田原本町教育委員会が昭和59年3月に編集・発刊した『田原本町の年中行事』がある。
知人のYさんが推薦してくれた田原本町の民俗記録史。
それから35年も経過した現在。
平成時代も気がつけば30年間。
和暦も次世代に継がれようとしている現時点に少しでも足を運びたい地域の民俗調査。
葛城市當麻にある古民家ギャラリーら・しいで写真展を拝見して同じく葛城市の寺口で地蔵盆調査。
そこからの帰り道に選んだ田原本町の松本。
初めて立ち入る松本に調べたい7月16日の「ゴウシンサン」。
『田原本町の年中行事』によれば、「松本は、家の順に燈明の箱が毎日廻ってきたそのときは、夕刻になれば神社へ出向いて氏神さんに燈明を灯す。その際、太神宮の灯籠にも明かりを灯すことになっている。このような村は多い(※若干補正)」と、ある。
さて、神社はどこであるのか。
集落内に入ったところにあった神社は三ノ宮神社。
参拝してから探してみた太神宮塔が見つからない。
付近も探してみたが、見つからない。
見つかったのは「松本自治会」が平成24年に立てた「田原本町の村・町の歴史」案内板書。
詳しいことは省くが、地名の松本は、室町時代の初出する環濠集落である。
三ノ宮神社は、慶長年間(1596年間)以前、隣村のなる多(おう)村の皇子神命神社(三ノ宮神社)は、大洪水によって小字宮森に流れ着き以来、当村で祀るようになった。
西に曽我川、東の飛鳥川に挟まれた大字松本。
大洪水は曽我川、それとも飛鳥川のどちらとも記されていない板書。
ブログ「桃おやじの歴史散歩」によれば、飛鳥川畔に「松本浜」と呼ばれる船着き場があったと。
穀倉地帯であるが、水害も多かったことから、松の木を植えて水害から守った。
そこからきた地名松本(※元和五年(1619)から郡山藩領・慶長郷帳に“松元”あり)、とあった。
板書にある「松本浜」。
「大和川の舟運で飛鳥川の松本浜まで川舟が遡上し、通船問屋が置かれ、大和川を行き交う通用船が73艘あり、春には大坂から油かす、干鰯、塩、雑貨を。秋には米、木綿の他農産物も積みだして大坂に積みだしていた」とある。
周囲を見渡せば寺院もある。
カーブ道際に建つ浄土宗大慶寺にすぐ右横にある浄土真宗本願寺派の松本寺である。
松本寺の門前に「松本の石仏」碑が建つ。
「西に流れている曽我川が、決壊したときに松本の地に流れ着いた地蔵と伝わる。鎌倉末期の石仏である。大和の各地に伝わる流れ地蔵・・云々(※若干補正)」。
その碑文の右に整然と並べられた地蔵石仏群。
瓦屋根葺きの地蔵堂は昭和60年8月に建立された。
流れ地蔵のことが気になり、右隣に建つ民家に声をかけた。
屋内から出てこられた娘さんが教えてくださる流れ地蔵の地蔵盆。
松本寺は無住寺であるから通い僧侶が毎月に法会をされるそうだ。
葛城川の氾濫で流れてきた地蔵さんだから流れ地蔵と呼んでいる。
この年の地蔵盆は8月26日の日曜日。
午後2時ころにしていたような・・。
地蔵堂を建立されたのは、1組24軒で構成される地蔵組。
幕と涎掛けは毎年取り替えているからいつも新しい。
地蔵盆のときは、白い団子を作って串に挿して供えるそうだ。
通いの僧侶が法要し終えたら、その白い団子は配っているようだ、という。
また、三ノ宮神社に出仕される神職は多の多さん。
私も多さんとつい呼んでしまうが、多神社の多宮司である。
息子さんの禰宜さんも関連する神社行事でお会いしたことがある。
その三ノ宮神社で6月末辺りの日曜日午後2時ころにさなぶり行事をされているようだ、と教ええてくださった。
そういえば、6月末日の30日から近い日曜日に移す地区が増えていると聞いたことがある。
尤も30日であっても出仕する神社の数は多く、一人では廻りきれないから息子さんの禰宜さんと地区を分け合っていると云っていたことを思い出した。
「ゴウシンサン」行事のことは聞き取れなかったが、2件の村行事をされていることがわかって村を少し散策してみる。
すぐ近くに見つかった農用具。
一目でわかる唐箕である。
埃のない奇麗な唐箕が、扉のない小屋内に置いてあった。
持ち主を探してみたが、居宅さえわからなかったから次回訪問に尋ねてみたい逸品である。
(H30. 8.30 SB932SH撮影)
知人のYさんが推薦してくれた田原本町の民俗記録史。
それから35年も経過した現在。
平成時代も気がつけば30年間。
和暦も次世代に継がれようとしている現時点に少しでも足を運びたい地域の民俗調査。
葛城市當麻にある古民家ギャラリーら・しいで写真展を拝見して同じく葛城市の寺口で地蔵盆調査。
そこからの帰り道に選んだ田原本町の松本。
初めて立ち入る松本に調べたい7月16日の「ゴウシンサン」。
『田原本町の年中行事』によれば、「松本は、家の順に燈明の箱が毎日廻ってきたそのときは、夕刻になれば神社へ出向いて氏神さんに燈明を灯す。その際、太神宮の灯籠にも明かりを灯すことになっている。このような村は多い(※若干補正)」と、ある。
さて、神社はどこであるのか。
集落内に入ったところにあった神社は三ノ宮神社。
参拝してから探してみた太神宮塔が見つからない。
付近も探してみたが、見つからない。
見つかったのは「松本自治会」が平成24年に立てた「田原本町の村・町の歴史」案内板書。
詳しいことは省くが、地名の松本は、室町時代の初出する環濠集落である。
三ノ宮神社は、慶長年間(1596年間)以前、隣村のなる多(おう)村の皇子神命神社(三ノ宮神社)は、大洪水によって小字宮森に流れ着き以来、当村で祀るようになった。
西に曽我川、東の飛鳥川に挟まれた大字松本。
大洪水は曽我川、それとも飛鳥川のどちらとも記されていない板書。
ブログ「桃おやじの歴史散歩」によれば、飛鳥川畔に「松本浜」と呼ばれる船着き場があったと。
穀倉地帯であるが、水害も多かったことから、松の木を植えて水害から守った。
そこからきた地名松本(※元和五年(1619)から郡山藩領・慶長郷帳に“松元”あり)、とあった。
板書にある「松本浜」。
「大和川の舟運で飛鳥川の松本浜まで川舟が遡上し、通船問屋が置かれ、大和川を行き交う通用船が73艘あり、春には大坂から油かす、干鰯、塩、雑貨を。秋には米、木綿の他農産物も積みだして大坂に積みだしていた」とある。
周囲を見渡せば寺院もある。
カーブ道際に建つ浄土宗大慶寺にすぐ右横にある浄土真宗本願寺派の松本寺である。
松本寺の門前に「松本の石仏」碑が建つ。
「西に流れている曽我川が、決壊したときに松本の地に流れ着いた地蔵と伝わる。鎌倉末期の石仏である。大和の各地に伝わる流れ地蔵・・云々(※若干補正)」。
その碑文の右に整然と並べられた地蔵石仏群。
瓦屋根葺きの地蔵堂は昭和60年8月に建立された。
流れ地蔵のことが気になり、右隣に建つ民家に声をかけた。
屋内から出てこられた娘さんが教えてくださる流れ地蔵の地蔵盆。
松本寺は無住寺であるから通い僧侶が毎月に法会をされるそうだ。
葛城川の氾濫で流れてきた地蔵さんだから流れ地蔵と呼んでいる。
この年の地蔵盆は8月26日の日曜日。
午後2時ころにしていたような・・。
地蔵堂を建立されたのは、1組24軒で構成される地蔵組。
幕と涎掛けは毎年取り替えているからいつも新しい。
地蔵盆のときは、白い団子を作って串に挿して供えるそうだ。
通いの僧侶が法要し終えたら、その白い団子は配っているようだ、という。
また、三ノ宮神社に出仕される神職は多の多さん。
私も多さんとつい呼んでしまうが、多神社の多宮司である。
息子さんの禰宜さんも関連する神社行事でお会いしたことがある。
その三ノ宮神社で6月末辺りの日曜日午後2時ころにさなぶり行事をされているようだ、と教ええてくださった。
そういえば、6月末日の30日から近い日曜日に移す地区が増えていると聞いたことがある。
尤も30日であっても出仕する神社の数は多く、一人では廻りきれないから息子さんの禰宜さんと地区を分け合っていると云っていたことを思い出した。
「ゴウシンサン」行事のことは聞き取れなかったが、2件の村行事をされていることがわかって村を少し散策してみる。
すぐ近くに見つかった農用具。
一目でわかる唐箕である。
埃のない奇麗な唐箕が、扉のない小屋内に置いてあった。
持ち主を探してみたが、居宅さえわからなかったから次回訪問に尋ねてみたい逸品である。
(H30. 8.30 SB932SH撮影)