マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

伊与戸の地蔵盆

2013年11月17日 08時17分33秒 | 田原本町へ
田原本町の伊与戸では集落を中央から分けて東・西の二カ所に地蔵尊を奉っている。

東・西それぞれに属する尼講こと大師講の婦人たちがお勤めをする伊与戸の地蔵盆。

地蔵尊の前に竹を2本立てる。

その間に架けた葉付きの竹で設えたのは提灯掛けである。

まるで横に広がった鳥居のような特徴をもつ形式だ。

提灯は子どもさんが居る家。各家が持ち寄った提灯には子供の名が書かれている。

東・西二カ所の地蔵盆はほぼ同時に始まる。

この年は西の地蔵盆を拝見した。

地蔵尊は「南無阿弥陀佛」の六字名号が刻まれた石塔だ。

それには小さな文字で由来若しくは名前らしきものがあるが、判読できない。

六字名号の石造物に違いないが、当地では地蔵さんと呼んでいる。

会所で毎月のお勤めをしている尼講。

お葬式の際には「なむあみだぶつっ」を唱えるそうだ。

地蔵盆のお供えは各家が持ち寄るお菓子であるが、石造物には当番の家が供えるダンゴがある。

かつては当番の家で作っていた。

米粉を挽いて作っていた。

ウルチ米にモチゴメを入れてカラスキで踏んでいた。

子どものころだというから随分前のことである。

挽いた米粉は湯で練って丸める。

煮立った湯に入れれば浮いてくる。

トリコ(取粉)を塗してできあがったダンゴは生来の米の味。

キナコを塗す、或いは醤油をつけてみたらし団子のようにして食べたと話す婦人たち。

お店で買ってきた三色ダンゴを供えてゴザに座る。

ローソクや線香に火を点けて始まった念仏は三巻の般若心経。

ゴザ外に立つ婦人らも手を合わせて唱える。

そのころにやってくる子どもたちは浴衣姿。

普段の伊与戸では見られないほどの子どもたちで賑やかになった。

外孫が大勢だと話す。

心経でお参りをされたあとは子どもたちのお楽しみ。

御供を下げて参拝者の子どもたちに配るのである。

子どもの目的はお菓子貰い。

親たちとともに並んだ行列が伸びていく。

箱から取り出したお菓子は箕に入れる。



それを行列に持っていく。

手を差し出す子どもたちには生まれたての赤ちゃんも並んでいる。

地蔵さんは子どもの守り神。

ありがたい御供を受け取れば東の地蔵さんに向かった。

到着したときには般若心経も終わっていた。

西と同様の三巻である。



ここでも御供貰いの行列ができあがる。

お菓子を貰って帰る子どもたちの姿を見送った東の当番の人は提灯を下げた。

(H25. 7.23 EOS40D撮影)

法貴寺川東惣講大神宮のゴウシンさん

2013年11月11日 07時50分25秒 | 田原本町へ
川西講大神宮のゴウシンさん神事を終えれば直ちに川東へ向かう池坐朝霧黄幡比賣神社の藤本宮司。

川西の御湯を終えた里の女児巫女も急ぐ。

川東惣講大神宮は現在の大和川西岸に建つ。

寄進年代は不明であるが、「川東惣講中」の刻印が見られる。

西岸に建っている大神宮を「川東惣講中」と呼ぶのは不思議な感じがするが、かつての大和川は法貴寺集落の中央を南北に流れていた。

そこを境に川西、川東に分かれていたのである。

昭和57年8月に発生した台風10号によって激しい豪雨によって、流れていた大和川(初瀬川)左岸にあった堤防が決壊した。

田原本町北部の大部分は甚大な浸水被害が発生したのである。

その後の5年間にかけておこなわれた大和川改修工事によって川筋を大きく変えた。

その工事によって川東垣内は東西に分断されたのである。

かつての大和川(初瀬川)は細い水路を中心に公園化されて、当時の面影を僅かに残している。

四方に竹を立てて注連縄を張った川東惣講中の大神宮。

川東は東市場、南、西市場、寺内、宮ノ前(神社前)垣内の五垣内であるが、ほとんどが現在の大和川東側にある集落だ。

川東で神事が行われている際にも郵便屋さんが走り抜けていった。

宮司による神事や里の女児巫女が作法する御湯は川西講中と同じである。



その場に居合わせた宮ノ前垣内の住民であるM氏の話によれば、9月21日に斎宮神社の例祭が営まれると云う。

かつては「雨乞いのヤマモリ」とい称していた例祭は、「雨降らんか、降らんかったら雨乞い、降ったらヤマモリをしていた」と云う。

西口、西南、一部の前田垣内の氏子のマツリで、御湯の神事が行われるそうだ。

ちなみに9月7日は池坐朝霧黄幡比賣神社の弁天さんのヤマモリがある。

寺内、宮ノ前垣内のマツリで、その際にも御湯が行われる。

さらには南垣内が祀るコンピラさんにおいても御湯があるそうだ。

宮ノ前の住民が話した池坐朝霧黄幡比賣神社のだんじり。

ヨイミヤは15時に宮入り。

翌日の本宮においては同時刻に5台の宮出しをしていると云う。

その順は三方においた籤引きで決まるらしい。

(H25. 7.16 EOS40D撮影)

法貴寺川西講大神宮のゴウシンさん

2013年11月10日 08時51分28秒 | 田原本町へ
田原本町の法貴寺は2か所でゴウシンさんが行われている。

大和川西堤防付近にある川東惣講中の大神宮石塔と、今では公園になっている昭和57年の10号台風の豪雨で決壊した旧大和川より少し西側にある川西講中の大神宮石塔である。

神事を執り行うのは池坐朝霧黄幡比賣神社の藤本宮司。いつもお世話になっている。

御湯の作法をするのは法貴寺在住の小学生の巫女があたる。

始めに行われるのは川西講中のゴウシンさんである。

川西は前田、西南、西口、北、観音寺の五垣内の人たち。

寛政八年(1796)六月に川西講中が寄進された大神宮の石塔に神饌を供えて湯釜を沸かしておく。

準備が調ったころに出仕された宮司。祓え、祝詞奏上など神事を斎主する。

法貴寺集落を東西に通り抜ける街道は車の往来が激しい。

いやおうなしに宮司の背中を通っていく車に気をつけなければならない。

その道は郵便屋さんも走り抜けていく。

数年前に行われた川西のゴウシンさんには御簾や提灯もあったが、この年は見られない。

神事を終えるころに到着した里の女児巫女。

民家前に設えた湯釜に向かって御湯の作法をする。

始めに幣を振る。

その次に幣を湯に浸けてかき混ぜるような感じで湯釜の縁回りを回す。

笹束を受け取った巫女は鈴を持ってシャンシャンと鳴らしながら左に一周、次に右へ、そして左に一周するように回る。

次に洗い米を湯釜に投入して、塩、酒を注いで湯釜を清める。

御湯釜の禊祓いである。

本殿に向かって正面、左方、後方、右方への左回りに三度の一礼をする四方の神寄せのあとに笹を釜湯に浸けて前方に五回、側方に五回、後方に五回の湯飛ばしをする。



鈴・笹を持って左、右、左に舞って神楽舞をする。

参拝者に向かって鈴を大きく左右に振って祓いを終える。



御湯を終えれば使った笹束を大神宮に括りつけておく。

(H25. 7.16 EOS40D撮影)

伊与戸のゴウシンサン

2013年11月06日 06時59分10秒 | 田原本町へ
正面に「大神宮 若連中」。

南側は「村内安全」と刻印された田原本町伊与戸の大神宮石塔は文化十年(1813)に建之された。

八幡神社の敷地内にある。

葉を付けた笹竹を立てる。

水平に掛けた一本の竹によって鳥居のように見える提灯掛け。

かつてはゴウシンサンの祭りに各家が持ってきた提灯を掲げていた。

傷みが激しくなったりローソクの火が移って燃えてしまったとかで止めた提灯掛けは、今では神社の御神燈になった。

かつては7月16日に行っていた伊与戸のゴウシンサンは、その日に近い日曜日に替った。

県内各地のほとんどの地域にある大神宮はかつて流行ったお伊勢参り。

伊与戸の集落を抜ける道は伊勢街道。店屋が多く建ち並んでいた。

提灯掛けが気になってやってきた村の長老のⅠさんは83歳によれば今年の3月まで伊勢講があったと云う。

4軒の営みだった伊勢講は2軒が脱会されて残りの2軒では継続することができない。

やむなく解散することを決断された。

2月に最後のヤドの営みを済ませて3月にお伊勢さんへ参った。

それまではヤドの会食を作る婦人の世話になった。

長年の感謝と慰労に夫婦で参拝したと話す最後の料理は豪勢三昧だったようだ。

Ⅰさんのお爺さんは明治生まれだった。

お伊勢参りは伊勢講中の三人で出かけた。

当時は歩いて参ったと云う。

三人組のひとりは豪傑。何かと頼りになったそうだ。

三人連れは二組。それぞれが出かけたそうだ。

お伊勢参りを象徴する大神宮は隣村にもあるから見に行こうと誘ってくださる。

守屋の大神宮には「文化十二年亥乙(1815)六月 大神宮 村若連中」に「伊勢施主村中」もある。

傍には「文化十二年 金比羅」の文字がある。

同時期に建之された一対の石塔である。

北隣の村である大木にも大神宮があると車に乗せてもらった。

公民館の前にある大神宮塔は「文化九年(1812)十一月 太神宮 大木若連中」であった。

それぞれの村の始まりは、建てた時代でときの流れがよく判る。

伊与戸のゴウシンサンの当番は四垣内それぞれから二人。

四年に一度の回りであるが、垣内の戸数がそれぞれ異なることから垣内内の回りは3~5年になるらしい。

短ければ12年、長ければ20年にもなる回りである。

夕方ともなれば大神宮塔にローソクを灯して提灯を掛ける。

当番の都合で決まった時間でもない。

突然に吹く大風は雨交じり。



提灯が濡れてはならぬと大急ぎで撤収したゴウシンサン。

「御神さん」と呼ぶ人もいる。

(H25. 7.14 EOS40D撮影)

村屋坐弥冨都比売神社の夏越し大祓い

2013年10月18日 07時38分49秒 | 田原本町へ
「諸人 牛馬 道中 安全 祈攸」の刻印がある立石の道標。

「幣」を象った文様も刻んでいた立石には左右に「道祖神」、「保食神(であろうか)」の文字もあった。

その地は田原本町の蔵堂。

村屋坐弥冨都比売神社の鳥居を潜った半ばのすぐ傍にある。

他にも刻印があったが判読はできない。

時代年だけでも判ればいいのだがまったく読めない。

その字のごとく、村人たちが農耕で使っていた時代の牛に馬。

実際に馬が農耕していたかどうかは判らない。

人が乗る馬であったかも知れない諸人が行ききする街道は主に南北であったろう。

隣村の伊与戸と大西を繋ぐ旧道である。

伊与戸の集落を抜ける道はかつての伊勢街道。

南へ行く道は飛鳥から吉野へ、である。

諸人の道中に安全を祈る幣は祓い清めの意味があったのではと思った。

この日は小字村屋に坐ます村屋坐弥冨都比売神社の夏越し大祓い。

半年間に身についた穢れを払うとともに翌月から年末までを健康で過ごせるように願う祭式である。

本殿前の前庭に設えた結界は忌竹を四方に立てた場である。

中央に直径1.8mぐらいの茅の輪がある。

50数本の茅を束ねた茅の輪である。



宮司を先頭に禰宜、氏子総代に続いて村人たちが潜り抜ける。

高さはそれほどでもないから背をかがめて通る茅の輪。



神事の場の結界に入った。

参拝者はいつになく多いと云う。

同神社の夏越しの大祓いに伺ったのは、実に10年ぶりだ。

当時は氏子総代の他、参拝者は数人であった。

穢れを払いたいと願う人が大幅に増えていることに驚くのである。

始めに宮司は本殿で修伐を執り行う。

前庭に下りて行われる神事は、神さんの祭りではなく村人、参拝者の祭りであると話す宮司。



それゆえ祝詞は本社殿に向かってではなく、参拝者に向かって捧げたのである。

手渡された白紙で作った「ヒトガタ(人形)」に息を三度吹きかける参拝者。



半年間の罪穢れをヒトガタに移して大祓いの祝詞を奏上される。

次に1.5cm角に切った紙で代用するキリヌサ(切麻)、幣を巻きつけた茅は参拝者自身が作法して祓い清める。

二つとも左肩、右肩、左肩へ当てる作法である。

これもまた祓い清めの作法である。

終われば祓ったキリヌサは茅とも三方に戻す。



こうして大祓いを終えれば、結界の綱を切る。

切る方角は南南東。恵方の方角である。



潜った茅の輪を取り外せば子どもたちを呼んだ。

大祓いの始末は子どもたちの行いだ。



神社の東側を流れる初瀬川(大和川)まで運ぶ子どもたちは茅の輪、忌竹を抱えていく。

人形、切麻、茅は禰宜が持つ。

橋の中央辺りに並んだ。

欄干から落とす茅の輪。



すぐさま祓った茅や人形、切麻も川に流す。

穢れを払った祭具は大川の流れに下っていった。



昭和14年8月に発刊された雑誌『磯城』の第2巻・第4號』によれば、さらし布に息を吹きかけて引き割いていたようだ。

三度吹きかけた人形とともに総代に渡したとあるさらし布の大きさは一辺が一尺二寸程度であった。

受け取った総代は次々にさらし布を割いたようだ。

春日大社の大祓えでは神職がそのような作法をしていると聞いたことがあるが、現在の村屋坐弥冨都比売神社ではそれが見られない。

この日に集まる参拝者は、神社からいただいていた人形とともに家で切ってきた手足の爪を紙に包んで持参していた。

それらを神社の祓え所に置いて帰った。

結界の場で作法するのは宮司と氏子総代だけであったようだ。

神事を終えて参拝者がいなくなってから川へ流していた。

同史料には多坐弥志理都比古神社(田原本町多)では神社の場ではなく、川の畔であったとある。

(H25. 6.30 EOS40D撮影)

村屋坐弥冨都比売神社森講の御田祭

2013年05月23日 06時47分25秒 | 田原本町へ
かつては旧正月十日に行われていた田原本町蔵堂の御田祭。

祭典が行われるのは村屋坐弥冨都比売(むらやにいますみはつひめ)神社である。

境内小社に村屋神社、服部神社、市杵嶋姫神社、物部神社がある。

「元禄九年(1696)子歳 奉寄進森屋御宝前」の刻印がある燈籠は村屋神社にある。

鎮座地はかつて鐘楼があったとされる。



境内燈籠には「森屋大明神」の銘もあるが、拝殿前に建之された狛犬に「天保十一年(1840)子九月吉日 明神講」の刻印があった。

田原本町における明神講は保津、満田、味間、宮古、今里、八尾、千代の阿部田、平田、為川北方、東井上(いね)が挙げられるがどの大字が寄進したのか判らない。

蔵堂の村屋坐弥冨都比売神社の郷中は蔵堂、大木(おおぎ)、為川南方、為川北方、遠田(とおだ;天理市)、金澤、平田、東井上、西井上、伊与戸、笠形、大安寺、阿部田、南阪手、阪手の15ケ大字であるから保津、満田、味間、宮古、今里、八尾の明神講ではないだろうか。

昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』によれば「阿部田の明神講は郷社になる村屋坐弥冨都比売神社から分霊遷しましをされて当家で祀る宮迎えがある。

10月1日に神迎えをされ10日に還る宮送りがある。

平田・為川北・東井上に跨る明神講もある。

3年に一度、平田の明神講が回りになる場合は10月1日に村屋坐弥冨都比売神社へ向かう奉幣渡御がある。

お渡りに担ぐ「粳米を付けた大御幣、稲株を付けたヤナギの木である」と記されている。

もしかとすればだが千代の阿部田若しくは平田ではなかろうかと思ったが、目を凝らして見れば「北為川村、平田村、東井上村」であった。

村屋坐弥冨都比売神社に関係する講は森講、明神講以外に綱切講、朔日講、スコンド講(数献講)があると昭和4年に纏められた『大和国神宮神社宮座調査』(奈良県図書情報館保管)に記されている。

村屋坐弥冨都比売神社には正月に掲げる簾型の大注連縄がある。

拝殿前に掲げる大注連縄をゾウガイと呼んでいた(注 『田原本町の年中行事』)。

その件は今でも半日かけて作り、掛けていると守屋宮司が話す。

それはともかく、御田祭が行われる旧正月十日の朝であった。

北隣村の伊与戸に綱掛け講があった。

平成10年ころまでは同神社参道に大きなワラ綱を結って掛けていた。

大綱の3か所に垂らしていた2段の松(または杉)とツタ。

綱掛け講の当屋が行っていた村屋坐弥冨都比売神社の正月行事であった。

綱掛け講からは12個(旧暦閏年は13個)の小餅を神前に供える。

お礼に半紙に包んだ12粒の米をチガヤ(茅草)に括りつける。

本数は12本だ。

年の月数をあらわす本数は一年間の豊作を願う数であったが、現在は継承する講も廃れて中断している。

その日の神社は午前中に祈年祭、午後に御田祭が行われているが、今では建国記念日の2月11日となった。

前述の『田原本町の年中行事』には旧正月十日とあるから発刊された昭和59年のころではまだ祭日に移っていなかったのであろう。

蔵堂の御田祭は昔も今も森講の人たちによって営まれている。

森講は伊与戸、大木、笠形(伊与戸から分かれた枝村)、遠田(蔵堂から分かれた枝村;天理市)の4ケ大字(かつては大安寺大字含めた5大字)に跨っている講中である。

かつては11軒であったが現在は9軒になった森講である。

かつては講中の当屋家に集まり講の鍵元(伊与戸のかぎもと)が保管されている講箱を全員が立会のもとに古くから継承されてきた宝物を確認する。

年長順に着座して宴席に移る。

その後において講員氏名を書き記す「座階」、当屋営みを終えたことを明記する「明斎頭」が行われる。

古くから書き継いできた文書に加え、伝わってきた宝印の朱印を半紙に押すと『田原本町の年中行事』に記されている。

この宝印は御田祭を終えた直後に撒かれる御供撒きの餅を包む紙である。

御田祭は連綿と継承してきた森講の人たちが拝殿に登ってから始められる。



拝殿には御田祭の所作で使われる牛面、備中グワ、スキ、カラスキ、マングワが置かれている。

拝殿回廊には神楽を舞う女児巫女が履く神つけ草履も用意した。



僅かな数量になったという草履は葬儀屋で作って貰ったものだと話す守屋宮司。

長年に亘って使ってきた草履はくたびれもせずに未だ現役である。

森講が大切にしてきた講箱は守屋宮司、禰宜によって本殿に献じられ祝詞を奏上される。

「邑屋社御寶物箱」と墨書された講箱に納めているのは牛王、剱、神名帳、和歌集、刀、剣のようだ。

祝詞はおそらく神名帳も詠みあげられたのであろう。

森講の記録によれば当日に牛王宝印、牛王杖を配ったとあるそうだ。

また、文和四年(1355)の神名帳の神名詠みあげがあることからもオコナイと呼ばれる正月初めに行われる修正会の営みであったと思われる。

明治維新までは寺僧侶も加わっていた行事は「ぼだい、ぼだい」とも云っていたようだ。

「ぼだい」の呼び名で思い起こすのが正月三日に行われている田原本町多観音堂の「ボダイボダイ」である。

カンピョウで束ねた「ゴオゥ」と呼ばれるエダマメを擂って炊いたものと牛蒡の御供。

梅の花を象ったハナモチも供えて僧侶が観音経を唱える最中に講中が青竹で床を叩く。

いわゆるランジョーの作法である。

同じような作法があったのかどうか判らないが森講の正月行事はそのような作法もなく神職による祭祀である。

神事を終えれば斎場は拝殿前の前庭に移る。



拝殿では森講の人たちが牛王宝印を押したお札で供えた餅を包んでいる。

四方に青竹を立てて〆縄を張った前庭は神田に見立てた神聖な斎場である。

恵方(今年は南南東)の方角に砂を盛った水口の場がある。

斎場正面に置かれた松苗、籾種、クルミ御供は田植えの所作に使われる。

御田祭の初めは恵方に盛った砂盛りに大きな松苗を立てる豊作願いである。

塩と酒を撒いて祓い清める。

クルミを盛った皿を供えた水口の儀式であるが、この年は失念されてウメの木を添えることはなかった。

供えたクルミは参拝者に配られる。

ありがたい御供を受け取る顔は笑顔になる。

そうして始まった田んぼの耕作。



始めにスキで田んぼ周りの畦を切る。

次は備中グワで荒田を起こす。

演者は替って守屋禰宜。

田んぼは堅い土。

力を込めて振り上げる備中グワ。



勢いがついて歯が取れた。

笑いが溢れる所作になった。

次に登場したのが田長(たおさ)と牛。

田長と呼ばれる馬子は森講の講中で牛役は草鞋を履いた二人の子供である。



牛の後方にカラスキ(唐犂)を曳いて田を起こす。

かつては牛役も講中であったが、集まってくる子供らが悪さをせず、さらに仲間意識をもたせるように、昭和17、18年頃に演者を替えたと宮司が話す。

「暴れんかえ」と掛け声が周囲からかかってもおとなしく済ませた田起こしは時計回りに一周する。

次は宮司が行う稲籾蒔き。

種蒔き唄を謡いながら神田に籾種を撒く。

両手を広げるように優しく撒く。

かつては三方に納めた籾でなく箕で撒いていたという。



「今年まいた籾殻 今年の取れ高どうじゃいな 一石、一斗、一升、一合、一勺(せき)、あるといいな」、「今年まいた籾殻 今年の取れ高どうじゃいな 二石、二斗、二升、二合、二勺(せき)、あるといいな」、「今年まいた籾殻 今年の取れ高どうじゃいな 三石、三斗、三升、三合、三勺(せき)、あるといいな」である。

四石は縁起が悪いからと謡わずに「今年まいた籾殻 今年の取れ高どうじゃいな 五石、五斗、五升、五合、五勺(せき)、あるといいな」で続けた田植え唄は「これぐらいにしときましょ」で締められた。

祭事後に伺った宮司の種蒔き唄。

即興でもなく、5、6年前に教わった滋賀県の民謡だったそうだ。

『田原本町の年中行事』に掲載されていた唄がある。

その唄の原文は万葉がなで同神社に残されているそうだ。

それをカタカナ表記で書き写しされた守屋宮司の内容を拝見し、確認した上で歌詞を書き記す。

1番・始め唄「うれしさは おたにもみにも おさだにも あふるるまでに あふれましみず」、2番・牛使い唄「あまつひめ よさしのみたに ささげもち をたすきかえし いざやをろさむ」、3番・早苗唄「あまつめの かみのまにまに たまだすき かけてぞさなえ とりてうえまし」、4番・田植え唄「ををまへに をさだすきそめ すきかへし うえしさなえを まもれやちほに」の詞章である。

判る範囲内で漢字を充ててみれば、1番・始め唄「嬉しさは 御田に籾にも 長田にも 溢るるまでに 溢れ増し水」、2番・牛使い唄「天つひめ 良さしの御田に 捧げもち 御田鋤き返し いざや下ろさむ」、3番・早苗唄「天つめの 神のまにまに 玉襷 掛けてぞ早苗 取りて植えまし」、4番・田植え唄「御前に 長田鋤き初め 鋤き返し 植し早苗を 守れ八千代に」であろうか。



そして再び登場する馬子と牛は田を耕す道具をマンガ(馬鍬)に替えた。

「もぅー」と鳴きながら登場する牛。

暴れることなくカラスキと同じように時計回りで一周して耕した。



衣装を解いて姿を見せた子供はなんと、禰宜さんの二人の子息だった。

大役をこなした二人はほっとした顔つきになった。

こうした田植えの所作の次は村の女児が勤める巫女神楽。

この年は田原本町の東小学校の4人。

昨年は一人が中学生だった。



千早の巫女装束になった女児が舞う神楽は三三九度の舞い。

太鼓の打つ調子に合わせて舞う鈴神楽。

しゃん、しゃん、しゃんの音色が心地よい。

右に三回、左に三回、そして右に三回ぐるりと旋回して終えた豊作の祝いの神楽である。

かつては神楽の舞いに弓と的があったそうだ。

湯立ての神事も随分前から中断していると話す宮司。

いずれは復活したいものだと話される。

村屋坐弥冨都比売神社の神楽は御田祭で舞われた三三九度の舞いの他に、平神楽、扇の舞、榊の舞、二本剣の舞、一本剣の舞、矛の舞、薙刀の舞など代々受け継がれてきた特殊な神楽がある。

平成14年に訪れた際に拝見させていただいたことがある。



最後は宮司と禰宜による松苗のお田植え所作。

松苗を手にして束の部分を挿すようにして植える所作である。

そうして所作を終えた二人は後方、左右など参拝者に向けて松苗を放り投げる。

かつてはこの御田祭においておたふく(おたやんの呼称がある)やひょっとこの面も使われていたそうだ。

雨乞いの踊りもあったとされるが実際はどのような形式であったのか判らない。

御田祭を終えれば森講による餅撒きがある。

ありがたいごーさんのお札で包んだ餅を手にする参拝者。



餅だけ持って帰ってお札を残す人もいる。

そのお札はエビスさんを表したご朱印であった。

大漁姿のエビスさんは豊作を願う印影であろう。

昭和14年6月15日発行の雑誌『磯城 第2巻 第3號』にも蔵堂守屋の村屋坐彌冨都比賣神社の御田植祭が記載されている。

明治40年頃までは旧正月十日であった。

その後において2月19日になったものの昭和13年には再び旧正月十日になった。

当時の講中も伊與戸、大木、大安寺、笠形、遠田の5ケ大字(それ以前は阪手北を含む6ケ大字)であった森講組織。

それぞれの大字の大庄屋の集まりだったと守屋宮司が話す。

明治維新までは裃着用の講員が幣竹を持参して同神社に参集。

真言宗僧侶とともに拝殿の床を「先祖代々菩提のために」と唱和しながら床を叩いたとある。

それから御田祭に移ったと伝えられる行事は「ボダイボダイ」と呼んでいた。

その様相はまさに田原本町の多観音堂と同じである。

講員の最長老を一老、次に二老、三老と呼んで、一老こと講長が行事を総指揮していたとある。

お供えは5升の餅に5本の松苗。

松苗の本数は5ケ大字の数である。

神事の際には一老が玉串を奉奠し撤饌のあとで講伝来の寶物を奉献した。

寶物は牛の玉(寶印であろう)、長さ一尺三寸の剣が一刀、延喜式神名帳が一冊、三十六歌選の和歌集一巻を参拝者に拝観して御田祭の所作をしたとある。

御田祭の始めは鍬を手にして耕す所作の鍬初めの儀があったと記されている。

当時は白米を紙に包んだ御供を松苗に括りつけていた。

松苗をもって田植えの所作をしていたのは浄衣姿の二人の早乙女であった。

松苗を砂の中に挿入するように植えていく。

植えた松苗を選んで引き抜いた5本を参拝者に目がけて投げつける。

5本の数は森講の5ケ大字の数であったろう。

最後に牛玉寶印を刷った書を参拝者に授与する。

講員たちは松苗を持ち帰って籾を撒く際に苗代の水口へ立てる。

そのときには「黄金の稲穂重く垂れかし」と念じたとある。『磯城』、『田原本町の年中行事』ともに記載されてあった民俗行事の在り方は現在行われていない状況が判るのである。

記載されていた内容から村屋坐弥冨都比売神社の御田祭は森講の御田祭であったのだ。

雑誌『磯城』には前述した伊与戸の綱掛け講による綱掛け神事がこと細かく書かれている。

神事は御田祭と同じように明治40年頃までは旧正月十日であった。

その後において新暦の二月十九日になったが昭和13年には再び戻された。

講員たちは頭家の家に集まって蛇形の大綱を作っていた。

綱の長さはおよそ六十尺。

頭部廻りは約一尺で胴廻りは約七寸。

胴の三か所において「足」と称する長さ五尺の細い縄を三筋垂らした。

その垂れ縄には松(または杉)と蔦を横二段に通して切垂を結びつけた。

出来あがった綱は蛇がトグロを撒くような形に丸く重ねた。

中央に青竹を挿して講員たちが担いだ。

「ワッショ ワッショ」の掛け声をかけて神社に繰り込み拝殿に置いた。

神前に供える小餅は中央が凹んでいることから靨(えくぼ)餅と呼んでいた。

神事で清めたのちに大綱は参道のご神木に掛けるのである。

悪疫、災難除けに掛けていた大綱であった。

(H25. 2.11 EOS40D撮影)

唐古の新嘗祭

2013年02月23日 09時09分38秒 | 田原本町へ
我が家の前の山には薄らな積雪。

朝の風景の驚く冬景色の到来である。

月ヶ瀬では盆地部と同じような感じであったが、山間の室生ではなんぼほど積もったことであろうか。

10cmもあるような積もり方は大宇陀でもそのような様子である。

その夜も相変わらず強い風が吹く。

明日も寒い一日となりそうだと思えたこの日の唐古。

東の神明社と西の八阪神社で新嘗祭が行われる。

前日の8日は養福寺で薬師講の営み。

お寺境内を清掃した。

普段の営みは唐古の婦人たちが唱える薬師さんのご詠歌であるが、12月と7月は男性役員とともに般若心経。

その日は太鼓を打って心経を唱える。

唐古の営みはお寺、神社とも自治会運営。

戦後にそうなったと話す。

現在の唐古は100戸ほど。

旧村では75戸になるという。

10月に行われた神明社の昔宵宮には多くの村人が集まったが、新嘗祭は自治会役員の営み。

村の豊作は新穀収穫を祭る行事である。

にごり酒を供えて神事が行われる。

唐古は法貴寺の郷村。

池坐朝霧黄幡比賣神社の宮司によって神事が行われる東の神明社。

祓えの儀、献饌、祝詞奏上、撤饌など厳かに神事される。

寒冷前線がもたらした積雪。

時間が経過しても田んぼに残った雪は解けない。

強風が吹くこの日はとても冷たく寒い。

供えた神饌は西の八阪神社に持っていって同じように神事が行われた。



唐古は初瀬川と寺川に囲まれた広大な地。

肥沃な土地から生み出される田園地域である。

自治会が運営する行事は多々あるという。

1月は鏡開きにとんどがある。

役員たちがもてなすイロゴハン。

笹のお酒のふるまいやビンゴゲームなどなど。

村中の人が集まってくるそうだ。

4月初めは桜まつり。

屋台も多く設営されて、仕入れた生花も売っていると話す。

8月は盆踊り。

数々の賑わいをみせる行事は是非訪れたい。

(H24.12. 7 EOS40D撮影)

法貴寺の御湯の場

2013年02月18日 07時41分56秒 | 田原本町へ
田原本町法貴寺に鎮座する池坐朝霧黄幡比賣神社。

近隣村の郷社である。

同町の小阪、唐古、鍵、八田や天理市の海知、武蔵が法貴寺の郷村にあたる。

法貴寺の神社宮司には度々お世話になっているが郷中の関係は存知していなかった。

今年に知った里の女児巫女が祭典される御湯の儀とお神楽。

その状況を教えていただきたく訪問した。

ほぼ整理ができた聞き取り調査。

それを終えて法貴寺で行われている斎場を訪れた。

池坐朝霧黄幡比賣神社の境内社である厳島神社の弁天さん。

そこでは御湯が行われていることは知っている。

西にある大神宮でも行われているゴウシンサンも知っているが拝見したことがない。

西と東の大神宮は寄進された講中が分かれていたことを知ったこの日。



西の大神宮は法貴寺集落の中央辺りにある。

それには川西講中が寛政八年(1796)六月に寄進された。

200年以上も前に寄進された大神宮である。

一方の東側にある大神宮。寄進された年月は不明だが川東惣講中とある。

話によればそれぞれ東西の垣内の講中が寄進したそうだ。

川西は前田、西南、西口、北、観音寺垣内。

川東は東市場、南、西市場、寺前、宮ノ前垣内で集落中央を流れる初瀬川を境に東西垣内の講中が寄進したという。

法貴寺では他にも御湯の儀をされているという。



一つは南の斎宮(さいぐう)神社

氏子は西口、西南、前田(一部)だそうだ。

もう一つが南のコンンピラサン

金平羅社だそうだが場所は探し出せなかったが後日に再訪問した際に場所を教えてもらった。

現在の大和川の東側。

四ツ辻を少し南下した地にあったコンピラサンは祠の中。

そこには「金」の文字が刻まれた石造り。

傍には藁束を括りつけた常夜燈と思われる石塔もある。

それには天保九年十月吉日とあった。

(H24.12. 7 EOS40D撮影)
(H24.12.27 記)

唐古神明社の昔宵宮

2012年12月13日 06時43分47秒 | 田原本町へ
田原本町の唐古・鍵は初瀬川(大和川)と寺川に挟まれた地域。

平安時代の延久二年(1070)には興福寺領の荘園で田中荘と呼ばれていたそうだ。

唐古南交差点に鎮座する八阪神社。

かつては交差点信号の東側まで広がる領域であったと村の人はいう。

その八阪神社で御湯立神事が行われる。

一時期は法貴寺池坐朝霧黄幡比賣神社(通称池坐神社)の宮司家の母親が行っていたという御湯立の儀式である。

およそ60年ぐらい前のことだと話す宮司家の婦人。

そのころからも里の女児を巫女に仕立ててはどうかとお願いをしていたが、諸事情で都合がつかなかった時代が続いた。

いつしか時が流れてきた近年のこと。

池坐神社の郷村にあたる村々では小学生の女の子が里の巫女として勤めるようになってきた。

時代を経て機運が盛り上がり当村でも受けるようになったと話す。

そうして数年経った。

里の巫女を受ける家はさらに増えていった。

6、7年前からは参加意識が高まった。

現況を鑑みた唐古も池坐神社の指導の下で里の巫女を育成するようになって3年目。

唐古に住む小学生の女の子が巫女役を勤めるようになった。

5月ころから宮司婦人が作法を指導してきたと自治会長が話していたのは先月のことである。

唐古の天王講の営みを掲載している『田原本町の年中行事』。

文中に、10月1日は唐古の神明(しんめい)社で昔宵宮をしているという記事だ。

先に八阪神社へ参ってから神明社で湯立てをすると書かれている。

湯立てをする巫女は郷社の池坐神社が鎮座する法貴寺の里の巫女が行うとある。

その巫女が前述した池座神社宮司家の母親だったのかは判らない。

八阪神社を崇めている天王講は20軒。

3月には天皇さんと呼んでいる八阪神社に供え物をしてから当屋家に集まる。

その家の床の間に「天照皇太神宮」の掛軸を掲げて膳につくとある。

後日に聞いた話では料理屋に替ったそうだが、講中の一人が話す天王講の文書に興味がわく。

それには神像が並んでいる画像もあるらしい。

神事の場に集まった法被姿の自治会役員たち。

境内に穴を掘って湯釜を立てる。

脚は三本だ。

湯釜は古いものと見られた。

薄らと刻印があるが判別できない。

光りが当たる具云いで読めなかった文字は神明社に移されたときに見えた。

一部であるが「・・・春日大明神牛頭天王御湯釜・・・天保九歳戌九月吉日 御鑄物師原榮大・・・」とある。

天保九年は西暦で1838年。

およそ170年前の代物である。

そのころから、或いはそれ以前であったと思える湯釜の年代。

二社が記されている神社名。

春日大明神は現在の神明社、牛頭天王は明治12年に八阪神社名に替ったようだ。

湯を沸かすのは杉の枯れ葉。

雑木も入れて火を点ける。

時間を短縮して家で沸かした湯を注ぐ。

待つことしばし。

宮司婦人とともに登場した里の巫女は小学5年生。

翌年も行うそうだ。

幣を受け取り神事が始まった。

巫女が立つ斎場は扇のように広げた藁束を敷く。

履物を脱いで立つ巫女。

幣を振ったあとは静かに湯釜に投じる。

それをかき混ぜるような感じの作法でゆっくりと釜の縁辺りを回す。

次に笹束を受け取る。

鈴を右手に持ってシャンシャン。

頭を下げて左に回る。

一周してまたもや頭を下げる。

その方向にあるのが八阪神社の社殿。

小さな祠のような社である。

今度は右回りにシャンシャンと鳴らしながら一周回り。

頭を下げて左回りした神楽の舞い。

それを経て始まった御湯の儀。

笹束を湯釜に置いて洗い米、塩、御酒を注いで清める。

それから笹を湯に浸ける。

西の社殿、南、東、北の方角に向かって、その都度の三度の礼。

そして湯に浸けた笹を前方社殿側に向けて飛ばす。

何度か繰り返して後方にも笹を振り上げた。

数えてみれば前方が5回で後方は10回であった。

後方の10回は前半、後半の5回の作法が異なる。



前半は横水平に近い作法で後半は真上から後方である。

次に行った作法は鈴を鳴らして舞う神楽。

左、右、右回りに舞った。

履物を履いて参拝者の前に移動する巫女。

大きく鈴を振った祓いの作法をありがたく受ける。



神楽の舞い、鈴祓いの作法は9月に拝見した八田のむかしよみやと同じだった。

同一の指導であるゆえそうなのである。

こうして八阪神社での御湯立神事を終えれば、役員ともども神明社に向かう。

それほど遠くない距離に鎮座する神明社。

湯釜に刻印されていた春日大明神は境内社の一つと思われる。

ここでも境内に穴を掘って湯釜を立てる。

同じように扇のように広げた藁束。

そこは里の巫女が湯立て神事が行われる斎場である。

参拝者は先ほどの八阪神社での湯立てよりも多くなった。

湯立ての前には本殿で巫女による鈴神楽が舞われる。

近くまで寄ってきて参拝者に祓う儀式であろう。



それから始まる湯立ての儀式は生憎の事情で現場を去らなければならない。

八阪神社での湯立てと同じように作法されたことと推測される。

後日に自治会役員方にお聞きした話によれば「神明社の昔宵宮(むかしよみや)」は10月1日だった。

秋祭りはその後に行われていた宵宮と本祭り。

行事は一本化されて第一日曜日に移ったとういう。

この日は子供御輿の巡行もあるが、本来的には神明社の昔宵宮(むかしよみや)であろう。

『田原本町の年中行事』によればマツリといえば宵宮が重んぜられ、夜中に神さんが降臨することから始まると信じられ、その夜はお籠りをしていたとある。

現在では本祭りに対する前夜を宵宮と称してマツリが行われているが、その宵の祭典だけは村のマツリとしている地域も少なくない。

郷中の各村では村の単独のマツリとして昔宵宮(むかしよみやの呼ぶ)とかコマツリと呼ぶ地域もある。

そのときに郷社にあたる神社から里の巫女を出向けて御湯立ての神事や神楽を舞っている。

その件から思料するにこの日に行われた唐古の御湯行事は神明社の昔宵宮(むかしよみや)そのものであると考えられる。

(H24.10. 7 EOS40D撮影)

唐古の御湯行事

2012年11月24日 08時27分22秒 | 田原本町へ
天理市海知町の倭恩智神社で行われるシンカン祭。

そこでは二日間に亘って御湯之儀が行われる。

その際に聞いた唐古の行事。

ここでも同じように御湯立の神事があるという。

それを知って訪ねていった唐古の地。

当日は自治会の男性たちが唐古池の周りに生えている雑草刈りに従事されていた。

村には氏神さんを祀る神明(しんめい)社が鎮座する。

池からそれほど遠くない。

神社の様相を見ていたときだ。

拝殿に掲げられていた注連縄に目がいった。

簾型の注連縄である。

七、五、三に結った注連縄は特別な名はない。

大晦日の日に掛けたという。

総代でもある自治会長の話ではかつて神社から砂の道を形成していたという。

唐古にもあった砂の道と簾型注連縄に感動する。

砂の道は福の神さんが通る道だと話す。

集落のほうにも繋げていた砂の道。

いつしかアスファルト化されて消えた。

奇麗な川砂が採れなくなったことも一因であるが20年前まではしていたという。

神社のマツリのことも教えてくださった。かつては10月18日、19日に行われていた秋のマツリ。

その当時は稲刈りが11月だった。

氏子は農業が生業。

サラリーマン農家が増えたことから集まりやすい第一日曜に移したという。

唐古の神明社の祭祀を勤めるのは田原本町法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社の藤本保宮司。

倭恩智神社のシンカン祭も勤めている。

池坐神社は郷社。

近隣村の唐古、小坂、武蔵、鍵、海知地区の祭祀を勤めていると話す。

それはともかく唐古のマツリには里の巫女が作法する御湯立の神事がある。

巫女は唐古に住む小学生の女の子。

5月ころから宮司の奥さんが作法を指導してきたという。

平成23年の巫女は二人だった。

たまたま双子だったからそうなったと話す。

もし写真を撮っておれば貴重な映像になったかもしれない。

神明社の湯立ては12時半頃だそうだが、直前には神明社西方の国道24号線信号横に鎮座する八阪神社でも行っているという。

八阪神社では12時ぐらい。

そこでの御湯を終えれば直ちに神明社に移動して御湯をするという。

湯立ての湯を被れば病気にならんというから湯祓いを受ける参拝者が多いのであろう。

15時ころには曳行してきた御輿も到着するというから、そのあとで行われるのが女児巫女のお神楽かもしれない。

八阪神社よりも神明社のほうが参拝者は多いという。

おそらくお神楽があるのであろう。

(H24. 9.23 EOS40D撮影)