マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

村屋坐弥冨都比売神社の三宝飾り

2014年05月29日 08時04分35秒 | 田原本町へ
天女が舞い降りてきたかのように思えた笹竹。

葉はすべてが上向きになっている。

竹とともに挿していたのは松と梅だ。

三つ合わせて松・竹・梅。竹には細く切った白昆布を垂らすように掛ける。

目出度い三品は門松もそうである。

挿した三品の土台は一升二合のお米盛り。

崩れやすいことから三品は器に挿したと話す守屋宮司。

大晦日の日に作っておいた三宝飾りは元旦に供えた鏡餅を下げて拝殿に置く。

そういう話を聞いていた田原本町蔵堂の村屋坐弥冨都比売神社。

次々と訪れる初詣での人たち。

年頭に新春の願いを込めて手を合わせる。

参拝者が途切れる間に撮らせていただいた三宝飾りに美しく盛ったコウジミカン。三宝回りに詰め込んだのはカタスミ、手作りで編んだ稲藁のホンタワラ(俵)、ゴマメと呼ぶヒナゴ(タツクリ)、カヤの実、カチグリ、ホシガキだ。



左右対称に置いたのは大きなダイダイと伊勢海老。

神さんに食べてもらうように一膳の箸も添えた三宝飾りに圧倒される。

御供にはタチバナ、ヒラミカン、キンカン、トコロも盛るのが正当な姿であるが、売っている店が見つからなかったと話す宮司に尋ねた砂の道。

かつてはあったと云う。

下げた三宝飾りは小正月に崩すまでの期間、守屋家の床の間に飾っておく。

15日の朝に供えたお米はアズキガユにして炊く。

それをビワの葉に乗せてそれぞれの神さんに供えるのである。

(H26. 1. 1 EOS40D撮影)

法貴寺池坐朝霧黄幡比賣神社の正月御供

2014年05月27日 08時55分02秒 | 田原本町へ
境内に大きなとんどを設えて元旦祭をされていた田原本町法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社。

厳島神社にも鏡餅などを供えている。

本社はさらに大きな鏡餅だ。

斎壇下には氏子たちが奉じたお神酒がずらりと並ぶ。

その間に見られた数々の重箱。

それぞれ供えた氏子の名の札が貼られている。

初詣でにそれを拝見する氏子たち。

お神酒、重箱とそれぞれのようだ。

重箱の中は餅、それともお米なのか。

訪れていた初詣での人たちはお神酒。

重箱の御供を知ることはなかった。

法貴寺にやってきたのは砂の道の所在である。

備前町住民の話しによればかつてあったそうだ。

いつしか境内一面に敷かれたバラス石。

それで消えたようだと話していた時代は何十年も前の子供のときである。

(H26. 1. 1 EOS40D撮影)

阪手北八坂神社の簾注連縄

2014年05月15日 08時35分00秒 | 田原本町へ
田原本町阪手北に鎮座する八阪神社。

2月中旬辺りの日曜日に華鎮祭行事が行われる神社である。

阪手北は村屋坐弥冨都比売神社の郷社の一つ。

守屋尚広宮司が村屋坐弥冨都比売神社と同じようにゾウガイの注連縄を掛けていると話していた。

一昨日、昨日の両日に亘って訪問したが村人の姿もなく、注連縄飾りも見られなかった。

もしやと思ってこの日も訪れた八阪神社。

拝殿前に立ててあった簾型の注連縄があった。

狛犬の処に竹箒が立ててある。

どうやら作業中のようである。

しばらく待っておれば村人がやってきた。

宮役員と3人のトーヤ(トーヤ・向こう三軒両隣の2人)である。

話しを伺えば、門松、注連縄飾りをしている最中だったと云う。

阪手北は村屋坐弥冨都比売神社の郷中。

「村屋坐弥冨都比売神社が本家で、阪手北は分家の宮さんやから正月飾りはこの日にしている」と云う。

早朝から作業をしていたそうだ。

始めに手掛けたのが注連縄作り。

3人のトーヤが編んで作る注連縄は、88歳の長老から手ほどき教わりながら作っていたと云う。

守屋尚広宮司が呼んでいた村屋坐弥冨都比売神社の注連縄はドウガイの名があるが、阪手北の人たちは「単に、注連縄や」と話していた。

左右に杭を打ちって二本の葉付き竹を立てる。

そこに注連縄を張って砂盛りをしていた。

その場を一旦離れていた宮役員はトーヤ家で準備していた梅、松、葉ボタンを運んで戻ってきたのだ。



中断していた作業は再び始まった。

砂盛り部分に梅、松、葉ボタンを添える。



さらにスーパーで買ってきたウラジロ・クシガキ、ダイダイことミカンを中央に飾りつけてできあがった門松と注連縄飾り。



正月飾りはそれだけでなく、小注連縄も掛ける。

小注連縄もスーパーで買ってきたもの。

昔は手作りであったが、編むことができなくなって、今では市販品になったそうだ。

小注連縄は庚申さんの石、郷神さんと呼ぶ大神宮、大師堂、西と東の地蔵堂に東の神さんと呼ばれる森市神社、公民館などに取り付ける。



これですべての正月飾り作業を終えた。

郷神さんの呼び名であれば、7月16日にお祭りがあるのではと思って尋ねてみた。

結果は「ある」である。

昼過ぎぐらいに大神宮にお神酒を供えているようだ。

華鎮祭の行事は平成16年に訪れたことがある。

村屋尚広宮司が的場に向かって祭文(嘉永年間)を詠みあげる。

次に梅の弓を用いて女竹で作った矢を放つ。

的は黒い三重丸。

五人組が矢を放つケイチン行事の作法である。

村屋家三代に亘って華鎮の祭文詠みを見てきたのは大正四年生の長老である。

村の行事は細部に亘って存じておられる。

阪手北の旧村戸数は30戸。

上から下へと廻る当主(トーヤ)。

息子、孫が家の廻り。

一巡すれば再び戻って当主(トーヤ)となるそうだ。

平安時代に橿原の今井からきたという長老家。

注連縄作りには培った技術をいつまでも教えなくてはと話す。

華鎮祭は村行事。

それとは別に神社行事に神職が登場しない明神講の行事もあると云う。

トーヤ(当家)は3人。

一人がオヤトーヤで、新入りとミトドケが就く。

軒数が少ないから5、6年の廻りになると云う。

明神講の神さんと呼ばれるヤシロをトーヤ家に祀る。

毎月の1日、15日はお神酒を供える。

一年間も祀っていたヤシロは10月のマツリに次のトーヤに受け継ぐ儀式をすると云う。

(H25.12.30 EOS40D撮影)

村屋坐弥冨都比売神社のゾウガイ

2014年05月11日 08時55分48秒 | 田原本町へ
掛ける一週間も前から村屋坐弥冨都比売神社の守屋広尚宮司が製作されていた簾型の注連縄。

この年は29日に掛けると話していた。

村屋坐弥冨都比売神社が鎮座する田原本町の蔵堂の正月飾りは宮司さんや禰宜さんが設える。

簾型の注連縄の長さは十三尺。

宮司が話していた長さだ。

換算すればおよそ3m60cmの長さである。

拝殿前の前庭に立てた門松。

砂を盛って松・竹・梅。

そこに長い葉付きの笹竹を立てる。

その両側に取り付けた長い簾型の注連縄は「ゾウガイ」の名であると宮司が話していた。

左右寄りに分けてウラジロとサカキを括りつけている。

昼過ぎ辺りに飾ると云っていたが、時既に遅しで、飾り付けは終わっていた。

拝殿いっぱいの長さに設えたゾウガイの姿が美しい。

「ソウガイ」はおそらく「ドウガイ」が訛ったのであろう。

大和郡山市のある地域ではこれを「ドウガン」、「ドンガン」、「ドンガ」と呼んでいた人もいる。

(H25.12.29 EOS40D撮影)

恵比須社の三夜待ち

2014年05月01日 09時40分37秒 | 田原本町へ
昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』に「三夜待ち」が紹介されている。

大字八田では、「商家は恵比須さんを祭って、農家は恵比須さんに二股のダイコン供えた」とある。

「商家だけが恵比須さんに二股のダイコンを供えていた」と云うのは田原本の町場。

また、「商家はこの日にモチを搗いて得意先に配った」とあるのは秦庄の秦楽寺だ。

「月の出に願いごとをすると良い」と云うのは大字今里。

「三夜待に垣内の人たちが集まって会食をしていた」のは大字法貴寺である。

いずれも12月23日に行われていた田原本町の三夜待ちの様相を伝える記述である。

12月23日は二十三夜。

今でもお供えをしていると知って出掛けた蔵堂の村屋坐弥冨都比売神社。

摂社に恵比須社が鎮座する。

恵比須社は明治時代初めまでは蔵堂の北市場と南市場の街道沿いにあった。

何故に村屋坐弥冨都比売神社へ遷されたのか伝わっていないと話す守屋広尚宮司。

夕刻の日暮れ前にお供えをする。

笹を一本立てて、吊るした二尾の鯛。

結った縄で鯛の口からえらへ通して繋げた。

そこには二本のニンジンと一本のダイコンも吊るす。

「昔からそうしている」という三夜待ちのお供えである。



神事をすることもなく、参拝者もいない三夜待ちの在り方であるが、夜待ちもなく、しばらくすれば供えた鯛などは守屋家の夜食に回される。

二十三日は二十三夜、その夜は三夜とも呼ぶと云う宮司。

戎さんの祭り初めは初エビスの十日戎。

商売繁盛を願う商いの人たちで埋まる。

もしかとすればだが、二十三夜の月の出を待つ三夜待ちの行事は終いエビスの在り方ではないだろうか。

昭和63年に天理市楢町が発刊された『楢町史』によれば、11月23日か、12月23日を「二十三夜待ち」と呼んでいたようだ。

町史には、かつてハタ(機)を織ったときに娘たちがハタを持ち寄って三夜の月(夜半一時)を見たと書いていた。

そのことを考えてみれば、二十三日の月の出待ちを「三夜待ち」と称していたのはあながち間違いではないだろうと思われるのだ。

平成24年2月に大和郡山市の小林町で行われた三夜の集会を取材したことがある。

正月から数えて23日目。

旧暦の二十三日の夜は「二十三夜さん」と呼んで豊作や健康を祈っていたと話していた。

「にじゅうさんや」を略して「さんや」と言えば通るから「三夜」と称していたというのである。

二尾の鯛を吊るす村屋坐弥冨都比売神社境内社の恵比須社で思い起こした室生下笠間の民家で供えられた「カケダイ」。

正月元旦の日にエビスサン(恵比須さん)・ダイコクサン(大黒さん)を祀った神棚に干した一対の鯛を吊っていたのである。

吊るした二尾の鯛を「カケダイ」と呼んでいた民家の御供の在り方は三夜待ちと共通性があるのでないだろうか。

村屋坐弥冨都比売神社東側、北市場・南市場を南北に通り抜ける街道は橘街道と呼んでいる。

古来は中ツ道であったが、中世において明日香村の橘寺で参拝する街道となり、そう呼ぶようになった。

南市場より南方は幸市(こいち)、中ノ町、馬場先、馬場の岸と呼ばれる小字である。

街道は市で賑わったと思われる小字名が並ぶ。

その頃は市場垣内の商売人の店が立ち並んでいたのであろう。

祀っていた神社が恵比須社。

当時の様相は判らないが、エビスさんにつきものの鯛を供えていたと思われる。

いつしか市場垣内が廃れて商売する家もなくなった。

社は遷されて鯛のお供えだけが伝えられた。

そう思うのである。

馬場先・馬場の岸と呼ばれる地は村屋坐弥冨都比売神社の一の鳥居の南方。

その場で乗ってきた馬を降りて神社に参拝していたのであろうと宮司は話す。

馬場の岸は三角路。法隆寺から長谷寺向かう街道と交差する筋交い道の長谷街道だ。

長谷寺詣でより向こうは伊勢街道となる。

蔵堂の隣村になる伊与戸集落を抜ける道は伊勢街道だと云っていた。

街道は向かう先によって名を替えていたのだ。

(H25.12.23 EOS40D撮影)

蔵堂須佐之男神社の百味の御食

2014年02月20日 08時07分00秒 | 田原本町へ
村屋坐弥冨都比売神社の守屋宮司に教えていただいた田原本町蔵堂の須佐之男神社の宵宮。

トーヤが供える百味の御食(ひゃくみのおんじき)があると云っていた。

かつては隣村の大字大木で採れたカモウリを台に串で挿した数々の食物。

今では台がカボチャに替ったが、豪華な盛りだと話していた。

その様子を知りたくて伺った大字大木と蔵堂を挟む大和川。

東西に走る街道北に須佐之男神社が鎮座する。

陽が落ちるころになっても集まってくる気配はない。

夕方5時頃には宵宮を案内する蔵堂村のマイク放送が聞こえてきた。

どうやら神社を誤っているようだと思って、街道にあった商店で店番をしてはった老婦人に尋ねた。

話しによれば、そこだと思っていた神社は大字為川の須佐之男神社。

同名であったのだ。

婦人が話すに大字為川南方・蔵堂・遠田(天理市)の三カ大字の講中が持ち回りで行っている数献當(すこんどう)講があるそうだ。

村境の掘り出された壺のご神体として祭る講中の営みはこの日であった。

前年は蔵堂が持ち廻りの大字。

この年は遠田に移ったそうだ。

小字古屋敷と呼ばれる遠田池より南西角で受け取るご神体の受け渡し。

為川は来年に戻ってくる。

戻ってきた当日には「神さんが来たぞ」と云って講中に呼出をする。

以前は15軒もあった為川の講中は11軒。

受け取った当屋家は前日の宵に提灯を揚げておくと云う。

三カ大字で受けもち廻る数献當講はそれぞれの大字によって呼び名や講中の営みが異なる。

「オスコスサン」と呼ぶ為川南方では別称に「餅喰い講」がある。

「赤飯講」と呼ぶのは蔵堂で「スコンドウ」と唱える。

「芋喰い講」とも呼んでいるのは遠田で、数献當講を「スウトンコウ」或いは「スウコントウコウ」とも呼ぶようだ。

つまり呼び名もそうだが、食材は「餅」、「赤飯」、「芋」、それぞれに違うのである。

数献當講の概要を知って探した蔵堂の須佐之男神社は集落内の北側に鎮座している。

村内の辻々には提灯を掲げている。

ヨミヤの印しである。

拝殿前に建之されていた燈籠には文化十年(1815)が刻まれていた須佐之男神社。

社殿は二社ある。左が弁天さんを祀る市杵島姫神社、右が須佐之男神社だそうだ。

かつては神社右横に神宮寺の薬師堂があったと伝わる。

本殿には大きな二段の鏡餅を供える。

両社殿前に設えた斎壇の御供が百味の御食(ひゃくみのおんじき)だ。



半切りしたカボチャは二膳。

それぞれの膳に竹串を挿している。

一つの膳に挿した竹の串は25本。

12本の栗にナツメの実も12本で中央にはショウガを1本とする膳。

これを月の数と云って、旧暦閏年の場合は栗、ナツメそれぞれが13本で合計の本数は27本になると守屋宮司が話す。

かつてはカボチャでなくて、「カモウリ」であった台の膳は扇が開いたような造りである。

宮司の話しによれば、カモウリは万葉植物のレンコンのようだったと云うが、瓜の名があることからおそらくトウガン(冬瓜)であったろう。

ヨミヤが始まる直前に供えたという4軒のトーヤ。

蔵堂の年中行事は四つある。

3月のショウグンサンに8月のオヒマッツアン、ヨミヤに元旦祭のようだ。

元々はオヤトーヤと3人コトーヤで構成されるトーヤであった。

戦後に改正されて4人のトーヤが分業して営むようになった56戸集落の蔵堂は旧川東村。

トーヤ決めはカンの内部に番号札を入れて籤を引いた。

オヒマッツアンにはお米集めもするトーヤ。

ご飯を炊いて村人を待つようだ。

百味の御食と呼ばれる御供は二つの膳の前に並べたサトイモ、ナシ、レンコン、ニンジン、ダイコン、ゴボウ、ナスの七種の品々。

これを7膳並べて7×7=49皿。

仏式の数値となるのは、かつて神宮寺であった薬師堂の名残であると云う御食はザクロ、カキ、スダチも並べる。

ヨミヤの時間ともなれば再びやってきた4人のトーヤ。

宮司と里の巫女さんを迎えて神事が行われる。

本社の提灯に火を灯しても御供の形が判り難い。

祭祀される方々の承諾を得て参拝者が途絶えた際に撮らせていただいた百味の御食の姿に感動する。

こうして始まったヨミヤの神事は暗闇の中で祝詞を奏上する。



トーヤらの祓えの儀を終えて、拝殿で女児巫女が舞うのは平神楽。

東井上(ひがしいね)村屋坐弥冨都比売神社で神楽を舞っていた小学六年生の女児巫女は今回で3度も拝見した。

表情、動きが美しい舞いに見惚れるありさまだ。



そのうち、村人が続々とやってくる。

参拝者は「十二とう」を納めて神楽の舞。

村人が云う「シャンコシャンコ」はありがたいと鈴で祓ってもらう。

在所の禰宜さんも息子を連れて参拝された。

(H25.10.11 EOS40D撮影)

蔵堂村屋坐弥冨都比売神社宵宮祭

2014年02月16日 09時14分40秒 | 田原本町へ
田原本町千代(ちしろ)の明神講の痕跡や伝聞を調べてやってきた村屋坐弥冨都比売神社。

夕刻になる直前のことだ。

幾度となく訪れる神社では禰宜さんが竹の灯りを点けていた。

在所の蔵堂では氏子もおられるのだが、神社行事に関心が薄れたようで禰宜さん一人が支度をしている。

かつての神社宵宮は境内一面に夜店が並んで、それぞれの郷中からやってきた参拝者で賑わったと云いう。

村屋の郷中は蔵堂、大木、為川南方、為川北方、遠田(天理市)、金澤、平田、東井上、西井上、伊与戸、笠形、大安寺、阿部田、南阪手、阪手の15ケ大字。

数多くの参拝者で賑わったのであろう。

「夜6時からお神楽が行われます」とマイク放送を聞きつけた参拝者がやってきた。



隣村の伊与戸でお世話になった尼講のM導師は一番のりだ。

次々と訪れる参拝者。



里の巫女さんが舞うお神楽の後は鈴でシャンコシャンコの祓い。

それを受ける郷中の氏子たち。



「ご縁があって娘が舞っているのです」と話す母親も祓いを受ける。



参拝者の多くは隣村の伊与戸の人であった。

見慣れた人やMさんも家族連れで参拝する。



竹の灯りが彩る舞いの拝殿。

まさに宵宮の様相を醸しだす。

舞いに太鼓を打つのは守屋宮司。

音色に合わせて舞う神楽は平神楽だ。

他地で拝見した神楽舞いとは多少違うようだ。

前半は3人の小学六年生の巫女さんで、うち一人は郷村の東井上須佐之男神社の秋嘗祭で舞っていた女児。



流れるような作法で舞う姿が美しい。

後半は2人の高校生の巫女さんも登場して扇の二人舞い。

拝殿下で遠慮するように撮らせてもらっていたら、守屋宮司からカメラマンは拝殿に登って撮っても構わないと云うありがたいお言葉に甘えて、もう一人の報道記録カメラマンとともに拝殿で撮らせていただく。



翌日のマツリでは矛の舞、一本剣の舞、薙刀の舞、扇の舞などの太々(だいだい)神楽を舞うが、家の事情で断念せざるを得ない。

かつてのマツリには御湯もあった。

拝殿で行われる御湯は水を用いない空御湯(からみゆ)だったようだ。

いずれは復活したいと宮司が話していたことを覚えている。



宵宮のお神楽は参拝者も来なくなった19時半ころにはお開き。

誰もいなくなった境内にしとしと降りだした雨。

村人たちの心構えが良かったのか雨にもあたらずであった宵宮祭のシャンコシャンコはこうして幕を閉じた。

(H25.10. 9 EOS40D撮影)

東井上須佐之男神社の秋嘗祭

2014年02月01日 05時07分58秒 | 田原本町へ
文化十年(1813)九月吉日に建之された燈籠には「牛頭天皇」の刻印がみられた田原本町東井上(ひがしいね)の須佐之男神社。

かつては川東村の一つである大字東井上は村屋坐弥冨都比売神社の郷中。

同神社の郷中は東井上、蔵堂、大木(おおぎ)、為川南方、為川北方、遠田、金澤、平田、西井上、伊与戸、笠形、大安寺、阿部田、南阪手、阪手の15ケ大字。

現在の遠田(とおだ)は天理市に属しているが、その他はすべて田原本町である。

東井上は、天保十一年(1840)九月、村屋坐弥冨都比売神社拝殿前に狛犬を奉納した旧村。

かつては16戸もあった明神講は、15、6年前に3戸となったことから止むなく解散したと話す参拝婦人のNさん。

今では東井上の戸数が47戸になったが、50年前に嫁入りをした頃は32戸だったそうだ。

その頃に発生した水ツキ。

トラック一台が通れるぐらいの細い橋があった。

水ツキによって移転した橋は須佐之男神社が鎮座する辺りに架かっている。

その橋の名は「天王橋」。

親しみを込めて「てんのうはん」と呼んでいる。

江戸時代は牛頭天皇社であった須佐之男神社鳥居前には「牛頭天王御宝前」の刻印がある燈籠もあるが、年号は見られない。

神社境内には昭和59年3月4日に遷座された市杵島姫社がある。

婦人が云うには「昔、昔、井上さぶろうが建てた」と伝わる市杵島姫社である。

日が暮れる直前ともなれば3人の敬神中の当番さんがやってきた。

支度を調える頃になれば蔵堂在住の女児巫女とともに到着した村屋坐弥冨都比売神社の禰宜さん。

いつもお世話になっている。

村役が参列する秋嘗祭の神事はそれより一時間前に終えていた。

17時半頃に鳴った村のサイレン。

それがシャンコシャンコの呼出の合図。



氏子たちが並んで待つシャンコシャンコのお神楽。

シャンコシャンコは女児巫女が舞う神楽舞で、舞いのあとすぐに参拝者に鈴を振ってくださる。

その音色から神社向かいに住む婦人はシャンコシャンコと呼んでいた。



その呼び名は県内各地でも聞いたことがある。

葛城市當麻・太田海積神社のボロソ(夏祭り)、天理市八田・道祖神社のむかしよみや、大和郡山市番条町・熊野神社の宵宮、大和郡山市額田部・推古神社のヨイミヤ、大和郡山市馬司町・杵築神社の宵宮であった。

この夜のお神楽を舞う女児は小学6年生で、夏越し祓えで茅の輪を運んでいた小学六年生の女の子。

禰宜さんが監督を勤める地区の少年野球チームの一員だそうだ。



「御神料」の神楽料を当番さんに渡して舞うお神楽は平神楽。

「御神料」は正式には「十二灯」と呼ぶようだ。

参拝する氏子たちは家族連れに子供たちも居る。

ありがたく受けるシャンコシャンコはおよそ一時間も続く。

お祓いの鈴を翳すが、一歳に満たない赤ちゃんは目線を外さない。



健康に育っていくことだろうと思った微笑ましさに思わずシャッターをきらせていただいた。

『田原本町の年中行事』によれば「天皇さんの宵宮」の呼び名であった一夜限りの秋嘗祭はマツリとも呼ぶようだが、「むかしよみや」のことであろう。

二日後の30日、隣村の平田の春日神社でも「薬師堂の宵宮」にお神楽があるという禰宜さん。

参拝者は少ないようだと云う。

(H25. 9.28 EOS40D撮影)

鏡作若宮神社若宮さんの昔宵宮

2014年01月28日 08時29分32秒 | 田原本町へ
田原本町の鏡作の郷中は鎮座地の八尾を中心に黒田、今里、屏風、中八尾、八尾池の内、新町、富本、伴堂、三河、南八尾、西新町、宮古、西代、石見、西八尾、新八尾第一の17大字だ。

八尾の氏神さんは天八百日命(あめのやおひのみこと)、鏡作神社本殿右奥に鎮座する若宮神社である。

八尾はかつて八百村と呼ばれていたのである。

八尾の鏡作神社で行われるオンダ祭にはカメラマンが溢れるぐらいだから賑わいの祭りだが、この日に行われる若宮神社の昔宵宮で賑わいもなく、厳かに神事が行われたと話す宮司。

今年数え年百一歳で亡くなられた先代宮司の跡を継いだ娘さんが勤めるようになったと云う。

昔宵宮は「むかしよみや」と呼んでいる八尾の行事である。



神事を終えて社務所で直会をされていた自治会長らが帰るころ、女児巫女が出番に登場する。

本社拝殿に母親とともに上がった女児巫女は3人。



参拝される大字の人に神楽舞を奉じる。

女児巫女は大学生を筆頭に小学生まで。

総勢16人もいると云う。

秋祭りにはずらりと並んで神楽を舞うそうだ。

「むかしよみや」は一夜限りの八尾の祭り。

一人は平太鼓を打って、二人が舞う神楽は平神楽。ドン、ド、ド ドン、ド、ドと2回繰り返す太鼓の音に合わせて舞う神楽。

ドン、ド、ド ドン、ド、ド ドン、ドン、ドンで終える。

参拝者に拝して、手にした鈴神楽の舞い。

舞いを終えればその鈴で祓ってくださる。

一礼をして下がる。



9月ころから毎週のように練習をしてきた3人の女児が笑顔をふりまいてくれる。

参拝者が来られる度に舞う神楽は3人が交替して勤める。

この夜は中学二年生、小学四年、二年生の姉妹が勤めた。



お茶目で可愛い巫女さんは、突然のカメラマン登場に驚くこともなく、歓迎されてカメラ目線を贈ってくれる。



ときおり途絶える参拝者の合間に太鼓打ちの練習をする巫女さん。

付き添いしていた母親は練習の成果に目を細める。

そんな姿が愛おしい。



つかの間の練習を終えたころに訪れた参拝者は巫女さんのおじいちゃん、おばあちゃん、お父さんだ。



家族揃ってのお祓い、母親にもそうしてくれたお神楽は時間が経つのも忘れて拝見していたのである。

(H25. 9.24 EOS40D撮影)

法貴寺斎宮神社ヨミヤの御湯

2014年01月22日 07時23分11秒 | 田原本町へ
5年ぐらい前までは「ヤマモリ」と云って家で作った弁当を持ちこんでいた田原本町法貴寺の斎宮神社(さいぐうじんじゃ)。

境内にゴザを敷いて周りに提灯を掲げていた。

以前は家の提灯を掲げていたが、いつしか電灯の提灯になった。

もっと昔は提灯もなく真っ暗な中で食べていたと話す。

「ヤマモリ」は「雨が降らんかったら、雨乞いや」と云って、雨乞いの願掛けの夜食であったようだ。

「ヤマモリ」をすれば不思議と雨が降ってきたと話す。

この日の夕刻、斎宮神社を崇める法貴寺の西口・西南・前田垣内の人たちが集まってくる。

斎宮四社明神を祭る斎宮神社は法貴寺西にあるのゴウシンサンから南方へ数百メートルの地に鎮座する。

その地は「サイクサン」と呼ばれる小字の畑地。

別名に「畑斎宮」の名があると云う。

「畑斎宮」は北の方にも広がる地。

これより南側は馬場と呼ばれる小字。

かつては馬を飼っていたと云う地である。

ここら辺りの畑地には地下水を汲みだす井戸のポンプが多く見られる。

日照りのときは助かる井戸水は、たまに茶色の水も出るようだ。

宮さんは村の神社三役、当番も3軒で、西口・西南・前田垣内のもち回り役が勤める斎宮神社のヨミヤに御湯の神事が行われる。

夕陽が挿しこむ時間帯になれば池坐朝霧黄幡比賣神社の宮司がやって来た。



祓え、祝詞奏上、玉串奉奠を終える頃には法貴寺在住の女児巫女が到着する。

これより始めるのが御湯の儀式である。

羽根釜に雑木をくべて湯を沸かしていた。

湯釜は7月に行われた川西講大神宮のゴウシンさんの湯釜である。

在地のO家が管理されている湯釜は古い物ではあるが、年代、製作者を示すような刻印はなかった。

始めに幣を振る。

その次に幣を湯に浸けてかき混ぜるような感じで湯釜の縁回りを回す。

笹束を受け取った巫女は鈴を持ってシャンシャンと鳴らしながら左に一周、次に右へ、そして左に一周するように回る。

次に洗い米を湯釜に投入して、塩、酒を注いで湯釜を清める。

御湯釜の禊祓いである。



本殿に向かって正面、左方、後方、右方への左回りに三度の一礼をする四方の神寄せのあとに笹を釜湯に浸けて前方に五回、側方に五回、後方に五回の湯飛ばしをする。

鈴・笹を持って左、右、左に舞って神楽舞をする。



参拝者に向かって鈴を大きく左右に振って祓いで終えたヨミヤの御湯。

ヨミヤと呼ばれる行事は一夜限りの祭りである。

おそらく「むかしよみや」であったかも知れない。

(H25. 9.21 EOS40D撮影)