郎兵衛 周防少掾藤原末次 杉田六兵衛石見掾藤原昌次 小原善次郎」の記銘があるという明日香村岡寺の鐘。

蛇穴の湯釜製作とほぼ同時期の製作者である大和大目藤原定次だ。

湯釜がどのような形式で祭事されたか判らない野口神社の遺物。

新暦ではあるが、9月の末に行われる宵宮祭がある。

詳細は聞いていないが、トヤ提灯を掲げて御膳帳を披露するようだ。マツリの宵宮祭は10月4日。

そのときであったのかも知れない。

かつてはその宵宮祭において御湯神事があったと推定したのだが果たして・・・。

蛇穴地区にはかつてススキ提灯があった。

御所や葛城圏内の広い範囲で見られるススキ提灯。

地区によっては十二振り提灯と呼ぶこともある。

戦前までは氏子域の鴨都波神社のマツリに出仕していたススキ提灯。

戦時中にあった砲火。

葛城の二上山(ふたかみやま)の向こうの大阪が焼夷弾によって真っ赤になった。

昭和20年3月のことだ。

蛇穴では防空頭巾を被って竹ヤリで防戦しようとしていた練習の場は墓地である。

藁人形を作って竹ヤリで突いていた頃は、二カ月後の5月であったと話す高齢者たち。

汁かけ祭を終えれば頭屋が接待する振る舞い食の直会。

手伝いさんらが作っていたご馳走をよばれる。

ワカメ汁をカップに注ぐ手伝いさんは忙しい。

食べる余裕もない。

蛇綱曳きが出発してようやく食事となる。

寄ってきた村人らにも食べてもらう頭屋の接待食は大賑わいだ。

村人の接待食であるにも関わらず、一般の人たちが我も我もと先に群がっている。

地域の行事に大勢が集まることは好ましいが、その様相が見苦しく心が痛む。

そうこうしている時間になれば音花火が打ち上がった。

12時の出発時間の合図で蛇綱曳きの巡行が始まる。

ドン、ドンと打つ太鼓とピッピの笛の音に混じって「ワッショイ、ワッショイ」。

先頭を行くのは胴巻きにいただいたご祝儀を詰め込む青年団長。

三代目の団長が着こなす法被は代々の引き継ぎ。

歴史を物語るかのような色合いになった。

団長に続いて駆けずり回る太鼓打ちの団員の汗が噴き出す。

後方から聞こえてくるピッピの笛の音。

それとともに囃したてる「ワッショイ、ワッショイ」は蛇綱曳きの子どもたち。

かつては子どもだけだったが大人も一緒に曳く。

胴体をそのまま担ぐわけではなく蛇に取り付けられた「足」のような紐を持つ。

野口神社を出発して北から東へぐるりと周回する。



その道筋は旧家の野口本家を回って自治会館となる。

そのあとの行先は南口を一周する。

太鼓、笛、掛け声は遠くの方まで聞こえている。



戻ってきた蛇曳きの一行は北上して南口垣内辺りを練り歩く。

1時間後、1回目の休憩場で休息をとる。



例年5月5日は天気が良い。

日射も厳しく暑さが堪える。

飲み物やアイスキャンデーに潤う曳き手たちのやすらぎ時間は短時間だ。

南口からは東口、中垣内、北口、西垣内、中垣内の順で六垣内を巡行する。

藁で作ったジャの長さは全長が13m。

胴体だけでも10mもある。

胴体の径は20cmでウロコ部分も加えると50cmにもなるジャである。

Y氏とともに計測した蛇頭は径が30cmで長さは70cmであった。

野口本家には『野口大明神縁起(社記)』が残されていると聞く。

それには野口行事のあらましを描いた絵図があるそうだ。

江戸時代に行われていた様相である。

複写されたその一部は神社社務所に掲げられている。

その中の一部に不可思議な光景がある。

桶に入った龍の神さんを頭の上にあげて練り歩く姿は当時の半纏姿。

紺色の生地に白抜きした「野口講中」の文字がある。

男たちは草鞋を履いている。

その前をゆく男は道具を担いでいる。

その道具は木槌のように思える。

同絵には場面が転じて家屋の前。

木槌を持つ男は、なんと家屋の土壁を打ち抜いているのだ。

木製の扉は閉まったままで、土壁がもろくも崩れてボロボロと落ちている。

打たれた部分は穴が開いた。

そこは竹の網目も見られる。

まるで打ち壊しのような様子が描かれている絵図である。

その件について尋ねた當麻のY氏の答えはこうだ。

ジャはどこなりと通り抜ける。

土塀に穴を開けたのもジャが通る道だ。

邪悪なものは何でもかんでも、このように土壁を崩してでも通すのである。

その絵図の土塀は本家の野口家の門屋口であるかも知れないと話す。


(H24. 5. 5 EOS40D撮影)

一軒、一軒巡って太鼓を打つ。

ピピピピーにドドドドドの太鼓打ちが門屋を潜って玄関から家になだれ込む。

回転しながら連打で太鼓を打つ。

祝儀を手に入れた青年団はピッピの音とともにすばやく立ち去る。

そのあとに続く蛇綱曳きは門屋の前で、ヨーイショの掛け声とともに蛇を三度も上下に振り上げる。



その姿はまるでフライングしているかのようなジャである。

旧家である西京本家にも祝いのジャがなだれ込む。

そこからは北口垣内だ。



墓地向こうの民家にもジャを曳いてきた一行は疲れもみせず巡行する。

中垣内辺りに着くころは15時を過ぎていた。



何度も何度もジャを振り上げる子供たちは常に元気である。

およそ100軒の旧村を含め新しく住みついた新町の家も巡ってきた。

蛇穴の集落全域を巡るには3時間半以上もかかる。



もうひと踏ん張りだ。



平成16年に頭屋を務められたMさんも笑顔で応えて祝儀を手渡す。

ご主人とお会いするのも実に久しぶりである。

ほぼ10年前のことを覚えてくださっていたご主人の手を握った感謝の握手である。

その年に撮影したひとこまは『奈良大和路の年中行事』で紹介した。

紙面スペースの関係で短文になったことをお詫びする。

昔は頭屋が村の人にワカメ汁を掛けていたと話す額田部に嫁入りしたS婦人。

「昭和の時代やった。かれこれ40年も前のこと。

そのときは子どもだけで蛇綱を曳いていた」のは男の子だけだったという。

それだけ村には子どもが大勢いた時代の様相である。

雨天の場合であっても決行する蛇綱曳き。

千切れた曳行の縄を持って帰る子どもたちがいる。

家を守るのだと話しながら持ち去っていった。

蛇頭を北に向けてはならないという特別な決まりがある蛇綱曳き。

北に向ければ大雨になるという言い伝えを守って綱を曳く。

それゆえ集落を行ったり戻ったりで前進後退を繰り返してきた。



蛇穴の家々の邪気を祓ったジャは野口神社に戻ってきた。

なぜか今年の頭屋受けをする家には向かわなかった。

これまでは垣内を12組にわけた1組から12組の回りであった。

翌年からは13組も加わるそうだ。

これまでは手伝いさんは垣内の隣近所であったが、村全体の行事にすべく手伝いさんは村の組、それぞれが担うことになるだろうと話す。

村行事の在り方の改革である。



戻ってきた太鼓打ちは何度も境内で打ち鳴らす。

オーコを肩に載せたまま回転しながら打つ太鼓妙技である。

曳いてきたジャは蛇塚石に巻き付けて納めた。

昭和30年代までの蛇巻きの場は鳥居下であったと話す村人。

蛇曳きの間はご神体の龍が本殿で待っていた。

蛇は龍の化身となって村全域を祓ってきたのである。

ご神体はすぐさま新頭屋となる受け頭屋には向かわない。

村にご祝儀をいただいた会社関係にお礼としてご神体を見て貰う法人対応が含まれる村行事でもある。

およそ30分で戻ってきたご神体を桶にとともに頭の上に掲げて旧頭屋を先頭に受け頭屋家に向かう。

西日が挿す時間帯の行列はご神体、提灯、宮司、青壮年会、青年団。



ひと目見ようと村の人が門屋の前で出迎える。



受け頭屋の座敷へあがりこんだ一行は、野口神社の分霊(わけみたま)神を祀った横に座った。

拝礼、祓えの儀、祝詞奏上など厳かに神事が行われる。

こうして頭屋渡しを終えた蛇穴の村行事。

区長や青壮年会代表がこの日の行事が無事に、また盛大に終えたことを述べられた。

滞りなく分霊神を受けた受け頭屋も御礼を申しあげる。

目出度い唄の伊勢音頭を歌って締めくくる。

村の行事はそれで終わりではない。

最後に頭屋家の振る舞いゴクマキ。

群がる村人たちの楽しみだ。

一日かけて行われた蛇穴の行事をようやく終えた。

こうした蛇穴の汁かけ・蛇曳き祭の行事の様相を季刊雑誌の奈良地域づくりマガジン『俚志(さとびごころ)』の夏号に掲載させていただいた。

地域研究会俚志の編集長の願いで今特集の「地域の絆を支える祭り」に寄せた事例のひとつ。

県内各地の所定地で販売しているが同編集部が立ちあげているインターネットでも受け付けている。

アドレスはこちらだ

(H25. 5. 5 EOS40D撮影)

蛇穴蛇頭の頭屋納め

2013年08月28日 06時55分10秒 | 御所市へ
この年は8月3日に御所市制55周年を記念したイベントがあるそうだ。

場所は葛城公園。鴨都波のススキ献灯行事などを含めさまざまな地区のススキ提灯も集まるという。

その数、なんと100本も。

壮観なイベントになりそうであろう。

その場には当村の蛇穴の蛇も出典する。

その関係もあって蛇頭作りは2体も作った。

昨年もイベントの関係で2体作った。

その年ごとの自治体要請に応じて蛇体作りをしてきた蛇穴の人たちである。



すべての作業を終えた「蛇穴青壮会」の人たちは蛇頭を抱えて昨年の5月5日に頭屋受けをした頭屋宅に向かう。



野口本家の家筋を通って、蛇穴集落を北に向けてお渡りをする一行。

大きな門屋の前も通る。



西京の本家である。

さらに東へ向かった先は一年間もご神体の龍を祀ってきた頭屋家だ。

床の間に掛軸を掲げて斎壇に御供を供えていた。

モチゴメで搗いた紅白のモチは大きな桶に2杯。

土足でも上がれるようにシートを敷いた座敷にあがるが、履きものの靴は脱ぐ。



蛇頭を頭屋家に納めた一行は手打ちの儀式。



差し出された頭屋家のお茶を一服してから祝いの唄を献上する。

(H25. 5. 4 EOS40D撮影)

蛇穴頭屋の蛇頭作り

2013年08月25日 09時10分02秒 | 御所市へ
かつては「ノーグッツアン」と呼んでいた御所市蛇穴(さらぎ)の野口行事。

「ノーグッツアン」とは不思議な呼称であるが、橿原市地黄町で行われる行事は「ノグッツアン」だ。

夜が明けない時間帯に野神の塚に参って帰り道で「ノーガミさん、おーくった。ジージもバーバも早よ起きよ」と囃しながら帰路につく子どもたちの行事である。

桜井市の箸中で行われている野神行事は「ノグチサン」と呼ばれている。

同市の小綱町で行われている行事も「ノグチサン」である。

なぜに「ノグチサン」と呼ぶのか判らないが、藁で作ったジャ(蛇)やムカデを野神さんに奉る。

ジャは水の神さんだと云う蛇穴の蛇綱。

雨が降って川へと流れる。

貯えた池の水を田に張って田植えができる。

農耕にとって大切な水の恵みである。

奈良県内ではこうした蛇を奉る野神行事を「大和の野神行事」として無形民俗文化財に指定されている。

この日に訪れたのは理由がある。

治療に通っている送迎の患者さんは85歳のS婦人。

大和郡山市の額田部町にお住まいだ。

Sさんが嫁入りするまでは生活をしていた蛇穴の村。

生誕地であった母家の生家は野口神社のすぐ近く。

60年以上も前のトヤ(頭屋)家はマツリの前日に家でモチを搗いていた。

隣近所の村の手伝いさんが支援していた。

懐かしいが遠い地の蛇穴。

かつての母屋は自治会館に譲られて野口行事の食べ物を料理する場になったものの「もっぺん行ってみたいが・・・」とつぶやいていた。

Sさんが子供のころは毎日のように神社を清掃していたと話すのはトヤを務めたときのことであろう。

嫁入り前に2回、嫁入り後も2回のトヤ受けをしたという実家はN家。

料理に使うタケノコはたくさん積んだ荷車で運んでいた。

ドロイモもあったように思うが遠い時代の記憶。

モチゴメはどっさり収穫してモチを搗いた。

トヤ家の竃は大忙しだったと話す。

そのSさんの実弟は今でも健在で蛇頭(じゃがしら)を作っているという。

年老いたが生家のN家を継いで今でも作っている。

「会いたいが、私は行くことが難しい」と話すSさんの声に背中を押されてやってきた5月4日の蛇頭作り。

早朝から集まった「蛇穴青壮会」の人たち。

既に作業は始まっており、蛇の胴体になる心棒の綱を編んでいた。

「ホネ」と呼ぶ長い綱(市販のロープ)は三本ある。



神社拝殿内では注連縄なども拠る。

「ミミ」にあたる部分はそれよりも太く三つ編みだ。

そんな作業を見守る二人の長老。

一人がSさんの実弟のNさん。

もう一人はSさんの同級生になるUさん。

弟さんは顔がそっくりなので一目で判った。

お姉さんからの伝言を話せば嬉しそうに応えた二人の表情。

焼けた顔に笑みが零れる。

蛇穴の集落は150軒ほど。

かつては蛇穴村をはじめとして池之内村、室村、条村、富田村の五カ村からなる葛上郡秋津村であった。

若い人たちが村を離れて老夫婦が多くなったと村人は話す。

「ミミ」をも含めた蛇頭の材料はモチワラ。

12株で一束。

それを20束でひと括り。

さらに、それを20組も用意するというから相当な量(12株×20束×20組)である。

モチワラは農家で作ってもらう。

収穫したワラは蛇作りに使って実のモチゴメは頭屋が奉納する紅白の御供モチにする。

その量は1斗。

前日の3日にモチ搗きをしていた。

沢山のモチワラを束ねた蛇頭は三つ編みした「ミミ」と「ホネ」と呼ばれる胴体の骨格になる三本のロープを内部に入れ込んで作る。

「ミミ」はU字型におり込んで組みこむ。

蛇頭は太く、丸くするから大量のモチワラを使う。

ひとワラで縛って「ミミ」部分は輪っかのような形で、両袖に広がった。

崩れないようにさらに強く縛る。



蛇頭本体の形が崩れないように何重にもロープで括る。

槌で叩いて締める。

「ミミ」から上部に括り終えれば、その次は下部もしっかりと締め括るという具合だ。

一方、蛇頭の眼になる竹を細工する。

ほどよい太さの竹の節下数cm部分をノコギリで切る。



およそ半分ぐらいで止めて先が尖がるように切り落とす。

先端辺り2か所に小さな穴を開けた。

節部分は黒く塗って中は赤くする。



それが蛇の眼になる。

昔からそうしていると残しておいた見本もそうであった。

蛇の眼を含めて重要な蛇頭を調えるのが前述した二人の長老である。

取り出して手にしたのが刺身包丁。



ざっくり、ざくざくと切り落とす蛇の面。

そぎ落とすこと数回。

断面をざっくりとそぎ落とす。

僅かな角度をつけて凹面になるよう切っていく。

刃をあてて慎重にそぎ落とす。

蛇のツラ(面)は奇麗なツラいち。



その面に赤色で印をする眼と口の位置。

口の部分はざっくり切り込む。

おおかたが口のように見える一直線の大きな切り込みで蛇顔が判る。

先ほど作った眼はどうするのか。

番線針金を掛けた2か所の穴。

番線はほどよい堅さ。

それを胴体側に通す。

通した番線を引っぱれば竹の眼が内部に入っていく。

ぐいぐい押しこんで眼が蛇頭に引き込まれる。

槌で打ちこんでツライチになった。



もう一方の眼も入れ込んだ。

眼ができあがれば口を調える。



赤い舌ベロは堅い紙片。

外れないように一本の針金を通して取り付ける。

蛇頭生命体の誕生である。

(H25. 5. 4 EOS40D撮影)

鴨神申講の山の神

2013年03月03日 22時19分48秒 | 御所市へ
かのえ(庚)の申の日は山の神参り。

御所市鴨神の申講(さるごう)の行事である。

申講は7軒の営み。

11月になったときもあったそうだが基本は12月初めの庚申の日。

申の日が2回ある年は月初め。

3回あるときは中日に行っている。

昼に集まって集めた御供を大釜で炊いている。

セキハンとも呼んでいるアズキメシだ。

御供は子供たちが米や小豆を集落を巡っていただいてきた。

大西垣内は20戸ほど。

巡る時間は1時間もかかるという。

本来は山の神参りをする前週の日曜日であるが、庚申の日の関係で12月初めの日曜日になったと話す講中。

今年の冬はよく降る雪の日。

これまでに3回も積もったというから寒い年だ。

今月初めに行われた西佐味水野の隣垣内になる鴨神大西垣内はそれほど遠くない。



百メートルも離れてない垣内であるが、山の神さんに向かう道中では「やーまのかーみの、おろおろー」と唱和する鴨神申講の山の神。

ミニチュア農具のクワ、スキ、マングワ、カラスキに山仕事の道具のカマ、ナタ、オノに片足の藁草鞋などは水引きで括り付けた笹御幣。



それを持つ当家を先頭に申講の人たちが向う先は山の神。

山の神さんが奉られている地はクロバラ。

小字の名である。

ヤマノカミと云う地ではなくクロバラである。

小字ヤマガミは大西集落のもっと上のほうだったと話す。

葛城川の最上流。

その下流に架けた木橋を跨ぐ。



上流はかつて御所ナガレと呼ばれる大規模な土砂崩れがあったそうだ。

F氏の元屋敷はナガレに合わなかったものの、危険な地だと判断されて西に移したという。

そこがカワハラだったという。

「やーまのかーみの、おろおろー」の2番手は2時間もかけて大釜で焚いたアズキメシ(セキハンとも)を桶に入れて抱えていく。

洗い米、塩、生サバなどの神饌持ちも続く行列。かつては子供もついていたそうだ。



山の神には3年前に奉ったスキ、クワ、カマにナタが残っていた。

幣や竹の神酒筒は朽ちていたが農具山具は奇麗な姿で残っていたのだ。

昨年に奉ったマングワもある。

手の込んだ組立型の農具である。

カーブが難しかったというカマもある。

年番の当家さんが作る山の神の仕事道具個数に決まりはないと話す講中は7軒。

かつての藁草履は両足の一足だった。

大きさは今の倍ほどもあった長さ20cm。

藁草履の鼻緒は締めない。

山の神さんはあわてん坊だから中途半端にしておくと云う。

御供を供えて灯明に火を灯す。



山の神の祠の前で山の仕事の安全や豊作に感謝する祈りを捧げて「身潔祓詞(みそぎはらへのことば)」を唱える。

参ったあとはその場で直会。



供えたアズキメシ手で受けて口にする。

手御供(てごく)と呼ぶ作法である。

作業場に戻れば村の人たちが重箱や鍋を持ってきてアズキメシを詰める。

山の神さんのありがたいメシである。



今では作業場であるが、7、8年前までは当家の家だったそうだ。

講中の一人は上頭講(じょうとうこう)の一員でもある。

昔は20軒もあった上頭講も今では7軒。

秋祭りには「ごへいがまいるぞー おへー」と鴨神に鎮座する高鴨神社に向けて出発する際に唱和する。

鴨神は佐味郷と呼ばれ東佐味・西佐味・鴨神下・鴨神上の4カ大字からなる地域。

それぞれに講中がある。

平成19年に取材させていただいた講中は鴨神上の戌亥講。

唱和は「よろこびの よろこびの ごへいがまいる うわーはーはい」であった。

唱和は道中の所々の辻でもするそうだ。

かつては一番を勤めたという上頭講。

「ごへいがまいるぞー おへー」の唱和に続いて「もうひとつや もうひとつや おへー」と返す台詞もあるという。

昼はトーヤの家でヨバレ。

酒をどっぷり飲んでから出発するらしい。

(H24.12.25 EOS40D撮影)

西佐味水野の山の神

2013年02月11日 08時58分18秒 | 御所市へ
金剛おろしは風の道。

御所市の大西、水野、福西が通り道だと話す水野垣内の住民。

申の日は特に寒九雪が降ることが多い。

おろしの風は通り抜けて風の森に抜ける。

地名は今でも金剛おろしを伝えている。

西佐味(にっさび)が属する水野垣内は鴨神の大西垣内の南隣である。

水野垣内は山間の佇まいでかつては「水野4ゲン」と呼ばれていた。

付近にはたくさんのお寺があったという。

水野は西佐味で一番栄えていたと伝わる。

水野より少し下った南から登る旧道。

一本杉と弁天さんの祠の前を通りって水野集落を通る坂道を登る。

集落を抜ければ小和道と合流する。

ここ辺りはカミジャヤ(上の茶屋)跡。

江戸末期までは茶店を営業していたそうだ。

上茶屋があるから下にも茶屋があったという。

その茶屋が並ぶ街道は籠に乗った殿さんが下ってきたと伝わる。

鎌倉時代の終わり頃は葛城修験道が最も盛んな時代。

金剛山頂の転法輪寺、朝原寺、高天寺、大沢寺などとともに金剛七坊の一つであった歴史をもつ西佐味郷。

高くそびえた弁天杉は付近で目立つシンボルタワーのようだ。



ここら辺りから南東に見える山々。

北から南へ連なる山脈は標高1700mから1900m級。

青根ケ峰、四寸山、大天井ケ岳、山上ケ岳、白倉岳、稲村ケ岳、バリゴヤノ頭、行者還、鋏山、弥山、八経ケ岳、明星岳、仏生ケ岳、孔雀岳、釈迦ケ岳などは天川村、東吉野村、川上村辺りの高山である。

いずれは春夏秋冬の季節が見えるようにネット放送したいと話す水野垣内は8戸の集落。

そのうちの4戸が講中である。

少なくなった戸数で営む講は大師講、伊勢講も含まれる。

年中行事はシンギョ、とんど弁天さん観音さん、亥の日もあるから月に一度はなんらかの行事をしているという。

この日に行われたのは山の神。

12月最初の申の日に行われるが、同月に申の日が3回あれば2回目の申の日となる。

山の神さんは小さな祠で祀っている。

4、5年前に建て替えたそうだ。

建て替えたというよりも朽ち果てて石の台だけになった場に祠を建てたということである。

祀る場は龍神さんと呼ばれる地。

まさに水野の山の神さんは水の神さんでもある。

その地に女性は立ち入ることができない。

山の神に参るのは男性に限られるのである。

4戸であるから4年に一度は当番となる。

「申」の文字が書かれたお札を次の当番家に送られて回りを知る。

昔は札などなかった。

回る家の順が決まっていたと話す。

神さんごとは下から上へ。

仏さんは上から下へと回る当番家。

服忌があれば次の家に回す。

今回は服忌の家が当番であったが村の規則通りに次の家に回された。

急なことであったとM家の家人が話す。

出発直前に山の神さんに供える道具を作る。

竹に挿すのは大き目の御幣。

高鴨神社の宮司さんが作られた。

宮司さんも水野の一員。

神社の行事の注連飾りと重なって参るのは2軒になった。



少なくなってしまったと話しながら幣を作る。

幣には一枚の紙を括りつける。

鎌、鍬、鋤、草刈機、トラクター、田植機、コンバインの文字が書かれた紙片である。

以前は鉈、ヨキ、鋸の山の道具であったがいつの頃か農作業における草刈機、トラクター、田植機、コンバインに代わったという。

30年ほど前はマンガやカラスキを象った木製のミニチュアを作っていた。

手間暇がかかった手作りの道具は大幅に簡略化された。

山の神さんは農林業の守り神であるからこそこうした道具を奉るのだと話す。

幣には片足一枚の草鞋草履も取り付ける。

藁で結った草履は明治中頃生まれの老婦人が作った。

田んぼに行くときのために作ったという。

今後のためにと多くの草履を作っておいた作りおきの草履は村に寄進して毎年の山の神に奉られる。

残した「草履がなくなればそれまでだ」と話す。

奉る草履に鼻緒は付けない。

未完成の姿の草履であるのは「山の神さんはあわてん坊やから」と話す。

「待ってられへんから仕上げはしない」と云うのは、鼻緒がなければ草履は履けない。

そのような草履であれば怪我をする。

逆に捉えたまじないの意味があるのだろう。

奉る道具が揃えば御供を抱えて山の神の地へ向かう。



田畑を抜けて山林に入る。

鬱蒼とした杉林が林立する。

入山直前には鉄製の水車があった。

山から流れる谷水を引いていたが動かない。

そうした近代の遺産風景を横目で通りすぎて着いた山の神の祠。



傍には昨年に奉られた幣や草履が残っていた。

風雨に耐えてきたお供え。

杉林は防風林になったのであろう。

山の神さんの御供はお頭付きの魚。

この年は鯛であった。

洗い米、塩、お神酒を供えて灯明に火を点ける。

風除けの灯明である。



そして祠回りに持ってきた液体を流していく。

オダンゴと呼ばれる御供である。

オダンゴは固体ではなく液状に溶いたメリケン粉。

水で練った御供である。

祠がなかった頃は台座の上に流したそうだ。

祠ができてからは汚さないように周囲に撒く。

不可思議な御供の存在に興味を覚えたのは云うまでもない。

一カ月後に再訪した際に聞いた話。

液状にしているのは顔に塗る化粧液であると当番婦人が答える。

山の神さんは女性であるから水に溶いてあげるのだと話す。

今回はメリケン粉であったが本来は米の粉。

谷から流れる清らかなキンメイ水で溶く。

水でとろとろと練った液体は「オシロイモチ」と呼ぶ。

嫁入りしたときからお姑さんから教わったキンメイ水のオシロイモチである。

米をすり潰して水で練った御供に「シトギ」がある。

古代から伝えられてきた御供である。

大和郡山市の満願寺町や奈良市の池田町で供えられる御供にシトギがある。

天理市杣之内町の八王子参りや奈良市柳生の山の神にもある。

巫女さんが御湯の神事の際に湯釜に投入するシトギもある。

水野の山の神さんの「オシロイモチ」も同じ神聖な御供のシトギは「粢」の一文字。

本来の米の味がする。



今年の幣を祠に立て掛けて参った二人は祝詞を奏上する。

「身潔祓詞(みそぎはらへのことば)」を揃って唱える。

参拝して下る水野の里山。



そこにあった番水の時間割。

ジンジョウ、五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツ、暮六ツ、初夜に区分けした番水は5月13日~23日、24日~31日、6月1日~7日、8日~15日、16日~23日、24日~・・・。

現役の番水は日によって若干の時間が調整されていた。

御所市楢原(ならはら)の番水時計は名高い。

「朝4時のあけもつと夕方4時のくれもつにはカネを叩く」という番水であるが水野の番水時間は判りやすい。

そのような番水は櫛羅(くじら)にも存在していたと二十数年前に聞いたことがある。

話したのは当時勤めていた上司であるが今となっては確かめようがない。

(H24.12. 1 EOS40D撮影)

蛇穴の汁掛・蛇綱曳き祭

2012年07月13日 08時07分53秒 | 御所市へ
立夏のこの日は暑い日になった。

昨日の風は冷たく強く吹く日。

気温は20度に達しなかったが、この日は一挙に26度へ上昇した。

毎日が入れ替わる天候不順の日々だが行事に待ったはない。

御所市蛇穴で行われている野口行事。

蛇穴(さらぎ)の汁掛祭・蛇綱曳きの名称がある野口行事は「ノグチサン」、或いは「ノーグッツアン」と呼ばれることもある。

「ノグチサン」、若しくは「ノーグッツアン」とは不思議な名称だが、橿原市地黄町で行われる行事は「ノグッツアン」と呼ばれる。

「野口」が訛ったと思われる「ノグッツアン」は5月5日の朝。

まだ夜が明けない時間帯に野神の塚に参って帰り路に「ノーガミさん、おーくった。ジージもバーバも早よ起きよ」と囃しながら帰路につく子どもたちの行事だ。

桜井市の箸中で行われている野神行事も「ノグチサン」と呼ばれる。

同市の小綱町で行われている行事も「ノグチサン」だ。

なぜに「ノグチサン」と呼ぶのか判らないが、藁で作ったジャ(蛇)やムカデを野神さんに奉る。

ジャは水の神さんとされる蛇穴の蛇綱。

雨が降って川へと流れる。

貯えた池の水を田に張って田植えができる。

水の恵みは農耕にとって大切なこと。

奈良県内ではこうした蛇を祀る野神行事を「大和の野神行事」として無形民俗文化財に指定されている。

その一つにあたる蛇穴の汁掛祭・蛇綱曳き行事は毎年5月5日に行われている。

朝3時半ころに集まってくる青年団。

この日に行われる行事を村に知らせる太鼓打ち。

朝4時から出発して蛇穴の集落全域を巡っていく。

5時とか、5時半ころに聞こえてきたという人もいるから相当長い時間を掛けて振れ回るのだろう。



6時過ぎには青壮年会やトヤ(頭屋)家を手伝う隣組の人たちが自治会館に集まってくる。

今年の当番は9、10組の北口垣内の人たち。

接待するご馳走作りに心を尽くして料理される。

この日を楽しみにしていた子どもたちは7時前だというのにもうやって来た。

小学3、4年生の女児たちだ。

家で作ってきたオニギリをほうばっている。

女児の一人が話したカケダイに興味をもった。

おばあちゃんの家でしているというその地は「かもきみの湯」がある大字の五百家(いうか)であろうか。

正月の膳もしているという。

そんな話を提供してくれた子どもたちは朝から元気がいい。

法被を着た青年団の人たちと気易くしゃべりまくる。

役員たちは揃いの法被に豆絞りを受け取って自治会館にあがる。

そのころやってきた三人の男性。



座敷に座る区長や青壮年会、青年団らに向かって、お神酒を差し出し、口上を述べる。

「よろしくお願いします」と、前年5月5日の蛇曳きを終えてトヤ受けされた9、10組の北口垣内のトヤの代表挨拶(3人)である。

一日かけて行われる蛇穴の行事の始まりである。

口上を受けたあとはこの日の朝まで神さんを祀っていたトヤ家に向かう。

自治会館から200m北の北口垣内までは黙々と歩く役員たち。

「野口神社」の名がある高張提灯を掲げたトヤ家の直前になれば手拍子が始まった。

伊勢音頭である。

「枝も栄えてよーいと みなさん 葉も繁る~」に手拍子しながら「そりゃーよー どっこいせー よーいやな あれわいせ これわいせ こりゃーよーいんとせえー」と高らかに囃しながら座敷にあがる。

7時半までにトヤ家へ到着するよう進められたお渡りだ。

野口神社とされる掛軸を掲げて祭壇を設えたトヤ家。

昨日に納められた蛇頭や紅白のゴクモチがある。

土足で上がってもいいようにブルーのシートを敷いていたが靴は脱ぐ。

隣組の垣内の人たちに迎えられて座敷にあがった。

一同は揃って一年間祀ってきたトヤの神さんに向かって頭をさげる2礼2拍手の1礼。



今日のお祝いに一節と歌われる謙良節(けんりょうぶし)。

北海道松前、青森津軽の民謡を伊勢音頭風にアレンジして歌詞をつけたという区長が歌う。

「あーよーいなー めでた めでたいな (ヨイヨイ」 この宿座敷 (ヨーイセコーリャセ)・・・」。



酒を一杯飲みほして、トヤ家の御礼挨拶が述べられたあとは蛇を運び出す。

青年団が担ぐ太鼓を先頭に、桶に入れられたご神体の龍(当地ではジャと呼ぶ)を頭に上に掲げる団長、提灯、蛇担ぎの一行。



ドン、ドン、ドンドンドンの拍子に合わせてお渡りをする。

北口垣内から中垣内への集落内の道を通り抜けて旧家野口本家が建つ道をゆく。



ぐるりと回って野口神社に着くころには法被姿にポンポンを持つ子どもたちも合流した。

提灯は鳥居に括りつけて、龍のご神体は本殿前に置かれた。

トヤ家を一年間も守ってきた神さんは一年ぶりに納められたのだ。



拝殿内には蛇頭も置かれた。

そうしてからの3時間余りは蛇の胴作り。

櫓を組んだ場所に蛇頭を置いて長い胴を三つ編に結っていく。

長さは14mぐらいになるという共同作業である。



その間の自治会館ではご馳走作り。

作業を手伝ってくれた人たちに振舞うトヤ家のご馳走である。

煮もののタケノコにカラアゲやタマゴ焼き。

漬物もある。

オニギリの量は相当だ。

一個、一個のオニギリは手でおむすび。

黒ゴマを振りかけてできあがる。

ご馳走作りの諸道具(鍋、ゴミバコ、バケツ、コジュウタなど)は北口垣内やトヤ家の名が記されている。

汁掛祭に掛けられるワカメ汁は大釜で作られる。

蛇穴で生まれ育った85歳のSさんは23歳のころに大和郡山市の額田部に嫁入りした。

生家の母屋は村に譲った自治会館。

そこは村人が集まる会場になった。

子供のときは毎日のように神社の清掃をしていたという。

蛇穴はかつて秋津村と呼ばれていた。

昔も今も5月5日は「ジャ」と呼ぶ藁で作った蛇綱を曳いていた。

当時は子供が曳いていたという。

当時のトヤは垣内単位でなく、村全体で決めていた。

受ける家があればトヤになった。

嫁入り前に2回、嫁入り後も2回のトヤをしたという実家のN家。

行事の手伝いは垣内がしていたと話す。

ご馳走のタケノコは季節のもの。

たくさん積んで荷車で運んだ。

ドロイモもあったように思うという。

モチゴメもどっさり収穫してモチを搗いた。

トヤ家の竃は大忙しだった。

苗代ができたらモチツツジを添えてお盆に入れてキリコを供えたともいう生家の暮らし。

蛇頭は弟が作っていた。

年老いたが、生家が継いで今でも作っているという。

ワカメ汁は味噌汁仕立て。

タケノコともども味加減はほどよい。



融けてしまうからワカメを入れたら火を止める。

できたご馳走料理はそれぞれ運ばれる単位に盛られる。

丁度そのころが汁掛祭の始まる時間となる。

四方竹で囲われた神事の場に大鍋。

そこでできたてのワカメ汁が注がれる。

それを見届ける神職は鴨都波神社の宮司。

神社本殿前に集まった氏子たちとともに神事が行われる。

蛇曳く前に村内を巡行する蛇体をお祓いする。

そしておもむろに持ちあげた蛇体。



お神酒を注いでいく。

潤った赤い目、赤い口にたっぷりと注がれる。

そして神事の場はワカメ汁の大鍋に移る。

白紙をミズヒキで括った笹の葉を持つ宮司。



シャバシャバと大鍋に浸けて一気に引き上げる。

ワカメの汁はそれにつられて一本の線のように曳き上がる。

上空まで曳き上げば途切れるワカメ汁。

僅か2秒で行われる一瞬の作法だ。

汁掛祭の神事はこうして終えた。

その様相は県内各地で見られる邪気祓いの湯立て神事である御湯(みゆ)と同じように感じたのであるが、実は平成2年より形式を整えた神事である。

そのあとは直会。

トヤの接待する振る舞い食をたくさんよばれる。

社務所内では宮司や役員たち。



神社拝殿内でもよばれる。

先ほどまでに作られていたご馳走だ。



ワカメ汁をカップに注ぐ手伝いさんは忙しい。

食べる余裕もない。

蛇綱曳きが出発してようやく食事となる。

寄ってきた村人らにも食べてもらうトヤの接待食は大賑わい。

昨今はパックを持ってきた観光客がオニギリを詰めていくと話す。

「持ち帰る人が居ることも判っている。遠慮してほしいと思うのだが、マツリの日に騒動を起こしたくないから見て見ぬふりをしているのだ」という。

そうこうしている時間になれば音花火が打ち上がった。

出発時間の合図で蛇綱曳きの巡行が始まる。

ドン、ドンと打つ太鼓とピッピの笛の音に混じって「ワッショイ、ワッショイ」。

先頭を行くのは胴巻きにいただいたご祝儀を詰め込んだ青年団。

太鼓打ちも団員だ。

現在の青年団は3人。

少なくなってきたという。

後方から聞こえてくるピッピの笛の音。

それとともに囃したてる「ワッショイ、ワッショイ」は蛇綱曳きの子どもたち。

かつては子どもだけだったが大人も一緒に曳く。

胴体そのまま担ぐわけではなく蛇に取り付けられた「足」のような紐を持つ。

巡行は野口神社を出発したあとは北から東へぐるりと周回する。



その道筋は旧家野口本家を回って自治会館となる。

そのあとの行先は南口を一周。

太鼓、笛、掛け声が遠くから聞こえてくる。

一軒、一軒巡って太鼓打ちが祝儀を貰う。



ピピピピーにドドドドドの太鼓打ちが門屋を潜って玄関から家になだれ込む。

回転しながら連打で太鼓を打つ。

祝儀を手に入れればピッピの音とともに立ち去る。



そのあとに続く蛇綱曳きは門屋の前で、ヨーイショの掛け声とともに蛇を三度も上下に振り上げる。

「昔は二階まで土足で上がっていきよった。暴れたい放題の好き放題で壁まで穴が開いた」と話すK家の婦人たち。

南口、東口、垣内、北口、西垣内、中垣内の六垣内を巡行する。



およそ100軒の旧村があるという蛇穴の集落全域を巡るには3時間半もかかるから、何度かの休憩を挟みながら蛇綱を曳く。

トヤ受けをする11、12組のトヤ家も上がっていった太鼓打ち。

ピー、ピーの笛とともに三周する。

トヤ受けのN家では既に旧トヤから掛軸が回されていた。

祭壇を設えてお供えも調えている。

昔は蛇綱も家のカドにも入ってきたという。

カドは現在で言う家の内庭。

「カドボシ(干し)」をしていた場所だ。

米を採りいれて天日干し。

ハサガケをして米を乾燥させる場所を「カド」と呼ぶ。

当地ではないが、素麺業を営む家の天日干しをする作業をカドボシと呼んでいる。

太鼓はトヤ渡しの際に受けトヤに戻ってくる。

そのときに置かれる太鼓台。

それには「昭和拾四年四月三十日新調 野口神社社用」とある。

太鼓は神社の什物なのである。

蛇綱の原材料はモチゴメ。

垣内の田んぼで栽培する。

手伝いさんがイネコキもすると受けトヤがいう。

昔はトヤが村の人にワカメ汁を掛けていたと話す婦人。

「昭和の時代やった。かれこれ40年も前のこと。そのときは子どもだけで蛇綱を曳いていた」のは男の子だけだったという。

それだけ村には子どもが大勢いた時代のことだ。

本家には『野口大明神縁起(社記)』が残されているそうだ。

それには野口行事のあらましを描いた絵図があるそうだ。

江戸時代に行われていた様相である。

複写されたその一部は神社社務所に掲げられている。

その中の一部に不可思議な光景がある。



桶に入った龍の神さんを頭の上にあげて練り歩く姿は当時の半纏姿。

紺色の生地に白抜きした「野口講中」の文字がある。

男たちは草鞋を履いている。

その前をゆく男は道具を担いでいる。

その道具は木槌のように思える。

同絵には場面が転じて家屋の前。

木槌を持つ男は、なんと壁を打ち抜いているのだ。

当時の家は土壁。

木の扉は閉まったままだ。

もろくも崩れて土壁がボロボロと落ちている。

打たれた部分は穴が開いた。

そこは竹の網目も見られる。

まるで打ち壊しのような様子が描かれている絵図。

壁に穴を開けるということは、どういうことなのだろうか・・・。

この日は快晴だったが、雨天の場合であっても決行する蛇綱曳き。

千切れた曳行の縄を持って帰る子どもたちが居る。

家を守るのだと話しながら持ち去っていった。

蛇頭を北に向けてはならないという特別な決まりがある蛇綱曳き。

北に向ければ大雨になるという言い伝えを守って綱を曳く。

それゆえ集落を行って戻っての前進後退を繰り返す。



蛇穴の家々を巡って邪気を祓った蛇は野口神社に戻ってきた。

太鼓打ちは何度も境内で打ち鳴らす。



青年団に混じって若者たちも交替して打ち鳴らす。

オーコを肩に載せたまま回転しながら打つ太鼓妙技に見入る蛇。



戻った蛇は蛇塚石に巻き付けて納められた。

蛇曳きの間はご神体の龍が本殿で待っていた。

蛇は龍の化身となって村全域を祓ってきたのである。

ありがたい村行事の蛇綱曳きだったのだ。

ご神体はすぐさま新頭屋となる受けトヤには向かわない。

村にご祝儀をいただいた会社関係にお礼としてご神体を見て貰う法人対応が含まれる村行事でもある。

そうして戻ってきたご神体を頭の上に掲げる旧トヤを先頭に受けトヤ家にやってきた。

西日が挿す時間帯の行列だ。

先に座敷へあがりこむ太鼓打ち。

何度も何度も回って連打で鳴らす。

受けトヤを祓い清める意味なのであろうか。

行列はご神体、提灯、宮司、青壮年会、青年団たちだ。

伊勢音頭を歌いながら座敷に入っていく。

青壮年団の人たちも太鼓を打つ。

左肩にオーコをかたげて右手で打つ太鼓は昔とった杵柄。

慣れたもので年老いても身体は柔らかい。



野口神社の分霊(わけみたま)神を祀った横に座った受けトヤ。



拝礼、祓えの儀、祝詞奏上など、厳かに神事が進められた。

こうしてトヤ渡しを終えた蛇穴の村行事。

区長や青壮年会代表がこの日の行事が無事に、また盛大に終えたことを述べられた。

滞りなく終えて受けることができた受けトヤも御礼を申しあげる。

目出度い唄の伊勢音頭を歌って締めくくる。

村の行事はそれで終わりではない。



最後にトヤの振る舞いゴクマキ。

群がる村人たちの楽しみだ。

こうして一日かけて行われた蛇穴の行事をようやく終えた。

(H24. 5. 5 EOS40D撮影)

蛇穴トヤの神さん

2012年07月12日 06時47分37秒 | 御所市へ
野口行事、或いはノグチサンとも呼ばれていた行事を行っている御所市の蛇穴(さらぎ)。

戦前までは野口講中と呼ばれる座で営まれていた。

戦後の昭和22年に村の行事に移されたそうだ。

大和郡山市の額田部に住むSさんは蛇穴で生まれ育った。

生家は野口神社のすぐ前にあったという。

家を新築された際に親族は、その生家を村に譲った。

その建物は村の自治会館として利用されている。

Sさんが額田部に嫁入りするまでは生家で暮らしていた当時。

その頃は、村の行事を行う前日にモチを搗いていたという。

「村の手伝いさんが大勢来てくれて手伝ってくれた。手伝いさんには食べてもらわなあかんから接待していた」と話す。

その日に訪れた蛇穴の地。

夕刻近くには、生家であった自治会館に男性たちが集まっている。

当番の垣内の人らが朝からモチを搗いていた。

蛇頭を作ってトヤ(頭屋)の家に奉ったばかりだという。

行事役員たちは同家で祝い唄の伊勢音頭を歌っていたそうだ。

蛇穴のトヤは野口神社の分霊とされる蛇を一年間祀る。

前年の5月5日にトヤを受けてから翌日の5日の朝まで祀っている。

床の間に掛軸を掲げて祭壇を設える。

お供えや一石搗いた紅白のゴクモチを供えて神事を行っていたという北口垣内のS家。

一石のゴクモチはコモチにすれば6万個にもなるという。

代表役員の紹介を経て撮影承諾を得たトヤ家。



「神さんやから、2礼2拍手の1礼をしてからや」と伝えられて、頭を下げて手を合わせる。

赤い目、赤い舌の愛くるしい顔の蛇頭は餅藁で作った。

実に印象的なお顔である。

祭壇の一番上には桶に載せられた神さんがいる。

その形はまさに龍であるが、蛇穴では「蛇」と呼んでいる。

掛軸の姿は神社。

トヤの奥さんが云うには野口神社だと思うと話す。

その言葉通りの配置で描かれている本社や末社に鳥居である。

朝にお水と洗い米や塩を供えて毎日手を合わせていたトヤ家。

盗難や火事になってはならんから旅行もしなかった。

喧嘩はもってのほか、火が出ないようにガスの元栓は閉めたか、家の鍵を掛けたかなど、一年間は毎日が緊張の連続であったと話す。

野口神社の分霊神とされるご神体の龍を納める箱がある。

その箱には「明治十九年五月新彫 野口神社資祭霊蛇壱軀 崇敬者供有」と墨書されている。

まさにご神体であるが「新彫」の表記。

新しく彫られたのであろう。

明治19年(1886)以前に龍の神さんがあったのか、なかったのか。さてさて・・・。

蛇穴のトヤは6年に一度に回ってくる。

回ってくると言っても組単位である。

蛇穴には1組から12組まである。

6年に一度であるから二つの組単位での回りだ。

現在のトヤの組は9組と10組。

二つの組で相談し合って受けたトヤ家。

前回されたトヤ家だからと遠慮される家もあれば、家庭の事情で辞退される場合もある。

一年間も神さんを受けるのはたいへんなことだと話す。

今日、明日は一大行事。

所帯道具も別室に移動してシートを敷いた。

土足でも上がれるようにしているという。

一年間、トヤの家を守ってきた神さんは明朝に神社へ祀られる。

今夜は眠れそうにもないと話す。



自治会館前には旧家野口本家だという大きな家がある。

家の中には掘りがある。

外にあるのは本家が祀る地蔵さん。

彩色が僅かに残っている。

本家には嘉永七年(1854)『野口大明神縁起(社記)』が残されているそうだ。

それには野口行事の絵図があるらしい。

江戸時代に行われていた様相である。

複写されたその一部は神社社務所に掲げられている。

元々は野口家を中心とする宮座行事であったと思われる野口行事。

トヤ家で祀るようになったのは本家が手放し(野口講の解散かもしれない)、村行事として継承されたのではないだろうか・・・。

トヤ家の役目は神さんを祀るだけでなく、野口神社を毎日のように清掃する。

1日、15日には供えるサカキも作りなおすという。

(H24. 5. 4 EOS40D撮影)

楢原駒形大重神社ススキ提灯献燈

2011年12月01日 06時41分22秒 | 御所市へ
夏祭りでは「シャンシャン」と呼ばれる巫女神楽があるが秋祭りには行われない。

御所市楢原(ならはら)の駒形大重(こまがたおおじゅう)神社は嘉永六年(1853)や安政二年(1855)の燈籠が見られる神社だ。

それはなくとも献燈の在り方は同じだ。神事を終えた1時間後のことだ。

最初に献燈を担いできた市場城垣内のススキ提灯。

一番乗りの垣内であった。

鳥居を潜るには水平にせざるを得ない。

石段を登って拝殿に立て掛ける。

そこには前週に地元で献燈行事を終えた櫛羅(くじら)の鴨山口神社の宮司が待ち構えていた。

氏子も揃ってそこでお祓いを受ける。



そうして境内にある杭に括りつけて立てた。

その次は10個の提灯となる川添垣内がやってきた。

ススキ提灯の頂点には飾りものが取り付けられている。

市場城垣内は笹で、川添垣内は御幣であった。



提灯の上には昭和5年7月と記されている。

笹の葉の島ノ上垣内もやってきた。

石川垣内が来るころには先に到着していた市場城垣内や川添垣内は参拝を済ませて地区に戻っていった。

どうやら一同に集まるのではなく、役員が接待するお神酒を飲んでしばらくすれば参拝を済ませたということで戻っていくのだ。

戻った地区ではそれぞれ垣内で内輪の行事があるという。

夏祭りの際に聞いていた提灯担ぎ。

「昔は肩で担いでいたけど今は水平にして運びよるんや」と話していた夏祭りのときのことを思い出す。



献燈を終えれば垣内へ戻っていく。そこを交差するかのように次々とやってくる垣内のススキ提灯。

植垣内、山中、田口、園之池・・・、馬場中島、風呂の順の10垣内であった。

献燈する順は特に決まりはないが、見る者も楽しませてくれた提灯はおよそ1時間ですべての垣内が参拝されて秋祭りを終えた。

話によれば櫛羅も楢原も宵宮はないという。

その櫛羅には番水があるという。

「朝4時のあけもつと夕方4時のくれもつにはカネを叩く」という番水。

時間割で決めた水を流す時計のことだ。

農家の人たちは大切な水を分け合っていたのである。

(H23.10.16 EOS40D撮影)