マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

八田のむかしよみや

2012年11月21日 06時41分51秒 | 田原本町へ
康正三年(1457)『大乗院寺社雑事記』に八田の地名が記されている田原本町の八田。

春日若宮祭礼の願主人の一人である八田氏の居住地だったそうだ。

村内の鎮座する伊勢降(いせふり)神社ではさまざまな年中行事が行われている。

神社の祭祀を勤めるのは三人の一年宮守。

その一人であるMさんの話によれば65歳になればその勤めをするという。

年齢順で回る宮守である。

次年に担う宮守も3人。

「みならい」と称して祭祀を支援する。

八田の村は3垣内で総計100数戸。

旧村としては多いほうだと思う。

宮守は一年間の年中行事を勤めて1月4日のとんどの日に次の宮守に役目を引き渡すという。

9月18日は「むかしよみや」。

案内によれば「昔宵宮」と表記される。

神社のみならず集落全域に亘って高張提灯を掲げる。

この日は朝から雨天だった。

ビニールカバーを掛けた提灯を目印に氏子たちが集まってくる。

「むかしよみや」の祭典は雨天でなければ境内社の道祖神社。

降り続ける雨を避けてテントを設営していたが祭礼をするには難しい。

仕方なく総代に許可を得て場を変更された。

その場は伊勢降神社の拝殿内。

道祖神社の方向に向けて神饌を供えた。

祭祀が始まる前に着座したのは3人の里巫女。

迎えたのは宮守たちだ。

向い側に座るが一人は差し出されたお祓い料を受け付ける。

時間ともなれば村人たちが拝殿前に集まった。

家族単位でやってくる人数は相当なもので行列ができるほどだ。

頭を下げてお参りする。



静々と立ちあがった里の巫女。

まずは御供斎壇に向けて一礼する。

それから鈴を右手に持って舞う神楽。

シャン、シャンと鳴らしながら左、右、左へと舞う。

参拝者側に向かうときはその都度頭を下げる。

まさにお神楽の舞いである。



そうして参拝者に歩み寄り鈴をシャンシャンと振る。

その音色からであろうか、宮守の一人は「シャンコシャンコ」と呼んでいる。

そう呼ぶのは八田だけでもなく県内各地でみられる。

大和郡山市馬司町の杵築神社、番条町の熊野神社、額田部町の推古神社に葛城市太田の海積神社で聞いたことを思い出す。

その他の地区でも同じような呼称があると想定される巫女が織りなす神楽の舞い。

鈴で祓う巫女神楽は一人ずつ交替しながら進められる。

3人の巫女は八田の女児たち。

小学6年生が一人で、「みならい」とされる2人の5年生が勤める。

神楽の舞いは法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社の宮司家が指導にあたっている。

5月から教わってきた神楽を勤めたシャンコシャンコ。

およそ40分間も舞い続けた。

その頃には雨も小休止。

ようやく雨もあがりそうになった。

行列はなくなっても参拝者は訪れる。

一家族、また一家族とやってくる。



その都度勤めるシャンコシャンコはありがたい身体堅固の厄払いなのであろう。

こうして「むかしよみや」の夜は更けていく。

伊勢降神社の秋祭りは10月10日。

いつしか体育の日に移したそうだ。

前日はよいみや(宵宮)である。

宵宮と昔宵宮(むかしよみや)とは別の行事だそうだ。

こういった祭りの宵宮と昔宵宮が別個に行われているのは何故なんだろうか。

葛城市の當麻山口神社においては「宵宮祭り」がある。

同じように神楽が舞われる一夜限りの祭祀。

行事のあり方はそれぞれだが共通して「むかしよみや」と呼んでいる。

私が知る範囲では大和郡山市東椎の木杵築神社では昔夜宮、山田町の杵築神社は八朔座のむかしよみや、八条町堂山の子守神社は昔夜宮、横田町の和爾下神社では十ニ夜宮祭と称している。

また、葛城市八川の市杵島神社でも夜宮だ。

「むかしよみや」の「よみや」はおそらく夜宮ではないだろうか。

しかし、何故に「むかし」と呼ぶのか判らない。

それぞれの地区の方に聞いても判らないと返ってくる。

(H24. 9.18 EOS40D撮影)

伊与戸日待ちの初集会

2012年03月21日 06時46分18秒 | 田原本町へ
かつては伊勢講もあった伊与戸の年度初めは2月。

2月と言えばニの正月の1日であったと思われる地区の新年初集会は公民館で行われる。

その公民館は今でも「オドウ」と呼ばれている。

大師講に出向く際には家人に「ドウへ行ってくる」と言って集まる大師講。

尼講とも呼ぶ婦人たちはそういう。

「ドウ」はおそらく「堂」であろう。

毎月の営みに百万偏数珠繰りをしている。

昨今はどこともそうだが、集まりやすい第一日曜に移った伊与戸の初集会。

東、西、中垣内の住民たちが集まってくる。

伊与戸は40数軒。

8軒ずつの組みで年当番が回っている。

当番は地蔵盆をも含み、東、西垣内からとなるため2、3年に一度の回りだ。

「天照皇大神」の書が掛軸。床の間に掲げられる。

掛け軸の前には斎壇が組まれてお供えを置いた。



三方の手前は大きなカワラケが2枚。

洗い米と塩だ。

その後方にはダイコン、ゴボウ、ニンジン、サトイモ、シイタケにコーヤドーフを串に挿して立てる。

そのお供えは2セットを並べられた。

村の人数が減った戦時中はできなくなったようだが、それは子供の頃の記憶。

曖昧だが、と前置きされて語る長老。

12時には集まることになっているからと始められた儀式。

膳が配られた席についたまま、掛け軸に向かって2礼2拍手、1礼と神事に則って拝礼する。

一昨年までは掛軸とお供えをするだけであった。

ただ飾るだけでは・・と意見が出て昨年から拝むようにしたという。

掛け軸は「天照皇大神」であることからお日待ちの行事であることには違いない。

かつては総代の家で務めていたようだ。

お神酒が注がれてパック詰めの膳をよばれる初集会は村の会計報告などが行われる。

(H24. 2. 5 EOS40D撮影)

田原本町多観音堂の夏の観音講

2011年08月04日 06時38分45秒 | 田原本町へ
そうこうしているうちに講中が観音堂に集まる時間が迫ってきた。

公民館の放送設備を使ってマイク放送された。

「観音講よりお知らせします。今日、15時からお下がりをお配りしますのでおいでください。子供さんらにもお配りしますのでよろしく願います」と伝えられた。

というのは用意された個数は講中の戸数以上もあって多い目に作られたアンツケモチとムシナス。

それは村の子供や年寄りにも分けるお下がりである。

今では少なくなったが十年も前はたくさんの子供がもらいに来たそうだ。

どれだけ来るか判らないがいつもの通り多い目に作っておいたのである。

そうしてコメアライさんらが作ったごちそうを観音堂に運び込まれた。

ご本尊や弘法大師など両脇の仏さんにアンツケモチとムシナスを供える。

スミソを垂らしたムシナスには手作りのシロウリを添える。

御供と同じように講中が座る席にもごちそうが並べられた観音堂。

そこにはその年の当屋の名前が記された鉄製の行燈がぶら下げられている。

半紙を張った六角形の古い行燈だ。

それは1月3日のボダイボダイの時に吊るされたもので明治37年4月に観音講が新調された箱に納められている。

そうこうしている講中がやってきたのでお迎えにあがる。



灯明を点された観音さんの前に座って手を合わせる講中たち。

この観音さんは二度も盗難にあったという。

盗った泥棒はニキ(新木であろうか)池とも呼ばれるハスイケ辺りまで来たときに重たくなったからそこに置いて逃げたという。

ある人の話によればその池から光を放ったという。

伝説と思える話にありがたさを感じる観音さんに手を合わされた。



そうして座席に座る。

集まって来た人たちはご婦人がほとんど。

唯一一人の男性がおられたが特に性別の決まりはない。

ただ、こうしてみればボダイボダイは男性で、この日の集まりは切り分けて女性であったのではないかと思えた。

「多の観音講の伝統行事の一つとして集まっていただきました。コメアライさんのお手伝いでこうして会食に間に合うことができました。どうかごゆっくりとよばれてください。」と当屋が挨拶されて始まったヨバレの会場。



平成11年にお堂を改築されるまでは境内にゴザを敷いてそこでよばれていた。

お堂の中は風が入らないので暑くて汗をかく。

昔のようにしてみようかと話される。

昭和15年まであった桜が咲く頃の春の「大飯喰い」行事にボダイボダイのときの「牛蒡喰い」行事。

多の観音講は講中が「食べる」のが目的の行事のようである。

この観音堂がある地はかつて集落があったそうだ。

それがいつのころか判らないが東に移ったという伝えがある多の集落だそうだ。

ごちそうをよばれている最中には子供がやってきた。



「たった一人だけどもらいに来てくれたんや」と喜んでモチを2個包んで帰らせた。

そうこうしてヨバレをいただいて村へ戻っていく講中。

田んぼの稲は青々している田に混じって田植えを終えたばかりの田もある。



それらは小麦を栽培していた田んぼだ。

刈り取ったあとに田植えをする。

時期は一か月も差異がある。

それらの田んぼの牛のエサ用として作付する田んぼであるという。

稲穂が出て間もないころに刈り取ってしまうのでこれでいいのだと話す。

それは早期に籾と茎葉を一緒に収穫して乳酸発酵のもとロールベイルサイレージ化され酪農乳牛の飼料として使われるようだ。

県農協の取り組みでもある事業の作付面積は徐々に増えているようだ。

(H23. 7. 9 EOS40D撮影)

田原本町多観音講の御供作り

2011年08月03日 06時38分23秒 | 田原本町へ
田原本町多に鎮座する多坐弥志理都比古(おおにますみしりつひこ)神社の東方に多の集落がある。

その中間に位置する辺りに観音堂がある。

田んぼの田園に囲まれたところにお堂がある。

普段は扉を閉じているお堂は1月と7月に開けられる。

それは多集落の観音講の行事がある日だけだ。

1月は年始めの行事とする「ボダイボダイ」で講中の男性たちがお堂の床を青竹で叩きまくる。

正月行事の一つである初祈祷に際して行われるランジョウの床叩きだ。

その日は年当番の当屋が作られたスゴボウを食べる。

いわゆる牛蒡喰いの行事である。

観音講の営みは7月にも行われるが特に法要もなくアンツケモチとムシナスを食べる日である。

それは7月18日と決まっていたが集まりやすい土曜か日曜になった。

その日は18日を越してはならないという。

早朝から集まってきたのは当屋(トヤ)と副当屋に4人のコメアライ。

コメアライは作業の手伝いにあたる。

以前はコメアライが5人だったがそのうちの一人を副当屋に格上げされた。

当屋の勤めは年番だが講中が25軒もあることから回りは25年周期。

当屋を担うには25歳も歳いってからとなる。

かたやコメアライは5人組みで回るので5年越し。

いずれにしても二つの料理を作るには忘れてしまうほど年月が経ってしまうことから平成18年から副当屋を設けたそうだ。

そういう意味から次の年には当屋にあたる副当屋はミナライとして、当屋の指示に沿って作業を進める。

ムシナスは皮を剥いて蒸し器に入れる。



その数はなんと55本。

それを半切りにして切れ目を入れておく。

それを何回も分けて蒸していく。

そのムシナスを食べる餡も作る。

それは味噌仕立てで酢を入れるからスミソと呼んでいる。

それを食べるときに田楽のようにつけて食べるスミソだ。



下味にミリンとサトウを入れて混ぜる。

そこにはゴマも入っている。

蒸したムシナスはゴジュウタに入れておく。

一方、モチ作りは力仕事となるが現在はモチ搗きの機械で作る。

モチゴメは7升。

余裕をみて8升も搗いた。

マルモチにするのだがこれも機械仕立て。

ハンドルをグルグル回して出てきたモチを手で丸める。

大きさはといえば3回半と引き継ぎでいわれていたがそれでは小さすぎるからそれ以上に回す。

片栗粉を塗してくれもコジュウタにいれておく。

その数はなんと240個。

観音講の戸数は30軒だったが、近年は徐々に減って25軒。

当時は1軒について8個としていた。

戸数は減ってもモチの数は変わらないから1軒辺り10個にしなくてはと言いながら作られたが、パック詰めの容量の関係もあって結局は8個とされた。

そのモチは砂糖を入れて小豆餡を炊いた大鍋に入れる。



底へ沈めて漬け込むように入れるから「漬物みたいだな」と話す。

こうしなければ餡がモチに馴染まないのだという。



かつてはシオアンのモチだったアンツケモチはパックに詰めて出来上がった。



ここまでで4時間もかかった調理作業は一息いれて、当屋の接待で昼の会食をいただく。

午後の講中のヨバレの時間に間に合ったとほっとされる当屋夫婦。

4年前までは当屋の家でこれらのごちそうを作っていた。

「講中の数だけ器も用意せなあかんからたいそうだった」と話す。

46年前は杵と石臼でモチを搗いて、手でちぎっていたというから理解できる。

今では平成2年に竣工した公民館(当時は119戸)を貸してくれるようになったからありがたいことだと語る。



7月18日の観音講の行事の正式な名称はないそうだ。

田植えを終わらせて夏場を乗り切るこの時期に講中の健康を祝う行事のようで、アンツケモチを食べるのはハラモチ(ハラワタモチと呼ぶ婦人もいる)が良くて腹痛を起こさない予防の意味があるという。

また、この日は観音さんの誕生日だともいって「それを祝うのでは・・・」と声を揃えて話す。

(H23. 7. 9 EOS40D撮影)

矢部六月観音講

2011年07月19日 07時19分40秒 | 田原本町へ
毎月の観音講の営みをされている講中は8人。

お一人だけはお若いがほとんどの人は80歳代だ。

その方はお姑さんが引退されたので参加しているという。

久しぶりに揃って、かつてあんじゅさんが住んでいたとされる観音堂でお勤めをされる。

いつものように安楽寺から住職がやってきた。

近くではあるが不自由な身体だけに電動アシスト付き自転車でやってきてお堂に上がられた。

彼岸のときは寒いからと堂の扉を閉めていたがこの月は暑いからと風が吹きこむようにそれを開けてお勤めをする。

座椅子に座る講中の婦人たち。

導師となってお念仏を唱える住職は赤い座布団に座る。

鉦や磬(キン)、それに木魚を叩く音が堂内に広がった。



それを済ませると導師は座の位置を変えた。

今度は弘法大師の前である。

同じようにお念仏を唱えてさらに毘沙門堂へと移る。

そこでもお念仏を唱える。

狭いお堂だけに3人ぐらいしか入れないから中間の間や観音堂に座って念仏を唱える観音講の婦人たち。

こうして「身体堅固 ゆーずーねんぶつ なむあみだー なむあいだぶっー」と三度のお念仏をおよそ一時間でお勤めを終えた。

来年の3月末には久しぶりに「五重伝法」が営まれる安楽寺。70数名もの法要申込が入ったそうだ。

昭和46年、平成2年以来の実施だというから、ほぼ20年ぶりの法要である。

生きているうちに墓に入る。

それは再生を意味することで、不幸の源を断ち健康と幸福を得るという。

現生ではその功徳が延命長寿、来世で往生できるという庶民信仰の修行なのであろう。

それは数日間も勤めるもので、逆修作法が儀礼化された擬死再生の儀礼で<五重・融通正>伝法(融通念仏宗)や五重相伝(浄土宗)、帰敬式(浄土真宗)、結縁灌頂(真言宗)などの呼び名がある。

住職はその五重伝法を二十歳のころから勤められてきた。

それは3回目となる伝法となり、ありがたいことだと話される。

住職が戻られたあとはいつものようによもやま話に花が咲く。

講中のうち3軒は畑で干瓢作りをされている。

タネオトシをして7月末ぐらいには干瓢ができあがる。

小学校3年生のときぐらいから皮剥きをしていたと話すUさん。

実家の天理市吉田でも作っているそうだ。

Yさんは米蔵の保冷庫から2年前に収穫したカンピョウを持ってこられた。

天日干しを繰り返して作ったカンピョウは新聞紙で包んでいたから色褪せてはいない美しい姿だった。

そのYさんの実家は桜井市の穴師。

兵主神社があるところだ。

9月1日は風日待ちのコモリがあって結んだカンピョウを供えていたという。

ミカン畑を買い上げてくれてその地にはスモウの館を建てたそうだ。

そのカンピョウを干している景観を求めて多や嘉幡に出かけたことがある。

矢部や吉田にもあることを知ったが大和郡山では見かけない。

来月にはそれがあるかどうか調査対象地域を広げねばならない。

(H23. 6.18 EOS40D撮影)

伊与戸の行事

2011年05月31日 08時23分52秒 | 田原本町へ
伊勢講もあった伊与戸の年度初めは2月。

かつてはニの正月の1日だったのであろうか集落の新年初集会が公民館で行われる。

現在は第一日曜になっており東、西、中垣内の住民が集まってくる。

アマテラスの掛け図を床の間に掲げてオソナエをする。

それは先が円錐の山型にしたダイコンとニンジンにコーヤドーフ。

それを竹串に挿しているというから土台があるのだろう。

ただ飾るだけでは・・と、今年からは拝むようにしたという。

かつては総代の家が勤めていたらしい。

アマテラスの掛け図があるといえばおそらく日待ち籠りであろう。

会計報告などがされる初集会の様相は民俗行事としてとても興味がある。

隣の神社は八幡神社。

その角に大神宮と石灯籠がある。

7月16日には笹を立てるようだ。

その行事はゴーシンサンと呼んでいる。

田原本町ではその名で呼ぶ地域が多いが他所ではダイジングウサンとかダイジグサンと呼ばれている。

まさに大神宮さんだ。

これらの灯籠はお伊勢参りの出発点。

そこで拝んでから伊勢路を向かった。

その様相は現代ではみられないが祭りごとは存在する。

神社と公民館の間には地蔵さんがある。

ここでは地蔵盆の際に大師講のお勤めをされた尼講が念仏を唱えるそうだ。

その公民館は今でも「オドウ」と呼んでいる。

大師講に出向く際には家人に「ドウ」へ行ってくるといってでかける。

「ドウ」はおそらく「堂」であろう。

それを示すものはないがお堂であったようだ。

神社の神宮寺であったかもしれない。

その前にある建物は昔に使っていた米蔵。

農協に貸していたが使用することがなくなり戻ってきた。

(H23. 4.21 EOS40D撮影)

花まつりの伊与戸大師講

2011年05月30日 06時45分50秒 | 田原本町へ
田原本町の村屋神社の北側にある地区が伊与戸(いよど)。

40数軒の集落のうち5軒のI家が神社の綱掛けを担っていた。

農家の営みはモチワラを作ることもなくなり1軒ずつ脱退していった。

小人数ではそれを作ることもできなくなり、その行事を止めざるをえなくなった。

40年ほども前のことだと1軒のI家の奥さんは話される。

昭和59年発刊の「田原本町の年中行事」にはそのころの綱掛け講の様相を写真で残されていることからその後もしばらくは続いていたのであろう。

そんな話をする8人の尼講たち。

毎月21日には昭和61年に改築された公民館に集まって大師講を営んでいる。

この日は花まつりでもある。

かつてはお釈迦さまの誕生日であった4月8日だった。

いつしかそれは大師講の日にまとめてするようになった。

小さな花御堂の屋根の上には奇麗なお花を飾っている。

大和川辺りで採ってきたタンポポに花や栽培しているマーガレットなどの花を添えた。

御堂の内には産ぶ湯に浸かる釈迦像。

「天上天下唯我独尊」と言った姿だ。

木製の桶は年代物だがそれを示す記録はみられない。

湯がそのまま浸かるにはもったいないからと地区に住む人がピッタリはまる金属製の桶を作ってくれた。

湯は甘茶。



参拝する人に飲んでもらう湯でもある。

原材料はアマチャ。

小さな花をつけるアジサイのようだというからアマチャアジサイかもしれない。

以前は自宅などにあったアマチャヅルだった。

たくさんあったが、それは随分前のことで先代のおばあちゃんたちが作っていたので製法はわからないという。

現在は薬局で買ったアマチャを使っている。

お菓子や果物を供えて参拝者を待つ間に始まった大師講のお勤め。

まずは百万偏数珠繰りで法要をする。



本尊や弘法大師像の前にある祭壇にはローソクを点している。

なんまいだー、なんまいだーを繰り返す唱和とともに月当番の導師が叩く鉦の音。

大きな数珠玉がくるたびにそれを上にあげて拝む。

一回回るたびに算盤の珠のような数取りで回数を数えていく。

それがなくなればようやく終わり。

なんまいだと手を合わせて終えた。

大師講のお勤めはそれだけではない。

鉦を叩いて唱える香偈、木魚を叩いて開経偈(かいじょうげ)。

佛説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)、一枚起請文(いちまいきしょうぶん)、発願文、別回向文などなど。

最後は拍子木を打って般若心経で締められた。

お年をめしたわりには声が大きくリズムも早い。

「唱えるお念仏は腹式呼吸をしているから力強く発声できるのです」と話されるおよそ40分間、延々とお念仏を唱えられた。

浄土宗の五重相伝(伝法)を授かった人で組織されている尼講たちはすこぶる元気がいい。

伊与戸の集落はかつて(室町時代とも)三輪さんに向かう門前町だった。

東西には行き交う人が多かったと先代から聞いている。

面影は見られないが街道は商店街のようでコンニャク屋、アブラ屋、トーフ屋、ワタ屋、ゲタ屋、ス屋、ローソク屋、サケ屋、スミ・マキ屋、ショーユ屋、センベイ屋、アメ屋、アンマ屋、カジ屋、サンパツ屋などなど。

今でもその屋号でその家を呼ぶらしい。

(H23. 4.21 EOS40D撮影)

かつては天道花を立てていた伊与戸のおつきようか

2011年05月18日 07時59分08秒 | 田原本町へ
村屋神社から100メートルほどの北に鎮座する伊与戸(いよど)の八幡神社。

ひっそりと佇む。

その隣が公民館だ。

不定期だがそこで毎月お勤めをされている大師講の婦人たち。

10人ほどだそうだ。

かつては4月8日にその場で花まつりが行われていた。

昭和59年に発刊された田原本町の年中行事でそれが紹介されている。

おつきようか(5月8日)とも呼ばれていた日だった。

どうやらその日は天道花(てんとばな)を庭に立てていたようだ。

数メートルもある長い竹竿の先には山に咲くツツジの枝葉を葉を天頂に括りつけ、1足の草履を入れた竹カゴをぶら下げていた。

そのカゴには何か良いモノをが入る、或いは3本足のカエルが入ると言われていたようだ。

天理市の二階堂辺りでもその風習があったそうだ。

その写真が掲載されている年中行事の本。

川上村高原や都祁藺生などで聞き取った春の季節の古い風習の姿は県内から消えてしまったが記録映像として残されている。

花御堂の屋根に春の草花を飾って誕生仏であるお釈迦様さまに甘茶をかけて営む灌仏会。

一般的には花まつりと称されている。

それはいつしか日程が変わったようだ。

大師講の婦人の話では付近の田んぼなどから集めたタンポポを屋根に飾っているという。

以前は近くの幼稚園児にも来てもらっていたが何かあったら責任がとれんということで志のある地区の人の参拝を待つことにしたそうだ。

今年は21日にお勤めされる大師講の日に合わせたという。

午前中は花まつり。

昼に会食を食べてからは数珠繰りしてお念仏を唱える。

3月には涅槃の掛け図を掛けてお勤めをしたようだ。

(H23. 4. 8 SB932SH撮影)

矢部彼岸の観音講

2011年04月25日 08時40分22秒 | 田原本町へ
田原本町矢部の杵都岐神社境内地の北側にあるのは明治7年に廃寺となった観音寺を継承する観音堂。

江戸時代には「大和国三十三ケ所霊場9番札所」だった。

そこで毎月お勤めをされている観音講の婦人たち。

以前は12人も居たが今は9人。

それが始まる前に当番の人が花を飾る。

本尊の十一面観世音菩薩立像や弘法大師、隣棟の毘沙門天にも花を添えている。

自宅などで綺麗なお花をは当番の人だけでなく講の人も持ち寄ることがある。

観音講の営みといえば19日だが老人といっても忙しい身。

集まりやすい第三土曜に決めている。

毎月のお勤めには地区内の安楽寺の住職が法要をされる。

狭いお堂に上がられた。

講の人たちは70歳から80歳。

参加したのは5年前、10年前とさまざま。

80歳で定年したいけど若い人が入ってこないのでそれはと・・・みんなから声がでる。

それよりも60歳になったら入るという規約がいいんではという意見もでる。

今後のことを心配そうに話される。

いつの時代か判らないがそうとう古い写真が残っている。

そこには18人もの顔ぶれ。

お堂の姿は変わらないが講の顔ぶれは時代とともに減っていった。

当時は大勢の人がお堂に入っていたのだろう、そんな話しを笑顔で語る観音講の人たちは座椅子に座って導師が唱えるお念仏に合わせてお勤めをしだした。

鉦や磬(キン)、それに木魚を叩く音が堂内に広がった。

それを済ませると導師は位置を変えた。

今度は弘法大師の前に座った。

同じようにお念仏を唱える。

矢部はほとんどのお家(70軒)が融通念仏宗徒だ。

お寺も大念仏寺。

10月12日には地区を如来さんが駆けめぐる。

それはともかく三度のお念仏。

さらに奥まった棟の毘沙門堂に座席を移した。

さすがに狭いから3人ぐらいしか入れない。

外からの日差しは明るい。

線香の煙が光線になって斜光する。

「身体堅固 ゆーずーねんぶつ なむあみだー なむあいだぶっー」。

およそ一時間のお勤めを終えた。

当番の人が差し出すお茶。

この光景は毎月変わらないが、春と秋のお彼岸にはご詠歌が加わる。

住職が帰られたあとはご婦人たちだけになった。



本尊前の祭壇にはお彼岸につきものの「彼岸だんご」を供えた。

だんごと呼ばれるが中身は店屋で注文したおはぎだ。

昔は家でおはぎを作って食べていたという婦人も居る。

「では始めましょうか」と当番の人が挨拶されて導師の席に着いた。

一番、二番と唱えるのが西国三十三ヵ所のご詠歌。

観音講の主題曲だ。

長丁場なので二十三番辺りで小休止。

お茶をすすって一息つく。

それからまもなく後半のご詠歌。

番外の曲も含めて一時間ぐらい。

「ただ たのめ ほのほが きえて たちまちに いけとなるちは ふかくちかよる」。

最後は矢部のご詠歌で締めくくられた。

一人の婦人が言った。

剪定していたとき梯子から落ちた。

怪我は少々だったが命はあった。

もう一人の婦人も言った。

介護宅配をしているバイクが盗まれた。

警察官の努力もあって翌日には戻ってきた。

これは毎月観音さんに拝んでいるご利益だと話す。

なお、本尊前に置かれていた大きな丸い石は村のジンクロウさんが信心して祀っていたものをここに移したそうだ。

昭和40年代のことらしい。

意味はまったく判らないと講の人が話す。

(H23. 3.19 EOS40D撮影)

東味間の御供つき

2011年01月14日 07時53分56秒 | 田原本町へ
田原本町の味間は六つの垣内がある。

東、西、南、北、中北、中南の六垣内。

なぜか東垣内だけは年中行事が多くあるという。

特に愛宕さんや地蔵盆、大神宮の行事がある7月、8月が忙しい。

それぞれには回り当番の宿(やど)とその両隣が協力しあって行事を支えている。

22軒であるから22年に一度の計算になるがそれぞれの行事の当番が互いに右回りと左回りにも回ってくるので重なるときもあるそうだ。

かつては宿(やど)の家に集まって会食をよばれていた。

それを解消するかのように昭和62年に公民館を建てたが葬式は3年ほど前まで自宅でしていたそうだ。

通夜、本葬、後かたづけもある3日間。

つきあいもたいへんやからと葬儀会場に移っていった。

この日の行事は「御供つき」。

一ヶ月ほど前に辻の掲示板に案内していた集合場所は公民館だった。

机を並べた席につく。

自治会長と宿(やど)のご主人は上席に座る。

挨拶を済ませて会計報告。

そうこうしているうちに神職が到着した。

由緒ある多坐弥志理都比古神社の宮司だ。

一同が揃えば御供をもって祭典場に向かう。

その場に小さな祠がある。

味間の須賀神社の分霊を祀っているという。

愛宕さん、庚申さん、天正年間に造られたとされる地蔵さんに大神宮まであるその場は神聖な地なのであろう。



そこを縦に横切るのは古来の幹道である中ツ道。

近世からは田原本町蔵堂から横大路までを橘街道と呼んでいた街道である。

古代には多くの人々が往来していたのであろうが今ではさまざまな車が往来する生活や輸送の道。

次々と通り抜ける。

そんな喧噪さも関係なく神事が始められた。

お供えはモチ2個のパックが数多く見られる。

神饌には味間の名物である大和野菜の味間芋もある。

一尾の丸サバなど、海の幸、里の幸、山の幸が神前に供えられる。

その横にはにごり酒もある。

この様相によればおそらく新穀感謝祭なのであろう。

修祓、祝詞奏上、玉串奉奠など厳かに行われた。

かつての「御供つき」は宿がたいへんだったという。

集まった垣内の人たちはそれぞれの役割で支度をしたそうだ。

切り身のサバは焼き魚。

どんぶりいっぱいの粕汁。

味間芋にダイコン、ニンジン、コンニャクを入れて炊いた。

それがごちそうだった。

この日は年末の決算日。

その昔、食糧飢饉の時代もあった。

実った稲は刈り取って、脱穀は宿の家でしていた。

稲藁は押し切りして細かくした。

来年も豊作になりますようにとそれを味間の田んぼに撒いた。

宿ではモチ米を杵と臼で搗いた。

婦人たちは料理をこしらえた。

今だから話せるがどぶろくも作っていたという。

それは遠い昔のこと。

いつしか簡略化されていって行事の名称が「御供つき」となって残った。

稲刈りを済ませて今年の豊作に感謝する。

それはモチにした。

畑の野菜は粕汁になった。

新穀で採れた新米酒はにごり酒。

あえて言うなら粕汁も酒だ。

これだけのものが揃えば新穀に感謝する新嘗祭だったのであろう。



公民館に戻って席に着けば宿(やど)がにごり酒を注いでいく。

宿(やど)の挨拶と乾杯の音頭で今年の収穫を祝った。

(H22.12.19 EOS40D撮影)