マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

田原本町・松本の民俗探訪

2020年02月19日 07時57分52秒 | 楽しみにしておこうっと
田原本町教育委員会が昭和59年3月に編集・発刊した『田原本町の年中行事』がある。

知人のYさんが推薦してくれた田原本町の民俗記録史。

それから35年も経過した現在。

平成時代も気がつけば30年間。

和暦も次世代に継がれようとしている現時点に少しでも足を運びたい地域の民俗調査。

葛城市當麻にある古民家ギャラリーら・しいで写真展を拝見して同じく葛城市の寺口で地蔵盆調査

そこからの帰り道に選んだ田原本町の松本。

初めて立ち入る松本に調べたい7月16日の「ゴウシンサン」。

『田原本町の年中行事』によれば、「松本は、家の順に燈明の箱が毎日廻ってきたそのときは、夕刻になれば神社へ出向いて氏神さんに燈明を灯す。その際、太神宮の灯籠にも明かりを灯すことになっている。このような村は多い(※若干補正)」と、ある。

さて、神社はどこであるのか。

集落内に入ったところにあった神社は三ノ宮神社。

参拝してから探してみた太神宮塔が見つからない。

付近も探してみたが、見つからない。

見つかったのは「松本自治会」が平成24年に立てた「田原本町の村・町の歴史」案内板書。

詳しいことは省くが、地名の松本は、室町時代の初出する環濠集落である。



三ノ宮神社は、慶長年間(1596年間)以前、隣村のなる多(おう)村の皇子神命神社(三ノ宮神社)は、大洪水によって小字宮森に流れ着き以来、当村で祀るようになった。

西に曽我川、東の飛鳥川に挟まれた大字松本。



大洪水は曽我川、それとも飛鳥川のどちらとも記されていない板書。

ブログ「桃おやじの歴史散歩」によれば、飛鳥川畔に「松本浜」と呼ばれる船着き場があったと。

穀倉地帯であるが、水害も多かったことから、松の木を植えて水害から守った。

そこからきた地名松本(※元和五年(1619)から郡山藩領・慶長郷帳に“松元”あり)、とあった。

板書にある「松本浜」。

「大和川の舟運で飛鳥川の松本浜まで川舟が遡上し、通船問屋が置かれ、大和川を行き交う通用船が73艘あり、春には大坂から油かす、干鰯、塩、雑貨を。秋には米、木綿の他農産物も積みだして大坂に積みだしていた」とある。

周囲を見渡せば寺院もある。



カーブ道際に建つ浄土宗大慶寺にすぐ右横にある浄土真宗本願寺派の松本寺である。



松本寺の門前に「松本の石仏」碑が建つ。

「西に流れている曽我川が、決壊したときに松本の地に流れ着いた地蔵と伝わる。鎌倉末期の石仏である。大和の各地に伝わる流れ地蔵・・云々(※若干補正)」。



その碑文の右に整然と並べられた地蔵石仏群。

瓦屋根葺きの地蔵堂は昭和60年8月に建立された。



流れ地蔵のことが気になり、右隣に建つ民家に声をかけた。

屋内から出てこられた娘さんが教えてくださる流れ地蔵の地蔵盆。

松本寺は無住寺であるから通い僧侶が毎月に法会をされるそうだ。

葛城川の氾濫で流れてきた地蔵さんだから流れ地蔵と呼んでいる。

この年の地蔵盆は8月26日の日曜日。

午後2時ころにしていたような・・。

地蔵堂を建立されたのは、1組24軒で構成される地蔵組。

幕と涎掛けは毎年取り替えているからいつも新しい。

地蔵盆のときは、白い団子を作って串に挿して供えるそうだ。

通いの僧侶が法要し終えたら、その白い団子は配っているようだ、という。

また、三ノ宮神社に出仕される神職は多の多さん。

私も多さんとつい呼んでしまうが、多神社の多宮司である。

息子さんの禰宜さんも関連する神社行事でお会いしたことがある。

その三ノ宮神社で6月末辺りの日曜日午後2時ころにさなぶり行事をされているようだ、と教ええてくださった。

そういえば、6月末日の30日から近い日曜日に移す地区が増えていると聞いたことがある。

尤も30日であっても出仕する神社の数は多く、一人では廻りきれないから息子さんの禰宜さんと地区を分け合っていると云っていたことを思い出した。

「ゴウシンサン」行事のことは聞き取れなかったが、2件の村行事をされていることがわかって村を少し散策してみる。

すぐ近くに見つかった農用具。



一目でわかる唐箕である。

埃のない奇麗な唐箕が、扉のない小屋内に置いてあった。

持ち主を探してみたが、居宅さえわからなかったから次回訪問に尋ねてみたい逸品である。

(H30. 8.30 SB932SH撮影)

葛城・寺口の民俗探訪

2020年02月18日 09時56分24秒 | 楽しみにしておこうっと
なにげに見ていたネット情報。

検索キワードが何だったのか、さっぱり思い出せないが・・・紹介していた映像でわかったそこがどこであるか、だ。

集落入口に佇む石仏地蔵尊。

藁製、それとも竹製であるのか判断できないが、地蔵さんを祭っているような造形に興味をもった。

その映像をあげていたブログは「ノンさんのテラピスト」がメインタイトル。

目が点になった記事タイトルは「葛城山麓・智恩寺の十一面観音を訪ねて 2012.8.4」とあるから訪問日は8月4日であろう。

近鉄新庄駅から徒歩。

柿本神社、影現寺、飯豊天皇埴口丘陵、屋敷山公園を経て辿りついた葛城市・寺口。

「集落の入口にある地蔵堂祠に茅の輪が置かれています。今日は8月4日でちょうど地蔵堂夏祭の準備のようです。端集落の10ケ所ほどに設置されているそうです」と書いてあった。

“地蔵堂祠に茅の輪”とは、不思議な状態。

あり得ないことでもないか、と思って、同じ日の8月4日に出かけたがったが生憎のこと。

数週間後の末日に訪れた寺口。



石型の祠に納められた地蔵石仏があったもののそれらしき状態はない。

“夏祭りの準備“とあるだけに、当日であろう。

ところがその気配はまったくない。

拝見していた時間帯は午後3時。

どなたもいないということは、祭りは午前中であったかもしれない。

念のためと思ってすぐ近くの畑で作業をされていた男性に声をかけたが、見たことも、聞いたこともない、という。

その祠の近くに住んでいる寺口・本郷の敬老者と思われる二人の男性にその奥さんも存じていないという。

ここでなく、寺口にはずっと下にも地蔵尊があるという。

その場を教えてもらった集落道を下る。



ここの地蔵尊は地蔵堂に納めている。

大きな地蔵堂に納められた地蔵関部物は3体。

信仰する人はどこにおられるのだろうか。

たいがいはすぐ傍に住む村の人。

訪ねていけば、付近に住む102歳の老婆が信仰していたという。

地蔵尊のことなら詳しい老婆。

残念ながら亡くなったという。ただ、その娘さんに伝承されているなら、と紹介してもらって訪ねた。

話してくださったのは71歳のTさん。

安置している地蔵さんは、鎌倉時代の将軍さんが命令を下した“流れ”の地蔵さん。



池浚えに出現した3体の地蔵さんを安置しようと、地蔵堂を建てて奉っている。

地蔵盆は7月24日。

午後6時から8時までの営み。

本家の人たちとともに作ったおにぎりを供える。

営みを終えたらおにぎりを下げて近くにいる子供たちに配るという。

102歳で亡くなった母親は、80歳を越えても一升瓶を抱えて坂道を歩いて登っていった智恩寺

毎月の17日に参拝する観音講の営み。

朝、8時に集まってくる講中。

まずは清掃作業。

お花を立てて10時から唱える般若心経と西国三十三番のご詠歌。

昼時間になれば、智恩寺の庫裏にあがって会食。

午後の3時ころまでずっと談話。

今でもそうしているという観音講の営みに是非とも立ち寄りたいとお願いしておいた。

(H30. 8.30 SB932SH撮影)

柳本町・民俗探訪その4

2020年01月19日 09時09分17秒 | 楽しみにしておこうっと
意外なことにダイジングサンの営みはどこにでもあるわけではなかった。

この日、7月16日は奈良県内各地でダイジングさんが行われている。

昔、昔、お伊勢さんに参拝する際、大神宮塔に手を合わせてから旅立ったという石塔。

常夜燈も兼ねた大神宮塔もある。

一般的な灯籠とほぼ同じ高さもあれば、灯明点けに数段の石段を登るくらいの高さもある。

地域によっては「太神宮」の刻印もあるが、それらの呼び名はダンジングさん。

ダイジングウ(大神宮)さんが少し短くなった呼称であろう。

10日にも訪れて調べていた柳本町・民俗探訪。



その日に竹を立てて注連縄を張りお祭りをしている地域もあれば、主体となる伊勢講は解散された結果、その印しも消えた。



そのように思えるのだが・・。

(H30. 7.16 SB932SH撮影)

柳本町・民俗探訪その3

2020年01月08日 08時06分38秒 | 楽しみにしておこうっと
この日は、天理市柳本町新町中・五智堂境内に建つ薬師堂行事取材。

早めに着いたから少し足を伸ばして民俗探訪。

行先は、同市・柳本町大海(おおがい)。

遠田町と結ぶ南街道筋である。

前年の平成29年12月31日

大晦日に行われる地域調査に訪れた同地。

気になる場は庚申塔。

大神宮はないが、可能性も考えられるかな、と思って走ったがやはりない。

だが、その通りに建つ1軒のお家。

まさかと思ったそのお家の玄関軒に揚げた庚申塔婆が見つかった。

5段切込みに梵字が見えたがが、願文は判然としない。

掲げてから随分と年月が経過しているように思えた庚申塔婆。

不在のような感じに思えたので場を離れて東上する。

2日前の10日に訪れたときである。

南北を貫く街道辻に伊射奈良岐神社の地を示す指標があった。

なにかの折りに調べていたネット調査に柳本町の年中行事をPRするパンフレットが見つかった。

その頁にあった伊射奈岐神社の行事。

大和し美し(※うるはし) 柳本」に同神社に御田植祭日程が記載されていたので、一度は訪問してみようと思って車を走らせた。

天理市柳本町に鎮座する伊射奈岐神社は、国道169号からもわかる所在地。

夕刻ともなれば自動的に灯される灯籠の電灯でわかる所在地である。

駐車場らしきところに停めて参拝した伊射奈岐神社。

潜る鳥居左下に手水鉢があった。

念のためと拝見した手水鉢に「天満宮」名の刻印がある。

年代は「貞享二(1685)之六月吉良日」。

330年ほど前の伊射奈岐神社は「天満宮」と呼ばれていた。

(H30. 7.12 SB932SH撮影)

明日香村・川原小山田の民俗

2020年01月07日 09時11分29秒 | 楽しみにしておこうっと
この年の4月15日に訪れて聞き取り調査をしていた明日香村・川原小山田の民俗。

そのときにお会いした婦人にもう一つの民俗を教えてもらいたく再訪した。

婦人の出里は大淀町。

お歳は70歳くらいのNさん。

呼び鈴を押して屋内から出てこられたNさんに再会、用件をお伝えしたら、「覚えてない」と、いう。

Nさんから大量の三つ葉を貰ったことも忘れてはった。

尋ねたい用件は、4月15日に拝見していた大神宮である。

元々は7月16日にしていた大神宮行事。

現在は7月の第一日曜日。

午後6時から3巻の般若心経を唱えている、という。

その並びにある庚申さん。

庚申講は9軒の営みであったが、何年か前に抜けて現在は8軒の営み。

庚申行事は2カ月に一度、会所で庚申図を掲げて心経を唱える。

4年若しくは2年に一度の庚申さん行事。

竹の先を何本かに割ったものを作って、四角い台を仕立てたところに豆腐1丁を供えて心経を唱える。

旧暦に行われる閏庚申であろう。

また、他府県に移動して、現地の庚申さんに参ることもしている。

この年は、5月に出かけたらしく、愛知県に行った、という。

これまで、四日市の日吉大社も参った。

また、女性9人で構成する日待講もあった。

「お日まっつぁん」と呼んでいる講行事もまた、会所の営みで庚申さんと同じく3巻の心経を唱えて参っていたが、解散した。

解散に手放す日待ちの掛図。

おそらくは天照皇太宮の掛図であろう。

その日待ち掛図は捨てるわけにもいかず、飛鳥座神社の飛鳥宮司にさん相談したら畑違いなのか、断られた、という。

(H30. 7.12 SB932SH撮影)

柳本町・民俗探訪その2

2020年01月03日 09時53分46秒 | 楽しみにしておこうっと
天理市柳本町の民俗探訪はまだある。

五智堂傍に建つ薬師堂行事や上街道に建つ大神宮の石塔や庚申さんなどを調べていた。

1カ所は五智堂が建つ地。

もう1カ所は正月前後に拝見したことのある「中村」刻印のある地。

檜垣町がすぐ近くになる地。

デジタルマップで探してみたら柳本町の集落大海(おおがい)のようだ。

東西を抜ける街道沿いにある庚申さんと大神宮である。

ここら付近にどなたも居ないので諦めて戻る道すがら、車窓から拝見した閏年の庚申行事に見られる塔婆があった。

掲げている場はあるお家の玄関軒に飾っていた。

梵字を書くところに五段削りが見えたから間違いない。

そこから戻ってまたもや上街道。

北上していけば伊射奈良岐神社の地を示す指標があった。

東に向かえば神社に着く指標であるが、その傍に建つ石塔は「天満宮」。

もう一つ向こうには灯籠もあるが、大神宮の石塔はなかった。

神社に参拝する時間がなかったのが申しわけないが、帰宅してからネットを調べたら柳本百選なる資料がPDFで公開されていた。

その百選には柳本町にある数々の行事を紹介している。

なかでも気になったのが、成人の日に行われる伊射奈岐神社の御田植祭である。

行事は柳本の自治連合会が主催。

農家組合や商工連盟に町内の各団体が参列される。

神職が年の初めに祈祷した護符は6月の田植え前に育苗した苗代田に立てる。

それを「の苗代〆」と書いていた。

護符の存在があったとはつゆ知らず。

翌年は是非とも拝見したい行事である。

(H30. 7.10 SB932SH撮影)

柳本町・五智堂傍の薬師さん行事など

2020年01月02日 10時56分56秒 | 楽しみにしておこうっと
どこで、どう知ったのか記憶にない手元に残したメモ書き。

7月の8日と12日に薬師さんの像を運んで法要をしているようなメモである。

場所は天理市柳本町新町中・五智堂すぐ傍にある薬師堂である。

循環器内科の診察が早く終わったこともあって近くを調査する時間が生まれた。

空いた時間は有効的に活用する。

心柱一本で建つ不思議の構造の五智堂は東にある長岳寺の飛び地にある。

私が興味をもったのは五智堂すぐ横に建つ薬師堂である。

実は薬師堂には薬師本尊仏は不在である。

どこにいらっしゃるかと云えば長岳寺であるが、なぜに8日と12日の両日に亘って法要が営まれるのか、それも知りたいし、時間も、である。

で、あれば所在地に出かけて付近に住まいする人が詳しい。

そう思って車を走らせた。

場所はときおり通ることもあるので、道は明確に覚えている。

大和神社の鳥居前。

たしか上街道(下ツ道)だったような気がする。

そこを南へずっと下る。

ちゃんちゃん祭にお渡りがある。

南下して行けば柳本町の手前、岸田町の辻を曲がって東に向かう。

柳本町へ行くにはそのまま南下したら五智堂が迎えてくれる。

真向かいにあるたばこ屋さんに尋ねてみたら奥から奥さんが出てこられた。

お聞きしたい8日と12日である。

その日は屋台がずらりと並んで露店売り。

これまで子どもたちで賑わっていた薬師さんの縁日はすっかり寂れるようだという。

どこからのお触れであるのか、存知しないが、賑やかしの子どもたちはそこへ行ってはならぬというお触れである。

往来する交通に危険がある。

安全のために巻き込まれないという配慮らしいが、なぜ、急に、である。

それはともかく縁日は両日ともあるらしい。

薬師堂の薬師像は盗人に盗られては、という配慮からか、本寺である長岳寺で預かっているそうだ。

その薬師像を元の住まいである五智堂傍にある提灯を吊るした薬師堂に奉って法要をしている、という。

また、薬師堂の反対側に建つ大神宮の石塔がある。

これもまた尋ねてみれば、7月16日に神事が行われるらしい。

神事は柳本町の氏神さんである伊射奈良岐神社の神職が祭礼をするようだ。

上街道はお伊勢さんに参る道。

県内各地に建つ大神宮はお伊勢詣りをする際に拝んで出かける所である。

上街道には何カ所かに亘って建っているが、祭礼をしているのは、どうやら新町、鳥居、戎、片原、上長岡になるようだ。

8日と12日の縁日は長岳寺住職に聞くとしても、どことなく八日薬師、十二日薬師のような気がする。

(H30. 7.10 SB932SH撮影)

民俗探訪・明日香村川原・小山田の弁天社参り

2019年08月20日 08時42分32秒 | 楽しみにしておこうっと
昭和62年3月、飛鳥民俗調査会が編集・発刊した『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』のⅢ章「ムラのしくみとまつり―宮座の祭礼―」に小山田の座行事が記されていた。

詳細はここでは省くが、その項に書いてあった小山田の頭屋の年間行事である。

4月15日、山登りと称して各自は手造りの弁当を持参して弁天社に参ったとある。

今では折詰(の料理)になり、神社の神饌とともに、この行事の世話に頭屋が担っていたとある。

また、毛付日待といって、田植えが済んだときに村中が弁当持参で弁天社に参る。

このときは村から酒が出る。

7月16日は大神宮さんを祭る日。

このときも弁当を持って大神宮さんに参る。

9月16日は風日待。

この日は重箱に詰めた赤飯を作って大神宮さんに参る。

これらすべてを世話するのが頭屋とある。

明日香村の橘寺に立ち寄って、すぐ近くになる大字川原にある小山田(おやまだ)を目指す。

小山田をセットしたカーナビゲーション。

設定した番地は376-1。

そこは弁天社があると推定して出かけた。

設定した地は、山の中。

集落からどの道を辿ればいいのかわからないので車から下りて歩いてみる。

歩き始めたときに屋内から女性が出てこられた。

これ幸いと声をかけて尋ねた弁天社。

その神社は存知しないが、こちらにある道を道なりに行けば神社があるという。

その神社名は宗像神社。

あの海の正倉院としても知られる九州福岡県宗像市田島に宗像大社・沖津宮とどのような関係があるのか・・。

それはともかく帰宅してから知った小山田の宗像神社。

弁財天は神仏習合によって女神・宗像神と考えられたそうだ。

桜井市外山に鎮座する宗像神社は、その説を考えに安政六年(1859)に九州の宗像大社より神霊を迎えて万延元年(1860)に社殿を築造したとあるが、小山田との関連性は不明である。

小山田に鎮座する神社は、村の人曰く宗像神社であるが、『第3次大字川原の景観計画―川原大字の年中行事―』によれば弁天社とも称していた。

明治42年(1909)7月27日に板蓋神社に併合され、現在は旧社に復している。

祭神が市杵島比売命で社殿が春日造りとある。

伺った女性が、当地に嫁入りしたころの子宝願いである。

弁天さんは女の神さんだから、出里の吉野町寄りの大淀町に鎮座する男の神さんに願をかけた。

そうすれば女の子が生まれると云われて参ったが、男の子2人が生まれたという。

女性が嫁入りしたころの弁天さん参り。

弁当を持ち込んで参拝していたが、話しの様相では中断したもようである。

小山田垣内はかつて一つの村で、大字川原の出垣内だった。

その当時は旧村の7軒であったが、ここより下った地に民家が建ったことによって現在は20軒になったそうだ。

さらに話してくれる女性の習俗の在り方。

苗代を作ったらイロバナを立てているが、松苗は見たことも聞いたこともないという。

田植えした苗さんは、家に持ち帰って、苗さんの上にご飯を少し盛って神棚に供えている。

出里の大淀町(※吉野川寄りの集落が考えられる)では苗さんの泥を落として綺麗に洗って乾燥させた。

それを仏壇の仏具(杯とか)を乾拭きする。

磨いたらピカピカになるという。

畑で育てたユウガオを収穫して皮剥きをする。

作業は庭内。

竿干しのカンピョウ作りをしている。

量は家族が食べる分量だから多くはない。

門を出て下ったところに畑がある。

柑橘類や勝手に成長したビワの実は小さいけど甘いという。

その下に蔓延っているのは自生の三つ葉。

三つ葉はかってに拡がったヒトリバエ(※タネが毀れて広がった一人生え)。

畑一面に拡がった三つ葉は、あまりにも多くなったので、鎌で刈って道の駅(※夢の市であろうか)に出してで売っているという。

そのヒトリバエ三つ葉に感動したらいっぱい刈ってくれて、私にくれる。

ありがたく受け取った三つ葉は車の中で美味しい香りが拡がった。

三つ葉はいくらでも増えるから、欲しくなったらいつでもおいでと云われる。

しかも、この日は近くにタケノコも生えているから、今から掘ってあげるから、と云われたが、なんぼなんでもさすがにそれは遠慮させてもらった。

女性が教えてくれた神社への道。

ここから正面に行くならその細い道を左に。

もう一つはもっとわかりやすい。

少し歩いて右へ曲がって道なりに行けば階段がある。

その上に鎮座するのが宗像神社こと弁天社でしょうと云われて歩いて登った。

右折れしたところに2基の石灯籠が建つ。



右が大神宮の石塔で左は庚申塔。

その左に2体の石仏。

一つは庚申さんでもう一つは地蔵さんだ。

前述したが、大神宮さんの祭りごとは7月16日と9月16日である。

機会があれば、早いうちに再訪、取材してみたい地区である。



石塔よりさらに登っていけば石段が見える。

勾配のある石段を登ったら神社があった。



拝殿向こうにある社に参拝。

右にある小社前に大岩が建つ。

刻印は「正一位 小山幸吉大明神」。

お稲荷さんでもなさそうな感じであるが・・。

鬱蒼とする樹木に囲まれる社地。

辺りを見渡しても遠望は望めない。

登ってきた道を下っていた。

左手は竹林。

女性が所有する竹林であろうか。

綺麗に整備されていた。

そこを通りすぎようとした竹林の一角。

不思議な形態が気になって近寄った。

切った竹を竹林の竹に、である。

水平にした竹を縛って固定していた。



1本でなく2本もある。

3本なら三角形。

4本なら四角形になるのだが・・・。

これは何を目的にする構造物なのだろうか。

もしかとすれば三つ鳥居(※三柱鳥居も考えられるが・・)。

で、なければ単に干すための竹竿のように思えてきた。

そこからさらに下って近道を行く。

話してくれた女性の隣家。



奇麗な石楠花の花が咲いていたので塀越しに撮っていた。

よく見れば雨かと思える滴があるが、この日は降っていたのか記憶にない。

ところでこの日に貰った三つ葉は大きな葉に太めの軸。

スーパーで売っている三つ葉に香りないが、貰った三つ葉の香りは凄い。

なんせ帰り道の車内に三つ葉の香りが充満状態。

こんなに嬉しい帰路の車内。

初体験にほっこら。

こんなに香りがある三つ葉は初めてだというかーさん。

5日後に我が家の食卓に登場した料理は鶏肉に玉子とじ。



タマネギも入れて炊いたいわゆる玉子とじ料理。

美味しくいただいた。

(H30. 4.15 EOS7D撮影)
(H30. 4.20 SB932SH撮影)

民俗探訪・明日香村橘・橘寺百味の飯食会式は

2019年08月19日 10時02分28秒 | 楽しみにしておこうっと
来週あたりにされるのでは、と思って初めて訪ねる明日香村橘にある仏頭山上宮皇院菩提寺の橘寺

聖徳太子のお生まれになった寺としてあまりにも有名なお寺である。

一度は拝見してみたいと訪れた橘寺の山門受付。

聖徳太子のお会式に報恩法要を営まれる。

その際に献上される御供上げがある。

その数多く、百味飯食(おんじき)会式の名もある。

受けされていた女性にお聞きすれば、檀家の都合もあって聖徳太子命日である22日の直前になる日曜に移行したそうだ。

今年の春の会式は4月22日の日曜。

命日日が日曜日と重なって執り行われると伝えられたが、生憎のこと、その日は先約がある。

報恩法要は秋の10月にも行われていると教えてくださったので、その日を予定しておきたい。

今年の平成30年は10月21日の日曜日。

命日の前日になる。

受付女性の話しによれば、百味の飯食会式の御供上げは“お手繰(たぐ)り”と呼ばれる作法。

一人、一人が次の人へ、次の人へと手で運ぶ作法だという。

午後1時半に一番鐘を打つ。

しばらくすれば二番鐘を搗いて、それからお手繰りするようだ。

百味の飯食は肉や魚は避ける。

例えば山の恵みとか里の幸に、キャベツやサツマイモなどの野菜類。

季節のワラビにタケノコも・・。

海の幸は乾燥もののワカメになるそれぞれの幸のものは一対でひと盛り。

幸盛りの種類は50杯。

それぞれを一対にするから合計で百杯になるというお手繰りである。

お手繰りが終わってから僧侶の読経。

法要を終えたらモチマキをするという。

この日は僧侶もお忙しくてお会いできなかったが、後日改めて伺いたく、と云えば、受付女性はいつでも構いませんから、来ていただいたら説明をさせていただきますので、と云われた。

昭和62年3月、飛鳥民俗調査会が編集・発刊した『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』のⅤ章「年中行事―明日香村の年中行事―」に興味深いことが書いてあった。

「豊浦や川原では2月21日の橘寺のお大師さん会式へ参り、ゴクマキのゴク(※モチか)をもらってきた。下平田や八釣では、4月21日に村のお寺に出かけてお大師さんの祭りを営んでいた。八釣では作ったニギリメシを供えた。御供は下げて子どもたちが食べていた。雷(いかづち)では4月21日までに“センゲンマツ”と云って、集めた米で御供を作って各戸で祭っているお大師さんに供えた」という記事である。

橘寺のHPに年中行事を公開されているが、お大師さんの祭りは書かれていない。

気になる事項である。

(H30. 4.15 EOS40D撮影)

民俗探訪・尾曽の毘沙門会式

2019年08月18日 10時27分13秒 | 楽しみにしておこうっと
明日香村の大字尾曽に毘沙門会式があると教えてもらった上(かむら)の住民

会式が行われる寺院は真言宗豊山派威徳院。

ご本尊は毘沙門天であるが、同寺では秘仏につき入堂不可とされる。

この日に伺ったのは4月15日が毘沙門さんの縁日にあたるらしく会式に大般若経転読法要をされると知ってやってきた。

4月15日の毘沙門会式。

尾曽ではレンゾと呼んでいた会式。

そのことについて書かれていた史料は昭和62年3月、飛鳥民俗調査会によって編集・発刊された『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』である。

記事は短文。「4月15日に尾曽で毘沙門会式が執り行われる。大般若経の転読をし、ゴクマキをする。この日はレンゾでもあるという。」

呼び鈴を押してみるが反応はない。

何度もしてみたがないものはない。

そのまま帰るわけにもいかず、ここまで来たら村の人に教えを乞うのが一番だと思って向かいのお家に声をかけてみた。

話しを伺えば、本来は4月15日。

昨今はその日に近い日曜日辺りに会式をしている。

その案内も早くに聞いていたが、直前になって一週間も遅らせた翌週の日曜日に移ったという。

今年は15日が日曜日。

丁度、日が重なってよかったと思っていたが、日にちを変更された。その訳は・・。

西国三十三所霊場草創千三百年祭にあたる平成30年。

それを記念して長谷寺で法要を営まれる。

その法要の応援に出かけたということだった。

住職とはお会いできなかったが、来年に寄せていただきたく、檀家でもあるN夫妻によろしくお願いさせてもらった。

なお、Nさんの話しではお焚き上げをされて大般若転読法要、最後にゴクマキをされるということであった。

(H30. 4.15 EOS40D撮影)