マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

箸中・車谷垣内K家の閏年の庚申塔婆

2018年09月19日 11時19分47秒 | 桜井市へ
箸中の地蔵盆はほぼ垣内単位でされている。

隣村の芝もある。

祭りごとには法要どころか数珠繰りも見られない。

ただ、坦々という感じで村人それぞれがやってきては手を合わせるだけである。

垣内によってはそれもせずに地蔵さんの前に座るなり、立つなりしておしゃべりの所もある。

ここ車谷垣内に地蔵盆をしていると知ったのは前年の平成28年のことだ。

地蔵盆のことは別途に伝えておくが、珍しいのは地蔵盆の日に右の庚申さんに「青面金剛」の文字を書いた提灯をぶら下げることだ。

地蔵盆には庚申講の人は現れない。

ずいぶんと昔に解散されたようだが、提灯を吊るしてお供えもする。

地蔵盆の際に庚申さんにも提灯を立てていた桜井市箸中の車谷垣内。

東西を貫く街道筋に40戸の集落。

かつて三輪素麺の原料である小麦を水車でコトコト米ツキならぬ麦ツキをしていた垣内。

今では小さな小川のようになっているが、各戸の家の前を流れる谷川に水車を構築していた。

収穫した小麦を大量に挽いて小麦粉化する水車が多くあったことから「車谷」の名になったという名称事例である。

垣内名の由来を話ししてくださる村人は多い。

なかでも旧家母屋に居を構えるお家の門屋に見慣れた塔婆が残されていた。

庚申講は解散されたが、旧暦閏年の庚申トアゲの塔婆がある。

母屋のご主人の許可を得て撮らせてもらった塔婆に願文がある。

上から五文字の梵字に続いて「奉修 青面金剛童子 天下和順日月清明風雨以時災厲不起國豊民安兵戈無用崇徳興仁務修禮譲 庚申講中功徳成就」であるが、年号は見当たらなかった。

これもまた、庚申講の記念碑である。

(H29. 8. 1 EOS40D撮影)

箸中・車谷垣内の地蔵盆

2018年09月13日 08時29分38秒 | 桜井市へ
桜井市箸中の車谷垣内に地蔵盆があると知ったのは前年の平成28年7月24日だ。

大字箸中の地蔵盆はここで紹介する車谷垣内の他、下垣内に中垣内がある。

しかも中垣内には南垣内もあれば川垣内、上垣内の分かれ垣内もある。

垣内によっては23日、24日の両日もあれば、24日だけに限っている場合がある。

車谷垣内は後者になる。

東西を貫く街道筋に40戸の集落が建ち並ぶ車谷垣内。

かつては三輪素麺の原料である小麦を水車でコトコト米ツキならぬ麦ツキをしていた垣内。

今では小さな小川のようになっているが、各戸の家の前を流れる谷川に水車を構築していた。

収穫した小麦を大量に挽いて小麦粉化する水車が多くあったことから「車谷」の名になったという。

この水車は玩具である。

装置していた場は現在の主街道ではなく、元々あった里道(里道)に流れる水路にしていた。

水路とは反対側に建ち並ぶ民家裏手にある川はせせらぎ。



ずっと下っていけば国津神社前に着く。

地蔵盆の日であるが、右にある庚申さんに「青面金剛」の文字を書いた提灯をぶら下げた。

地蔵盆には庚申講の人は現れない。

ずいぶんと昔に解散されているのだが、提灯だけが今もこうして吊っている。



毎日の夕刻に廻り当番がやってくる。

当番を示す道具に蝋燭、線香、マッチに賽銭収納箱がある。

それを持って地蔵尊や庚申さんに大神宮の石塔に燈明をあげる。

それが当番の在り方である。

4月に尋ねた婦人はいつも番が廻ってくるたびに線香鉢を掃除していると話していた。

線香の残り灰が鉢に溜まる。

溜まれば線香を立てるのが難しくなる。

そうであれば、毎回清掃している。

かたや、ある婦人は家で栽培している花を飾る。

地蔵尊に赤い涎掛けがある。

その涎掛けを洗う人もいるという。

心優しい人たちで守られている地蔵さんは年に一度の祭りがある。



御供は当番の人が先に供えていた。

日暮れはまだまだ時間はあるが、何人かがやってきて地蔵さん、庚申さんに手を合わせる。

垣内の上から、下からやってくる。

皆は歩いてやってくる。



独りでくる人もおれば声をかけた隣同士で連れ合ってやってくるのは高齢のご婦人たちだ。

若いお母さんは子どもの手を引いてやってくる。

孫さんも連れてくる家族もおられる。

来る人、来る人に了解を得て撮らせてもらう。



乳母車に乗せた赤ちゃんもやってくる。

一挙に膨れ上がった地蔵盆の参拝者。

これほど大勢の人がやってくるとは・・・。



高齢者、若い夫婦、子供に幼児。

ここでも交わされる言葉は「あんた大きゅうなったね」だ。

参拝を済ませたら、会所に寄り合って、持ってきた家の料理をよばれる。

女性ばかりの会所に男性は居辛い。



それにしても今年の会所に提灯が見られない。

昨年に訪れたときは6個も吊っていた。

そのことを当番さんに伝えたら、そうでしたか、である。



昨年の平成28年7月24日に撮影していた会所の提灯である。

今年はこれがまったくなかった。

会食を終えた子どもたちは楽しみにしていた金魚すくいがお待ちかね。

お弁当を食べて時間を持て余す子どもたちは、会所の外で地蔵さんの記念写真。

ではなく、自撮りである。地蔵さんは被写体になっていない。



微笑ましい子どもたちの様相がとても素敵で思わずシャッターを押した映像は、もちろん地蔵さんを入れて、である。



垣内の地蔵盆の〆は金魚すくい。

小さな子どもから小学生の子どもに混じって大人の女性も参加する金魚すくいに盛り上がる。



初めて体験する幼児も上位の子どもがすくう仕草を真似して、一匹すくえたーと喜ぶ顔が膨らんだ。

名人の誕生に一歩近づいた金魚すくい。



すくった金魚はナイロン袋に入れて持ち帰る。

すくった金魚は川に流さず、予め用意していた水槽に入れて見るのも楽しみの一つ。

水温に注意しておけば長生きするだろう。



こうして夏の始めの地蔵盆を楽しんだ村の人たちは家路についた。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)

芝・北ノ町のダンジングサン

2018年09月01日 09時47分41秒 | 桜井市へ
大字箸中で行われたノグチ行事を拝見していた。

その次に訪れたのは箸中の中垣内にあるという転がし地蔵石仏

所在地を確認した次はどこに行けば民俗に遭遇するのか。

車が向かった先は箸中の隣村になる桜井市の大字芝である。

昨年の7月24日は箸中それぞれの垣内ごとに地蔵盆があるとわかった地蔵さん巡り。

行事場の確認にぐるりと巡っていた。

その一角に隣村の大字芝に地蔵盆をしていることがわかった。

すぐ近くの和菓子屋さんの北橋清月堂の通りはかつての古道。

その名も上ツ道と呼ばれた古代の幹道である。

やがて時代を経て長谷寺詣でに通る上街道の名で呼ばれる古道である。

大字芝で拝見した仕掛り中の地蔵盆は芝の人たちの行事である。

街道を隔てた東側に大神宮の石塔が建っていた。

この日は7月16日。

たぶんにダンジングサンの行事をしている可能性がある。

そう判断して車を走らせたら、数人の人たちが集まって行事の準備をしていた。

午後4時に提灯を調えて笹竹を立てる。

大神宮の石塔には御供も揃えておく。

それから1時間後には拝むだけやという神事が執り行われる。

そう話してくださった北ノ町の人たちに急遽お願いした行事取材である。



かつて岩田村と呼ばれていた桜井市芝は、北垣内、中、南、西の垣内の他、寺垣内があるようだ。

当番の組は垣内の廻り。

4年に一度の廻り当番の垣内組が御供などを持ち寄って祭事を行う。

7月24日の地蔵盆も同じように廻りの当番班があたる。

実は遭遇する数時間前にも芝に来ていた。

ダンジングサンの様相を確かめに来ていたのだ。

箸中のノグチ行事を拝見してから中垣内の転がし地蔵の場の確認。

それから食事を摂りに橿原市のまほろばキッチンに向きを替えて戻ってきた。

その行程に一軒の家を訪ねていた。

そのお家におられた男性は箸中のノグチを遠目で拝見していたという。

見終わって自宅に戻って涼んでいたところに私がやってきたということだが、お家でお会いするのが初めてだったAさん。

ダイジングサンをする班でないからこの日の行事は参加しないというが、ほぼほぼの時間帯を教えてもらっての再訪である。

提灯を調えていた当番の人たち。

その提灯を立てる提灯棒に「大神宮提燈棒 平成11年7月吉日 第14班寄贈」とあったから現状は班分けのようだ。

この年の代表は9班のNさん。

とても元気な70歳は単車に乗って、連絡ごとなどで忙しく駆け廻っている。

行事を始めるまでの時間を過ごす当番の人たちが佇む大神宮の石塔は、風化はしているものの自然石でできているという。

周囲を見渡してみたが、年代を示す刻印は見られなかったが、「畑 奉納 杉本熊次郎」の名を刻んでいた。

一般的に大神宮の石塔はいわゆる常夜燈型。

ローソクを灯せるように火袋はあるが、ここ芝の大神宮は珍しい自然石そのものの形態。

火袋なぞはない。



木箱に古き時代を示す墨書があった。

「明治三十三年七月吉日 新調 大神宮 北 町内安全」とあるから北垣内の所有物。

今から118年前に新調された御供箱に損傷は見られない。

大切に引き継がれたと伺える木箱である。

ダンジングサン(大神宮)に祭壇を組んで御供を並べた。

御供餅も昆布もお頭付きの干しイワシもすべて袋入り。

行事を終えて垣内に配られる御供であるが、清潔さを保つために袋詰めしていた。

次の壇は袋入りのお菓子を。

その下はペットボトル茶に大きなカボチャ。



最下段も朝取野菜がどっさり並べた。

最近流行りのムラサキシシトウにシシトウ、ゴーヤ、ピーマン、キュウリ、2種のトマト。

艶があるから美味しそうに見える。



そろそろみなが集まってきたから始めよう、と一同が揃ったところで拝礼した。

予定の時間よりも早くに始まった拝礼はローソクを灯してから・・・。



2礼、2拍手に1礼をして終わった。

参拝を済ませた一同は場を移す。

西日の日差しを避けた場は樹木の陰。

涼しく風が通り抜ける場に囲むように座った。



乾杯の合図にお神酒をいただく。

仕出し屋料理店に頼んだ料理を囲んでダイジングサン行事の直会。

大人に混じって子どもも参加している直会だった。



30年ほど前までは家で作ったおにぎりにおかずを詰めた重箱持参の直会。

みんなそうしていたという直会は「籠りの弁当喰い」だった、と話していた。

ちなみにこの日に参列していたご婦人が橿原市の十市郷の行事を話してくれた。

行事の一つに愛宕さんがあった。

掛軸があって変なものがあった。

子どものころのことやからはっきりと覚えていないが、お日待ちもあったという。

お日待ちの籠りの夜は食べあかしていたというから、おそらく北八木町では、と思った。

平成22月の8月24日に取材した八木町の住民がそう云っていたことを思い出した。

婦人が子どものときの記憶の変なものは、おそらく特殊な形で作る御供であろう。

(H29. 7.16 EOS40D撮影)

箸中・中垣内の転がし地蔵石仏

2018年08月31日 09時25分44秒 | 桜井市へ
桜井市箸中の垣内は3垣内。

下垣内に中垣内、車谷垣内の3垣内であるが、さらに分割された垣内分けもある。

特に、中垣内は南垣内、川垣内、上垣内の分かれ垣内もあるから実にややこしい。

前年に訪れた際に知り得た中垣内のコンピラサンの夏祭りがある。

行事日はその日であろうと判断して再訪したが、垣内の人は来そうにもないような雰囲気だった。

待ち続けて1時間。

軽トラでやってきた男性に聞けば、盛大な行事ではなく、提灯を吊るす、笹を立てて花を飾る。

前日はすぐ近くの慶雲寺住職が法要される。

参列者は4年に一度の廻りの中垣内当番組の数軒だけだという。

86歳になるその男性が云うにはコンピラサンから歩いてすぐ。

川向うの集落内に地蔵さんがある。

コモリと呼ぶマツリをしていると話していた。

その地蔵さんを「転がし地蔵さん」と呼んでいる。

話しから想定するに分離できる丸い石仏のようである。

土台から降ろした場で石仏を転がしていたからそう呼ぶようになったのかわからないが、コモリの場にゴザを敷いて自前の弁当を食べていたという。

話しの展開から思うに、随分と昔の様相にように思えたが、転がし地蔵さんに興味をもった。

8月24日にしていると男性が話していたので出かけてみたが、誰一人現われなかった。

近くに住んでいる男性を訪ねたら、「そうだっか、おかしいなぁ。」と返答する。

しばらくしたら奥さんが畑から戻って来られた。

同様に今日と聞いていた地蔵さんのマツリは・・。

「7月やったと思う」だ。

映像は7月16日に撮ったもの。

枯れる寸前のお花が残っていることから、少なくとも信仰する人がおられるということだ。

(H29. 7.16 EOS40D撮影)

箸中のノグチ

2018年08月28日 09時44分34秒 | 桜井市へ
平成19年以来、久しぶりに拝見する桜井市箸中のノグチ(野口)行事である。

三輪山麓北西部の桜井市箸中で毎年の夏に行われるノグチ(野口)であるが、対象年齢に達した男子がなければ行われない。

対象年齢は数えの17歳。

今では満年齢で数える16歳の高校1年生が対象になる。

平成6年は6人もいたが、年々が少子化。

その後の年は3人。

平成19年に取材したときも3人。

以降、対象者なしの年(平成21年、22年、23年、24年、25年、28年)もときどきあったものだが、2人のときもある。

箸中に誕生する子どもの人数は常に一定でない。

現状、このまま誕生しない年が続くようにでもなれば、と危惧した村は、対象の子どもがいなくとも、延々と継承してきたノグチ(野口)の民俗文化を潰えることなく、後世に伝えるべく自治会役員が継承していくことにしたという。

この日は朝一番の作業に神社前の竹林から青竹を伐り出していた。

子どもがたくさんいた時代は、子どもたちの手によってジャやツノメシを作って、「ノグチ(野口)」の神前に供えていた。

徐々に少子化に移ったころは、作り手の子どもも減少するなどで、親御さんが手伝うようになった。



平成17年に拝見したときは3人。

うち年長の子どもがいる家がヤド(当家)を務めていた。

ノグチ(野口)を行う日は暑い盛りの土用の丑の日であったが、近年は学校が休みの日になる日曜日若しくは土曜日。

場合によっては関係者の都合状況によって予定した日を替えることもある。

平成27年は対象の男子が2人もいると教えてくださった雑賀耕三郎さん。

熱いガイドをするカリスマ的存在の奈良まほろばソムリエの会の理事である。

箸中のS区長と交流がある関係で対象の男子がいるとわかってFBに伝えていた。

ありがたい情報に「7月26日日曜朝9時ころ、8年ぶりに出かけてみようと思います」と連絡したが、叶わぬ夢で終わった。

その年の7月10日に突如の如く発病した僧帽弁逸脱による弁膜異常によって入院、手術

退院したのは8月15日だった。

それから2年後の平成29年。

前年の平成28年の対象者はなかったが、今年は1人で実施されると再び教えてもらって訪れた桜井市の大字箸中である。

平成17年当時の取材である。そのときにお世話になった前区長のMさんが、箸中の昔を村の人が記録した史料があると見せてくださった。

箸中の氏神さんを祀る国津神社。

神社の年中行事(元旦の拝賀式・祈年祭・風鎮祭・秋祭り・新嘗祭・桧原祭)、講の行事(二日正言講、正言講、初午祭、九日講、祭當夜、)に続いて書かれていたのが、村で一体となって行われる行事の「野口の儀式」であった。

他にも亥の子、昔の風日待、十四日の大とんど、十五日朝の小豆粥、灌漑用貯池の箸中大池の魚の取勝ち(四ツ手網・たま・投網・うぐひ・ごっかり・さで)、溜池(※井寺池)の築造、百度石及び百燈明、昔の雨乞い祈願、箸中区の風水害、その他大地震災害、娯楽行事、神籠り、階差、変わった行事、箸中の偉人である杉本徳蔵、的場兵吉(小字宮ノ前)に大正時代のいろは歌留多まで書いてあった。

縦書き便せんにびっしり文字を埋めた史料はおよそ100頁にもなる。

当時の箸中の文化・歴史を記した史料は重要な文献。

現在は見ることのない、麦集めなど当時の様相がありありと浮かぶ事例は、後世に伝えたく抜粋した「野口の儀式」を下記に一部補足した上で書き写して遺しておく。

「我が箸中村には昔より野口の儀式があり、何故この様な、仕来りが出来たか分からない。恐らく、五穀豊作、害蟲の被害が無き様に、亦、一方では十七才となり、一人前の大人になる元服式であろうと思ふ。明治、大正、昭和の初期に行われた野口祭を述べて見よう」と、前書きである。

「野口祭は、半夏生、十日目の休みから始まる。休とは稲苗植付後、荒櫂(※あらくじとルビを振っていたが、あらがいであろう)、二度櫂も終って次にならし(※均し)にかかる。中間の時期の時に休みと休みの仕直しと二日間、農家は仕事を休む。この日に當年十七才になった男子の持つ親が一堂に集り、當家を規める。或る可くならば中垣内の長男で広い家屋を定める」。

「この日當年十七才になった男子達は法螺貝を吹き鳴らしながら、小麦一升宛、村内各戸より集める。この小麦を四斗俵に詰めて、この俵謄(※担)ぎの力だめしをする。そうしてこの小麦を製粉業者に賣り、其の代金を以って白米に買替する。」

「そして土用の丑の日に村人一軒より角(ツノ)の飯と飛魚一匹を供えた。當家の家へもらひに来る。この角の飯を食せば、夏の疫病にかからないと申傳えて居る」。

「土用丑の日、朝から十七才の男子は村から集めた小麦藁にて、ジャジャ馬の様なもの(これは害虫にしつらへたもの)を造る。そして半紙に牛や唐鋤の絵を書き、これも持参す」。

「先登(※先頭)に法螺貝を吹鳴し、角の飯、御酒、塩、洗米等続いて、害虫に。しつら(※え)た小麦藁のジャジャ馬を葉付の青竹に通して、牛や唐鋤の絵も共に、一行は神域山の麓にある野口の神様の神前に御供へをして、大人の仲間入りと、村内の五穀豊穣、息災円満を祈禱する。其の後、青竹だけ持って一丁余り上方の井寺池へ水浴に行き、そして池底の深き所に大岩ありて、一同は水中深くもぐり、この岩に持って来た。青竹を突き立る。これは何の意味をするか分からない。(古人に聞く、これは水の神様に祈願・・)。私の判断では、立派に成長した身体。そうして水中深くもぐる忍耐を示した行事と思ふ。これで野口祭の行事は終る」。

「太平洋戦争が始められて、村内より小麦を集めることや角の飯の強御飯(※こわごはん)の配布は休止となったが、だが、其の外の行事は毎年毎年昔通りに取り行わて居る」と文を締めていた。

この日の行事を紹介してくださった雑賀さんに頭を下げるとともにS区長も挨拶する。

S区長とは平成26年2月4日に取材した二月初午祭以来のご無沙汰である。

取材した後に初午に揚げる幟のすべてを新規に入れ替えたという。

話しを切りだしたのは御供のハタアメである。

例年、近くの饅頭屋に頼んでいたが、今年は入手できなかった。

ちなみにここ箸中は大神神社に関係する。

箸中も隣村の芝も檜原神社の氏子。

8月28日に行われる檜原祭に出仕される神職は大神神社の禰宜さん。

また、大神神社の崇敬会でもあることから成願稲荷神社で行われる初午祭のハタアメのことも存じておられた。

箸中は二月の初午。

三輪は三月の初午。

二月の初午にハタアメが手に入らなかったので、大神神社に出向いて見せてもらったハタアメの形に愕然としたそうだ。

長年に亘って箸中で見てきたハタアメと形が違う。

大きな違いは竹の太さである。

その太さを見て不細工だと思ったそうだ。

確かに私もそう思う太さ。

それは長年に亘って製造供給してきた事業者が撤退したことによる。

なんとか三輪の初午にハタアメをと、特別に大神神社の依頼で製造した事業者の手によるものであった。

元々のハタアメそのものを見ていないからそっくり同じものはできるはずがない。

その件についてはブログに書き遺したので興味のある方は、是非・・。

本日の話題であるノグチに戻ろう。

ノグチの行事名称である。

平成21年3月に奈良県教育委員会が発刊した『奈良県の祭り・行事』での記載名称は箸中の「ノグチサン」である。

同じく奈良県教育委員会が昭和61年に発刊した『奈良県文化財調査報告書第49集 大和の野神行事(下)』も箸中の「ノグチサン」である。

箸中の「野口ったん」と記載していたのは著者の栢木喜一氏が平成8年に桜井市が発刊した『桜井風土記』である。

辻本好孝氏が昭和19年に発刊した『和州祭禮記』もまた箸中の「野口たん」である。

前述した箸中の住民が記した史料では「野口」の儀式である。

箸中の「野口たん」は「野口」をさん付けしたものである。

粥を「おかい(粥)さん」と呼ぶのも、いなり寿司を「おいなりさん」と呼ぶのも、芋を「おいもさん」と呼ぶのも、普段食べているものに親しみを込めているからだ。

ではなぜに「野口たん」なのか。

村の長老は「野口たん」をこう呼んだ。

「のぐっつぁん」である。

「たん」でなく「つぁん」である。

「つぁん」は「さん」呼びから、云いやすいように訛ったものだろう。

つまりは「おとうさん」を「おとっつぁん」と呼ぶようなものだ。

私の名は「田中」であるが、初めて勤めた工場の先輩たちは「田中はん」と呼んでいた。

これもまた「さん」が訛ったものである。

「はん」、「たん」、「つぁん」も本来は「さん」が転じた呼称。

落語の「はっつぁん、クマさん」である。

ちなみに「たん」で思い出したのが、例えば野菜の「炊いたん」である。

今月の7月10日に箸中中垣内で行われたコンピラサンの後片付けをしていた86歳のKさんは、史料記載と同じ「野口」と呼んでいた。

「さん」も「たん」も付けない「野口」であった。

前置きが長くなってしまったこの日のノグチ行事。

當家を務めるのも中垣内のK家。

16歳の次男さんが務め。

作業場は国津神社の社務所。



鉢巻を〆て手伝っている男子は19歳の長男さん。

3年前の16歳のときも務めた當家である。

兄は経験者だったから手伝いができる。

母親は角(ツノ)の飯を作っていた。

やや柔らかめに炊いたご飯を五号舛に詰めて押し寿司のように作る。

角の飯と呼ばれるが四隅の角(ツノ)らしきものはない。

これを二つ作って一升飯とする。

史料にあった麦集めの量は一升である。

かつては小麦を村各戸から集めていた。

『大和の野神行事(下)』によれば、ノグチ行事の朝は家ごとに、2把の小麦藁をカドグチに立てて集めやすい環境にしていたようだ。

ヤド家を務める當家の前庭に広げてジャを作っていた。

集めた小麦は地元の麦麺屋に売り、代金を行事費用に替えて、購入した米で強飯(こわめし)にしていた。

強飯は、一般的に餅米を蒸して作ったおこわ(御強)と呼ぶが、粳米を単に蒸して作ったご飯もまたおこわである。

一方、その横で牛の絵馬を描いていたのは次男さん。

今年の當家である。



今どきの農耕に牛を見ることはない。

牛の姿を描くにしても難しい時代は下絵の鉛筆デッサンに沿って黒い線を引いているように思える。



黒のサインペンで塗りつぶす塗り絵。

もう一枚は唐鋤などの農具。

鍬も描いていた。

その横では母親ができあがった角(ツノ)の飯御供を並べていた。



手前左に一尾のサシサバがある。

開きの干しサバでサシサバと云えば、サシサバをもう一尾の頭に挿しこんだ二尾を生き御魂に供えるお盆の習俗を思い起こすが、この場での紹介は省く。

ただ、当時の史料によれば、かつてはトビウオの干し魚であった。

国津神社の境内の一角。

敷き詰めたブルーシートの上で作業をしていた。

大方、ジャを作っていたのは自治会の役員さん。

當家を務める家の祖父も昔取った杵柄をもってジャ作りを支援していた。

翌年のノグチに対象者はいない。

いなくともノグチ行事をする。

そのためにも役員たちが村の文化財を継承する。

そういうことに決めたそうだ。



大方できたところに作り方を伝える役員さん。

今日の経験を発揮するのは何十年後になるのだろうか。

ジャの原材料は小麦藁。

束にした小麦藁を繋いでいくように作っていく。

束と束のつなぎ目は48カ所。

その繋ぎ部分が結び目になる。

以前はそうしていたが、今はベースになる曲げた青竹を先に作る。

細く割った青竹を丸くする。

数本重ねて外れないように結び目をとる。

どうやらその結び目が藁束の結び目になるようだ。

丸い輪にした小麦藁のジャ。

史料によれば、当時はジャジャ馬(※以降、現在呼称のジャと表記する)と呼んでいた。

結び目は輪の外側に突き出たような形に。

これを足という。

その数は48本。

輪の両方に突き出た数が12本ずつ。

合計で48本の足は、昔も今もかわらない。

なぜに48本と聞けばヤスデと返す。

ヤスデの足は48本。

つまりはムカデであるというが、実際、ジャに足は何本あるのだろうか。

できあがったジャ(若しくは円形に組んだムカデ)はすべての葉を落とした青竹に括って外れないように仕掛ける。



国津神社の拝殿屋根に立てかける。

その下には祭壇に供えた神饌御供。



調整した角の飯に背開きのサシサバ。

表面を上にして供えていたので中身の具合が見えない。

サシサバであれば盆の風習にイキガミさん(生き御魂)に供える干し魚。

背開きした内側に塩をたっぷり塗り込んで数日間漬ける。

何日間も天日干しをすれば日焼けして焦げ茶色に変質する。

この日の取材を終えてから気づいたものだから、未確認のサシサバであるが、前年に取材をされた雑賀耕三郎さんがアップされたブログ写真である。

アップしていたサバの映像は焦げ茶色。

一尾であるが刺し鯖(※二尾の鯖を頭から突っ込むように挿すから刺し鯖)に違いない。

山添村で売っていたサシサバは食べたことがある。

一口食べて、とても塩辛かった味は今でも覚えているが、ここ箸中で夏の盆に供える、或いは食べる習慣はあったのだろうか。

史料によればサシサバはかつて飛魚であったと書いてあった。

実は鯖でなく飛魚の事例もときおり聞くので間違いないと思うが、尤も昔のことだからよほどの高齢者でないとその体験はないだろう。

ちなみにサシサバ風習はなにも奈良だけに限ったものではない。

江戸時代、盆の贈り物だったサシサバ

奈良県では飛魚を贈ったという事例も少なくない。

箸中は飛魚からサシサバに移った。

その移りは山添村で刺し鯖を売る店主も同じように昔は鯖でなく飛魚だったと話していたことを思い出した。

味覚の需要がたぶんに替わったのであろう。



神饌御供を並べたら氏神さんに向かって拝礼する。

元々はヤドを務める當家宅でしていた。

準備も直会の場も含めて、昭和53、4年のころに国津神社の社務所に移した。

そういうことがあって氏神さんに拝む形式に移したのである。

カンジョと呼ばれる地に野口の神さんがある。

そこへ出向く前に仕掛ける練習。



最近になって復活した法螺貝吹きである。

親父さんが息子に伝える法螺貝吹き。

ちょっとした練習で吹いたら鳴動した。

向こうに居る祖父も喜んでいるように見える。

吹く口が壊れたためにしばらくの期間は法螺貝を吹くことはなかったが、最近になって修理されたようだ。



吹けた、と笑顔の當家。

鳴動は明るく高らかに鳴る。

出発前に本日の記念写真。

なんせ取材陣のカメラマンが私も入れて5人。

村の人が所有するデジカメを預かってシャッターを押していた。

どの写真も笑顔が満開になったところで出発だ。



法螺貝を手にしているのは當家の次男。

この日のノグチ行事の主役である。

円形に組んだ大きなジャは青竹に括られている。

長いものだけに重さもある。

担ぐのは2年前にノグチ行事を担った長男。

兄弟二人が並んで出発する。

後方に牛と農具を描いた絵馬を持つ父親が就く。

母親はサカキ。

神饌・御供を分担してもったのは自治会役員に當家の祖父だ。



當家は覚えたての法螺貝を吹いて先頭を行く。

国津神社を出発して村の公道を東に向かう。

しばらくすれば纒向川を対岸に渡って里道を行く。



縦一列に並んだ一行は地区の人たちが畑栽培している畑道をも行く。

平成19年のときは里道を行かずに、ずっと公道を歩いていた。

車谷垣内の出合辺りにある橋を渡っていたことを覚えている。

近年は里道を行くようになったが、元々の行程はどちらであったのだろうか。

この時期は草が生い茂る。



写真にすれば、それが逆に緑一面が広がる景観を生む。

少し歩くだけでも汗が流れる高温の日。



例年、土用丑の日のころは気温が高い。

南北を走る村の公道を渡ってさらに東進する。

そこら辺りからは勾配がややきつくなる。

知人ら写真家は一行の先頭より撮りたいものだが、私の足は動きが悪い。

脈が異常に高くなるが病んでいる身体では足の回転も上らない。

恰好の被写体撮りに私が邪魔をしているのが申しわけない。

到着した地は溜池の井寺池。



ここから眺める景観に大和盆地が広がる。

平成19年のノグチ行事は先にカンジョに参っていた。

昭和60年に調査した『奈良県文化財調査報告書第49集 大和の野神行事(下)―奈良県教育委員会刊―』報告によれば、カンジョに行って供えてから、再びジャや御供を抱えて井寺池に行く行程であった。

また、平成6年の行事調査記録を掲載していた『桜井風土記』も同じ行程であることから、最近になって行く順を替えたと思われるが、ここに一枚の史料がある。

記事はミニコミ誌のようだが確認はとれない。



出典はどこなのか不明であるが、その記事中に「オーサカキング」開催を伝える記事であった。

「オーサカキング」の開催期間は平成16年から平成20年まで。

記事は平成19年に拝見した。

行事の実施日は7月18日(月)とある。

その日、曜日になる年は平成17年。

記事の内容はそれ以前の在り方である。

実施年はわからないが、文中にある行程によれば、出発してから「途中、井寺池へ寄り水門口に青竹を立てる。塚に着いて礼拝が済むと、会所に戻る・・云々」であった。

一時的にそうしたと思われる行程の記録である。



青竹に括り付けたままの形のジャを池内に立てる。

かつては池の中央にある樋まで泳いでいって立てていたが、現在は池堤の水門口辺りに立てる。



それから一旦引き上げて、ジャを操って、池水を飲ませるような恰好をつける。

長い青竹を抱えてジャを水面に漬ける。



まるで泳がせているような感じであった。

儀式が終ればジャを引きあげる。

一旦、堤に引き上げてから青竹は池に。

ジャは池堤のフエンスに立てかけて祭る。



神饌御供などを並べて、一同揃って拝礼する。

これもまた平成19年のときは見られなかった祭り方であるが、以前は當家ら対象年齢の男子だっただけに簡略されていたのかもしれない。

今年の祈念に井寺池の御供並びを一枚。



當家の男子が道中ずっと吹いてきた法螺貝も並べた。

右手に立てた青竹の葉が見えるだろうか。

拝礼を済ませたら今度はカンジョに向かう。

池堤から下ってきた一行を迎える二人。

一人は男子の祖父である。



長老は登り切れなかったようで、木陰に身を寄せて待っていた。

井寺池より下った地にあるカンジョが野口の神さん。



一角に大樹が植わっている地は私有地。

大樹は通称アオキと呼ばれている常緑小高木のハイノキ(灰の木)であるが、『桜井風土記』の記述ではセンダン(栴檀)の大木であった。

センダンであれば6月に咲く淡紫色五弁の花や葉の姿ですぐわかる。

この日に拝見した大木に花(白い花らしい)はなかったが、葉の形から推定してもセンダンでないように思える。

ただ、この大木の右手に植生する樹の葉がセンダンにとても似ている。

もしかとすれば見誤っている可能性もある。

ジャを大樹から突き出る太い分かれの枝に吊るすような形式で架けた。



大樹の下に神饌御供を並べて、一同は揃って拝礼。

村の五穀豊穣や息災円満を祈願して終えた。

昔はこの祭礼を終えてから井寺池に行った。

中央の樋に青竹を立てるには水浴を伴う。

史料に書いてあったような池底の大岩に潜ることもないが、こうして16歳の若者の行事は無事に終えた。

これより社務所に戻って直会をはじめる。

注文していた膳を囲んで両親ともども若者を祝う直会である。

道端で待っていた長老らが17歳だったころのノグチ行事。

直会の場で酒を飲んでいた。

ノグチ行事は大人入りの儀式でもあった。

水中深く潜るのも大人入りの儀式であったろう。

長老らが体験したときのヤド家は當家。

座敷で料理膳をよばれて酒を飲む。

家で夜遅くまで飲んでいてベロベロに酔っていたにも関わらず、勢いで長谷寺詣りに出かけた。

周りの人から「今日からはオトナやど」と云われたそうだ。

直会ではないが、この日の當家の母親の話しによれば、嫁さんを貰った家が主催の食事でイロゴハンの摂待があったそうだ。

およそ20年前まではしていたという箸中の嫁入り接待であろう。

ところでカンジョ場である。



その地を雑賀耕三郎さんは「神上」であると話していた。

「神上」は小字名であろう、と思って奈良女子大が製作した小字データベースに、その小字名があるのか探してみた。

確かに小字「神上」はあった。

あるにはあったが、なんとなくおかしい地。

ジャ(若しくはムカデ)を供えたその地とは場所が違う。

小字データベースでの「神上」は纒向川のすぐ傍なのだ。

そこから下に視線を下ろせば、あれぇ、である。

細い道の先にあったその小字名は「神木」。

まさにノガミの木が植わる地である。

「神木」の読みは「かみき」なのか、それとも「しんぼく」であるのか、わからないが、その小字神木がカンジョ場であった。

調べた小字データベース地図をキャプチャ化したので公開しておくが、私の知る範囲の勧請綱掛けは川切りである。



現在の小字名にある「神上」は纒向川のすぐそばの南の地である。

名残が小字名にあると推定とするならば、そこがカンジョウの地であろう。

昭和14年調査の『和州祭礼記』に野神祭・神縄祭と記しているらしいカンジョである。

もう一つ、気にかかる点がある。

『大和の野神行事(下)』の記述に「『奈良県磯城郡誌』(大正四年刊)第9章町村“織田村箸中”の項に“神上古墳 官有芝地にして四、五十年前迄は老杉一樹あり、八王子塚にある大杉と相対して大綱を掛くるの旧式あり、其神上の称あるは貴人を埋葬せる上なるに困り、又其綱を掛くるはこれを潰ささらんが爲なりと言ふ”。“八王子古墳 面積六歩、芝地にして神上古墳と相対し、蓋し八王神の転訛ならん”とあり、神上古墳の神上は箸中字神上(かんじょう)に因むものと考えられる。八王子古墳の位置は現在不明である」とある。

気になる神上古墳である。

参照したのは、桜井市教育委員会が平成27年3月に発刊した『茅原大墓古墳発掘調査報告書』である。

その記事中に「神上塚古墳」の所在地が記されている。その地は小字「神上」でもなく、「神木」でもないJR桜井線の東際。

踏切より北にすぐの地は国津神社より西側である。

一般的に小字名を古墳名とする場合があるのだが、ノグチのカンジョ場と“神上”の関係性がわからなくなってきた。

ブログ・ちょっと寄り道第2回「箸中のノグチサン」がある。

箸中のノグチに関して多くの人がネットで紹介しているのか探してみた。

ほとんどは問題のない記述で安心したが、これはとんでもないと思ったブログがある。

ご本人は懸命に調べたのであろうと思うが、誤りというか、何十年も衰退して消滅した事項まで揚げている。

このブログに27人もの読者がついているが、その過ちに気がつくことはないだろう。

一つは下永のキョウの日程である。

第三日曜とあるが第一である。

二つ目の箸中のノグチは現在日曜日辺りに移っている。

三つ目はとんでもない。

安堵町を安堵村。

岡崎のウシマワリは戦前に途絶えている。

四つ目に大和郡山市上三橋を上三条と書いてある。

奈良市の三条添川の転記ミスであろうと考えられるが、上三橋は10年以上も前に中断した。

このブログ人の情報は足で稼いでいるのか、それとも史料だけに頼っているのか・・・知らないが、発信情報にえー加減さは受信した人たちに誤った認識を植え付けてしまう危険性があることに気がつかないのだろうか。

(H29. 7.16 EOS40D撮影)

箸中・中垣内のコンピラサンの夏祭り

2018年08月25日 09時41分42秒 | 桜井市へ
桜井市の箸中にコンピラサンの行事があると知ったのは前年の平成28年の7月10日だった。

午後の5時半には、祭りの飾りのなにもかもが消えて、砂盛りだけが残っていた。

近くにおられた方の話しによれば、正式な講中の名は判らないが「コンピラサン」の講だと云う。

7月9日、10日の二日間はコンピラサンの夏祭りをしていると云っていた。

コンピラサンの行事はどのような形式でされているのか知りたくて再訪した。

訪れる時間帯は午後5時半より前。

1時間半前の午後4時ころであれば、どなたかが参っているだろうと想定して自宅を出た。

到着した時間はジャスト午後4時。

「金毘羅大権現」の刻印がある石塔の前に花を立てていた。

前年に訪れた際である。

たまたま通りがかった午後1時の時間帯と同じように花を立てていた。



いずれも人影はない状態に被写体を撮っていた。

何らかの動きがあるのはこれからであろうと思うが、何時になるのかまったくわかっていないから、この場で立ちん坊状態である。

この金毘羅大権現すぐ傍に建つお家がある。

所在地に、であればコンピラサン行事について何らかのことをご存じと思われたので呼び鈴を押した。

屋内から出てこられたNさんに尋ねた結果は、父親の後を継いでいるが、詳しいことはわからないという。

それからも待つこと十数分。

走って来た軽トラが金毘羅大権現の前に停まった。



何をするかといえば撤収の片付け作業である。

作業中にコンピラサンについて教えてもらった。

金毘羅大権現に葉付きの竹を立てて提灯を吊るす。

花を立てて慶雲寺の住職に法要をしてもらう中垣内のコンピラ講行事である。

4年に一度の廻り当番の組が設えるなど、すべてを仕掛ける。

中垣内を四つの組に分けている。

例えば北の組は中垣内の北といい、南の組は中垣内の南になるらしい。

北と南があれば、残りの組は東に西が想定されよう。

ところが後日に聞いた垣内は南垣内に川垣内、上垣内の分かれ垣内であるという。

実にややこしいと思った。

今年の当たり当番になったKさんは中垣内の住民。

今年、86歳になっても家で素麺作りをしているという。

その素麺作りをしている作業の様相を撮りたいといってきた写真家は二人。

藤田浩氏と塚原紘氏の二人。

当時、よほど気にいったのか、度々やってきては屋外作業を撮っていたそうだ。

ちなみに藤田浩氏の写真で紹介していたシリーズ本がある。

編集工房あゆみが1995年(平成7年)に発刊した『奈良花ごよみ遊歩シリーズ』である。

気にいったシリーズは5冊とも買ったことがある。

かつては箸中に素麺を製造する事業者は15軒もあった。

衰退の一方で現在は5軒になったという。

コンピラ講の当番は、毎日にローソクを灯す。

手提げの燈明箱の廻りがやってきたら交替する。

夏のコンピラサンに提灯を吊るすが、提灯を納めている缶ごと慶雲寺に預けている。

そういえば昨年に拝見した缶は、すぐ横にある土塀造りの車庫にあった。



缶に「金毘羅大権現 天照皇大神宮」と書いてあったことを思い出した。

この日の10日は後宴。

夕方になれば撤収する。

コンピラサンは前日の9日の両日が行事日。

9日の朝に設えて祭る。

提灯を吊るすのは夕刻に行われる法要のときである。

お供えをして慶雲寺住職の法要がある。

昨日は夕方に大雨が降る予報が出たので、急遽、昼間に繰り上げて、3軒が集まったらしい。

法要が終わったら、いつなんどきに雨が降ってもいいように提灯は引き上げて缶に納めたという。

かつてはコンピラサンの日は、そこに架かる橋の上で弁当を食べていたそうだ。

中垣内に伊勢講があった。

現在は解散しているが、歩いてお伊勢さんに参っていたという。

帰りは長谷まで迎えにいっていたという伊勢講。

どれぐらい前のことであろうか、話しはどうも釈然としない。

伊勢講は衣装を着て遷宮に出かけた。

行先は元伊勢の檜原神社といえば、地元三輪になる。

実は檜原神社で行われる箸中の行事を取材したことがある。

一つは8月28日に行われる檜原祭である。

箸中も隣村の芝も檜原神社の氏子。

郷中行事に参列する。

もう一つは神道主分講と仏教系講の敬神講の合同祭事として行われる正言祭である。

(H29. 7.10 EOS40D撮影)
(H28. 7.10 EOS40D撮影)

吉隠・結鎮祭の弓矢とごーさん

2018年03月16日 08時54分50秒 | 桜井市へ
桜井市吉隠(よなばり)の閏庚申は行われているのか、それとも・・。

されておれば以前に拝見したときと違っているはずだ。

以前という日は平成26年の2月7日に訪れた日である。

数軒の集落が建つ所から細い道を下っていけば薬師如来を祭る極楽寺に着く。

極楽寺はかつて長谷寺の真言宗末寺である。

記憶ではその極楽寺左側に庚申さんがあるはず。

あるにはあったが、平成26年2月と同じ状態の竹製のゴクダイ(御供台)とハナタテ(花立)の残欠だった。

違が見られたのは地蔵石仏と思われるところにローソクがあるのと、シキビに供えた花が枯れたものだった。

旧暦閏年の行事をしているなら、今年である。

時期はまだ早かったのかもしれない。

そう思っていたが、数か月後の7月2日もまったく変化がなかった。

その後の9月1日も同じ状態であったことから中断されたように思えた。

極楽寺を離れて数軒の家がならぶ地に戻る。

車を動かしてからすぐ。

車窓から見えた弓矢である。

玄関軒に掲げていた弓矢があるということは行事がある、ということだ。

そのまま見過ごしてしまいたくはない。

話しは伺ってみないと気が済まない。

そう思って尋ねたお家はH家。

玄関からお声をかけたら奥から婦人が出てきてくださった。



施餓鬼の札もあれば、実いっぱいつけた稲穂も垂らしているお家に飾っていた弓矢は、この年の正月三ガ日過ぎの1月第一日曜日にしていた春日神社行事でたばってきた、という。

本来は1月3日であったが、集まりやすい第一日曜日に替えた。

春日神社を祀る家はこのお家以外に4軒ある。

他の垣内と区別している(西谷の奥に建つ)特定家5軒の営みでしているそうだ。

その正月行事は昭和36年に発刊された『桜井市文化厳書』に書いてあった「宮座の結鎮祭」のようである。

平成26年の2月11日

同市の大字和田の祭礼に出仕されていた桑山俊英宮司はここ吉隠も兼務社である。

先代は馬に跨ってここまでやってきたと聞いている。

厳書および宮司から聞いている話しでは、朝早くに集まった5軒が神饌などを調製するらしい。

その一つがこの日拝見した弓矢である。

その他にも松苗や春日神社のごーさん札もあるという。

神饌調整が終われば神事を始める。

ススンボの矢を梅の木の弓で射るケイチン所作がある。

その次がオンダ祭。

籾撒きに松苗植えをする。

これらの所作すべてを桑山宮司がなされる。

神事を終えたら座のヨバレになるらしい。

この年に当家がトウヤを務めたことからたばった弓矢をこうして飾っているという。



たばったものはもうひとつあると室内から持ち出してくれた。

それこそ春日神社のごーさん札を挟んだ藁束であった。

これには打った矢に松苗も括りつけていた。

ご厚意で撮らせてもらった吉隠の祭具である。

この祭具は、生前におばあさんが苗代に立てていたそうだ。

時代は移り変わって苗代はすることもない。

今ではJAの苗を購入しているから苗代は作らなくなった。

そういうことで今は、屋内で保管していたと話してくださった。

大字吉隠には二つの神社がある。

一つはこの日に参拝した龍ガ尻に鎮座する春日神社

『桜井市文化厳書』によれば祭神は天児屋根命、天太玉命、武甕槌命、比賣大神。

例祭は10月9日で、新嘗祭は11月26日。

祈年祭が2月11日で、ここに春日石と呼ばれる岩があるそうだ。

もう一つの神社は東谷垣内に鎮座する天満神社で菅原道真公を祭る。

例祭、新嘗祭、祈年祭とも同一日である。

ありがたく写真を撮らせてもらったご婦人。

施餓鬼の話しついでに教えてくださった出里の様相である。

その地は曽爾村の山粕。

お寺行事の施餓鬼に祈祷札があって、それは白菜の種蒔のときに立てていたという。

施餓鬼のお札は苗代ではなく白菜の種撒きに立てると知ったのは初めてだ。

土地によってこういうこともあるのだと思った豊作の願いは一度拝見したいものだが、今でもしているのかどうか・・。

ちなみに山粕には二つの寺がある。

一つは融通念仏宗の念仏寺で、もう一つは真宗大谷派の専光寺である。

ところで施餓鬼の旗をお盆のときに畑に立てると聞いたことがある。

接骨鍼灸院の仕事に通院する患者さんを送迎していたときに聞いた話である。

山梨県の甲府で生まれ育った当時80歳いくつかの高齢者が話したお盆の在り方である。

「甲府では施餓鬼の幡を地蔵盆で参った人がダイコンの葉が虫にくわれんようにと畑に立てる。甲府といっても静岡寄りやから幡を立てているのでは・・」と話していたことを思い出した。

さて、春日神社はどこに鎮座しているのだろうか。

あそこの辻を右手奥にずっと行けばわかると教えられて軽バンで登っていった。

林道は狭い。

今にも落ちそうな崖際々を登っていく。



駐車場どころか回転する場もないぐらいの所にあった。

鳥居を潜って参拝する。



辺りを見渡せば屋根の下に保護された石仏があった。

紛れもない庚申さんであるが、旧暦閏年を示す祭具はなかった。

ここが春日神社。

宮座の結鎮祭の日程は替わることも考えられる。

今年の師走月には決まっているだろうと、車を走らせた晦日の吉隠。

再訪した婦人が云った言葉に、絶句した。

(H29. 4.14 EOS40D撮影)

小夫・旧暦閏年庚申行事の民俗探訪

2018年03月08日 09時28分54秒 | 桜井市へ
よりさらに東へ行く。

桜井市山間部に修理枝もあるが、場所も存知している小夫に向かう。

目的地手前の処で鍬を担ぐ男性が歩いていた。

お顔は遠目でもわかった区長さんだ。

今年は6月が大の月であるが、豊作を祈願するので、だいたいが4月初めの日曜日にしているそうだ。

各講の行事は10時にしているが、それより先に仕立てておかなくてはならない塔婆書きにハナタテ(花立)・ゴクダイ(御供台)の調整。

朝8時にそれぞれの組の講中が集まって作っていたという。

区長が知るある村では実施年を間違ったらしい。

本来なら旧暦閏年でなければならないのに昨年を閏年と思い込んでしたそうだ。

小夫の庚申講は上垣内、桑垣内、東垣内に馬場垣内。

それぞれに組があって、それぞれの塔婆に願文を書いているが、文言はすべて一致しないという。

塔婆は葉付きの杉の木である。

また、今年が最後になる馬場垣内もある。

願文の違いなども記録しておきたいと伝えたら3カ所あるという。

うち1カ所は以前にお会いしたときに聞いているからすぐわかる。

もう1カ所は公民館の裏側を登ったところにあるというから上垣内の旧寺。

もう1カ所はここより東の山を登ったところの墓地付近にあるという。

夕方が迫ってくる時間帯。

急がねばならない願文探し。

先に出かけた場は新道ができたときに覆い屋を建てたと云う場所である。

ここは馬場垣内と東垣内の庚申さん。

庚申さんであるが大石は天正十一年(1583)作の2体の阿弥陀六字名号碑。

左に塔婆はなく右にあった1本。

願文は「奉供養南無青面金剛童子天下泰平日月清明風雨和順五穀成就講中家内安全祈塔礼成 平成二十九年四月二日」。

なぜか、梵字は四文字であった。

花立にシキビ、菊の花などのイロバナを飾っていたが、左はシキビ一品である。

先を四つに割って四方を竹で戻らないようにしているのはゴクダイ(御供台)であるが、御供がどういうものであったのか聞きそびれた。

なお、この場には火を点けていない2本のローソクもあったことを付記しておく。

ここよりもう1カ所は旧寺。

そこへ向かったがなかった。

そこではなく勘違いしていたのでUターンする。

現在の公民館のすぐ西側にある上垣内・桑垣内は地蔵石仏すぐ傍に並んで立っている六字名号碑は五体。

これもまた古く天正十一年(1583)の作であるが青面金剛でもなく庚申石でもない。

ゴクダイにシキビを飾ったハナタテは5本ずつあることから5組の講であろう。

それぞれに杉葉付きの塔婆もある。



右より順に願文を写し書きとる。

梵字は四文字。

願文は「□□□□□□□□□□□□青面金剛□□天王天下養□□□平穏風雨順時五穀豊熟講中 □□祈祭塔」である。

ほとんどの文字が判別できない。

漢字が漢字でないような文字ばかりである。

雨に打たれて消えかけの文字は難読。

異体字でもない、まったくわからない文字が数多くあった。

左横、2番目の塔婆文字に移る。

梵字は五文字。

願文は「奉納 青面金剛童子 日月清明風雨和順国土昇平家内安穏五穀豊穣福壽長久請緑吉祥」だった。

その次の3番目の梵字は四文字。

願文は「汎茶唄□伽□多賀奉納青面金剛帝襗天王天下泰平国家平穏風雨順時五穀豊熟講中 安全賢祈祭 桒組東庚申講中一同 平成二十九年四月二日」である。

4番目の梵字は七文字。

願文は「奉納 天下泰平 国家安穏聖壽無窮日月清明風雨和順国土昇平家内安全五穀豊熟福壽長久延命無病災障諸縁吉祥所願成就 平成弐拾九年四月二日 桑組庚申講中」である。

一番左端の5番目の梵字は五文字。

願文は「奉修 天下和順南無青面金剛童子日月晴晴明風雨以時災□不起兵名 無用豊国安民五穀豊穏村内安全講中円満祈祈願延々庚申講中 平成二十九年四月二日」であった。

以上、紹介したようにこれら5本の願文すべては一致しない。

それぞれの組によって若干の違いがみられるのである。

塔婆5本中に垣内名がある。漢字は「桒」もあれば「桑」も、であることから、ここは桑垣内に違いない。

また区長がここは上垣内と同じ場であると云っていたことから組名がないのが上垣内のような気がする。

なお、前回の閏庚申のトアゲに立てたと思われる数本の塔婆を横に寄せていた。

その一本の塔婆の願文が読める部分もあったので記録しておく。

願文は「・・・□□□多賀奉納青面金剛帝襗天王天下泰平国家平穏風雨順時五穀豊就庚申 安全賢祈 祭塔 ・・・」だった。

桑垣内・上垣内の場を離れて山の上の方にあるという庚申さんの地に向かう。

寺行事をいくつか取材した東垣内の秀円寺はあるが、そこには庚申さん或は六字名号碑もない。

もっと上の方だろう。

近くの畑におられた男性に尋ねたら、「あそこの辻を曲がって道なりにいけば着く」という。

その地は東垣内。

新道沿いの覆い屋にある手前はうちの東垣内の塔婆だと話してくれた。

これより目指す墓地付近にある所も東垣内。

場所柄から上の組と称しておく。

車のギヤをローにして登っていく坂道。



峠の手前にあった庚申さんはまさしく「庚申」の文字がある石塔だった。

他にも刻印があったが判読できない。

ここもゴクダイにシキビの花を飾ったハナタテもある。

塔婆はすぐ傍の処に立てていた。

梵字は五文字。

願文は「奉納 青面金剛童子所 祈日月晴風雨和順國土昇平家内安全五穀豊穣福奇諸縁吉祥 平成二十九年三月十七日」。

祭りの日は他所と違って3月17日であった。

17日は庚申の日でもなく彼岸の入りの日だった。

この組の講中はいつもそうしているのだろうか。

とにかく場所でもと思って滞在した小夫。夕方の5時は過ぎていた。

調べておきたかった桜井市の中谷、和田、吉隠、鹿路や宇陀市榛原の角柄、篠楽の旧極楽寺に菟田野平井(下平井)は後日の行ける範囲内としていたが、取材日を割り当てられなくて断念した。

(H29. 4. 9 EOS40D撮影)

笠・旧暦閏年庚申行事の民俗探訪

2018年03月07日 11時45分39秒 | 桜井市へ
県内各地に行われている旧暦閏年庚申行事を民俗探訪する。

天理市は平坦、山間地を含めて10カ所。

平坦の田原本町では7カ所。

同じく平坦部の橿原市は9カ所。

地区は同じでも講中の違いによって祭る場が異なるので、それも入れての箇所数である。

桜井市も平坦と山間部にあるが、とても多く、その数は44カ所にもおよぶ。

明日香村は11カ所。

隣村の高取町は1カ所。

宇陀市榛原は5カ所。

室生は4カ所。

大宇陀も4カ所。

遠く離れた吉野町に1カ所。

御杖村も1カ所。

私が実際に現地で見聞きした処もあれば、出典の津浦和久氏論文の「民俗社会の地域的差異について~庚申塔婆の形状とその分布~ 奈良県立同和問題関係史料センター 『研究紀要』(題16号)や『田原本町の年中行事』、『甲南民俗研究』、『八咫烏神社文書』、村井正次氏著の『消え去った幼い頃の故里』、『奈良、農と祭り』もある。

また、天理市海知町在住の総代の聞き取りもある。

これらの情報を整理して気づいたのは、忘れられた存在である。

知られていない、或は講中の存在も伝わらず石塔だけが残されているような事例もある。

この日に訪れた桜井市箸中車谷垣内の例もそうである。

事例地域をみる限りであるが、特定の地域に集中していることに気づく。

特定地域はどこまでの範囲であるか、また、塔婆などの形式はどのように分類されるのか。

これらを広く集めることによって伝播の手がかりになればと思っているが、旧暦閏年に実施されている地域の日程が固定されていないのが現実である。

旧暦はややこしくつい忘れがちになってしまうとか、旧暦本の見方がわからなくて日程が組めないという地域がある。

これらの地域は4年に一度のオリンピックがある年に定めている。

オリンピックがある年といえば新暦の閏年である。

旧暦は閏年の考え方とはまったく一致しない。

旧暦は月数で調整している。

しかも数年間の月数をもって調整している関係で定期的な年数間隔ではなく、間隔は2年、3年、3年、3年、2年、3年、3年・・・以下同間隔となる。

ただ、例年の月数は12カ月であるが、旧暦閏年は13カ月。

2回ある大の月と例年の小の月で調整しているのである。

今年の大の月は6月。

つまり5月が2回あるということだ。

前回の平成26年は9月が大の月。

その前の平成24年は3月。

基本的には大の月の期間中に閏庚申をするはずであるが、そうとも限らないのが現状である。

私の知る範囲であるが、だいたいが3月から4月の期間中。

しかも庚申の日を外す地域も増えつつある。

理由は平日であれば集まり難いということだ。

先週の4月2日に実施された宇陀市榛原柳と桜井市出雲は取材させてもらった。

その日は天理市藤井や長滝も同じ日にしていたのであろうと思うが・・・。

他の地区も調べておきたいと桜井市の山間部にやってきた。

つい先ほどまでの取材地は同市の箸中。

車谷垣内に「青面金剛」の石塔は存在していたが講中はずいぶんと前に解散されたのか話しを聞かせてもらった婦人は存知しないし、地区としても祭りごとはしていなかった。

そこより東に登っていけば笠に着く。

箸中の婦人に「こうしんさん」といえば笠の「荒神」さんと思ったようだが、それは庚申さんではない。

旧暦閏年に塔婆を揚げる大字笠の地区は存じている。

昨年の7月にテンノオイシキの祭りに草鞋をかけた地区である。

そこは千森垣内。

2組の講があると聞いている。

その場に向かって車を走らせたら、庚申石の祠の屋根に立てかけるようにあった。

太い竹で作ったハナタテ(花立)に花がある。

この日ではなく数日、それ以上の前に飾ったと思われる花の具合。

シキビに白と黄色の菊の花。

桃色は梅の花は桜だろうか。

塔婆の痕跡がないところをみればヤドを務めた人が持ち帰られたような気がする。

この場を離れて夕刻に関係者の一人に電話をしたら4月2日の午前中にしていたそうだ。

参拝を済ませてヤドの家で飲み食いしていたと話す。

笠にはもう一つの庚申講があるらしい。

そこでは3月26日にしていたというから日曜日。

4月もそうだが庚申の日ではなく日曜日にしていたようだ。

ちなみに千森の旧暦閏の庚申さんは尋ねたHさん曰く、呼び名は「トアゲ」であった。

(H29. 4. 9 EOS40D撮影)

箸中・車谷垣内の民俗行事に興味湧く

2018年03月06日 09時09分56秒 | 桜井市へ
平成28年7月24日に訪れて地蔵盆の在り方を見ていた桜井市の箸中。

下垣内、中垣内(さらに分かれた南垣内/川垣内)、車谷垣内の三垣内それぞれで行われていることがわかった。

なかでも気になっていたのが車谷垣内。

地蔵尊の祠もあれば右隣に青面金剛の刻印がある石塔もある。

青面金剛は庚申さん。

今年は旧暦閏年であるからもしかとすれば旧暦の年だけに塔婆を揚げる行事があるかも・・と思って出かけた。

場所はすぐにわかる。

ここら辺りは山の辺の道を歩くハイカーコースの一部。

この日も何組かの人たちが歩いていた。

地蔵尊の横、前には採れたての柑橘類を売っていたが、村の人の姿はない。

隣近所の数軒。呼び鈴を押してみても反応がない。

あったのは向かい側に建つお家。

婦人に話を聞けば地蔵尊まで連れてくれて話し出す。

車谷垣内は40戸。

組であろうか、街道筋の下と上からなる垣内のようだ。

奥さんが云うには毎日の夕刻に廻り当番がやってくる。

当番を示す道具にローソク、センコウ、マッチに賽銭収納箱。

夕刻ともなればそれを持って地蔵尊や庚申さんに大神宮の石塔に燈明をあげる。

それが当番の在り方であるが、婦人はいつも番が廻ってくるたびに線香鉢を掃除している。

立てた線香の残りが鉢に溜まる。

溜まれば線香を立てるのが難しくなる。

そうであればと判断されて毎回清掃しているという。

かたやある婦人は家で栽培している花を飾る。

地蔵尊に赤い涎掛けがある。

その涎掛けを洗う人もいるという。

心優しい人たちで守られている地蔵さんは年に一度の祭りごとをしている。

7月24日は竹を組んで提灯を吊る。

その年の7月までに赤ちゃんが誕生すれば名前を書いて寄進する提灯がずらり。

向かい側に建つ車谷公民館にも吊るす。

夕方ともなれば家で作った料理を詰めた重箱を持ち寄って地蔵さんに供える。

昔は若いお嫁さんが作っておばあちゃんが参拝していたそうだが、今は作った人が参って供えているそうだ。

供えた家の手料理は公民館で揃ってよばれているという。

地蔵盆の様相を話してくれた婦人が続けて話してくれた村の行事。

8月14日の午後である。

時間帯は夜でもなく、夕刻でもない昼間である。

夏の暑い盛りの14日。

日傘が必須の炎天下で数珠繰りをしていると云う。

時間ともなれば下のほうからカン、カン、カンと鉦の音が聞こえてくる。

聞こえてきたら垣内の上に出かける。

鉦打ちとともに下から運んできた長い数珠もやってくる。

上にある一軒の家の前で数珠を広げる。

そこでなんまいだ、なんまいだを繰り返して数珠を繰る。

大きな房がくれば頭を下げる。

数珠繰りの回数は2回。

それを済ませば次の家に移動してそこでも数珠繰りを2回。

一軒、一軒下って数珠繰りを家の前でする。

家の前は大字笠に向かう街道。

車の往来もままある。

背中を走っていくから注意しながら数珠繰りをしているという。

傘もささずに繰っていたら日に焼ける。

そうであるくらいの時間帯はやはり日傘がいる。

すっとくだって40軒。

集落全戸を巡って法要する数珠繰りはおそらく施餓鬼のようだと婦人は云う。

こんな在り方は初めて知った。

県内事例にあるのかどうかまったくわからない。

珍しい在り方にとても興味をもった車谷の行事は道造りや川掘りもある。

道造りは9月末辺りの日曜日。

川堀は5月初めの日曜日。

作業が終われば公民館でイロゴハンのよばれがある。

そういう車谷垣内の行事であるが、庚申さんや大神宮の行事はしていないようだ。

ただ、地蔵盆の日には「青面金剛」の文字がある提灯は吊るしていたこを付記しておく。

(H29. 4. 9 SB932SH撮影)