マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

嵩の行事

2017年06月20日 09時49分35秒 | 楽しみにしておこうっと
嵩の山の神行事は1月7日。

日にちが替わった7日の夜の時間帯からお参りに来るひともいるらしい。

遅くても朝8時には村の人すべてが参っているであろうという場は八柱神社と薬師寺の裏地である。

これがそうだと云われなければ気がつかない山の神の印しは埋もれた小岩である。

家の男の数だけ作った藁ズト。

1戸について1個の餅を詰め込む藁ズトはフクダワラ(村史ではホウデン)と呼ぶ。

それを山の神の木に結びつけてぶら下げる。

その木の枝にホウソ(ナラの木)の木で作った「カギ」を引っかける。

カギを引っ張り揺らすように作法をしながら「うーちのくーらへどっさりこ」と言いながらおじいさんがしていた。

山の神に参りにくるのは今では6軒ぐらいと話してくれたのは宮総代のⅠさんだ。

ちなみに村史によれば、コウジミカンを山の神の地に立てていたようだ。

また、「カギ」引きの詞章は「東の国の銭金(ぜにかね) 西の国の糸綿(いとわた) 赤牛につけて こちの蔵へ皆ござれ 皆ござれ」であった。

嵩では春と秋に道造りをしている。

朝は村の農道で、昼は県農道。

道造りにつきものの料理は大釜で煮るオデンがある。

オデンは春であるが、秋はマツタケご飯になる。

かつてはマツタケすき焼きだった。

当時のすき焼きは牛肉よりも松茸の方が多かった。

今から40~50年前のマツタケすき焼きにイロゴハンもあった。

料理の材料費は村でもつ。

料理をするのは村の役員。

この年は9月25日の実施。

例年も9月の最終日曜日にしていた秋の道造り。

春もそうだがいずれも雨天決行である。

夏の第一日曜日は墓サラエ(浚え)。

おそらくは7日盆の墓掃除のことであろう。

盆の風習にサシサバがあった。

ちなみに嵩には主に女性で構成される薬師講がある。

この年は1月10日だった大般若行事は六百巻の大般若経を転読法要。

聞くところによれば天理市福住の別所でお会いした僧侶が来られるようだ。

なお、昭和10年までは厄年の人の餅一重村各戸配りをしていたそうだ。

(H28.10.22 EOS40D撮影)

菟田野平井から萩原小鹿野の民俗探訪

2017年06月17日 08時54分24秒 | 楽しみにしておこうっと
宇陀市榛原の石田に住むUさんが教えてくださった神社行事がある。

一つは上平井のヒトミゴクに9種の御供。

二つ目は下平井のモッソのセキハンである。

両行事をされている地区は宇陀市菟田野平井にある上平田と下平田。

マツリの日は宇太水分神社祭礼の前日になるというから出仕される神職は宇太水分神社の三家宮司であろう。

宇太水分神社の鎮座地は宇陀市菟田野の古市場。

平成12年10月15日の秋祭りや平成17年2月7日の祈年祭に出かけたことがある。

ずいぶん前のことである。

宇太水分神社祭礼は10月15日。

前日であれば14日であろうか。それともUさんがいう20日であろうか。

時間帯も含めて神社所在地を見ておきたい。

そして祭事関係者にお会いして行事の状況を教えてもらおうと思って出かけた。

一つ目に訪れた地域は菟田野の平井。

Uさんが話していた神社はどこだろうか。

ネットの地図を拝見しても掴めない。

そうであれば付近の民家を訪ねる。

畑に人が見えたらその人に聞くのだが、生憎この日は待てども、待てども現れない。

ここまで来て諦めるわけにはいかないから旧家の佇まいをみせる民家に訪ねてみる。

呼び鈴を押せば奥から男性が出てこられた。

話しを伺えば男性は上平井八王子神社氏子のNさん。

平成28年は10月15日にマツリがあった。

本来は20日であったが、現在は宇太水分神社祭礼の前日の第三土曜になる。

御供はシラムシ(白蒸)ご飯にザクロやカキ、クリ、トコロイモ。

他にも長めの串に挿したコンニャクやダイコン、サトイモに半切りのチクワもあるという。

それは氏子に配られる御供であるが、3本であったが近年に縮小して1本にしたという。

夜は甘酒の接待というからヨミヤとマツリを一本化したのかもしれない。

ちなみに神職はやはり宇太水分神社宮司の三家さんだった。

話しを伺って教えてもらった神社の鎮座地に向かう。



神社には石板に願いを込めた由緒書きがある。

当社祭礼に人身御供と称する特殊神饌を供するとあった。

Uさんに氏子のNさんが話していた御供の形がそうなのであろう。

本社、境内を見てまわる。



「文政十二年(1829)次己丑九月」の年代刻印がある灯籠。

それより古かったのは手水鉢。



「元禄六年(1693)九月一日」の年代記銘がある手水鉢には「八王子」。

手水鉢を寄進したと思われる当時の村人7人の名がある。

それを見届けて次の訪問地に出かける。

二つ目は下平井の皇大神社である。

マツリを知る人はどこにおられるのだろうか。

ここでも田畑に村人はいない。

これもまた仕方なくそれと思しき民家の呼び鈴を押す。

出てこられた男性のTさんに尋ねたがマツリのことが要領得ずにまったく掴めない。

近くの家も訪ねてみるが不在だ。

もう一軒のM家も行事のことはわからないという。

その辺りをうろうろしていたら一人の男性が車でやってきた。

宮総代のKさんであるが、Uさんが話していたモッソのセキハンもなく、村総会を兼ねたヨイミヤマツリは一般的な神事であると云われた。

そういう状況であるが皇大神社の鎮座地は拝見しておこうと思って畑におられた婦人に聞けば、そこだという。

なるほど、ここにあったのか、である。



車止め前に停めて本社、境内を見てまわる。

何年か前にゾーク(造営事業)されたのだろうか、本社殿が朱塗りで美しい。

その社殿下右側にあったのが庚申塔だ。



葉は椿のようだが花一輪。

お参りしている人が供えたのであろう。

マツリの情報は少なかったが、得るものもあった。

いずれは訪れてみたい菟田野の平井の行事を後にして帰路につく。

その帰路の道中に行っておきたい地域がある。

宇陀市榛原の萩原(はぎはら)の小鹿野(おがの)である。

半年前に訪れた際に田畑におられた婦人たちにだいたいの行事場を聞いていた。

そこへどうのようにすれば行けるのか。

それを確認したくて帰路に立寄った。

行事場は村の中心部。

それも急な坂道を行かねばならない上に軽トラ幅丁度くらいの狭い道。

バックをするにも難しいし、最初に登る道の角度は勢いをつけないと上がれない。

何度かトライしたがその先がどうなっているのかとても怖い。

狭い上に曲がり道。人が歩いてでもいたらと思えばぞっとする道。

迂回しても同じような村の道である。

昨年の平成28年4月15日に訪れた際は村の北側から登ってそこから下ったことがある。

その道は難なく走れるがこの南側が狭いのである。

その日は南側の苗代立て状況を撮っていた。

その畑の真上にあるのが小鹿野の公民館。

地蔵堂があるとされる村の会所である。

そこへ行くには坂道を登ったところでバックする。

それも来た道をバックするのではなく右にある狭い道をバックで登るしかなかった。

一旦、山側に登ってそこから下れば良いとわかったのは半年後だった。

それを知らずに無理をするこの日の行事場探し。

バックで到達した地は平ら。

会所であることはわかったが鍵が締まっている。

当然である。



その会所裏側に立っていた朱塗りの鳥居。

掲げてあった扁額をみれば「小鹿野弁財天社」とある。

行事があるのかどうかわからない。

戻って会所前にある祠を見る。



それは庚申さんだった。

左右に枯れた竹があった。

その形から右は花立。

左は御供台だ。

たぶんに閏年の庚申講の営みがあるはずだ。

これらを書くにするには区長と会わなければならないが、自宅は不在だった。

仕方なく隣家を訪ねる。

お声をかけたら若い男性が出てこられた。

行事のことや場を調べにきたと話せば若干なら知っているという。

地蔵寺は集会所内になる。

寺所有と思われる菩薩像や四天王像が安置しているらしい。

苗代田に立ててあったお札は祈祷札。

正月初めのだいたいが1月7日の午後に打合せを兼ねる初寄合がある。

その際にお札を刷っているのだろうと勝手に推測する。

その日の夕飯会食に籠り。

そのときに初祈祷をしているとこれもまた想定される。

区長に伝えられるならばお願いして場を立ち去った。

(H28.10.20 SB932SH撮影)

須川のお旅所砂盛り御幣

2017年06月15日 08時27分51秒 | 楽しみにしておこうっと
山添村室津から京都府木津川市の加茂町岩船を取材してきた。

その道中に素通りした奈良市須川町。

須川信号の角地に白いものが見えた。

それはなんだろうか。

もしかとして祭礼の道具であるかも。

何であるのか、確かめたくて戻った。

それは紛れもない幣であった。

砂盛りした所にビニールパイプを立てている。

そこに挿した幣はサカキ。

萎れぐあいから計算して一週間前を想定した。

須川には戸隠神社がある。

この信号よりそれほど遠くない位置に鎮座する。

この場はもしかとすればお旅所ではないだろうか。

柴垣に囲まれた様相から想定できる神聖な地に御幣を立てる。

秋祭りにお渡りがあったのか存じ上げないが、十年ほど前にたまたま通りがかったときに祭りを終えて片づけていた神職がおられた。

神職はなんとなく村神主のように思えた。

帰宅してから調べてみれば秋祭典におけるお渡りに行幸したお旅所の神事のようだ。

かつては当家制度もあったが現在は廃止されているようだ。

拝読した史料は平成26年3月に奈良県教育委員会の編集・発刊した『奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書』。

戸隠神社からお旅所までの参道で稚児が弓を射るマトウチ(流鏑馬)があると記していた。

また、神事スモウもあるらしく、それは土俵を設えた神社境内で行われていると書いてあった。

報告書の調査年は平成24年。

現況はあまり替わっていないように思える祭礼は来年にお願いするとして行事日はいつか、である。

現在は祝日の体育の日であるが、元々の祭礼は旧暦九月六日であった。

近代になってからは10月17日であった。

その後の平成18年に体育の日に移したとあるが、神事スモウは祭礼が終わった数日後に行われているようである。

当家制度は廃れたようだが、大座、助郎座、今座、新座の四つの宮座がある。

特に祭礼のお渡りに於ける配役は四座が担っている。

その配役を決める日は10月1日の御幣切り。

また、猿田彦にお渡りを検知する陣配見張り役というのがあるそうだ。

(H28.10.16 EOS40D撮影)

大西の年中行事

2017年06月02日 09時32分00秒 | 楽しみにしておこうっと
八王子神社並びに旧極楽寺である会所で行われた山添村大西の座祭りを取材した。

その際に話してくださった大西の年中行事がある。

会所の床の間に置いてあったごーさんの祈祷札を祈祷法要する行事がある。

正月6日に行われる初祈祷である。

朝の9時に行われる初祈祷は隣村の大字春日の不動院の住職が法要を務めるそうだ。

旧極楽寺は戦前かどうか不明であるが、焼けた。

再建は寺でもなく会所や村行事として利用できる建物である。

石造りの観音坐像を安置しているという。

観音さんを祭る村の観音講がある。

61歳から80歳になる婦人によって営まれている。

3月の初午はゴクマキをする。

祭典の場は稲荷神社。

八王子神社から見れば南の方角にある。

大字の春日や菅生(すごう)に向かう道すがらの向こう岸に鎮座する。

同神社では12月に新嘗祭が行われる。

かつては12月の卯の日であったが、現在は第一日曜に移して斎行している。

新嘗祭には特別に作って供える芋串がある。

芋はサトイモ。

芋には青豆を潰して作るクルミを塗す。

三つの芋を串に挿していることから芋串。

そういう関係があって新嘗祭を別名、イモグシ祭りと呼んでいる。

9月25日は稲荷神社の放生会。

生きたサワガニを捕まえて法要。

祭りごとが終われば神社前の小川に放生するのだろうか。

詳しくは聞き取れていなかったので再聴したい。

5月末は植え付け籠り。

たぶんに村のすべての田植えを終えて豊作を祈願する行事であろう。

植え付けがあるということはもしかとすれば各家が行う「植え初め」が期待できるかもしれない。

毎月の1日は稲荷神社の朔日参り。

夏場は早いが冬季は朝の9時から12時にかけて神社の清掃。

それを終えて社務所で直会をしているという。

また、大字中峯山(ちゅうぶせん)の神波多(かんはた)神社の秋季例祭に参列している。

秋季例祭は山添村の旧波多野村16カ大字による天王祭りである。

旧波多野村は中峯山をはじめとし、大西、中之庄、広瀬、葛尾(くずお)、片平、広代(ひろだい)、下津、上津、菅生、遅瀬(おそせ)、鵜山(うやま)に奈良市月ヶ瀬の嵩(だけ)。

幟を廃絶した岩屋、箕輪、春日の三カ大字を加えた16カ大字である。

各村に聞き取りをすれば必ずといっていいほど中峯山の天王祭りの話題がでる。

また、盆迎えの風習もある。

その様相は奈良新聞社が平成8年に編集・発刊した『大和の神々』が詳しい。

その記事中に登場する家は我が家ですと話してくださったご婦人がいる。

大和の民俗を記録していた先駆けの保仙純剛さんを知る婦人の話しによれば、お盆に先祖迎えに松明を燃やすのは寺下の石垣。

『大和の神々』に載ったその場所がそうだという。。

8月14日は生き御霊の両親に供えるトビウオのイタダキもしているらしい。

また、元日の朝にはチョウジャドンの祝い膳のイタダキもしているという。

お許しいただければ是非とも取材させていただきたいと申し出た。

(H28.10. 9 EOS40D撮影)

白河の年中行事など

2016年10月06日 08時44分28秒 | 楽しみにしておこうっと
白河のことならもっと詳しい人が居ると案内していただいたお家はT家。

前年に当屋を務めたお家だった。

ご主人の母親は大正12年生まれの92歳。

村のことなら何でもしっていると案内された。

そこで話がでた「ひとはこべったり」。

名前からして不思議な感覚を受けた「「ひとはこべったり」。

漢字で書けば一箱べったりであろうか。

同市初瀬にある長谷寺がある。

その境内の一角に五重の塔がある。

そこには人形を祭ってあって白塗りしていた。

女の人形だからオシロイ(白粉)を下から上に向けて塗っていた、というのだ。

話された「ひとはこべったり」は昭和56年発刊に発汗された『桜井市史 民俗編』に記載されていた。

1月20日に頭屋は長谷寺に出かけて参る。

「ベニヌリゴゼン」と呼ぶ御膳をあげていたと書かれていた。

あげるということは奉納することであろう。

あげた返しに長谷寺からは僧が白河に来られてお勤めをしていた。

長谷寺本尊脇のビンズルゴゼンに白河の頭仲間が年番交代で紙衣を着せて、その上からオシロイを一箱べったりと塗っていた。

この行事を「一箱べったり」と呼んでいた。

戦前は毎年の旧暦正月五日の真夜中に本堂内で行っていた。

戦後は新暦の1月20日になったが中断した。

記事中に10年前とあるから発刊した年より逆算してみれば昭和46年辺り。

現在より45年前まであった行事のことを鮮明に覚えておられる。

この「一箱べったり」については知人の奈良まほろばソムリエの会・雑賀耕三郎さんが書かれたブログ「奈良・桜井の歴史と社会―長谷寺、白河の婆の物語―」が詳しい。

併せて読んでくだされば幸いだ。

また、奈良県観光局ならの魅力創造課が発行するHP「巡る奈良―奈良に伝わる不思議譚―」「白粉婆(おしろいばば」の項でも紹介されている。

白河には秉田(ひきた)神社のほかにもう一社ある。

山のてっぺんの方にある高山神社。

5月2日はレンゾで神社役員が参拝しているようだ。

レンゾの呼び名があるぐらいだからたぶんに花見。

神社に参って弁当を広げる。

花見を兼ねた村の行事は農休み。

そんな情景を思い起こすが、今は神社役員だけがお参りをされて、「水の神さん」こと高山神社の神さんに「水」の願掛けをしているようだ。

かつては雨乞いにも出かけていた雨乞いもあった。

大字白河の村人以外にも他所の村人も雨乞いをした高山神社。

願掛けにそこでスモウもしていたと話す。

訪ねたT家より北方に森が見える。

そこで「カイトミサン」と呼ぶ行事があった。

1月9日に行われていた場は垣内の宮さんがある処だという。

垣内の宮さんそのものが行事になった「カイトミサン」は移設されて秉田(ひきた)神社に合祀されたようだ。

他にも年中行事がある。

6月初めに行われる夏祭り。

地域の草刈りを終えて参集する。

8月末日は風鎮祭の籠りなどなど。

機会を設けて取材したいと思う。

ところで、御供下げしたシンコを拝見した前当屋のTさんは一言、「大きい」と声をあげた。

割合、大型のようだったのか、それとも昨年のシンコが小さかったのか・・。

供えて参る「シンコ」をやめたら疫病が流行る。

だから今尚続けている。

供えた「シンコ」をいただいて食べるのは病にかからないような意味合いがあるという。

話題は広がって農家の婦人が履いているモンペに移った。

昔は男女とも履いていた衣服があった。

腰紐を緩めて足首までずり下ろす。

急ぎの用を足すときはとても便利だった。

その着物を「タッツケバッチ」と呼んでいた。

調べてみれば「タッツケバッチ」はもんぺか、ももひき(股引)のような衣装らしく、十津川村や和歌山市内で、そう呼ばれていたようだ。

(H28. 3.21 記)

菩提山町の年中行事

2016年09月26日 08時39分38秒 | 楽しみにしておこうっと
かつては氏神さんの春日神社でたばった松苗は苗代に立ててイロバナを添えていたこともあった。

田植えをして育てた稲作。

秋になれば収穫する。

いまでもそうしているが、収穫を終えた鎌納めの「カリヌケ」はしなくなったと云う。

鎌は箕の上に乗せる。

持ち合わせていた写真を提示すれば、まさに「懐かしいカリヌケや」と二人の婦人が口にした。

二日後の3月13日は女の籠りがあるという。

この年の13日はニノ午の日。

かつては朝から弁当を作って宮さんに出かけた。

弁当は神さんに供えた。

御供下げした弁当はめいめいが持ち寄った手作りの弁当だった。

お互いが食べ合っていたという。

今では手作りすることなくパック詰め料理になった。

行事の日もニノ午ではなく、村の婦人たちが集まりやすい日になった女の籠り。

その名のごとく女性だけが集まる村行事は「宮籠り」とも呼んでいる。

ちなみに今年の13日は花づくり家固有の行事がある。

同家が祀っている稲荷社の行事はニノ午の日。

特定日ではなく、毎年が変動する。

残念ながら先約があるから来年に持ち越しとなった稲荷社の行事は朝から忙しい。

稲荷社に供えるご馳走は、生御膳にアカゴハン。

同家は「ケンケンサン」と呼ぶ行事のお供えは炊いたアカゴハン。

円錐型に象った三角おにぎりを皿に盛って供える。

アカゴハンを充てる漢字は赤飯であろう。

ケンケンサンに食べてもらうに相応しいアブラゲや山菜の天ぷら、ニンジン、イモ、ナンキンに牛蒡のたいたん。

お魚や塩、酒を供える場は道路下の崖っぷち。

段差があるだけに脚立を立てないと供えられないという。

ちなみに同家になぜ稲荷社があるのか、である。

かつては漢方薬を製造、販売していた。

「はくちょうしん(白丁浸)」の呼び名がある薬の販路はなく、同家で売っていた。

目印は「血のみちぐすり この家にあり」の文字があった看板だった。

薬師寺の僧侶を務めていたときは同寺でも売っていたそうだ。

「白丁浸」は生薬。

トウキとかカンゾウなどを刻んで細かくした。

お茶のような感じで飲める薬は産前産後に効いたという。

ニノ午の日の行事は「どうか売れますように」と願ってケンケンサンに手を合したそうだ。

ちなみに同家は節分風習のヒイラギイワシもしている。

玄関、裏戸などありとあらゆる人が出入りする扉の脇にヒイラギイワシを挿していた。

(H28. 3.11 EOS40D撮影)

横柿戸隠神社字宮ノ谷亥の子の山の神

2016年08月24日 08時57分58秒 | 楽しみにしておこうっと
桜井市の山間部。

大字横柿に鎮座する戸隠(とがくし)神社を目指す。

同神社は2年前にも訪れたことがある。

そのころは体力的にも元気だった。

乗ってきた車を里道に停めて林道を歩く。

山道とも思える急な坂道の車は登り辛い。

落ち葉が溜まった林道は雨が降れば濡れ濡れ状態。

泥もあればコケ化も見られる林道にタイヤが滑る。

四輪駆動でなんとか登れる林道であるが、危険を避けて里から登っていった。

30分以上もかかって歩いたことを思いだす。

今回は手術後4ケ月後の身。

歩きでなく、二輪駆動の軽バンを走らせる。

ガードレールもない林道は一つ誤れば崖下行きだ。

恐る、恐るの心境もあるが、途中でタイヤが滑りだしたら戻ることさえできない。

アクセルを踏み込んで一挙に登っていく。

峠になるような山道の先は袋小路。

なんとか辿り着いて安堵するが、膝は何故か震えていた。

さらに奥深い処に整備された坂道がある。

目指す神社に向かう参道は木道。

湿った状態であれば滑りやすい。

右は崖下。

一歩、一歩を踏みしめながら登っていくが2年前より体力が落ちている。

体力が落ちたというよりも術後の不整脈が影響している。

何度かの小休止で繋いで登った先に注連縄を張った朱塗りの鳥居が眼前に現れた。



注連縄は左右二本の竹に掛けてある。

ご神体のイワクラに建てている本殿が戸隠(とがくし)神社。

秋のマツリは10月末の日曜日に行われているようだ。

当屋を含む3人の宮当番ら氏子一同は上の宮さんとも呼ぶ戸隠神社に参拝して祝詞を奏上する。

それから林道を下って下の宮さんと呼ぶ御年(みとし)神社に参る。

両神社のマツリはかつて別々に行われていたが、過疎化した9戸の横柿ではマツリを維持するのが難しくなり行事日を統合したそうだ。

これまでは当屋が一切合切の行事を仕切っていたが、これもまた難しくなり、前年より両隣の2軒とともに協力し合って行動する3人の宮当番制に替えたという。

ひっそりと佇む神社には誰一人いない。

辺りを見渡せば、拝殿前に山の仕事道具を吊り下げていた。



右よりヤ(クサビとも)、ヨキ(オノとも)、ノコギリ、カマ、ヤ(クサビとも)、ナタの6枚は杉板(杉材のベニヤ板)で作った山の仕事道具である。

2年前に拝見したときはクワの歯だと思っていた両端の四角い板。

製作者のUさんにお聞きすれば、それは「ヤ(矢)」だという。

木を伐採する際に打ち込む楔(くさび)である。

打ち込むことで木を倒すことができる山仕事の道具だ。

製作者の話しによれば鳥居に傾けていた注連縄を入れて七つの道具。

これらは「亥の子マツリ」に寄せた山の神へ捧げる「七つ道具」である。

この年が当番当屋のMさんは腕を怪我されて作業をすることができなかった。

当屋の急な頼みに製作を請け負ったUさんが作った「七つ道具」のデキが良い。

秋のマツリを終えた横柿の人たちは場を集会所に移して直会をされる。



集会所はかつてあった宝積寺(ほうじゃくじ)の地。

ご本尊を安置しているようだ。

宝積寺下を下る。

この年81歳になった婦人に出合う。

2年ぶりにお会いした婦人は「あんたのことは忘れもせん、今でも顔は覚えている」と云われた。

その記憶力はすごいものだと思ったのはマツリなどに出る供えものだ。

2年前に話してくださったことを思いだしながらミト川に架かる橋の袂を掃除していた。

ここは通り道。

カッチンの葉が落ちる。

雨が降って濡れたら滑る。

そう云って落ち葉を箒で払って掃除していた老婦人。

カッチンは一般的にホオ(朴)と呼ばれる木だ。

かつてはホオの葉で包んだ俵型のオニギリを作っていた。

山の弁当だと云う御供は神社に供えていたという。

婦人が今年も話してくれた御供の一つ。

かつてはヤマノカミのボタモチがあったそうだ。

サイの目に刻んだトウノイモの頭を「半ゴロシ」に潰す。

ウルチ米・餅米とともに入れて炊く。

こしらえた小豆餡を塗してできあがる。

亥の子の日に作って食べるイモボタのような作り方だ。

亥の日に山の神に供えるから「ヤマノカミのボタモチ」と呼んでいたのであろうか。

(H27.12. 6 EOS40D撮影)

北椿尾町の地福寺

2016年08月07日 08時35分40秒 | 楽しみにしておこうっと
何年か前に地元民から聞いていた十夜。

集まる場は奈良市北椿尾の地福寺。

場所は大よそ聞いていた。

北椿尾は寒施行やトンド焼き、祈年祭を取材したことがある。

その際に聞いていた地福寺の十夜は法要をされる2週間前にいっぱい詰めた仏しょう袋を供えると話していた。

だいたいが11月半ばになるらしいと云っていた。

半ばであっても平日は考えにくく休日と判断して地福寺を探した。

寺院が建つ場は消防ポンプの建物横にある児童公園のほぼ真上。

地区の集会所がある。

その隣に建つのが地福寺だ。

境内の周囲に並べた石仏がある。



どれもこれも真新しいお花を立てている。

最近のものであろうと思われたが住民はいない。

雨のせいかも知れない。

或はこの日ではなかった。

そう思ってかつて寒施行取材でお世話になったIさんに電話を架けた。

十夜はすでに終えていた。

それも二日前だ。

十夜は稲刈りが終わって野菜などが採れた時期になる。

地福寺は融通念仏宗派。

法要の日は兼院している天理市櫟本の融通念仏宗派の来迎寺住職がお勤めをする。

住職の日程都合もあって毎年変動する。

今年は平日であった。

午後ともなればお供えを調える。

仏しょう袋以外に採れたて野菜もあったそうだ。

十夜の法要は豊作に感謝する日だ。

ことしは夕方、というよりも陽が落ちて真っ暗になった午後6時から営まれたと話す。

(H27.11.15 SB932SH撮影)

榛原桧牧西谷垣内の熊野権現社・大日堂

2016年08月06日 08時43分13秒 | 楽しみにしておこうっと
何時、どの時点で知ったのか覚えていない榛原桧牧の神さんごと行事。

インターネットであったかも知れない。

謎を解くには現地に行く、ということだ。

キーワードは大日堂。

その名から寺院を想定するが、場所が判らない。

書いてあった記事に「道路向かい側の大日堂でお仮屋作り」がある。

神さんごとの在り方である。

大日堂は寺院だが、お仮屋は神さんの仮住まい処。

県内事例の数々を拝見してきた。

お仮屋は樹木の葉を覆っていると思われるのだ。

お仮屋はどこに立てるのだろうか。

その記事に書いてあった神さんは熊野十二権現である。

寺院、神社名は判るがネットで調べても明確な答えは返ってこない。

おそらく神社庁に登録されていない村の小社では、と思った。

大日堂も無住寺であろう。

11月半ばの日曜日。

祭の日は祝日に移行されたと考えてこの日を選んで宇陀市榛原の大字檜牧(ひのまき)を目指す。

内牧川に沿って走る県道。

心当たりがある神社を目指す。

道路沿いにあるのですぐに判る。

ここだろうと思って停車したら違っていた。



御井(みい)神社だった。

参道は落ち葉があるものの綺麗に整備されている。

本殿造りはあまり見かけない様式である。

気になった御井神社の拝殿。



思ったとおりに造営事業の際に納められた大きな弓矢があった。

平成8年のことだ。

それから20年後は来年の平成28年。

もしかとすれば造営事業があるかもしれないが、付近には人影が見当たらない。

熊野十二権現はここではなかった。

ここより下って三叉路信号に向きを替える。

民家、一軒、一軒を尋ねるわけにはいかない。

神さんごとの行事が判るのは酒屋さんである。

なぜかといえば、お神酒である。

店主が知っているかもしれないと思って尋ねる。

奥から現われたのは若奥さんだ。

場所や行事のことを伝えたら店を出ていった。

知っている人を探しにいったようだ。

数分もまたないうちに年長の男性がやってきた。

どうやら店主のようだ。

それならすぐ近くにある真光寺を目指せという。

そこは三叉路。右折れに曲がって山の方を目指していけば右手に大日堂。

道路を挟んだ向かい側に向かって村の道を歩けば大きな杉の木がある。

そこが熊野神社になるという。

お仮屋は見たことがあるという店主の話しに手がかりを得た。



たしかにあった熊野十二権現に立て看板があった。

訪ねてくる人のために立てたと思われる案内看板だ。

それによれば・・・・。

看板にあった説明文は「石造りの社屋を石神殿と称している。三神殿のうち左殿の正面軒出東には承応二年(1653)<※癸巳八月吉日>と、石祠正面楕円形くりぬき部左右に正応三年(1290)<※四月廿口日>の刻名があり、痕跡をとどめていた。これは鎌倉期造立の層塔基部を江戸期に石祠に転用したものと見られる。なお、中殿に文中四年(1375)、右殿に明和四年(1767)の陰刻銘がある」であった。

ちなみに撮った正応三年(1290)に建之した石祠はこれだ。



円形くりぬき部に榊幣を残していた。

神事をされていた証しが見つかった。

真新しい榊幣があったことから集落に建つ家を訪ねてみる。

ここで間違いないと思うがひとっ子一人もいない。

この日は雨天。

外に出ている人はいないのだ。



反対側に建つ大日堂を思われる建物も拝見したが扉は閉まっている。

辺りに数軒の民家がある。

2軒ほど訪ねたが門を開けることもなく返答もない。

仕方がないと思ってここより数十メートル登った処の民家に立ち寄った。

門をくぐって玄関辺りで声をかける。

扉を開けて出てこられた婦人が話すお仮屋。

小さなヤカタは神さん。

それに近くに生えているヒノキの葉を伐採してヤカタの屋根を覆う。

ここら辺りは年寄りばかり。

年齢、体力的にヒノキ伐採が難しくなった。

たいそうになって2年前にヒノキ葉葺きをやめて、ヤカタは祭ることもしなくなった。

これまでは造ったお仮屋は大日堂の前に置いていたというのだ。

甘酒ドーヤの制度もあった。

トウヤが接待する甘酒は村人みんなで飲んで味わったという。

ヤカタは組み立て式。

柱、軒などの材の棒は大日堂に残しているそうだ。

かつては安寿さんがいた大日堂。

そのころかどうか判らないが参っていたようだ。

ここら辺りは寺院が多かった。

婦人が住む地区よりもさらに山の上の方はダイカンジの呼び名がある。

小字か垣内であるかもしてない。

ダイカンジを充てる漢字は知らないという婦人は平坦橿原の生まれ。

嫁入りしたころすでに無住寺だったようだ。

先代から聞いている話しによれば安寿さんが法要する十夜や会式があったそうだ。



2年前まではしていた1月15日朝のトンド焼きもしなくなった西谷垣内。

その日だと思われる日待ちも大日堂でしていた。

年に数辺は会所としても利用しているという。

春の月並祭や秋の月並祭は今でもしている西谷垣内。

酒屋さんがいうには昔は20戸の集落。

村を出る家もあって今では数軒。

訪ねた婦人がいうには垣内は7軒。

訳があって祭りごとは6軒でしているようだ。

ちなみに熊野権現の祭りは11月ではなく10月。

昔は10月19日に行っていたが、今は近い休日に移行したようだ。

神職は御井神社の宮司が務めるらしいと聞いて点が線に繋がった。

(H27.11.15 SB932SH撮影)
(H27.11.15 EOS40D撮影)

大安寺八幡宮の花御供と餅御供

2016年07月07日 08時42分11秒 | 楽しみにしておこうっと
前日に大和郡山市白土町在住の知人が紹介してくださった大安寺八幡宮の宮司。

携帯に電話してから数時間後に応答があった。

いつでも来てくださって構わないと伝える宮司の言葉に釣られて早速伺う。

前日に訪れるも不在だった宮司は社務所で待っていた。

宮司は神戸市西区が出身。

ひょんなことから大安寺八幡宮の宮司を務めることになった。

縁のさきがけは奥駆け修験者の時代。

天河大弁財天社の神徳を得て神職になった。

神社庁で学習して役に就いたのが大安寺八幡宮。

平成23年のことである。

それまで2年間は先代宮司とともに祭りに就いていた。

在住する神戸からの通いの仮住まいであった。

神戸からは片道1時間半の阪神高速道路をひた走る。

2年間は先代宮司と共に務めたが、一旦は退いて神戸に戻って生業の建築業をこなしていた。

平成27年になってからだ。

氏子から電話があった。

先代宮司が辞めることになって継いでほしいと願われた。

正式には8月15日。

9月1日には辞令もでた。

先代宮司はI氏。

杖をついて神事を行っていた。

宮司期間は22年間。

私がお会いしたのは平成20年10月11日。

マツリ前日に訪れたときにお会いした宮司はこの人に違いない。

当時の社務所はいつ損壊するかも判らないぐらいの状態であった。

いつしか新築する話題がでるようになった。

現在の社務所は平成25年9月に竣工した。

私からみれば異次元に入り込んだかのように思えるピカピカ造りである。

現宮司が話す大安寺八幡宮以外の地で行われた神事。

その地は柳生の大字忍辱山であった。

氏子が着る装束は襟か袖、足首も縛っていたという。

素襖でもないような装束と思える特殊な様相に興味をもつ行事は素盞鳴尊社の秋祭りのようだ。

宮司の出身・住居は神戸市の西区。

氏神さんは大歳(おおとし)神社である。

80戸の集落からなるそうだが、それは新興住宅地も含めた戸数。

内8軒(一軒二人)辺りでマツリをしているようだ。

マツリにつきものの料理はサバ寿司。

〆サバを作るという。

ネットによれば伊川谷町17戸の集落の氏子が継承する大歳神社のマツリに子供相撲やハナフリ、シュウシの儀式などがあるらしいが、西区には同名神社が21社もある。

どの神社が該当するのか再訪問した際に聞いて見たい、と思った。

話しを大安寺八幡宮の行事に戻そう。

この日、訪れた目的はマツリに奉納された花御供・餅御供を拝見することだ。

マツリが終わって10日余り。

おそらく幣を挿す藁束や切り物以外は朽ちているだろう。

ただ、全容が判るのはこのときしかない、早めに拝見するのが良かろうと思って二日続いて訪問する。

大安寺八幡宮の氏子圏は大安寺町、東九条町、八条町の3カ大字。

八条町の花御供はマツリを終えて地区に持ち帰るので神社に残ることはない。

社務所の縁側においてあったのは東九条町の花御供(左)と右にある大安寺町の餅御供の二つだ。

左の花御供は天頂にミョウガの花やザクロを挿している。

「八」の白抜き文字を切りとったヒラヒラ。

紫、黄、緑、赤、白色の色紙を重ねて切ったものだ。

これには「ヒョウタン」の切り抜きもある。

「八」は八幡宮。

「ヒョウタン」はどういう意味をもつのだろうか。

豊臣家と関係があるのだろうか。

土台は太めの俵造りの藁束。

そこに竹串でさした。

中間部はヒバの木の葉(檜)。

そこに大きなナスビがある。

宮司曰く「ボウズ」の名があるナスビであろうか。

右は大安寺町の餅御供。

花御供にはミョウガとザクロが挿してあるが、餅御供にはそれがない。

代わりかどうか判らないが、半ば辺りに挿した個別の竹串。

挿した食材はザクロ、ミョウガ、イガイガのクリ、カキ。

それぞれ2個ずつあるようだ。

俵造りの藁束やヒバの木の葉。

檜は花御供と同じようであるが、御供の名称に餅があるように、竹串に挿した平べったいコモチやナガモチがある。

特徴的な形式をもつ餅御供である。

二つの御供は一年間も奉っておく。

餅御供を供える大安寺町、それとも八条町では「センニンツキ」と呼ばれる餅搗きがあるようだ。

「センニンツキ」を充てる漢字は「千人搗き」であろうか。

それとも県内各地で見られる類例より「千本搗き」かもしれない。

御供も含めてマツリの様相を拝見するなら東九条町、大安寺町よりも八条町が良かろうと云う。

八条町は旧村。20戸の宮座は昔のままだという。

トーヤの家は屋外にヤシロ(社)を建てる。

大きさ、形が気になるヤシロである。

八条町も花御供。

トーヤ家で作ってマツリのときに奉納する。

東九条町はやや簡素化しているそうだ。

かつてはトーヤ家でされていた在り方は公民館に場を移した。

そこに祀る分霊は固定しているようだ。

大安寺町はトーヤ家。

ヤカタは屋内に祀る。

これらのヤカタ、御供作りはいずれもマツリ前の金曜日にするようだ。

本殿前に建つ拝殿は古いらしい。

この拝殿は中門と呼ぶ。

中門の翼(よく)は座敷がある中間を意味する。

つまり左右に座小屋があるということだ。

座が座る位置は決まっている。

左座は畳敷き。

右座は板の間である。

格が違うのであろう。

初めてお会いする宮司と長話。

天河の宮司さんの名前も挙がり、滞在時間も長くなった。

その間にお参りをされる村の人。

男性、女性ともに多いのである。

お参りをされる度に挨拶をされる宮司。

信仰心もあるが、お互いが厚い信頼感で結ばれているのだと思った。

(H27.10.22 EOS40D撮影)