マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

七夕日の夕焼け

2017年01月19日 09時43分02秒 | 田原本町へ
ハツホサンの行事に直会をされていた矢部公民館を退室したときのことである。

ドアを開けて出たらそこは夕陽が迫っていた。

時間帯は午後6時50分だった。

空はまだ青い。

白い雲がこちらに向かって流れてくる。

流れは筋を引いて広がった。

気持ちのいい情景を撮った時間は直会が始まる時間帯。

しばらくの時間は直会の在り方を取材していた。

乾杯を済まされたら女子会。

その場に居座るわけにはいかずに退室したのである。

それが感動の時間になるとは・・・。



想像、予期を越えた真っ赤な夕陽が同じような光景に迫ってくる。

あまりにも突然に焼けたように思えたぐらいの状況であった。

時間帯は午後7時20分。

30分後の出来事に夢中でシャッターをきりまくった。

撮った画像を数か月経ってから再見した。

感動は薄れていた。

あのときの感動はどこから湧き上がるものだったのか、思い出せない。

(H28. 7. 7 EOS40D撮影)

矢部・ハツホ講のハツホサン参り

2017年01月18日 09時51分49秒 | 田原本町へ
ハツホ講のハツホサン参りがあると教えてもらったのはカンピョウ干しを拝見した日だった。

干して居られたご主人に教えてもらって訪れた田原本町矢部。

ご主人が住まいする組にハツホ講が祀っているハツホサンの祠がある。

同組には他にも家中で祭っているハツホサンもあるらしいが、8軒からなるハツホ講が祭っているのは集落内にある辻に建っている八王子社である。

同社は東垣内のハツホ講の人たちで、毎年のこの日に行事を行ってきた。

かつては社の前の道にミシロ(筵が訛った)を敷いて寄り合って般若心経を唱えていたという。

八王子社は一般的に読めば「ハチオージ」或は「ハチオウジ」である。

それが訛って「ハツオージ」或は「ハツオウジ」になった。

さらに訛って八王子社を「さん」付けして「ハツオサン」。

さらに訛って「ハツホサン」になったと考えるのが妥当かと思える。

講の名も八王子講から「ハツホ講」に変化したのであろう。

文書若しくは講帳簿があれば確認できるが・・・。

間違ってはならないのが、「初穂」である。

「初穂」はたしかに「ハツホ」と呼ぶが、秋の収穫に先だって神さんに捧げる稲穂のことである。

従ってハツホ講のお供えに「初穂料」は存在しない。

当番の人はカンピョウ干しをされていたN家。



到着した私たちに気を配ってくださり、早めに供えの準備に取り掛かってくれた。

家庭で使っている小型のテーブルが祭壇になる。

社が建つ地は筋道より少し高いところにある。

やむなくテーブルに高さ調整にブロックを置く。

しばらくすれば家から持ち出した提灯をもつご婦人方がやってくる。



提灯は家の提灯。

それぞれ家特有の家紋がある。

この家紋を「ジョウモン」と呼んでいた。

「ジョウモン」を充てる漢字は何であろうか。

「常紋」それとも「定紋」・・・。

調べてみれば家紋に定紋(じょうもん)と替紋(かえもん)の二種類があるそうだ。

定紋は表の紋で替紋は裏紋。

家紋は一種だけでなく何種ももつことができるらしい。

らしいが続くが専門家でもないので、らしい表現にとどめる。

家を代表する公式な紋を家紋と呼び、勲功や婚姻などで新しく加えられた家紋を替紋、或は控え紋と呼ぶようだが、それによる上下の格差はない。

提灯家紋の話題はそれぐらいにするが、秋祭りのヨミヤにも登場するという。

これは例年のことであるが、特別なときにも提灯は登場する。

婦人の話しによれば棟上げなどで大工さんを送るときにも使うそうだ。

棟上げには御幣を持って送ったという。

また、目出度い結納のときにも・・。

家の幕は二色。

下が紺色で上は白色だったという。



神饌はコンブにスルメ。

シイタケ、ナスビ、トマトにこの日は特別にN家が栽培した黒スイカまである。

お供えも整えたころ、あちらこちらからやってきたご婦人たちはめいめいが提灯をぶら下げる。

いずれも提灯は村では小田原提灯と呼んでいたが、形が違う。

どちらかと云えば丸型・ナツメ型提灯・・・それとも瓜成り提灯。

吊るす道具は竹製。

持ち手付きの提灯(送り提灯)は運ぶのが便利である。

そこから突き出る自在カギ。

それで垂らした紐にさっと引っかけられるから吊りやすい。

ネットで調べてみれば、手持ちする竹製部分の呼び名は「ひばし」。

八女ちょうちんのHPでは「送り提灯」と呼ぶようだ。

8軒並んだ提灯は新しいものもあれば古くから使われてきた風合いをもつものもある。

やや小さ目のローソクを挿して火を点ける。



サカキを飾った社にも火を灯す。

一同が揃ったところで導師が一歩前にでる。

これより始めるのが般若心経。



一巻唱えて「やーて やーて」で終えた。

かつてのお供えに「あもう炊いた(甘くなった表現)ソラマメ」を供えていた。

直会の場は社前に敷いたゴザ。

村の人らは筵が訛った「ミシロ」を敷いて寄り合っていたそうだ。

座布団はそれぞれが持ち込み。

夏は暑いから扇風機の風もいったと話す。

夜10時ぐらいまではこの場で過ごしていたという。

同じ日には別の講があって、その講中が祭っているハツホサンをしているらしい。

講中は4軒。

参拝した4軒はザルカゴに入れたソラマメを分けてくれたそうだ。

東垣内の7組は8軒のハツホ講であるが、7組には1軒で営む講もあるという。

他の組になるが、そこにも1軒で営む講もあるらしい。

それはともかく、かつての在り方にお供えは炊いたソラマメの他、くず餅にお寿司などいろいろあった。。

御供のお下がりに子供たちが狙っていたのはお菓子にソラマメだったそうだが、今は見ることのない少子化。

集落内に入り込む車の往来に場を動かねばならない状態になる。

「ハッタサンはよう雨が降る。参拝するときは雨も上がっているが・・」と回顧される婦人もいる。

ソラマメはオタフクマメだったようだ。

前年に収穫したマメは干す。

冷やして保存する。

ハツホサンが近づけば水に入れて戻す。

砂糖を入れて崩れないように炊く。

これが難しいという調理法。

塩で味付けして食べられる状態に調理する。

大皿に盛ったソラマメを供える。

御供は下げてみなで分け合って食べた。

調理が難しく、若いもんは、ようせんから、と云って、数年前にしなくなったそうだ。



般若心経を唱えた一行は提灯、御供下げなどを手分けして運ぶ。

神酒口そのままのお神酒も運ぶ。

向かう先は村の会所である矢部公民館。

冷暖房が利いているし、車の心配も要らない。

安心して婦人会ならぬ女子会ができるという。

運んできた提灯はどこに引っかけるか。



面白いことに白板の棚である。

灯りを消してローソクを灯すわけにはいかないが、珍しい光景を見た。

神饌御供のコンブやスルメは鋏切り。

手分けして配膳する席にはお寿司盛り合わせパックもある。

お酒ではなくお茶で乾杯するのも女子会。

一時的とはいえ、家の用事から解放された婦人たちのにこやかな顔にお礼を伝えて退室した。

(H28. 6.26 EOS40D撮影)
(H28. 7. 7 EOS40D撮影)

土用干し迎えの真夏日

2017年01月17日 09時53分25秒 | 田原本町へ
矢部のさぶらき行事は前月の6月19日に行われた。

村全戸の田植えが終わって行われる村行事である。

その日から一週間後の26日に訪れたときに拝見した塀中のカンピョウ干しにはとても感動した。

さぶらき行事は来年に持ち越しとなったが、カンピョウ干しは成りものもあるが天候次第で何度かのチャンスがある。

しかし、だ。

チャンスはあってもいつの日に干すのかは、お天道さん次第。

もしかとすれば、と思っていたが、白い垂れ紐はなかった。

この日は連日の真夏日。

立っているだけで汗が流れていく。

田植えが終わって3週間ほど。

植えた苗はすくすくと育っていた。

青葉が天に向かって伸びていく。

土用干しまでまだ日にちがいる。

今年の土用の入りは7月19日。

2週間ほど待たなければならない。

それまでは田んぼの水をたっぷり吸い込んで成長する。

育ってきた稲の分けつが盛んになるころが土用入り。

根も張り出した稲は水田に広がった。



青空に白い雲も広がった真夏日。

気温は7月に入ってから32度。

この日は34度に汗だくであるが、爽やかな色に染まった青空で気分も晴れる。

タコの足が広がる土用干しはまだまだ、だ。

(H28. 7. 7 EOS40D撮影)

村屋坐弥冨都比売神社の夏越し大祓い

2017年01月08日 10時35分41秒 | 田原本町へ
身体が元気になればどこへでも出かける。

そんな気分にいつしかなってきた。

この日は6月30日。

県内各地の至るところで行われる行事がある。

それは夏越し大祓い。

これまで拝見された地域に三郷町の龍田大社、斑鳩町の龍田神社、天理市の石上神宮、橿原市の天高市(あめのたかち)神社がある。

未だ拝見していない地域に桜井市の大神神社、奈良市の春日大社に率川神社、天理市の大和神社、生駒市の往馬大社、川西町の糸井神社、河合町の広瀬神社、田原本町の津島神社、明日香村の飛鳥坐神社、下市町の八幡神社、安堵町の飽波神社がある。

いずれの地域においてもされているのは茅の輪潜り。

半年間の罪穢(つみけがれ)を祓う夏越しの大祓(おおはらえ)に潜れば疫病や罪穢が祓われると云う。

尤もひと月遅れの7月末に行われている地域も少なくない。

私が知る範囲内では御所市の高鴨神社、奈良市小倉の八柱神社、天理市の和爾下神社もある。

また、神社でなくお寺さんでも茅の輪潜りをしている処がある。

探してみればもっと、もっとあるのだろうが、潜った茅の輪は役目を終えて大和川に流す地域がある。

それをもっぺん拝見したくなって出かけた田原本町蔵堂の村屋坐弥冨都比売神社。

前回に伺ったのは3年前の平成25年

とうぜんながらの6月30日である。

川の畔にある地蔵さんや庚申さん。

いつかは行事を拝見したいが、聞取りはできていない。

当地には大神宮の祭りもある。

仕掛りは聞いていないが毎年の7月16日の午後5時から営むようだが・・・。

これら行事の場を撮っていたら夏越し大祓いが始まった。

カメラマンの姿が一人、二人、三人・・・・。

何人が訪れているのだろうか。

彼らは夏越し行事のハシゴ。

近くということもあって天理市の石上神宮や桜井市の大神神社などを駆けまわっている。

昔しはそうしたこともあったが、今は身体事情でそういうわけにはいかなかった。

拝見したいのは川流しの茅の輪である。

村屋坐弥冨都比売神社の茅の輪は大きな特徴がある。

「大きな」といっても高さも幅も大きくない特徴である。

一般的といえば失礼であるが、他所で見られる茅の輪は高さ、幅が2m以上もある巨大な形態である。

これとは逆に村屋坐弥冨都比売神社の茅の輪は小さいのである。

コンパクトに設えた茅の輪は潜るたびに頭を下げる。

そう、潜る際には神さんに向かって自然体で頭を下げる工夫をしているのだ。

子どもも大人も皆、腰を屈めながら頭を下げて神域とされる結界に入る。



この日は特に小学生の子どもたちが何人か。

ベンチに置いた学校帰りのランドセルが物語る。



神事の祝詞も特徴がある。

夏越し大祓いは神さんの祭りではなく、村人や参拝者の祭りであると云う宮司。

それゆえ祝詞は神さんが坐います本社殿に向かってではなく、参拝者に向かって捧げるのだ。

意外とそういうことに気がつかない人は多い。

カメラマンもそういう在り方を撮ることはない。

幼稚園児や小学校の子たちは終わってすぐにやってきたのであろう。

青いベンチに置いたランドセルが物語ってくれる。

白紙の「ヒトガタ(人形)」に息を三度吹きかける。

半年間の罪穢れをヒトガタに移す。

幣を巻きつけた茅で祓い清める。

キリヌサもそうする。



あどけない表情で視線を送る幼児は何を思っているのだろうか。

参拝者の足元には撒いたキリヌサの紙片が散っていた。



大祓いを終えたら結界の綱を切る。

切る方角はその年の恵方である。



禰宜さんが切る作法に神妙な顔で見つめる子どもたちの表情があどけない。

潜った茅の輪を取り外せば子どもたちを呼ぶ。



大祓いの始末は子どもたちで行われる。

神社の東側を流れる初瀬川まで運ぶ。

結界を張った忌竹も運ぶ。

祓って穢れを移したヒトガタやキリヌサや茅は禰宜さんが運ぶ。

橋の中央辺りに並んだ一行は、はじめに欄干から茅の輪を落とす。



すぐさま祓ったヒトガタやキリヌサや茅も初瀬川に落して流す。



穢れを祓った夏越しの祭具は初瀬川から大河となる大和川の流れに身を任せるが、この日は流れもなく、吹く風にのって逆の上流へと流された。

(H28. 6.30 EOS40D撮影)

佐味の八王子講

2016年06月12日 07時38分30秒 | 田原本町へ
昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に興味をもったのはいつだったろうか。

平成23年3月11日に訪れた橿原考古学研究所付属博物館。所属のY主任学芸員が田原本町図書館にあると聞いてからの2年後にようやく探し出した。

この日の打合せはK主任学芸員が企画していた「弥生の里~くらしといのり~春季特別展」に展示する農耕儀礼の写真についてだった。

その日に起こった東日本大震災。

その後に発生した大津波を映し出すニュース映像に向かって「早く逃げるんや」と叫んでいたことを思いだす。

それはともかく、貸出するには図書館利用カードの申請がいる。

簡単な手続きを済まして持ち帰ったのは、平成23年4月のことだった。

くまなく調査された年中行事の本は田原本町教育委員会編。

詳細な情報に感動する。

大字佐味で行われている行事に惹かれたものがある。

天神社境内で行われる七日盆のヤマモリと八王子講が主催する子供の相撲だ。

平成25年9月15日に訪れるも尋ねた村人は知らず、手掛かりを得られなかった。

翌日の16日も訪れた。

集落を歩いて存じている人を探し回った。

1軒家に居られた住民に声を掛けたらヤマモリの日は8月第一日曜日と判った。

夕方ともなれば村全戸が集まってくる。

境内にシートを広げて弁当を食べる。

大勢なので壮観な状況になるという。

その人は云った。

隣家は八王子講の一人だという。

しかし、呼び鈴を押しても無音。

不在のようだ。

翌年の平成26年8月3日にも訪れた佐味。

その日のヤマモリは雨天で中止だった。

同年9月14日も訪れた。

神社前に数人が居た。

その人たちは八王子講の講元を存じていた。

家を訪ねてやっと会えた。

奥さんが詳しく説明してくださったが日程は変動型だった。

予め聞くしかない。

もしやと思って出かけた今年の9月12日。

講元の話しによれば13日だという。

知ってから4年目。

ようやくお目にかかることができる。

現在の講中は5軒。

組織された時代は不明だが、当初は10軒だったと伝わる佐味の八王子講。

昔、昔のことだ。曽我川が大雨で洪水。

川は氾濫した。

小字初田(八田とも)の田んぼに神さんを祀るヤカタが流れ着いた。

それを祭り始めたのは田の所有者。

磯橋家はウチワ親戚筋の同族に声を掛けて講ができた。

八王子講はハツオサン(或はハッタサン)と呼ぶ祭りごとを始めた。

磯橋家ご一統に数軒の家とともに構成された10軒であった。

一統の発起人家で祀っていたが、佐味の氏神さんを祭る天神社境内の一角にヤカタを遷し八王子社とした。

明治22年旧8月13日より書きだした『八王子講連名帳』によれば、「萱野原姫命御殿」こと八王子社は明治22年10月に玉垣とともに営繕したと書かれている。

講中の話しによればこれよりもっと古い文書があるらしい。

おそらくは江戸時代のものであろうか。

それを見ないことには断定できないが、八王子社の創建は江戸時代まで遡るようだ。

なお、現在の社殿は昭和12年3月28日に新調したと文書に記されている。

提灯に記された八王子の神さんは萱野原姫命。

オヤとも呼ばれる講中・ヤド(宿)家の玄関に立てた提灯である。

近年においてヤド家は公民館に移ったことから掲げることはない。

かつては高張提灯のように掲げていたという。



提灯に書いてある「萱野原姫命」は、もしかとすれば野槌の神さん。

野ノ神さんであれば野神さん。

連想はともかく佐味・八王子講に「蛇」は登場しないから野ノ神さんでもなさそうだ。

流れ着いたのはヤカタである。

ヤカタに神さんの名があったのか、継いできた講中に詳しいことは伝わっていない。

かつての八王子講の営みはオヤと呼ばれる「宿(ヤド)」家に集まっていた。

御供の調製、八王子社参拝、村子供の相撲を終えたらオヤ家の接待料理をよばれていた。

訛って「デン」と呼ぶ膳を風呂敷に包んでオヤ家に出かけた。

「今日はお世話になります」と挨拶して座敷にあがった。

家の料理は手間がかかる。

20云年前からパック詰め料理になった。

いつしかそれも面倒になり料理屋に出かけることにしたという。



それはともかく御供の調整はオヤ家でなく、今では場を移した公民館だ。

オヤが準備した真竹に白紙。



竹をナタで割ったところに切り抜いた幣を差し込む。

これを2本作る。

御幣は子供相撲の最優勝者に授与される。

もう一本はオヤが貰って帰る。

神棚などに供えて一年間、家の守り神として掲げるようだが、優勝した子供の家ではどうしているか判らないという。

ハツオサンに供える御供を調整する。



一つは半切りしたカボチャを土台にコーヤドーフ、ミョウガ、二度豆、乾物シイタケを竹串で挿す。

コーヤドーフは胴体。

ミョウガに二度豆は左右の両手を表現しているように思える。

そう見立てたらシイタケがまるでお顔のように見えてきた。

もう一つは折敷に盛った供餅。

今では配りやすいようにコモチになったが、かつては2段重ねの鏡餅。

下段は一升で、上段が五合のモチゴメで搗いたという。

一升餅に相当する下の段にコモチを並べる。

コンブ、スルメの順に載せた上の段にもコモチ。

これが五合に相当する鏡餅だ。

御供調整を終えた講中は時間ともなれば八王子社へ出向く。



予め結っておいた注連縄、真竹の御幣、鏡餅御供、野菜御供などを抱えて公民館を出発する。

集落を抜けて天神社の鳥居をくぐる参進。

天神社境内の北端に鎮座するのが八王子社だ。

講が組織された当初は10軒だった。

平成17年までは8軒であったが、今では5軒になった八王子講が祀っている。



社殿に注連縄を架けて、お神酒、塩、洗米などの神饌を供える。

稲藁で編んだ筵を敷いて野菜造りの御供も並べる。

社殿左右に御神前提灯を掲げて火を灯す。



講中は一同揃って2礼2拍手1拝。

神職は登場することなく淡々と進行されたハツオサンの祭り。

その次は村の子供を集めて相撲が行われる予定だった。

前夜から雨が降りだす天気予報。

社殿前に設えた土俵はずぶぬれになると想定された。

取組相撲はできそうにもないと決断されて今年はやむなく中断。

晴れ間であれば朝にマイク放送をして子供たちに相撲の案内をする。

集まってくるのは5人ぐらい。

幼稚園から小学6年生が対象者。

かつては男児だけだったが女児も参加できるようにした。



昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に載っている写真では男女13人もいる。

写っていない周りにはもっといたのだろう。

行司は講中が務める。

見合った子供の背中を叩いて合図するらしい。

「はっけよい のこった のこった」と采配するようだ。



参拝を終えた講中は清めの塩だと云って、土俵の場に塩を撒いて解散した。

(H27. 9.13 EOS40D撮影)

八田のマツナエ立て

2016年03月08日 08時36分47秒 | 田原本町へ
2月末にオンダ祭が行われた田原本町の八田。

松苗をたばって帰った氏子はGW後の日曜日辺りに数軒が苗代に立てていると話していた。

荒起こしの様相も拝見しておこうと思って立ち寄ったら「あった」のだ。

伊勢降神社の西方に畑が広がる。



一角にあった苗代に立ててあったイロバナに目がいく。

おそらく家に咲いていたシランにデージーでは・・。

そこにあった松苗。

腰も折れずに立ててあった場所は水口ではなく南側の苗床だったけど、足跡がついていない。

どういう具合にして立てたのだろうか。

数百メートル南側で苗代作りをされていた人たちがおられた。

寄っていけばちょうど終わったばかり。

ご主人はオンダ祭でお会いした人だった。

同家では苗代作りを終えて一旦戻る。

家に帰っておばあさんに終わったことを伝える。

それを聞いたおばあさんが松苗とイロバナを立てるというからその場で待っていた。

隣の苗代にも松苗とイロバナを立てていた。

ご主人が云うには苗代は前日に終えた。

この日の朝に同家と同じようにおばあさんが立てていたという。

くっきり残った足跡がある。

ここの家は北側の端っこに立てたそうだ。

ご主人は戻る際に雨が降ってきたらおばあさんは出かけないと話していた。

20分ほど待っていたら85歳のおばあさんが自転車のペダルを漕いでやってきた。



「遅くなってすまんな」と云われる。

「いや、こちらこそ無理を云って申しわけない」、である。

家の庭に咲いていた花は色とりどり。

「少ないけどムギも持ってきましてん」という。

ちょこちょっと苗床の北側に立てたおばあさん。



拝むこともなく松苗・イロバナ立ては「マツナエを立てる」という。

同家も他家と同じように水口ではなく、苗床の端っこ。

八田では北側、南側といろいろだった。

「マツナエ立て」を終えたおばあさん。



自転車に跨って戻っていった。

「歩くのはかなわんで」と云った言葉が耳に残る。



マツナエ立てを終えてしばらくすればにわかに曇って土砂降りの雨。

間に合ってほっとした。

(H27. 5. 4 EOS40D撮影)

蔵堂薬師さんの将軍さん

2015年12月13日 12時00分21秒 | 田原本町へ
3月3日は桃の節句の雛祭り。

華やかなイベントは目もくれず出かけた先は田原本町の蔵堂。

毎年交替される須佐之男神社の祭祀をつとめるトーヤ(当屋)は4人。

年中行事は正月の元旦祭、3月のショウグンサン(将軍さん)、8月のオヒマッツアン(お日待ち)に10月のヨミヤ(百味の御食)だ。

4回あるから4人がそれぞれの行事の代表年番にあたる。

「蔵堂のしょうごんさん」は昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』の目次に書いてあったが詳細は不明だった。

村屋神社の守屋宮司が若干話してくれたことだけが手がかり。

墨書するごーさん札はヤナギの枝に挟んで供えることしか聞いていなかった。

朝早くから公民館で調整をしていた4人のトーヤ。

墨書していたのは守屋宮司だ。



墨書文字は流れるような形。

文字とは思えない。

そこに朱も書き入れる。

ふにゃふにゃした文字は神代(じんだい)文字と呼ばれる。

神代文字は別名に「ひふみ文字」とも云われるらしい。

墨書した文字は「スサノオノミコト」だという。

「スサノオノミコト」は牛頭さんを祀る須佐之男神社のことだ。

朱はなんとなく宝印をあらわしているように思えた。

そう言ったら宮司もそう思うといった。

書ができたごーさん札はネコヤナギの木に挟む。



20本も準備したネコヤナギはすべてが芽吹き状態。

今にも開きそうな感じだ。

お札を四つ折りにして挟む部分には切り込みを入れてある。

外れないように下部に輪ゴムで止められた。

ナタで切り込みを入れた真竹に御幣を挿す。

それに杉の葉を挿した。

これら、祭具の調整を済ませたトーヤ4人と宮司は小字名奥垣内に鎮座する須佐之男神社に向かう。



行事を終えたときに村各戸に配るモチも運ぶ。

須佐之男神社・社殿は二社。

左は弁天さんを祀る市杵島姫神社で、右が須佐之男神社だ。

かつては神社右横に神宮寺の薬師堂があったと宮司は話していたが史料は残っていない。

薬師堂があった場の西側に梅が咲いていた。

行事は一般的な神事で行われるが、ヤナギの枝やごーさん札があることから、かつてはショウゴンサンと呼ばれていた寺行事であった。

ショウゴンサンを充てる感じは「荘厳さん」。

いつしか訛って呼び名はショウグンサンになった。

充てる感じは「将軍さん」だ。

このような事例は奈良県内にいくつかある。

蔵堂の薬師さんの将軍さん行事のお札は「スサノオノミコト」文字。

かつては薬師堂の「牛玉宝印」を押したごーさんであったと推測されるのだ。

いつしか寺が廃れて神社行事に移ったと考えられる。



神饌御供はコジュウタに盛った二升一臼で搗いたモチもあれば、アジやホウレンソウなどもある。

アジは二尾。

「ハラハラドウシ」に合わせて盛る。

付け加えていうならば「ウミバラ カワセ」であるという宮司。

「ウミバラ カワセ」の意は海の魚であれば腹合わせ。

川魚であれば背中合わせにするというのだ。

アジは海の魚であるから「ハラハラドウシ」。

つまり二尾のアジはお腹とお腹合わせにするのである。



宮司一拝、祝詞奏上、玉串奉奠などの神事を終えたら、宮司と一人のトーヤが東の塚に向かって出かける。

先頭を行く宮司はサカキの幣を持つ。

後方にトーヤ(当屋)が就く。

杉の葉を挿した竹の御幣を持つ。



集落を抜けてまっすぐな道の農道をお渡り。

昔の農道はもっと狭かったそうだ。

今では広げられてトラクターも走る農道。

500mほどのお渡りに黙々と歩いていく。

10分ほどで着いた地にこんもりと盛り土をしたような塚がある。

それが東の塚。

ここは隣村の天理市檜垣町(ひがいちょう)との境界地辺りである。

南側に蔵堂池がある。

この辺りの昔。

遡ること飛鳥時代。

曲水の宴をしていたと宮司が話す。

曲がりくねった小川に遊ぶ宮中の宴であったろう。

北側は天理市遠田(おいだ)町。

三つの井戸があったことから「御井戸」。

「みいど」とも読めるが「おいど」であった。

「おいど」が「おいだ」に変化して、充てる漢字も「遠田」になったと宮司が話す。

塚の北側は十六条、南は十七条(小字に下六条・上六条)の名がある条理の地。

蔵堂は十八条。

すべてが条理制の地番割りになるそうだ。

ちなみに塚がある小字名は郡神であるが、読み名知らず、である。



天理市檜垣町内の田んぼにある塚をサカキ幣で祓い清める宮司。

トーヤは御幣を塚の中央に立てる。



この地より東南は纏向遺跡。

その向こうに見える山は三輪山。

田園が広がる地から遠望した。



塚での神事を終えた宮司とトーヤは公民館として利用している蔵堂誠宏会館に戻っていく。

これより須佐之男神社に供えたネコヤナギのごーさんを各戸に配る。

トーヤモチは小学6年生までの子供が居る家庭に配られる。

かつては学校帰りに弁当を貰いに行った。

その足でモチを貰いに行った。

モチを貰うのは男の子だった。

子供が貰ったモチは薬になる。

一年間は病気にならなかったという言い伝えがあったそうだ。

隣町の檜垣町の人はこれを見ていたら腹痛になると云って逃げていったという逸話もあるらしい。

ちなみに農家を営む家に配られたネコヤナギのごーさんは苗代を作った際に立てているそうだ。

だいたいが5月のGWになるという。

(H27. 3. 3 EOS40D撮影)

八田伊勢降神社御田植祭

2015年12月07日 07時30分09秒 | 田原本町へ
田原本町八田に鎮座する伊勢降神社。

道路に面した処に建つ常夜燈がある。

左側に燈明講中の刻印。

右は二月吉日だ。

台座には「世話人 當村 安井源兵衛 合場村 山中惣三郎」に名が刻まれている。

つい先日に話してくださったSさんによれば、「安井源兵衛」は、200年前、京都の巨椋池に15町の土地を買ったという八田一番の地主だった。

常夜燈左横に砂を盛った小山がある。

それをSさんは「源兵衛山」と呼んでいた。

これもまた寄進なのである。

本殿下にある古い灯籠にも刻印があった。

「寛永三年(1634) 奉寄進伊勢振社 御□□昌所 九月吉」とある。

おそらく神社年代記を示す一番古い灯籠であろう。

神社名は現在の伊勢降ではなく伊勢振社であった。

八田(はった)の御田植祭は2月の不定期日。

Sさんが云うには、だいたいが26日から28日の間。

私が知るここ数年の範囲内では28日が多いように思える。

伊勢降神社の祭祀を勤める3人の宮守のうち年長の人が村神主。

宮司を先頭に家からお渡りをしてきた。

烏帽子を被り白装束姿の人が年長の村神主だ。

その後ろにサカキを手にした老人会会長がつく。

後方でホッカイを担ぐのは垣内の廻り当番。

御供や松苗を収めている。

神社に到着した一行は本殿前に並んで祓えの儀。

それから拝殿に登って神事が行われる。

御供の献饌、祝詞奏上の次が御田植所作になる。

幣と注連縄を取り付けた長さ2mぐらいのカシの木を手にする宮司。

カシの木の先は二股になっている。

「牛」の角に見立てたカシの木である。

「牛」を手にして立ち上がる。



少し前に出して拝殿床にトンと打って一歩進む。

時計回り周回しながら作法を繰り返す。

拝殿を神田に見立てて田んぼを耕す「牛遣い」の所作は、徐々に中央へ寄っていくように見えた。



宮司、村人がいうには御田植の所作は昔から変わりないと云っていたが、それは江戸時代からそうであったのかどうか判らない。

所作の次の玉串奉奠、撤饌、閉扉、宮司一拝で終えた。

神事を終えたら奉った松苗を垣内の戸数分に分ける。



束にして垣内の代表者が持ち帰って各戸に配る。

このときにはモチ(一個)も配る。

いわゆるゴクモチである。

村で稲作をしている家ではGW連休明けにイロバナとともに水口に立てているという。

その場が集中しているのは神社の西側。

その時期ともなれば数戸が立てているという。

ちなみに農家でない家は神棚に松苗を奉るらしい。

(H27. 2.28 EOS40D撮影)

八田のこと

2015年12月06日 09時18分40秒 | 田原本町へ
もしかとすればこの日にされるとも聞いていた八田の御田植祭。

祭典に就く前に松苗や御供を唐櫃に納めて運ぶ村神主らのお渡りがある。

この日は雨降り。

お渡りはされることはないだろうと思いながらも出かけた田原本町の八田。

云うまでもなく、気配がなかった。

やってきたのは軽トラに乗ってきた男性。

神社ではなく鳥居向かいにあるハウスだった。

男性は以前にお見かけした人だった。

懐かしい顔に誘われてハウスで迎えてくれた。

男性が云うには今年の日程は28日

村の通信がそう伝えていたそうだ。

昭和6年生まれのSさん84歳。

かつて宮守を勤めたことがある。

今では悠々自適で自前のハウスで野菜などを栽培している。

八田の神社は伊勢降神社。

官幣大社の小社に挙げられたこともあったそうだ。

同名の伊勢降神社がもう一カ所に鎮座している。

国道を挟んだ西隣の天理市庵治町に鎮座する。

庵治町の伊勢降神社が女神で八田は男神だという両伊勢降神社であるが、庵治町の女神さんが男神の八田から分社したそうだ。

八田(はった)は150戸の集落。

東八田(ひがしばった)、中の東、中の西、西八田(にしばった)の4垣内である。

西八田に常宝寺がある。

伊勢降神社より北方にある常宝寺は奈良市の律宗唐招堤寺の末寺。

石見公(いわみこう)が寄進して創建したと唐招堤寺古文書に記されているらしく寺の由緒書に記しているそうだ。

石見公という人物はどこのだれであるのか判らないと云う。

もしかとすればだが、三宅町に石見(いわみ)の地がある。

そこに住んでいた石見公と考えてみたが・・・。

Sさんが所有する古地図がある。

それによれば八田伊勢降神社より東北方角に向かう道筋があるらしい。

天理市の合場の地である。

その道は八田が所有する地であったそうだ。

なんらかの事情があって道は合場になった。

代償に合場が所有する畑地を八田に譲った。

交換条件である。

そのことが関連しているかそうか不明であるが八田伊勢降神社に寄進された燈籠に合場の「ジンベエ」の名が刻まれているそうだ。

所有する古地図には「ダイモン(大門)」とか「テライリ(寺入)」、「ハカマエ(墓前)」が記されているらしい。

いわゆる小字名である。

地図で思い出されたSさん。

八田には豊臣秀吉時代に作られた「検地帳(天正十九年か)」があるそうだ。

検地したのは秀吉でなく配下の奉行だったようだ。

今でも村総代が大切に保管しているらしい。

八田伊勢降神社に出仕されて神官は田原本町法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社宮司。

八田の神事を勤めている。

宮司が勤める郷社に田原本町の八田をはじめとして唐古、小阪、鍵や天理市の海知町、武蔵町がある。

元々の八田は法貴寺の郷社関係でもない、唯一の郷社だった。

明治時代に入ったころかどうか判らないが法貴寺から頼まれて郷社入りをしたそうだ。

その件について話すSさん。

八田の宮司は江戸時代末期まで二階堂(上之庄)の廣井氏だったと話す。

その関係かどうか判らないが、費用持ちは他村よりも半額という条件で郷社入りをしたようだ。

今でも会計はそのようになっていると話す。

Sさんとの話題は広がる。

「デンダラ」を知っているかと云われる。

「デンダラ」は水屋箪笥。

なぜに「デンダラ」と呼ぶのか判らないという。

「ダラ」は水屋箪笥の棚では・・・と云う。

もしかとすれば「デン」は「膳」であろう。

県内各地で行事に供えられる御膳(ごぜん)がる。

れを「オデン」とか「デン」と呼ぶ地域がある。

「オデン」は「御膳」が訛った表現だ。

「デン」は「膳」のことである。

こういう事例を知っていた私は「デンダラ」は「膳棚」をそう呼んでいたのであろうと思った。

そのことを伝えたSさん。

謎が解けたと笑顔になった。

そういえば前年に訪れた八田で懐かしのポン菓子が販売されていた。

村で喜寿(77歳)や米寿(88歳)の祝いにたくさんいただいたと云う砂糖。

これとお米を提供してポン菓子を作ってもらう。

何人もの祝い人がおれば祝いの砂糖がたくさんになる。

消化するのに最適なポン菓子の材料に消えていく。

「そんなことをしているのはうちの村だけでは・・・」と話すSさん。

県内各地の行事や風習を取材しておればそうでもないことに気がつく。

大和郡山市の長安寺町でもまったく同じように米寿祝いに二袋の砂糖を各戸に配る。

桜井市の小夫嵩方では随分前に廃止になったが、当時の祝いは箸であったと聞く。

廃止された現在は神社に奉仕料として供えるそうだ。

また、宇陀市室生下笠間ではオボン(盆)、チョウシ(銚子)、メシジャクシ(飯杓子)<一般的にはシャモジ(杓文字)>などが配られていた。

今では祝いの品を配ることのない村の風習だ。

Sさんも聞いていた他村はシャモジだった。

「いまでもそんなことをしているのか」と云われたことがあると話す。

Sさんは84歳。

米寿になるころに意見を述べて砂糖の量を減らしたい考えがあるという。

風習は大切なものであるから中断することは考えていない。

大量になる砂糖の量を減らす改善だと云う。

そんな話題も提供してくれたS家は富士講の一員。

五人組みになるそうだ。

講員は新旧交替しているが、昔から勤めているのは私一人だけだと云う富士講の集まりは、今でも一月、五月、九月に廻り当番の家で掛軸を掲げて灯明を灯すそうだ。

「富士山」の文字がある掛軸には猿も居る。

紛れもない富士講を示す掛軸を拝見したくなって取材をお願いした。

かつての集まりには料理膳も出ていたそうだ。

支度がたいそうになってご馳走は取りやめたが、掛軸を掲げて手を合わすのは今でも続けているという。

掛軸は他にも大峰、役の行者・不動尊を描いた掛け図があるという。

八田には富士講以外に庚申講や伊勢講もあったそうだ。

庚申講は解散して守ってきた掛軸は性根を抜いてお寺さん(西方寺かも)に預かってもらった。

伊勢講は掛軸を掲げることもなく会費だけは集めている。

貯まった会費は講中の奥さんも連れて旅行に行くように改定したら、「たいそう喜ばれて」と云った。

(H27. 2.26 記)

法貴寺南垣内コンピラサンの御湯

2015年07月11日 07時47分31秒 | 田原本町へ
田原本町法貴寺地区では7月から11月にかけて5カ所で御湯神事が行われている。

この日は南垣内のコンピラサンのマツリ。

コンピラサンこと金毘羅社に御供を供えて湯釜を設える。

里の巫女が到着するまでに湯を沸かしておく。

羽根付きに湯釜は三本脚。

古くもなく一般的な釜であった。

当番の人が雑木に火を点けて湯を沸かす。

南垣内は26戸。

3軒が廻りの当番だ。

南垣内の年中行事はコンピラサンを入れて年に3回。

1月10日はお正月と云ってオカガミモチを供える。

7月10日は「ヤマモリ」。

17、18年前までがゴザを敷いて食べていたそうだ。

金毘羅社の鎮座地は集落を入った処にある。

村を南北に流れる水路の一部は道路拡張のために暗渠にされた。

拡張されれば車は通りやすくなる。

マツリの場に何台かの車が通り抜けて走っていく。

73歳の婦人が話すかつての村道。

リヤカーがまだなかった時代である。

幅はそれほどでもない道を大八車が通った。

野菜を運ぶのではなく人だった。

病気といえば大八車に人を乗せて病院まで運んだと云っていた時代は随分昔のようだ。

金毘羅社のご神体は大石。丸彫りした内部にレリーフ文字の「金」が見られる。

前部に屋根付きのヤシロ。

後年に扉を付けたという。

御湯作法をされる里の巫女は池坐神社宮司の孫さん。

小学校時代から初めて今尚活動する高校二年生である。



幣で湯釜を祓ってから右手に鈴をもってシャンシャンシャンと鳴らす。

左に回りながらシャンシャンシャン。

一礼されて今度は右回りにシャンシャンシャン。

再び左回りにシャンシャンシャン。

酒、塩、お米を入れてから2本の笹を水平に構えて拝礼する。

その作法は北、東、南、西にむかってそれぞれ。

四方の神への拝礼だ。

そして笹を湯に漬けて前方に飛ばす。

何度か作法をして次は大きく両手を振り上げて斜め方向に湯を飛ばす。

後方にも湯を飛ばす作法は池坐神社独特の作法である。

鈴を手にもつ神楽の舞をされて、村人への鈴祓いで終える素朴な村の行事であった。



マツリを終えれば里の巫女が立っていた藁束や湯祓いした笹を天保九戊戌年(1838)十月に建之された金毘羅大権現の燈籠に括りつけた。

この作法は南垣内だけでもなく前田・西南・西口・北・観音寺垣内の人たちによって行われる川西講のゴウシンサンも同じである。

なぜにこのような形をされるのか村の人も知らないという。

マツリを見届けて辻に出た。



その角に西・東市場が管理する地蔵さんを祀った祠がある。

8月の23日か24日に行われる地蔵さんは夕方。

「ヤマモリ」をすると話していた。

機会があれば訪れたいものだ。

(H26.11.10 EOS40D撮影)
(H26.11.10 SB932SH撮影)