マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

八田伊勢降神社のヨミヤ神楽

2015年05月30日 08時40分21秒 | 田原本町へ
集落を巡っていた子供御輿が伊勢降神社に戻ってきた田原本町八田(はった)。

オーコで担いだ平太鼓を打つ子供たち。

赤い大きな団扇で煽ぐ。

「わーっ しょっれ」に合せて太鼓はドン、ドンと打つ。



声を掛けて曳いていた神輿は移動車に乗せていた。

ヨミヤの晩に「クヨウモチ」と呼ばれる餅を供えると聞いて訪れた八田である。

「クヨウモチ」を充てる漢字は「九葉餅」だと云う。

ヨミヤの伊勢降神社に張った幕や吊るした提灯に見られる紋がそれであるが、中央に大き目の黒丸、周りを放射線状にした黒丸が八つ。



いわゆる「九曜紋」である。

「九曜紋」は火星(虚空蔵)・水星(弥勒)・木星(薬師)・金星(阿弥陀)・土星(聖観音)・太陽(千手観音)・月(勢至)の七曜に計都(釈迦)、羅睺(不動明王)を加えた九曜曼荼羅の信仰が家紋になったようだが、八田の伊勢降神社の神社紋になった経緯は判っていない。

神社宮守が話した「クヨウモチ」は本社ならびに境内社の道祖神社、市杵島神社、住吉神社、多賀神社、保食神社および祖霊社に供えられる。



ラップで包まれているから判り難いが、べたっとした長い餅を4枚重ねて中央に大き目の餅を乗せている。

「これはハナモチ。ウメの花の形である」と云う人もいる。

似てはいるが花弁の枚数は異なる。

御神木の前にも供えていたヨミヤの夜。

八田では例祭宵宮をヨミヤと呼んでいた。

時間ともなれば氏子参拝者がやってくる。



家族とともに連れだってやってきた人たちは持ってきた懐中電灯で足元を照らして夜の参拝。

境内各社に手を合せるが、供えられた「クヨウモチ」に気がつく人は多くない。

ヨミヤの祭典は3人の宮守さんの他、次年に担う宮守や氏子代表などが参列する。

宮守年長者は白の狩衣を着用している一年神主の村神主。

本殿前で祓えの儀をされて拝殿に登る。



祓えの儀の際には見られなかった3人の女児巫女も同席している。

開扉、献饌、祝詞奏上を執り行われる。

玉串奉奠は氏子一同、老人会、宮守の順で終えた。



そのころともなれば境内社で参拝をされた氏子家族が本殿前に立った。

徐々に伸びて行列となったヨミヤ参拝。

家族単位でやってくる人数は相当なもので行列ができる八田の集落は150戸だ。

行列は長い。



神楽を舞う女児巫女は八田の子どもたち。

小学6年生が二人、「みならい」とされる5年生は一人だった。



なんとなく見覚えがある女児。

平成22年9月18日に行われた「むかしよみや」で神楽を舞っていた子だった。

「覚えている」と言葉を返してくれた女児巫女の任期勤めは2年間だと話す。

参拝者は神楽料を納めて鈴を鳴らす。

そうすれば一人の女児巫女が立って神楽を舞う。

まずは御供祭壇に向けて一礼する。



それから鈴を右手に持って舞う神楽。

シャン、シャンと鳴らしながら左、右、左へと舞う。

参拝者側に向かうときはその都度頭を下げる。

まさにお神楽の舞いである。



そうして参拝者に歩み寄り鈴をシャンシャンと振る。

その音色からであろうか、宮守の一人は「シャンコシャンコ」と呼んでいた。

神楽の舞いは法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社の宮司家が指導にあたっている。



5月から教わってきた神楽を勤めたシャンコシャンコ。

3人が交替して神楽を舞う。



シャンコシャンコで祓い清めてもらった家族は夜店でたこ焼きかリンゴ飴を買って帰っていった。

行列が途絶えて参拝者はもうないだろうと云って神事の続きが始まった時間帯は夜7時50分。



長丁場の神楽舞を終えた巫女たちもほっとひと息つける。

ヨミヤはこうして撤饌、閉扉、宮司一拝で終えた。

(H26.10.12 EOS40D撮影)

阪手北明神講の当家渡し

2015年05月11日 07時24分41秒 | 田原本町へ
田原本町阪手北は古代・中世に亘って役所があった要衝の地。

中世にはひもの(桧物)を売るサカテ座があったとされる商売の地。

旧村集落の佇まいをみせる建物が立ち並ぶ。

阪手北の八坂神社で行われる「華鎮祭」がある。

38戸の阪手北明神講が営む行事である。

村屋神社の宮司が結鎮祭文(けいちんさいもん)を詠みあげ、明神講の人たちが的打ちをする行事は平成16年2月に取材したことがある。

昨年の暮れに訪れた阪手北。

神社役員や当家らが簾型の注連縄を飾っていた。

そのときに話題がでた阪手北の明神講。

10月の初めころに講中が祭祀される明神講のマツリがあると話していた。

八坂神社に当家で一年間祀ってしたヤシロを持ち込むというのだ。

家の床の間に祀るのはヤシロだけでなく錆びたカタナもあると話していた。

毎月の1日と15日は酒、塩、米を供えてローソクに火を灯す。

八坂神社の分霊であるかも、と思っていた。

直前に伺った当家。

まさにその通りに祀っていた。

明日の午前中に公民館へ運ぶというヤシロとカタナを拝見した。

錆びてはいるが真剣である。

カタナは大刀・小刀の2本。

納めてある箱はそれほど古いようでもない。

そして翌日に訪れた阪手北の公民館。

自治会長の了解を得て取材に入る。



時間ともなれば一年間祀っていた当家が運んできた。

公民館は、かつて阿弥陀寺であった。

明治時代は観音寺であったが消失したと受け当家は話す。

八坂神社の創建年代は不明である。

江戸時代は牛王天王社と呼ばれていたが、明治22年に現在の社名である八坂神社になった。

それまでは神宮寺・西の坊と称して釈迦堂、薬師堂があった。

それが受け当家が話す観音寺であったようだ。

廃仏毀釈の関係で明治7年に廃寺された釈迦堂、薬師堂は阿弥陀寺に遷されたと案内札に書いてある。

「華鎮祭」において各戸に配られるお札がある。

それには版木で刷られた「牛の玉 西坊法印」の文字があるようだ。

かつては坊の僧侶とともに神社の社守によって行われたと想起するのである。

いつの時代か判らないが、阿弥陀寺は火事で焼けた。

その後に建てられたのが公民館である。

場所からいってまさしく神宮寺である。

西の坊の元の地や阿弥陀寺の地、神社、大神宮まで含めて戦前までは敷地内であったと話す受け当家。

織田信長の時代までは天領だったという阪手北。

平野権平長泰(ひらのごんべえながやす)の子孫だったと話す受け当家は羽柴秀吉に土地を貰った。

当時、婦人を秀吉にあてがった。

子供が誕生して元服した。

占をしていた家系であったが、おじいさんの時代にやめた。

いろいろあって村に土地を返したと話すのである受け当家には古い弓や「ゴーシンサン」に供える「ショウユセンベイ」を焼く道具もあると云うである。

10月22日の夕刻には大阪平野大念仏から如来さんがやってくる大和ご回在がある。

公民館前、大神宮石塔がある辻角に融通念仏宗派の阿弥陀寺である。

かつて西の坊にあった木造釈迦如来坐像を安置しているそうだ。



この日はまだ上陸もしていない台風18号の余波を受けてやや強い風が吹いていた。

自治会長に宮役員、当家、受け当家に次年度に受け当家となる新人は境内を清掃する。

風に煽られていくら履いても散らかる。

仕方なく途中で断念された。



そうして午後に行われる明神講の行事に際して予め設営しておいた神饌台に錫製の瓶子(へいし)と塗り椀の酒盃と酒器。

本殿には狛犬も置いた。

調えた人たちは宮役員を覗いた4人。

公民館で会食をして午後の祭典を待つ。

会食の献立は巻き寿司にマツタケの吸い物、刺身だ。

参集した講中は拝殿に登る。



まずは自治会長が祓え詞を奏上する。

かつては十五人衆と呼ばれる長老衆であった。

八坂神社の年中行事を勤めていた。

1日、15日はお参り。

年に数回は十五人衆が寄りあって会食をしていた。

当番になる家でご馳走をよばれていたが、いつしか3人まで減少した平成16年ころ。

行事は自治会に委ねられ了承されて今に至る。

かつての十五人衆は引退するまで勤めていた。

次にあたる講中はいっぱい待っていたという「シニマチ」やったと経験者である大正14年生まれの長老が話す。

一月は初勘定、五月は田植えの集会もあった。

水溜めは桜井市の倉橋だと話すのは自治会長。

水門開けに4時間もかかる阪手までは長い距離だ。

日照りで干上がった水路はカラカラに乾くから途中で水が染み込んで消える。

水門を開けてから阪手に届くには3日間もかかったと云う。

十五人衆が祭典を勤めていたときは最長老の一老が奏上していたようである。

多の宮司さんに教わった祝詞奏上。

家で何日も練習したという自治会長の声が拝殿に響く。

次は大祓えを奏上した。

次に行われるのが当家渡しの神事である。

2礼、2拍手、1礼をされて指示をする。



この日まで家でヤシロを祀っていた当家とこの日より受け継ぐ新入りと呼ばれる受け当家に命じて、一旦仮納めしていたヤシロとカタナを運ばせる。

境内を通ることなく公民館を出発して境内周りを歩いて鳥居を潜る。



ヤシロの神さんは鳥居を潜るのである。

手で抱えて運んだヤシロとカタナは恭しく神饌台に置かれて頭を下げる。

こうして役目を終えた当家は「見届け」になりその場に留まる。



受け当家は当家になり、新たに次の年に受け当家となる新人が並んで2礼、2拍手、1礼でお参りだ。

次に行われるのは供えた生のカマス喰いである。

喰いであるが、口には銜えない。

生魚だけに、いただくのは家に持ち帰ってからだと云う。

カマスは三つに切り分けている。



頭は自治会長に、中央は当家、尾は新人に渡されるのである。

それぞれ半紙に包んだカマスは、その順で手渡される。

かつて十五人衆を勤めた長老によれば箸で摘まんで差し出していたようだ。

次は酒盃の儀式である。

見届け人はヤシロを下げて当家の前に遷す。

盃を手にする自治会長、当家、新人の順に酒を注ぐ。

三三九度の儀式ともされる酒盃の儀式には当家は飲み干したときに「高砂」の謡を謳われる。

新人も注がれた酒を飲み干せば、講中全員が頭を下げて拝する。

当家渡しの儀式はこうして終えた。



直ちに受けたヤシロとカタナを手で抱えて当家に向かう。

何故かヤシロを抱えていたのは新人だった。

床の間に調えた二人は拝殿に戻れば直会となる。



パック詰め料理はお酒とともによばれる会食。

長老の話ではかつての会食はコイモにマツタケの吸い物であったようだ。

今ではワカメの味噌汁に香物もつく。

こうして延々と酒を飲み続けた講中。

アガリの酒は尽きなく4本目。

実に飲みっぷりがいい。

座におられた男性に声を掛けられた。

なんと、である。

平成19年度まで県立民俗博物館に在職されていた館長であった。

そのころより頻繁に訪れて鹿谷勲氏と打合せをしていたことを思い出す。

(H26.10. 5 EOS40D撮影)

平田コマツリのお神楽

2015年05月04日 08時16分02秒 | 田原本町へ
かつて川東村の一つである大字平田は村屋坐弥冨都比売神社の郷中。

同神社の郷中は田原本町の平田、蔵堂、大木(おおぎ)、為川南方、為川北方、金澤、東井上(ひがしいね)、西井上(にしいね)、伊与戸、笠形、大安寺、阿部田、南阪手、阪手の14ケ大字の他、現在は天理市に属している遠田(とおだ)もある。

9月30日にはお神楽があると村屋坐弥冨都比売神社の守屋宮司・禰宜が話していた。

お神楽を勤めるのは神社鎮座地の蔵堂在住の女児巫女である。

集落の辻に提灯を掲げる。

参る人は少ないようだと云っていた。

大字平田の存在を聞いて訪れたのは一年前の平成25年9月28日。

集落南に春日神社が鎮座する。

境内には地区の会所があった。

大和磯城ライオンズクラブが寄贈した立て看板があった。

それによれば大字平田はのちに橘街道と呼ばれた古代の中ツ道西側に位置し、南北朝時代より郷名が初出するという。

春日神社には拝殿が見られない。

お神楽は本殿前でされるのであろうか。

建つ平田会所は元々が浄土宗善興寺。

本尊の薬師如来座像を安置する薬師堂でもあった。

30日の夕刻にされると聞いて訪れた大字平田には御神燈と書かれた提灯が立ててあった。

春日神社へ入る曲がり路や境内にもあった提灯である。

会所にはどなたもおられないが、床の間に掛軸が掲げられていた。



中央に「天照皇大神」。

右が「八幡大神」で、左は「春日大神」の文字が見える。

三社託宣の掛軸であろう。

しばらく待っておれば村の人がやってきた。

当地では未だご挨拶ができていない。

名刺を手渡して取材の主旨を伝えれば総代家まで走ってくれた婦人の行動が嬉しい。

総代の奥さんが鍵を開ける。

そのころには数人の人たちもやってきて会所にあがる。

小学六年生の女児巫女を連れてき禰宜もやってきた。

これより始まるお神楽は会所が場である。

「どうぞ上がってください」と云われて会所にあがる。

三社託宣掛軸の前には大盛りの洗い米が供えられている。

お参りをされる村の人は座布団に座る。

そうして始まったお神楽は、はじめに神さんとされる掛軸に向かって深く拝礼する。

立ちあがって鈴をもつ。

シャンシャンシャンと鈴を鳴らしても一度拝礼。

袖をもって左手を挙げる。

右手の鈴をそえている。

時計回りにくるりと旋回する。



シャンシャンの鈴の音が心地いい。

右手を挙げてシャンシャンシャン。

今度は逆に反時計回りに旋回する。

掛軸正面に戻ってシャンシャンシャン。

再び時計回りに舞う神楽は平神楽。

美しい舞いである。

そうして拝礼をされた女児巫女は頭を下げた参拝者の前に立って鈴を振る。



いわゆる祓いの鈴である。

祓ってもらった参拝者は神楽料を巫女の手に納める。

やってきた参拝者のお神楽は家族単位。

複数人であろうが、お一人であってもお神楽は一度である。

大字平田は22戸。

お神楽は旧村の行事だけに新興住宅は含まれない17戸がやってくる。

年寄りばかりになった平田集落であると云うが、小さなお子さんも連れだってお祓いを受けていた。

「ようお参りくださいました」と御礼を述べる禰宜はずっと立ち会っていた。



参った子供にはマツリ総代から手渡されるお菓子を手にして下がる。

参拝の合間に拝見した三社託宣の掛軸には「守屋廣治 拝書 六十七歳筆」とあった。

守屋禰宜の話しによれば天保年間(1830~)に勤めていた七代前の宮司であると云う。

およそ30分で終えた平田のお神楽。

これより3時間前は役員が参拝する春日神社本殿の神事が行われていたそうだ。

集落辻に立てていた御神燈の提灯は提灯当番が設営する。

提灯立ては年に二度。

10月9日に行われる村屋坐弥冨都比売神社の宵宮の日である。

村の人が参拝するのは村屋坐弥冨都比売神社であるが、提灯は立てておくと云う。

その日は村屋坐弥冨都比売神社の「オオマツリ」と呼んでいる大字平田。

それに対してこの日の行事は「コマツリ」と呼んでいるのである。

この夜のお神楽の場は会所。

薬師堂でもある。

毎月8日は薬師講の営みがある。

村の婦人の営みは昼過ぎ。

本尊に向かって般若心経を三巻と薬師真言を7回唱えていると云う。

毎月一度の営みであるが、カラオケなどの催しもある。寄りあう日は会所を清掃する婦人たちの正式名称は「みのり会」。

実りある年齢だと笑顔で話すが、男性らは親しみを込めて「おばば会」と呼んでいた。

(H26. 9.30 EOS40D撮影)

佐味の八王子講行事

2015年04月16日 08時40分11秒 | 田原本町へ
昨年の9月15日に訪れた田原本町の佐味。

調べていたのは八王子講の人たちが催す子供の相撲である。

場は天神社境内社の八王子社であろうと思って来たが、どなたもおられなかった。

もしやと思って翌日の16日も訪れたが、前日同様に不在である。

仕方なく集落を巡って東側に流れる曽我川に辿りついた。

付近におられた住民に尋ねてみた。

子供相撲の行事は村行事でなく、数軒の礒橋家が主催する行事であった。

むかしむかしのこと。礒橋家が所有する田んぼに流れついたハッタサンを八王子社に祀った。

ハッタサンを祭る講は八王子講と呼ぶ礒橋家御一統である。

件の行事の詳細は礒橋家に聞かねばならない。

そう教えてもらった家は不在だった。

天神社には大和磯城ライオンズクラブが寄贈された佐味の歴史を記された立て看板があるが、八王子講のことはふれていない。

他の礒橋家を探す時間はなく立ち去った。

八王子講が主催する子供の相撲は15日辺りの休日だと聞取りしたお家の方が話していた。

その行事が行われる際にはマイク放送するとも言っていた。

もしやと思ってこの日に再訪した天神社は人影が見られない。

神社前におられた男性に尋ねてみた。

それならここより北に向かって東に折れた辺りに住む礒橋家が詳しいであろうと教えてくださった。

呼び鈴を押して訪ねた礒橋家。

訪れた経緯を伝えて行事の在り方を教えていただく。

応対して詳しく話してくださったのは当家の婦人。

かつては10軒の講中であった礒橋家御一統はウチワの親戚筋。

いつしか8軒になったが当家は長らくの間、講元を勤めていたと云う。

今では5軒になったが、今尚子供の相撲を主催していると云う。

いつの時代か判らないが、礒橋家の田んぼにハッタサンが流れ着いた。

ハッタサンを守る講が組織された。

それが八王子講である。

行事費用は稲作田で収穫した収益で賄っていた。

辻に提灯を立てて大きな長持(ながもち)を祠で祀ったハッタサンこと八王子社へ運んだ。

天神社が鎮座する小字は字八田。

まさにハッタサンの地である。

当日は朝から社殿周りを清掃する。

講中が集まるのは佐味の公民館。

かつては講家であったが、現在はそこに集まると云う。

半切りにしたカボチャに串を挿して先にミョウガやシイタケなどを取り付ける。

話す状況から御供の形状が見えてきた。

推定であるが、平成25年9月16日に拝見した大淀町馬佐の牛滝まつりの御供と同じように思えた。

おそらく長持に収納して運んでいるのだろう。

御供は二段の大きな餅もあったが、今では配りやすくするに前もってコモチにしているようだ。

御供はコブやスルメもあるというから神饌ものに違いない。

ハッタサンは相撲の神さんと崇められている。

社殿前に砂を敷いて土俵を作る。

行司が「はっけよい のこった のこった」と相撲を采配する。

勝者の子供にお菓子を渡しているが、佐味では子供が少なくなったと云う。

9時ころともなれば公民館に設置してあるマイクで行事案内を放送する。

聞き付けた子供たちがやってきて相撲をする。

子供は幼稚園児から小学生までのようだ。行事を終えた講中は公民館で会食する。

一連の在り方を伺ったが、この年の行事日は翌日の敬老の日。

送迎の仕事と重なりあいにく断念した。

(H25. 9.16 SB932SH撮影)
(H26. 9.14 記)

千代阿部田風日待ちの風鎮祭

2015年04月01日 07時29分02秒 | 田原本町へ
東西に建ち並ぶ田原本町千代・阿部田の集落。

西、東垣内を挟む中央は中垣内に建つ十念寺がある。

同寺の北地は神子天の名がある小字だ。

北に西院田、東院田の小字がみられる。

その東院田南が小字イセタで市杵島姫神社が鎮座する。

昨年、田原本町・村屋坐弥冨都比売神社の郷村で行われる行事を調べていた。

その一つにあるのが千代(ちしろ)阿部田だ。

市杵島姫神社付近に住む人が話していた行事に風鎮祭がある。

8月28日に行っていると話していた。

興味をもったのは、この日の営みに集落内にある十念寺の僧侶が神社拝殿で法要をするということだ。

場は神社であるが、神職は登場せずに僧侶が営む神仏混合の行事だと話していた。

なんらかの掛軸を掲げられるのであるが、本殿側ではなく拝殿の東側の壁面。

村屋坐弥冨都比売神社が鎮座する方角的である。

聞いていた時間はどなたも現れなかった。

仕方なく自治会長家を訪ねた。

昨年は僧侶の都合によって午前中にされたのだが、今年は例年通りの16時と聞いて出直した。

時間ともなれば自治会長の他、村人多数がやってきた。

もちろん十念寺の僧侶もおられる。

円座を置かれた拝殿に登った僧侶は寺所有の掛軸を掲げる。

聞いていたとおりの位置である。



拝殿に登って撮らせていただいた掛軸は中央に(伊勢)天照皇太神宮、右は(石清水)八幡大菩薩で左に春日大明神を配した三社託宣神号図。

三神のお告げを記した掛軸である。

三社託宣の始まりは正応年間(1288~)とする説があるようだ。

鎌倉時代初期にはすでに成立していたとされる三社託宣。

室町時代中期以降に吉田神道を提唱した吉田兼倶が積極的に導入したと云われている。

公家から武家へ。そして、一般庶民に広がったという三社託宣の掛軸は、お日待ちと関係するアマテラスオオミカミのお軸を掲げることが多い。

これまで拝見した日待ち行事に三社託宣図を掲げる地域がある。

大和郡山市矢田町の日待ちは清水垣内と垣内が一年交代で地域が所有する掛軸を掲げる。

垣内の掛軸は「天照皇大神」の文字掛軸であるが、清水垣内が所有する掛軸は三社託宣だった。

赤童子祭りに三社託宣図を掲げていたのは奈良市東包永町であるが、田原本町伊与戸、大和郡山市丹後庄町・馬司町の日待ちでは「天照皇大神」の一神掛け図である。

大和郡山市小林町や横田町・柳生垣内日待ちのような雨宝童子神図の場合もある。

アマテラスオオミカミの掛け図を掲げて朝日が出るまでお籠りをしていたと考えられるお日待ちであったと思われた千代阿部田の風鎮祭。

行事名は風鎮祭であるが地元民は風日待ちと呼んでいるのも頷ける。

江戸時代には広く庶民信仰に普及したお日待ちの掛け図。

十念寺が所有する掛け図の軸箱に「表装並収納箱新調 昭和56年正月 阿部田総代 村井安弘氏」の文字があったことから新調品に違いない。

お若い十念寺の僧侶。

「先代、老僧からは新調される前のお軸有無は聞いていないが、もしかとしたら蔵にあるかもしれない」と云っていた。

お神酒、洗い米を供えてローソクに火を灯して始まった読経。

浄土宗派のお念仏であるが、二百十日の大風で実った稲穂が倒されないよう、五穀豊穣、村中安全を祈る風の祈祷願文である。

キーン、キーンと打つおリンの音が高く響く読経。

「なーむあみだぶ なむあみだぶ なむあみだぶ」のお念仏は拝殿内に広がった。

7分過ぎたころから焼香が始まった。



この日に初めて参列した子供会。

後席について大人と同じく一人ずつ焼香されて手を合わしていた。



拝殿は狭くて溢れた参列者も焼香をされる。

一心に願った風ノ祈祷念仏は16分間。

場は転じて阿部田池西北にある石塔の水神社に移動する。



ここでも僧侶の読経が行われる。

そして一人ずつ水神さんの前に立って焼香をされる。



長老、老婦人に親子連れの子供たち。



熱心に手を合わせて祈願した10分間。

最後に合掌する。



法要を終えれば子供会は解散するものの、村役員・長寿会の人たちは公民館で直会に移る。

かつて、風鎮祭を終えた村人らは市杵島姫神社境内で持ち寄った会食を楽しんだそうだ。大人から子供まで、大勢の人たちで埋まった様相は10年前まであったと云う。

途絶えていた風習を見直して子供会も参列するようにしたと話す。

開基は元亀元年(1570)と伝えられている十念寺。

元々は公民館が建つ位置に市杵島姫神社があったそうだ。

明治維新の神仏分離令によって明治34年に現在地に移ったようだ。

そういえば、水神社の石碑には明治廿年六月の記銘の刻印があった。

神社遷座よりも十数年古い年代である。

市杵島姫神社の祭神は水の守護神である弁財天。

水神社は阿部田池の守り神に建之したのかも知れない。

阿部田公民館前に建つ石造群がある。

中央は庚申さん。

右に金毘羅大権現があり、左は愛宕大権現である。

(H26. 8.28 EOS40D撮影)

矢部の地蔵尊

2015年02月12日 08時17分28秒 | 田原本町へ
午前中に地蔵盆を終えた村の辻。

ここがどこだか判る人はよほどの奈良通。

ここは田原本町の矢部。

所用で訪れた安楽寺の娘さん。午前中に地蔵盆があったようだと話す。

子供会の行事なので詳しくは判らないと云う。

地蔵尊の斜め向こうに見えるのは毎年5月5日に懸け替えられる綱掛け行事の綱。

2カ月以上も経過しているが簾型の綱形態が美しい。

(H26. 7.23 EOS40D撮影)

阪手北の郷神さん

2015年01月29日 09時27分33秒 | 田原本町へ
2月にケイチン(華鎮祭)の弓打ち行事をされている田原本町の阪手北。

昨年末の注連縄飾りの際に村人から聞いていた7月16日のゴウシンサン。

充てる漢字は「郷神」さんである。

「八坂神社すぐ傍の辻に建つ石塔にお神酒を供えてお祭りをする」と云っていた。

その石塔は「寛政七乙卯年(1795)霜月吉日」に建之された「常夜燈」だ。

「式下北坂手村 惣中」の刻印もあった常夜燈は村の人たちが建てたものである。

常夜燈ではあるが、お伊勢参りに出かける際は、ここで拝んで旅だったというから大神宮の石塔に違いない。

7月16日に県内各地で行われている大神宮(太神宮)の祭りをダイジングサンと呼ぶ地域は多いが、田原本町・三宅町・川西町ではなぜかゴウシンサンと呼ばれている。

天理市庵治町や武蔵町もゴウシンサンと呼んでいたことから、この辺りの地域固有の呼び方のように思える。

阪手北の郷神さんを祭る行事は地区を三つに分けた東・西・中の廻り順で行われる。

この年の当り当番は東であった。

注連縄飾りの際に話してくださった3人がおられた。

「よう来てくれた」と温かく迎えてくれるゴウシンサンは、始めに作業がある。

八坂神社の蔵に納めていた角材を常夜燈に運び始めた。

ほとんどが男性だが、婦人も運ばれている。

小学三年生の孫さんも手伝う角材運び。

土台・柱・梁・桁で支えて棟木・垂木を置いて屋根で覆っていく。

角材にそれぞれのホゾもあり、東・西・上・下などの印しも書いている。

それどおりに組立てていく。

およそ30分間で組み立てた。

棟木には「昭和四拾七年七月吉日建之」と書かれていた。

それ以前にもあったそうだが、新しく造り替えたと云う。

それまでの角材は蔵が古かったので、隙間風でほこりまみれ。

近くの川に運んで洗っていたそうだ。

斜め材の筋違いがないので、風に煽られると倒れそうにもなるが、それはそれでしっかりとした造りである。

祭壇の板を置いてお神酒やつまみ、お菓子を供えて提灯にローソクを灯す。



一同揃って2礼・2拍手・1礼のお参り。

しばらくはその場で直会るゴウシンサン。



1時間も経てばお参りを終えて角材を解体して終えた。

大正14年生まれの長老の話しによれば、戦後まもない昭和30年代前半まではホラ貝を吹いて、地域に呼出をしていたそうだ。

子供たちは下げた御供の「ショウジセンベイ」を食べていたと話す。

「ショウジセンベイ」は大和郡山市の小林町住民からも聞いたことがある。

長方形のセンベイは障子のサンのような格子状の焼きがあったそうだ。

豆入りもあれば、ないものもあったと云う「ショウジセンベイ」は、稀にスーパーでも売っていたそうだ。

阪手北の人も同じようにスーパーで見たことがあると云う。

懐かし「ショウジセンベイ」が記憶のなかで蘇った。

そのような話題に、婦人たちは「子供のときに参ったら“コウシセンベイ”を3枚もらっていた」と云うのだ。

「ゴウシンサンやったらセンベイ」という記憶があると口々に伝える。

ちなみに、長老が寿司屋をされたいたころは、田原本町味間のゴウシンサンに20本の巻き寿司を配達していたと話す。

味間のゴウシンサンの場は存じている。

いつかは訪ねてみたいものだ。

(H26. 7.16 EOS40D撮影)

八田伊勢降神社御田植祭

2014年09月01日 07時16分03秒 | 田原本町へ
行事を含めて度々訪問する田原本町の八田(はった)は150戸の集落。

東八田(ひがしばった)、中の東、中の西、西八田(にしばった)の4垣内のうち村の年中行事を支える廻り当番の垣内が御田植祭の松苗を収めたホッカイ担ぎを担う。

伊勢降神社の祭祀を勤めるのは3人の宮守さん。

年長者が村神主となってお渡りをすると話していた。

神社に集まっていた宮守さんたち。

「私の家から出発する」と案内されていった家は宮守の一年神主家だった。

御供などを調整されて収めていた唐櫃がホッカイだ。

内部にはモチ11個、三合の洗い米にオス・メスを重ね合わせた5本の松苗。

藁縄および水引で括り、束ねた松苗は昨年の12月の新穀感謝祭に供えた新穀の米5粒を収めた紙包みをおさめている。

しばらくすれば正装された行事関係者が集まってきた。

村神主は白装束に着替えて烏帽子を被る。



宮守家の玄関先で手水をされてお渡りが出幸した。

先頭はサカキ幣を持つ老人会会長。

法貴寺池坐朝霧黄幡比賣神社宮司、笏を持つ村神主、小幣を持つ自治会長、宮守、法被姿のホッカイ担ぎ、ミナライが続くお渡りである。



この年の宮守家は集落の東外れの東八田。

神社から一番遠い処である。



お渡りは集落内を抜けて北の街道へ向きを替える。

そこからは西に鎮座する神社に向かう。



ホッカイ担ぎは村の年中行事を支える人たちで、廻り当番の垣内が担う。

この年は中の東があたった。

鳥居を潜って参進してきた一行は神社に着いて神事を始める。



一同は本殿前にまず並んで祓えの儀。

それから拝殿に登る。

二神を祀る本殿の御扉開の次は献饌である。



ひとつひとつ手渡しで献饌する。

祝詞を奏上する神職は度々お世話になっている藤本宮司。



よく見れば拝殿に長い棒のようなものが立ててあった。

これより始まるのが御田植の所作である。



拝殿に立ててい長い棒を手にする宮司。

棒はカシの木である。

幣と注連縄を巻きついたカシの木は先端が二股になっている。

それは「牛」であると云う。

二股部分が牛の角を現しているのだろう。

まずは、水平に抱えて神さんに一礼する。

「牛」を正面・立て位置に持って立ち上がった。

そして一歩進む度に、「牛」を拝殿床にドンと打つ。

これを右周りに何周かしていく。



ビジュアルさ、派手さもなく淡々と作法をされる。

周回は大きくすることもあれば小旋回することもある。

クワもマンガもカラスキもない御田植の所作は初めてだ。

このような木の棒を操って牛遣いをされる所作は大神神社と天理市小田中町ぐらいしかないのではと思った。

これまで多くの県内事例を拝見したが、他所では見られなかった特徴的な作法である。



拝殿を周回する作法は、おそらく拝殿を神田に見立てて田んぼを耕している「牛遣い」の作法なのであろう。

御田植の所作を終えれば玉串奉奠に移る。

神職、自治会長、老人会会長で最後に村神主が奉奠された。

撤饌、閉扉、神職の一拝で神事を終えた。



その後は拝殿でカマボコとスルメでお神酒をいただく直会だ。

直会の時間帯は次に行われる村行事を再確認される。

3月彼岸の日に行われる還暦祝いや彼岸の祖霊祭の段取りも確認された。

こうして終えた八田の御田植祭。

終えれば、宮守・ミナライの6人が200セットも作った松苗を八田集落の農家80戸に配られる。

また、出仕された法貴寺の藤本宮司にも法貴寺地区の分として80松苗も渡される。

八田の御田植祭の日程は神職・宮守・自治会などが協議されて決まると云う。

この年は28日であったが、26日だと云う人もあれば27日とも・・・毎年替るようである。

(H26. 2.28 EOS40D撮影)

村屋坐弥冨都比売神社の小豆粥御供

2014年06月30日 07時19分09秒 | 田原本町へ
正月元旦に供えた村屋坐弥冨都比売神社の三宝飾り。

15日の朝には三宝飾りに盛ったお米はアズキ粥にして炊く。

それをビワの葉に乗せてそれぞれの神さんに供えると守屋宮司が話していた。

その様相を拝見したく立ち寄った神社には、そこらじゅうに「あるある」である。

境内の石段、拝殿の表と裏、本殿(2)と石段。



末社の恵比須社、村屋神社、物部神社にも本殿や石段に供えてあった。

「征清討壹戦死病没紀念碑」や蔵の前にも供えていたアズキ粥は、すべてがビワの葉に載せていた。



キリコモチと思われる四角いモチも添えていた。

(H26. 1.15 EOS40D撮影)

矢部の年始挨拶回り

2014年05月31日 08時19分31秒 | 田原本町へ
毘沙門堂で行われているであろうと思って出かけた田原本町の矢部集落。

向かう辻で自転車に跨っていた安楽寺のご住職にお会いした。

久しぶりに顔を合わして新年のご挨拶をする。

毘沙門堂がある地は杵都岐神社がある。

初詣では元旦の日。

その日に済ませているのだからひっそりしていると思うのであるが、先を急ぐように歩いていた婦人たち。

その数は多い。

全部が全部の人たちは寺門を潜ってなにやら挨拶。

終えた人は立ち去るようにして戻っていく。

何をされているのか二、三の村人に尋ねた結果は、新年の挨拶回りで浄土宗の願立寺のご住職に挨拶をしていたと云うのだ。

ご祝儀を寺に寄せてオタメを貰って帰る。

これから西のお寺にも出かけると云っていたのは融通念仏宗派の安楽寺。

先ほどお会いしたご住職のお寺である。

平成23年の3月および6月に毘沙門堂・観音堂で毎月のお勤めをしていた観音講の営みを取材させていただいたことがある。

その際に法要を唱えるのがご住職であったのだ。



扉を開けた本堂で挨拶回りをされる村人を迎えるご住職。

ご本尊に大きな鏡餅を供えた本堂に上がらせていただいて、これもご縁で焼香をさせてもらった。

鏡餅は心ある村人が寄せたもの。

その他の安置する仏さんには檀家が鏡餅を寄せたと話す。



鏡餅は境内の墓石の前にも供えている安楽寺。

次から次へと挨拶に来られる村人に「明けましておめでとうございます」が途絶えることがない。

明日三日は、村の全戸を回ってお礼の挨拶回りをされる。



矢部の新年挨拶回りは宗派関係なく、二寺に出かけて挨拶する。

お礼に二寺が全戸を回るという矢部の在り方は、いわゆる‘回礼’である。

県内事例でどれほどあるのか存知しないが、二寺において行われている形態は珍しいのではないだろうか。

ところで毘沙門堂で行われていたであろうと思われるボダイ行事のことを尋ねた長老や老婦人の答えは「知らない」であった。

(H26. 1. 2 SB932SH撮影)
(H26. 1. 2 EOS40D撮影)