マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

北京終町京終天神社花切祭の梅の枝花

2016年06月17日 08時54分39秒 | 楽しみにしておこうっと
氷室神社宮司の大宮さんがFBで紹介された花切祭に興味をもった。

祭りごとの場は奈良市北京終町に鎮座する京終天神社。

JR京終駅より北方数百メートルの地にある。

神社も含めて、ここら辺りに駐車場は見当たらない。

花切祭は前日であった。

宮司より「梅ケ枝は本殿左右にお飾りされており、いつでも見える状態にある」と伝えてもらっていた。

どのような形で飾られているのか、大きさはどれぐらいなのだろうか、拝見したく立ち寄った。

梅ケ枝は宮司が伝えたとおりに本殿左右にあった。

一対ものである。

赤色、白色の紙を梅花の形に切り取って花弁とする。

花弁が赤色であれば雌蕊・雄蕊にあたる中心部の色は白色だ。

逆に白色であれば中心部は赤色になっている。



愕の色も同じような考え方であろうか、花びらが赤色なら愕は白色になっていた。

交互に色を組み合わせることで広がり感があり、左右一対の梅花が豪勢に見える。

一本の梅の木に小型の梅花はざっと数えて50枚ぐらい。

一枚だけは大型の梅の花になっている。

梅ケ枝を拝見しているときだ。

一人の男性が寄ってきた。

訪れた主旨を伝えて話しを伺う。

男性は神社役員の一人。

たまたま用事があって神社に来られたようだ。

花切祭を務めたのは当座(当家座)の人たち。

むかしのことだが、と前置きされた座中はかつて百姓、つまり農家組合の方々だという。

組合のなかから一年交替で選ばれた数名が座中を務める。

人数は6、7人ぐらいだそうだ。

話してくださった役員さんの任期は6年間だが、総会で交代者の指名もなく継続していると話す。

氏子は北京終と南京終住民。

特に南京終は新興住宅が増えて町内の戸数は2400戸にもなるという。

氏子数が多いこともあって町内を六つに区分けして、それぞれから役員を選出しているそうだ。

10月第二土曜日はヨイミヤ。

夕方ともなれば参拝住民が行列をするぐらいに並んでお祓いを受ける。

途切れることなく夜9時ころまで続くらしい。

男性が子供の頃の60年前。

当時製作した子供神輿はオーコで担いで町内を練っていた。

今は体力も弱くなり曳行する形式になったそうだ。

それでも50人の子供が曳いてくれるのでとても賑やかになると話す。

鈴の緒に括って垂らしたカラフルな紐がある。

子供の名を書いた紐は奉納寄進者。

毎年新調するという。

役目を終えた一年後は子供神輿の飾り付けに再利用する。

それも役目を終えた翌年の護摩木焚きで焼納するという。

ちなみに切り紙で作った梅ケ枝の心棒は金属製。

広がるように枝を広げて作った枝にテープを巻いている。

なんでも昔は本物の梅の木だったそうだ。

いつしか採取することが難しくなり、今の形態にしたようだ。

(H27.10. 5 EOS40D撮影)

下子島・鶉町のダイグウサン

2016年03月28日 08時37分35秒 | 楽しみにしておこうっと
昨年来より高取町下子島で行われているダイグウサンを調べている。

5月、9月、12月の16日。

朝に当番の御供があるそうだと知人に教えてもらっていた。

「朝」という時間帯は判然としないが7時半過ぎに訪れた。

この日は雨だった。

一時間待てども関係する人はやってこない大神宮は「皇大宮」の刻印があった。

諦めかけたが田植え機を整備する男性に聞けば「街道をもう少し行った家のおばあさんがよく知っているから尋ねてみては」という。

在宅していたその人は昭和5年生まれの86歳だった。

下子島の生まれだけに様々なことを話してくださる。

婦人が云うには「ダイグウサン」の行事は1月、5月、9月の年に3回。

いずれも16日で朝9時に提灯を掲げて祭っているという。

明治十二年に建之された「皇大宮」がある街道は鶉町通り。



下に新町ができて5、6組に分けた当番組がそれぞれの月に祭りごとをしているようだ。

話を終えて再び拝見した「皇大宮」には雨にうたれて消えた1本のローソクが立っていた。

今月の組は新町だった。

高取町在住の知人が贈ってくれた大正14年生まれの著者・荒井留五郎氏が平成9年に発刊された自家版『奈良県の太神宮常夜燈』によれば奈良県内に太神宮塔、或は大神宮塔が750基もある。

県内各地に存在する大神宮塔を祭る「ダイジングサン」行事はすべてで行われているわけでもない。

数は少ないが毎月の16日に行われている地域もあれば一年に数度、ある月の16日の場合もある。

圧倒的に多いのは一年に一度の7月16日である。

なぜに16日であるのかどの村に聞いても答えは返ってこない。

著書によれば、田原本町北組が所有する神号掛軸裏面に「例祭日大陰暦六月十六日」の文字があるという。

その日は伊勢神宮の月次の大祭だそうだ。

先般伺った畝火山口神社・大谷宮司が届けてくれた書簡。

「大神宮の行われる日が十六日なのは伊勢神宮の月次祭が十六日で、その関係であるのかも知れない」と教えてくださった。

ありがたい教えに感謝する。



下子島・鶉町にある「皇大宮」後方に咲いていた柘榴の花。

雨にうたれて色合いが映えていた。

(H27. 5.16 EOS40D撮影)

大谷町の伊勢講

2016年03月14日 09時23分49秒 | 楽しみにしておこうっと
大正三年・九年、昭和七年十月二十八日など伊勢講中が書き記した『伊勢講計算帳』がある。

ご厚意で拝見させてもらった大谷町の伊勢講は8軒。

かつては20軒、或は27軒、多いときには30軒もあったという。

それは新伊勢講を加えた軒数だった。

新伊勢講は昭和20年に解散されたが、10軒で営んでいた旧伊勢講は現在7軒。

2か月に一度はヤド家に集まって掛軸を掲げていると話す。

講中でもある畝火山口神社・大谷宮司家は前回がヤド家だった。

「申し送りはまだですので掛軸・講中綴りを見てください」と云われて拝見する。

ご厚意で撮らせてもらった掛軸は彩色豊かな雨宝童子像だった。

古びていたことから新調したそうだ。

軸箱は残されておらず時代は不明だ。

伊勢講の「講中綴り」はそれほど古くないのです」と話す宮司。

綴りを一枚、一枚拝見したら嘉永四年(1851)十二月吉日記の綴りが出てきた。



165年前である。



「はじめて知った」という宮司は驚きを隠せない。

なかには大正三年に記された『規約書』がある。

「専ラ天照大神ヲ尊敬・・将来ハ講中代参・・年請スルヲ目的トス・・」などが書かれてあった。



2歳児の孫さんは「これ見たらあかん」と思ったのか、手で隠す。

20年ほど前まではヤド家で「ハコゼン」と呼ばれる膳があった。

焼きもの、煮ものに吸いものを肴に酒を飲む。

いつしか膳は寿司になった。

それも取りやめて掛軸を掲げるだけになったという。

ちなみに畝火山口神社では2月28日にお田植祭が行われている。

神事に松苗を奉られる。

宮司は「その松苗は苗代に立ててください」と伝えているが、松苗どころかイロバナも立てることはないようだ。

そういえば飯高町区長が話していた「橿原市内では苗代あっても松苗・イロバナは見たことがない」である。

県内でオンダ祭が行われている地域は69カ所。

なかでも松苗・杉苗・稲苗・椿・サカキ・ウツギなどの模擬苗がある地域は54カ所。

私が実見した限りではあるが、すべての地域がされているわけではないことを付記しておく。

(H27. 5. 5 EOS40D撮影)

終わっていた榛原石田の涅槃さん

2015年11月17日 08時01分22秒 | 楽しみにしておこうっと
2月、3月に行われている涅槃会を調べている。

立ち寄ったのは宇陀市榛原石田。

到着したときはすでに終わっていた。

石田の涅槃会は3軒の涅槃講で行われている。

「ゴゼン(御膳)」を供えて般若心経を唱える。

ゴクマキは前日に大量に搗いた涅槃さんの「ハナクソダンゴ」を撒く。

手に入れる村の人たち。

いっぱいになった袋に詰めて持ち帰る男性たちに講中を紹介させてもらって掲げていた涅槃図を拝見させていただく。



涅槃図は昭和51年に表装しなおしていたが、釈迦涅槃像箱には「和州宇陀郡石田邑 信心施主 □□□□」、「寶暦九己卯歳(1759)二月十五日」の文字があった。

涅槃図裏面に書いてあった文字は「為奉修西國三十三所須禮現當二世安楽供養也 寶暦九己卯(1759)歳修覆講中寄進名記」、「天上天下唯我独尊 三界皆苦我等安之」、「和州宇陀郡石田村 知足庵什具」だ。

「知足庵」とある寺院は現存しないが、伺った講中の話しによれば墨書されていた講中寄進名より8軒の森田一統が古来より守ってきたと云う。

その後というか、表装しなおした昭和51年は5軒に減少していた。



石田に残されていた釈迦涅槃像の掛軸は寶暦九年(1759)に修復されたと書かれていることから製作年代は不明ではあるが、宝暦以前から涅槃講が存在していたことがと判った。

さらに書かれてあった「維持安政第二乙卯歳二月如意為表具之」。

「此度大破故再表具」、「當庵五世玉洌代」。「世話方 尾木善兵衛 仝勇助 前定七 仝定八 □(もり)田門三良 同甚右エ門 同於タカ 寄進名前記 興吉良 重五郎 興八 庄次良 輪戴」。

つまり釈迦涅槃像の掛軸が再び大破して、安政二年(1855)に再修復したとあるのだ。

宝暦修復よりおよそ100年後のことである。

さらに時代が進んだ昭和51年(1976)2月25日にも修復された表具。

安政時代より128年後のことである。

隣村の栗谷・大念寺に伝わる涅槃図は寛政八年(1797)作。

平成17年に修復されたものの宇陀市の有形文化財に指定されている。

石田に残る涅槃図は宝暦九年(1759)。

修復されてはいるものの栗谷より39年も遡るのだ。



久しぶりにお会いしたこの地に住む民俗学者のUさんとともに拝見した涅槃図。

寶暦九年(1759)に修復されたと書かれているのを現認した。

年代は不明ではあるが、宝暦以前に製作された涅槃図であったのだ。

石田の涅槃会の様相はメディアネット宇陀が公開している。

石田の年中行事の一部をお聞きした。

現在は第二日曜日になったが、元々は4月15日だったオンダ祭は六社(むつばしら)神社で行われている。

神社行事は村行事。

神職のお祓いを受けて供えた一升モチ御供を蒔くゴクマキがある。

同月の8日は涅槃講のアマチャがある。

講中は3軒。

毎年交替するヤド家にお釈迦さんを祭って甘茶をかける。

終われば次のヤド家に移る廻り涅槃さんは珍しい。

講中は解散するかも知れないと話していた。

できる限り早いうちの取材をお願いした。

1月の成人の日にはトンドが行われる。

朝にトンド組みをして10時に火点け。

鎮火すればモチをトド場に持ち込んだ網で焼く。

ふるまいぜんざいもしているらしい。

苗代を作るときに何らかのモノを水口に挿すことも考えられて尋ねた。

結果は同神社でなく三輪さんで授かったモミだった。

苗代にカヤススキを立てる。

ハナも立ててキリコを供える。

供えるのは朝。

そういった行為はおそらくトンドとの関連がある可能性が大である。

トンドは隣村の栗谷も行っている。

話しの様子から垣内単位のようだ。

ダケノボリがある。

日程は不定日のようだが、おそらくは桜が咲く季節であろう。

登る山は標高637mの伊那佐山。

頂上辺りだろうか、神社が鎮座しているらしい。

その神社は都賀那岐(つがなき)神社。

大字山路氏子総代や十二カ大字の自治会長が登って参拝する。

石田のマツリにお渡りがあるらしい。

実施月は聞きそびれたが分霊を祀ったと思われるヤカタがある。

それをトーヤ家は一年間も自宅で祀るそうだ。

石田の先祖はヤカタ。

木の箱やという人も居た。

また、逮夜に御詠歌を唱えている。

葬儀の家には来迎図を掲げるようだ。

(H27. 2.11 EOS40D撮影)

目安春日神社の正月迎え

2015年09月24日 08時41分41秒 | 楽しみにしておこうっと
もしや今日ではと思って出かけた斑鳩町目安(めやす)の春日神社。

10時に終わったと一人の宮守さんが話していた。

朝8時から3人の宮守さんと垣内代表3人の手伝いとともに済ませたと云う門松立てと注連縄掛け。

竹で周りを囲って砂を盛る。

松・竹・梅を立ててナンテンやハボタンを添えていた。

春日神社の宮守はかつて5軒の特定家が担っていた。

2軒が退かれて今では3軒。

維持することが困難になり、3垣内の代表3人を加えるようにされた。

一年交替の垣内代表者とともに春日神社の年中行事を行っていると話す。

「ここらは水ツキしやすい土地だった。

あの辺まで水が来たら危なくなる。

そういう水ツキの「目安」になるから大字の名が目安になった」という。

目安は60戸からなる旧村であったが、新興住宅が増えて今では90戸になった。

増えた理由の一つに疎開から戻ってきたということである。

目安はおよそ7割が農家。

田園が広がる地域である。



簾型の注連縄は単に「シメナワ」と呼んでいたが飾り付けはあとになると話していた。

90戸の集落をぐるりと巡って戻ってきたたら、もう一人の宮守さんがやってきた。

ウラジロ、ユズリハ、ダイダイ、カタスミを注連縄中央に飾り付けをする。



クシガキは二日後の30日にするようだ。

注連縄は笹の葉付き。

できる限り葉が色落ちしないように前日に作られた。



モチワラを七、五、三本ずつ繰り返して巻き重ねて作ったと話す。

モチワラは神さんごとやからワラ打ちをしないという。

刈り取るときも綺麗に揃えておく。

神社行事に出仕される龍田神社の先代宮司より、そう伝えられて現在に至る宮守さんは若い時から神社行事を務めてきたから今でもいわれた通りに行っていると話す。

「ちょっと待ってもらったら花立てにビシャコを立てるから」と云って家まで戻って持ってきたビシャコ。

サカキの代用にそうしているという。



花立ての土台は亀さん。

ユニークな形である。



コミヤさんや神域外にある行者さんにもビシャコを立てる。



昭和9年に大和川の改修工事でこの地に遷った。

その改修記念に鳥居を建てたそうだ。

かつてはもっと広かったと云う鎮座地。

そのときに行者さんや神武さん遥拝石標を遷したそうだ。

翌年のトンドで燃やされる簾型の注連縄はそれまで飾っておくと話したご主人が思い出す30年前にしていた「砂モチ」の風習。

大晦日に大和川の奇麗な川砂を竹製のモッコに入れて境内に運んだ。

家族の人数分の数だけ砂を盛った。

8人家族なら八つの砂盛り。

村じゅうの人たちがしていた「砂モチ」。

分量が増えて境内が高くなりすぎことから中断したと云う。

目安のトンドは成人の日の前日日曜日。

大和川の堤防したで行われる。

点火は朝8時である。

正月元日は朝に御膳を供える。

2月3日は「トシコシ」。

朝8時、煎った大豆をオヒネリにして供えておく。

数量は7品だ。

村の人がお参りする。

その際に持ってきた豆を供えた豆を交換して持ち帰る。

「サナブリ」は6月下旬の日曜日。

朝9時に祭典がある。

目安の田植えがすべて終わったときに行われる行事は田植え奉告祭であろう。

マツリは10月の第一日曜日。

前日の土曜日に行っていた「ヨイミヤ」はなくしたという。

大阪平野の大念仏のご回在はそれより前の7日か8日辺り。

稀に9月末になる年があるというから、そのときは山間に出向く大和ご回在の年であろう。

12月17日に近い日曜日はイノコマツリとも呼ぶ新穀感謝祭。

氏神さんは春日神社。

春日若宮おん祭と同じ日にしていたという。

ちなみに近隣の大字服部では30日に門松立て・注連飾りをしているようだと話していた。

機会があれば伺いたい。

(H26.12.28 EOS40D撮影)

野神町の注連縄

2015年09月20日 08時53分07秒 | 楽しみにしておこうっと
奈良市の西大寺野神町を訪れた。

調べたいのはオトナ野神座である。

西大寺野神町には野神神社が鎮座していた。

三つの房を垂らした真新しい注連縄があった。

元禄十五年(1702)に建之された石灯篭に「野神社」とあることから野神神社である。

野神神社は大正三年八月に北方に鎮座する十五所神社に合祀されたが今尚こうして注連縄を架けていた。

境内には公民館があるが扉が閉じられているので拝見することはできない。

ここより西へ数百メートル歩けば西大寺野神緑地公園がある。



その傍らにお地蔵さんが祀られていた。

ここにも注連縄を架けてあった。

奉仕する人たちによって架けられたのであろうと思って付近を散策する。

野神神社近くの民家におられた男性にマツリの件を尋ねた。

オトナ野神座による講紀祭は12月15日に行ったというのだ。

村の男の子が座入りする「座」があるという。

十五所神社の祭祀をつとめているのが「座」である。

右座(おうざ)、左座(あんざ)のそれぞれに九人衆、十人衆がいる。

大昔は五人衆だったそうだ。

注連縄を作って架けたのは「座」の人たちだった。

神社の年行事はいくつかあるらしい。

一年神主に年当番の3人がつとめている。

両「座」の最長老は元老と呼ばれる。

昭和2年生まれのご主人はその元老だった。

「歳はいったがなかなか辞めさせてくれないので今でも「野神座」の元老を務めている」という。

講紀祭の日は朝8時から境内などを清掃する。

それから注連縄を架ける。

オトナの呼び名があるのは七人衆。

長老たちをそう呼ぶのであろう。

神事はといえば、宮神主(一年神主)の引継ぎになるという。

(H26.12.25 SB932SH撮影)

10月のマツリ

2015年05月05日 08時22分59秒 | 楽しみにしておこうっと
昭和41年に祝日となった体育の日は10月10日であったが、平成12年のハッピーマンデー制度によって第二月曜日となった。

土曜、日曜から続く3連休は毎年ころころ替る。

連休にしていたマツリがこれによって大変動。

体育の日を基準にしていた地域は前日が第一日曜、或いは第二日曜になる年がある。

一方、第二日曜を基準にしている地域もあるから益々ややこしい。

本来、マツリは固定日が多かった。

サラリーマンが多くなった昨今では集まり難くなったことから連休にする地域は増加する傾向にある。

固定日でないから村の人に尋ねても「さぁーいつだったけ」である。

平成12年以降のマツリ日はおよそ第二日曜日や体育の日に移す地域が増えた。

情報を集約してみれば一番多いのは第二日曜日だ。

私が調べた情報によれば平成18年の第二日曜日は30行事ぐらいだった。

その後の平成26年では138行事である。

ちなみに平成18年の体育の日は15行事だったが平成26年は47行事である。

地域の行事が移行して増えたわけではなく、地域へ足を運んで情報を得たことによってである。

行事が多いのは第二日曜だけでなく、第二土曜も多い平成26年は73行事もある。

時間帯、行動範囲を考慮して一日かけて取材するにも限度がある。

かつてマツリ取材をした地域から「また来てや」と云われるが、ひと廻りしてから・・・と考えてみれば一日に5行事を取材する年数は単純計算するにしても137行事では28年間。

若い人ならまだしも、年齢的に間に合わない。

「たぶんに無理です」と断っている。

翌週の第三土曜の18日は41行事、日曜の19日は52行事もある。

奈良の行事はまだまだ知られていない行事がある。

私が知り得た情報の十数倍、いやそれ以上。

取材を優先すべき行事は・・・はてさて。

(H26.10. 1 EOS40D撮影)

鹿路の行事

2015年03月21日 08時12分39秒 | 楽しみにしておこうっと
昭和32年に発刊された『桜井町史続 民俗編』に桜井市鹿路の「十八酒」が記載されていた。

数え18歳の男の子は名を替える。

いわゆる元服である。

大字産土神である天一神社の御前にて一人前になったことを奉告するのである。

村の大人の仲間入りとして認める儀式。

かつては各家で行われていた。

村人を招いて、将来を祈念する披露の場に酒盛りがあった。

18歳になった祝いということで「十八酒」の呼び名がある村の行事。

明治維新になって元服の儀式が廃止となったことから、「十八酒」だけをするようになった。

昭和拾年代では別にあった幼名を戸籍上の本名で名乗る「名替え」もあったようだ。

祝いの場の料理は特別なもの。

南京カボチャを煮付けた「突出し」は一皿。

茄子の田楽を盛った二ノ魚も一皿。

「さしみ」と呼ばれた茗荷の塩茹で・凍蒟蒻・十八豆・紅白短冊のところてん・ユリネの塩茹で盛りも一皿。

茄子味噌漬けも一皿である。

料理はそれだけでなく、椎茸・薩摩薯の油揚・末広昆布・梨・高野豆腐を詰めた組重に五升の酒があった。

当人は紋服羽織袴姿になり、家族・親戚縁者の付き添いで天一神社に参拝する。

剃髪の儀を経て荒蓆を敷いた場にご馳走を並べる。

設営が終わるころに村人がやってくる。

招かれた男・女・子供に至るまでの人たちを迎える祝宴である。

別席についていた当人は宴半ばに現れて、下座に着座し披露の挨拶をする。

次に大きな飯椀に注いだ酒杯は区長と取り交すという様相は今でもされていのだろうか。

その状況を知りたくて訪れた天一神社にはどなたもおられなかった。



神社拝殿前にあった真っ赤なウインナーソーセージ、ではなくツチアケビである。

伐り倒した樹木の土台に生えていた。

その傍にも一株あるツチアケビの実に見惚れていた。



神社周辺には数軒の家がある。

付近に住む婦人に行事を尋ねてはみるものの明快な答えはなかった。

知らないようだった。

それなら隣家の男性のほうが詳しいというが、不在であった。



もう1軒も不在であったが、軒先に箕に干した梅を盛っていた。

染めたシソの葉もある梅干しの色合いが美しい「食」の民俗は軒先にあったのだ。



下った地に公民館が建っていた。

もしやと思って訪ねた家は公民館横。

声を掛けた男性は昭和4年生まれの84歳。

神社行事は引退したもののかつての在り方はご存じであった。

「十八酒」は村で生まれた男の子が対象者であるが、養子婿入りで村入りした男性も対象になるという。

実例年齢であるが、38歳の村入り男性も「十八酒」に祝宴をしたという。

羽織袴姿の区長が迎える村入り男性。

蓆を敷いた場にご馳走を広げて「十八酒」の宴。

ご馳走は参拝したすべての村人に配ったという。

数え18歳は高校三年生。

その家の家人がご馳走を作る。

カボチャや田楽味噌を塗ったナスビとかミョウガの「炊いたん」など5品があった。

大きな椀に盛っていたご馳走はすべての村人に配るのでものすごい量を作った。

およそ100人前ぐらいだったと思い出される。

それらを持って天一神社に参る。

神社のご神体は杉の大木だ。

当人も区長も羽織袴姿で参って儀式をしていたそうだ。

盆明けの8月19日。

昼過ぎに青年さんが迎えにきた。

ミシロ(ムシロ)を敷くのも青年さん。

行事を下支えする手伝いをしていたという。

神事を執り行うのは区長の役目。

祝詞を奏上するが、対象者はいない。

今後もそうであろうと思う少子・高齢化時代である。

鹿路は天一神社が鎮座する地区を宮垣内。

公民館がある地区は下垣内。

それより南側が上垣内の3垣内になるという。

かつては20戸近くもあったが、今では12~13戸の集落になったという。

10月の日曜には秋祭りがある。

参道に道標の提灯を掲げてひと晩過ごす。

9月は「カンサイ」と呼ぶ行事がある。

充てる漢字はおそらく「神祭」であろうと話す。

朝早く集まって神社境内を清掃する。

水を汲んだバケツを持ちこんで境内の小石を洗って奇麗にする。

正月四日は綱掛祭

今では四日に近い日曜に移った。

ウルシの弓、ススダケとも呼ぶススンボの竹で矢を作る。

弦は苧である。

弓初めの儀式を終えて北の入口に綱掛けをする。

綱はオーコで担いだ。

「綱をまくったら男になる。豊作やといって川までまくった」と話すYさんは「面白半分にしていた」という。

横柿・今井谷・生田・浅古・下・倉橋・下居組(下居・針道・鹿路)・音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の廻りで営む八講祭。

鹿路は下居・針道とともに八講祭を営む下居組になる一つの大字である。

今では談山神社が祭事の場となっているが、かつては下居の八講堂であった。

歩いて出かけたお堂でひと晩泊った。

ご神影(しんえい)を奉上する際に謳いがある。

今ではカセットテープに替った大字もあるが、鹿路は生唄。

公民館で稽古をする謡曲は観世流の「四海波」、「高砂」、「海人」だそうだ。

息子が稽古しているから生唄である。

下居組が廻りにあたる年は5年後の平成31年。

生唄の謡曲は是非とも拝聴したいと思った。

(H26. 8.19 EOS40D撮影)

小夫の旧暦閏年の庚申講

2015年02月07日 09時22分41秒 | 楽しみにしておこうっと
桜井市小夫の天神社を下った地。

針から長谷寺で抜ける県道38号線に遭遇する三叉路の右に2戸の覆い屋があった。

それぞれに存在が大きな二段重ねの岩があり、いずれも天正十一年(1583)造立で阿弥陀六字名号が刻まれている磨崖仏。

その場に枯れた竹が立ててあった。



紛れもない旧暦閏年に行われている庚申さんである。

「トアゲ(塔上)」と呼ばれているようだ。

枯れているがシキビにアセビと思われる花が挿してあった。

排気口のように見えるがハナタテに違いない。

もう一つは竹の上部を四つに割いたゴクダイだ。

住民の話しによれば今年は旧暦の閏年。

この年の「大」の月は9月。

毎回4月初めの日曜に行っているというが、願文を書いた庚申杖は見当たらない。

家に持ち帰ったのであろう。

ここは東・馬場垣内。西では上・桑垣内がしているようだ。

奈良県内では桜井市都市部で26カ所、山間では17カ所もある。

他に橿原市・明日香村にはそれぞれ10カ所、田原本町は7カ所。

天理市山間・宇陀市室生・大宇陀にそれぞれ4カ所で榛原は3カ所。

また、奈良市東部山間、旧都祁村、御杖村、高取町、吉野町に1カ所ずつあるようだ。

旧暦閏年の庚申講の分布や祀り方すべてを調査するには年齢的に無理がある。

(H26. 7.22 EOS40D撮影)

薩摩のさなぶり

2015年01月05日 07時17分42秒 | 楽しみにしておこうっと
「さなぶり」なら市尾でもこの日にしているはずやと話した佐田の人。

訪れたのは隣村の高取町の薩摩である。

到着したときは、神職による神事が始まっていた。

ご挨拶はできていないから鳥居下から拝見していた。

誰がきよったんやろかというような感じで見降ろす村の人。

神事を終えて取材目的を伝えたら、登ってもらってもよかったのに・・と云われたが、来年の楽しみとしておこう。

神饌を供えて斎行された神職は下小島・小嶋神社の宮司さんだ。

4月1日に行われる丹生谷・船倉弁天神社の御田祭でお世話になったことがある。

のちに聞いた話しによれば、宮司の在地が薩摩だったのだ。

神事は祓えの儀、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌だった。御供を下げて直ちに下にある公民館内に移動して直会が始まった。

立ち去る際に伝えられた近隣の「さなぶり」行事。

森では16時で、吉備は17時だと云った。

参考にしておこう。

また、隣村の兵庫では夏祭りがある。

今年は7月13日の日曜日だったそうだ。

兵庫のマツリは派手でゴクマキがある。

撒かれるモチには当りの番号があって取り合いになるそうだ。

ひっそりとした春日神社でしばらくは佇んでいた。

境内に数基の燈籠がある。

うち一基に天保十一年(180)に建之された燈籠があった。

社殿は立派な造りである。

(H26. 6.29 SB932SH撮影)