マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

大根田散策に井戸神さんの祭りごとを見る

2019年02月26日 09時08分21秒 | 楽しみにしておこうっと
昭和62年3月に発刊された『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。

編纂は飛鳥民俗調査会だ。

その中に明日香村大字大根田(おおねだ)にある於八王子神社の行事が書いてあった。

行事の名前は「十一月二十三夜」であるが、その名でされているかどうかはまったくわからない。

『飛鳥の民俗』に書いてあった記事を要約、一部加筆修正して次に記しておく。

「大根田は檜前の分かれの村と伝えられる。村には宮講がある。座は10月8日。前日までに宮講の頭屋は吉野川に出向く。川に入水して水垢離をする。その際に拾ってきた川の小石を3個持ち帰って、本社殿前に置いていたが、昭和17、18年ころに中断した」とある。

マツリ当日の「8日の頭屋は、床の間に掛図をかけて燭台に百目の蝋燭を一対立てて供える。翌日の9日の未明。講中は頭屋家に参集して、オカリヤに礼拝をする。御幣を持った頭屋を先頭に蝋燭、供物等を手分けして行列。その際、区長が白扇を開いて“ゴヘイノ ゴヘイノ ワァ”と云ったら、講中は“ワァ”と応じる。これを繰り返しつつ出発する。到着した講中は神前に般若心経唱えてお神酒をいただく。このときの頭屋は御幣をもって講中一人ずつに廻る。その際の講中は頭屋の御幣の紙を千切って胸紐や頭髪に挿す。もち帰った御幣の紙は神棚に上げて、翌年のトンドで燃やす」とある。

“ゴヘイノ ゴヘイノ ワァ”は他村の行事にも見られるが、御幣千切りの紙片扱いは、私が知る範囲ではここだけだと思う。

9日の宮講行事は、まだ続きがある。

祭典後に行われる頭屋の引き渡しである。

その儀式には詳しく書いていないが、翌日に頭屋の諸道具を次の頭屋家に送るようだ。

特徴的なあり方は、8日の夜から翌日の9日の朝まで、である。

トンドに火を点けて青年団が不審番をすることだ。

その夜は籠り。

頭屋から握り飯や、ゴンザと呼ばれる煮物料理に餅、酒で一晩過ごしたようである。

今どきはしていないと想定される不寝番。

正月を迎える歳旦祭でさえ、しなくなった村は多い。

他村の事例はどうであったのか、聞きたくなる在り方である。

続けて書いてあったのが、本日訪問して聞き取りたかった「十一月二十三夜」である。

記事に、「十一月二十三夜、五月のミユ(御湯)焚く日、その他、八朔に弁当をもって宮に行く。毎月の1日、15日は神社の清掃にお供え。1月14日のトンドはアトサキ頭屋の人も加わった3人で組み立てた。トンドの火点けは頭屋。神前燈籠のオヒカリから移して火を点ける」とあった。

大根田の地は未だ行ったことがない。

神社の場も知らず、カーナビゲーションにセットして車を走らせる。

セットした神社地がここです、と伝えるカーナビゲーション。

車は公民館の敷地内に置かせてもらったが、神社はどこに・・。



見上げた高台に玉垣などが見える。

参道がどこにあるのかわからず、辺りを歩いてみる。

登りの細い里道があった。



誘われるように登っていった所に神社が建っていた。

拝礼させてもらって辺りを見る。



周りにあった神さんは「富士大権現」に「金毘羅大権現」。



「御霊大明神」に「大峰山上」を刻んだものもある。

境内にある大岩は二つ。



何であるのかわからない。

辺りを見渡しておれば、下り石階段があった。



その階段横にあった石塔は「太神宮」。

お伊勢さんの遥拝、或いは伊勢講の存在を想起できる石塔があった。



どれもこれも真新しいサカキを立てている。

『飛鳥の民俗』に書いてあった1日、15日参りの頭屋が供えたのであろうか。

境内は落ち葉もなく綺麗に清掃しているから、たぶんにそうであろう。

石段を下れば公民館。

なるほど、ここが正門であったのだ。

この日の午後は大阪の吹田市立博物館に向かう。

講演時間まではたっぷりあるから大根田を散策してみたくなった。

少し歩けば、路傍の石仏のような構造物があった。

どことなく人物像にも見えるそれに綺麗なお花を飾っていた。



すぐ傍にある祠にも花を立てているから信仰のある方がおられる。

そう思って向かいにある民家を訪ねてみる。

呼び鈴を押したら奥からご婦人が出てこられた。

ここに来た要件を伝えたら、「十一月二十三夜」行事は嫁入りしたとき、すでにしなくなっていたという。

嫁入り時代は50年前に遡るようだから、昭和42年ころの時代になる。

吉野川の水垢離。

つまりは「オナンジ参り」である。

嫁入りする以前の昭和17、18年に途絶えていた、と『飛鳥の民俗』に書いてあった。

『飛鳥の民俗』の記事は行事名の「十一月二十三夜」だけであることから、調査・編纂した飛鳥民俗調査会が聞取りされたのも名前だけだったように思える。

実際の「十一月二十三夜」を知る人は今もおられるのかどうかは非常に難しいが、婦人に話した「十一月二十三夜」をしているのは奈良県内では1カ所。田原本町の神社と言いかけたとき、である。

「守屋さんとこの村屋神社」と婦人が云った言葉にびっくりした。

守屋宮司が一人でしている「十一月二十三夜」は村屋神社境内社の恵比寿社行事の「三夜待ち」。

二股のダイコン、2本のニンジンに2尾の生鯛を笹に吊るす。

恵比寿社行事は12月23日であるが、「十一月二十三夜」の可能性があると判断してやってきた八王子神社にはそれがなかった。

それにしても宮司の守屋さんを何故に・・存じているのか、である。

高取町が出里の婦人が云うには遠い親戚筋になるそうだ。

近い親戚筋にあるのが五條市霊安寺町・御霊神社の藤井宮司。

現在70歳になられる宮司とは平成26年の4月28日に表敬訪問した際にお会いしたことがある。

こうしたご縁はどこかで繋がる不思議なもの。

婦人もそうですね、と云っていた。

ちなみに嫁入りした大根田は門徒衆の浄土宗派。

他派のような営みがないことから、藤井宮司に来てもらって家の行事をしているようだ。

ところで大根田の宮講は「座」行事があった。

過疎化の村は18戸であるが、実際に動ける戸数は15軒になるらしい。

行事の負担は極力落として、ついこの前までしていたパック詰め料理の御膳もしなくなった。

膳を辞めた大改正は7、8年前になるらしい。

神饌を抱えて神社へのお渡りはあるが、料理関係の一切を中断したという。

宮講座中のトーヤ(頭屋)にアト・サキのトーヤとともに小規模ながらも祭典をしている。

『飛鳥の民俗』に書いてあったように毎度入替するサカキ立てはしている、ということだ。

家の前にある庚申さんに地蔵さんの花立ては、家の真ん前にあるから私が飾っているという。

話してくれた門屋の前にあるのは御井戸である。



そこにも鳥居があるからサカキを立てているというから、井戸の神さんも祭っている。

地元民が来られたので民俗探訪の聞取りはここまでであるが、花を立てていた庚申さんの行事はしているようだ。

庚申講の組は2組。

新暦の閏年にトーヤがお供えをするなどの閏庚申行事があった。

元々は旧暦であったような気はするが、言葉の端々にどことなく塔婆を立てているような感じを受けた。

『飛鳥の民俗』の記事はもう一つある。

藤原鎌足公の掛図を掲げる八講さん、である。

八講さんの場は観音寺。

区長預かりの鎌足親子三像の掛図に立御膳もあるらしいが、婦人の話しの様相から、この行事も廃れている可能性も拭えない。

いつか、もう一度訪問して伺ってみたい、と思うのである。



そうそう、婦人がここ大根田にはお不動さんもあると云っていた。

そこはすぐにわかった。

川沿いの一角にあった石標のような構造物がそれであろう。

(H29.11.23 SB932SH撮影)
(H29.11.23 EOS40D撮影)

東鳴川町春日神社行事の民俗探訪2

2018年12月12日 09時53分48秒 | 楽しみにしておこうっと
先週に伺った柳生の地。

住まいするI宮司が話してくれた奈良市東鳴川町の神社行事がある。

宵宮の夜八時。ゴボウ、ニンジン、ダイコン、コンブ、シイタケの五菜の生神饌を一括りにして供える。

それらは御供箱に入れられる。

他にコンニャク、ホウレンソウの箱もある。

稲は早稲、中稲、おくもを一老、二老が一人ずつ本殿に乗せる。

半紙にシトギ。それは大きなもの。

トーヤがすり鉢でコメを摺る。

かつては生きたコイも供えていた。

トコロの根はコンブに代わった。

藁にギンナン、カヤの実、タチバナ(コウジミカン)に生サバと吊しカキが並ぶらしい。

話しを聞いてから7年も経ってしまったが、良き機会に取材をさせていただくべく東鳴川町を訪ねる。

神社もお寺もはっきりと認識している場所は平成22年の3月19日の映像である。

村の人が見当たらなくて途方に暮れた。

時間も夜が迫る。

諦めて帰路についたことを覚えているが、今度こそ村の長に会って取材許可を得ておきたい。

そう、思って7年ぶりに再訪した東鳴川町。

目的地の神社やお寺がある地は急な坂道を登ったところにあるが、停める場はなかった。

仕方なく狭い道でハンドル切り回し。

県道に下りて不空羂索観音坐像を見学される方のために作られた駐車場に置かせてもらう。

そこからは歩きの山道登り。

車でも相当な角度の道に足はどんより。

なんとか登り切って神社に向かう。



この道で良かったのだとあらためて認識したが、辺りには人影が見られない。

民家が建つところまで歩く。

屋内から人の声が聞こえたから、大声をあげてみた。

何事かと思ったようなお顔でお会いした人に聞けば、3年任期の村神主家を教えてもらい、さらに登っていく村の道。

歩きは心臓病いのリハビリにもなる。

そう思って足を踏みしめて登り下り。

ようやく見つかった村神主家。

声をかけたら出てこられた奥さんに取材主旨を伝える。

それなら、と電話で呼び出したご主人が戻ってこられた。

同じように取材主旨を伝えて行事の在り方をお聞きする。

宵宮に出されるゴサイ(五菜)はニンジン、ダイコン、ゴボウ、シイタケ・・と話されるご主人は座の一老。

宮総代でもある。

一老、二老、三老の長老が3人。

一老は特に忙しく、毎月の清掃が欠かせない。

つい先日の台風余波の強風が吹き荒れて、せっかく清掃した神社境内、階段には折れた枝に葉っぱが散乱した。

普段でも半日かかる作業であるが、今回はまる二日間もかかったそうだ。

神社の年中行事は8回ある。

1月1日は正月座。

12月10日は亥の子座。

その行事のときに役目の入れ替わり。

生のカマスに生ダイコンを半紙に乗せて座中に配膳する。

配膳するのは座中の若い人が役目する。

カマスもダイコンも小さく切ったもの。

かつては座のときに酒の肴に食べていたようだが、半紙に包んで持ち帰るものでもある。

持ち帰ったカマスにダイコンは家で調理をされて食す。

お下がりであるから持ち帰ってもらうように要請するが、今では持ち帰る人が少なくなったという。

生活文化の在り方の変化がここ東部山間にもみられる時代。

20、30年前は和装で座に参列していたが、現在は正装姿にしているそうだ。

座中に入れる年代が決まっている。

数えか満年齢か聞き損ねたが15歳になった長男だけが資格持ち。

直径家族の代継ぎは長男と決まっているが、男児がいなくて婿入りする場合もある。

それも長女が対象になる婿入りが村入り。

それから座入りを認められて座中が務める行事に参列できるのである。

座入りは座中の儀式である。

上座に座る一老こと宮総代が口上を述べて、座中一同の賛同を得なければならない。

逆に嫁入りがあった場合はお嫁さんを披露する「嫁ひろめ」と呼ぶ振る舞い行事がある。

嫁入りがある家は村人を招いてご馳走をふるまう儀式でもある。

行事はその他に2月11日の祈年祭もあれば11月の新嘗祭もある。

これらはマツリも含めて柳生下町在住のI宮司が祭祀をされる。

行事の一つに風ノ祈祷があったが、日曜日の8月20日にされた。

マツリもそうだが、ほとんどが土曜、日曜の祝祭日に移った。

移したものの日曜日は家の都合も重なることが多く、参加もできない逆の事情になっているという。

座中は23人。

長男であっても仕事先の関係で転勤せざるを得ない。

遠く離れた地に住まざるを得ない。

マツリは戻ってくる人も多いようだが、おおよそ半分になっているようだ。

そういった事情もあるが、前述したゴサイ(五菜)や神饌御供を調達、調理、調整をするのは年番のトーヤ(当家)である。

トーヤには次の年にその次のトーヤを務める予定の人も加わって、3人が務める。

シラモチ作りに提灯架けもあるマツリの日は粳米で作るモッソもある。

モッソは四角い桝に蒸しご飯を詰める。

そのモッソは2段重ね。

それを四つも作る。

ゴサイ(五菜)も四つ作るというから、たいへん手間のかかる作業である。

これらの作業は神社横に建つ仮屋で行われる。

東鳴川町のマツリに特徴がある。

マツリのどの時点で行われるのか、現実に拝見しなければわからないご神木へのお神酒を供えである。

あの向こうに見える山の尾根。

雑木林が並ぶところのある一点に空間がある。

その間に立っているのがご神木になるという。

山道を歩いてどれぐらいかかるのかわからないが、まま遠い地である。

こういった行事話しを聞けば是非とも拝見したいとお願いすれば、農小屋に準備中の御供を見せてくださる。

刈り取ったばかりの稲の穂は三種類。

早稲、中稲、晩稲の稲穂である。

これらは本社殿の屋根の庇に挿して供えるという。

県内事例にあるショウブとヨモギを供える節句行事がある。

その話しを聞いて思い出した地域は宇陀市大宇陀の野依である。

毎年の5月5日に行われる「節句のオンダ」に登場する。

その三種の稲穂を準備していたのは一老であるが、供えるのはトーヤのようである。

さまざまな在り方を話してくださった東鳴川の神社行事の取材許可。

ありがたく受けて、10月初旬に伺うことにした。

宵宮にマツリは、準備作業も含めて記録させていただくことになるだろう。

(H29. 9.24 SB932SH撮影)

南山城村高尾の民俗探訪

2018年12月05日 09時10分53秒 | 楽しみにしておこうっと
今年の平成29年1月20日に立ち寄った京都府の南山城村北大河原にある農林産物直売所。

そこで物産を販売していたレジ担当の女性に伺った大寒の日のカンセンギョ行事。

村にはそれはなく、十九夜さんをしていると話してくれた。

その地は北大河原からはずっと南にある地域。

大字は高尾であるという。

十九夜さんをしている場所は月ヶ瀬ダムこと高山ダムの西側を走る府道82号線。

大河原へ行くには木津川市経由を利用しているが、どちらかと云えば奈良県寄りに近い。

慣れている月ヶ瀬桃香野からの方がわかりやすいと判断した。

十九夜さんをしている場の目印は2本の大銀杏もあるが、9月であればわかり難い。

そこより数10mも歩けば府道三叉路がわかりやすいと話していた。

その三叉路を西に向かえば柳生に通じる自動車道。

帰りはそうしたいと思って家を出る。

ガソリンを補給して、さて方角は。

カーナビゲーションが示した方角は奈良市内の奈良公園辺りから東部山間を指示する。

時間がかかりそうだと思って指示を無視して名阪国道を東へ行く。

山添インターから月瀬に入って桃が野。

そして府道をひたすら北上する。

その途中の左手に春日神社の表示があったが、北上を続行。

古い小屋のような建物があったが、農小屋と判断した。

ただ、その奥の一段高い所に墓石が並ぶ。

村の墓地であろう。



そのすぐ近くに三叉路があったが、民家は見られない。

西に行けば集落はあるが、もう少し先を行く。

さらに北上したら高山大橋に着いた。

ここら辺りも民家はないから、Uターン。

しばらく走れば右手に軽トラを停めていた民家があった。

どなたかがおられるお家に尋ねてみる十九夜さん。

家から出てこられた男性のMさんにに尋ねた結果は・・・。

前日の敬老の日にしていたという。

講中ではないから詳しいことはわからないが、めいめいが参拝されて、その小屋に籠っていたそうだ。

その素時間前には村のデアイ。

いわゆる道造りの作業である。

それが終わってから参集していたようだと話してくれた。

十九夜さんは19日。

如意輪観音さんに参った十九夜講の人たちが十九夜和讃を唱える。

昨今は19日に近い日曜日とかに移した地域も多い。

尤も私が知る範囲は奈良県事例であるが。

来年の楽しみにしておきたい行事であるが、訪ねた男性が住まいするM家の向こうに建物が見える。



道路を挟んで一段高い所に祀った稲荷社。

ここは小字三升(さんじょう)になるという。

高山ダムができて村が湖底に沈んだ。

当時あった稲荷社も高台に移転した。

分霊を祀ったということだ。

それから50年も経ったと云う小字三升の稲荷社に年に4度もコモリ(籠り)をしているという。

今はパック詰め料理になったが、昔は家で作ったご馳走を持ち寄って籠っていた。

籠りは各家が持ち寄るそれぞれの味。

それをいただいて飲食をともにしていたという。

稲荷社の年初の行事は初午。

2月である。

京都の伏見稲荷大社に参拝する日であった。

いつしか参拝人数が少なくなり、毎年の参拝であった初午は寒さを避けてひと月遅れの二ノ初午に行事日を移したという。

男性がさらに話してくださった高尾全体の祭り。

それが春日神社の祭りであった。

かつては固定日の10月17日であったが、今は前後の日曜日。

平日に集まるのが難しくなってそう決めた。

集まるのは村や神社役員に組長。

子どもさんを連れた父兄には招待状が届くらしい。

神輿もあるようだが、担ぎ手が少なくお蔵入りのようだ。

子供神輿もあったが、今は・・・。

休日の日曜日に祭事日を移したが、日曜日は家の事情で参加できないという意見も出てきた昨今。

元の固定日に戻したらどうかという意見もある。

奈良県内にも同様の状況に陥っている地域は多々ある。

特に10月の第二日曜日に行われる祭事日が大多数を占める。

今年の第二日曜日は10月8日。

160件以上もある秋の行事。

前日土曜日の7日の件数は80件弱。

一方、月曜日のハッピーマンデーにある体育の日は60件越え。

私が知る範囲の行事であってもとにかく多い。

仮に日曜日に時間差を足伝いに出かけたとしても5行事が精いっぱい。

160件すべてを拝見するには32年もかかるのであるから、「もっぺん来てや」と云われても「無理です」としか返事のしようがない。



ちなみに三叉路に碑があった。

線刻文字は見えないが、そこは山の上の方にある神社案内であろうか。

山に向かう細い道。

今にも崩れそうなので断念したが、その先にある神社は「三升権現社」。



指標石にそう書いていた。

神社役員らが参拝しているようだ。

ちなみにあるブログに高尾大字にある猿ケ久保に二十三夜講月待供養塔板碑があると書いていた。

その場は向かわなかったが、いずれは・・と思っている。

(H29. 9.19 SB932SH撮影)

冬野・畑の民俗探訪

2018年11月30日 09時51分47秒 | 楽しみにしておこうっと
9日の日にも訪れた明日香村の冬野。

鼻持ちならない撮影隊に気分が鬱陶しくなったから、場を離れた。

この日であれば鬱陶しい撮影隊とは遭遇しないだろう。

期待値はゼロだが、なんとなくそう感じたから出かけてみた。

車を停めた場は通称冬野墓と呼ばれている宮内庁管轄の良助法親王(りょうじょほっしんのう)の墓前の道路際。

私が探す目的地は波多神社。

9日に訪れたとき、鎮座地にたどり着かなかったから再調査である。

カーナビゲーションが示す神社の位置はまだ先だ。

道があるようでない道はどこなのか。

民家が数軒ある。

その間をぬって里道をゆく。

どこまで行っても目的地らしき雰囲気に到達しない。

里道と思っていたが、むしろ山道に近い感じの道。

この先、どこまで行くやら、である。

水溜している施設があった。

ここは冬野の水源地。



傍にあった石仏は2体の不動明王。

近くに地蔵尊らしきものもある。

いずれも最近と思われる花を飾っていた。

参拝に花を立てたのはおそらく冬野の人であろう。

が、人影はまったく見られない。

諦めて来た道を戻った。

民家の1軒に冬野総代表示があった。

お声をかけたら屋内から声がする。

ご主人はI総代だった。

当地に訪れた目的地の波多神社は逆方向にあった。

民家傍にある坂道を登った処に鎮座するが、ここら辺りは獣が多く、田畑を荒らすために電柵を設置しているという。

総代に尋ねたのは波多神社の行事である。

波多神社の行事は昭和62年3月に発刊された『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』に紹介されている。

9月14日は例祭のマツリ。

この年は次の日曜日にあたる9月17日を予定していたが、台風15号が上陸する可能性があることから、これよりずっと前の週になる9月2日の日曜日に済ませたという。

台風が来なかったら14日以降の日曜日にするというから、取材は来年に持ち越しになった。



神社へ行くには電柵を外してあがってくれても構わないというお言葉に甘えて足を運んだが、外すには注意が必要だ。

おかしな部分を触れたら感電する。

かつて電柵にズボンごと引っかけたときの恐ろしさを思い出して断念したが、向こうの方に見える神社の鳥居をカメラに納めた。



向こうにあるのは地蔵尊のように見える。

総代が話した行事は飛鳥坐神社の飛鳥宮司が御湯をするらしい。

『飛鳥の民俗』に例祭のマツリのことが書いてあった。

かいつまんで列挙しておく。

頭屋家で一年間祭るオカリヤは既製の形。

注連縄を張る。

昼前に篠竹の御幣を立てる。

神饌は朱塗り膳で供える。

祭典後にハマチ或はカツオの焼物など馳走をよばれる。

直会が終わればオカリヤや御幣を次頭屋に送る、ということだ。

ちなみに総代が話してくれた行事に仏事がある。

毎年の8月17日は観音講の行事である。

17日は観音さんの縁日。

講中の営みを拝見したいとお願いしておいた。

二つの行事の詳細は行ってみないとわからないが、楽しみは一年後に、としておこう。

集落から下って隣村の畑に向かった。

その途中に思わずブレーキした地に石仏があった。

錫杖をもつ姿の地蔵石仏。



その隣は庚申さんだ。

箱入り酒がお神酒であろう。

石仏2体の姿がなんとも言えない佇まいを装っていた。

畑に降りて少し歩いてみる。

誰一人として遭遇しない畑の集落に神社があった。



扁額などから八幡社のようだ。

昭和62年3月に飛鳥民俗調査会の編集・発刊による『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。

大字畑は二村。

上に上畑、下に下畑がありそれぞれに氏神さんを祭る神社がある。

上畑の神社の氏神さんは旧くは木花咲夜姫命だった八幡神社である。

下畑の神社は春日神社。

二村ともそれぞれに垣内ごとの3組に分かれる宮講があると書いてあった。

また、畑は隣村の入谷、栢森、稲渕の4村とともに参拝する飛鳥川上坐宇須(※宇佐)多伎比売命神社がある。

マツリに参拝する各村の座位置は決まっているとある。

上畑の神社行事については『飛鳥の民俗』に書かれていないが、下畑の春日神社で行われるマツリに記載があった。

記事によれば、10月13日は頭屋家の御幣切り。

御幣は篠竹に挟んでヤカタに御幣を立てる。

また、境内では御湯の作法がある。

祭事が終われば籤引きで決める頭屋決めがある。

興味深いのは神職こと斎主が座る円座に乗せた新藁は、持ち帰って妊婦の腹に巻いておけば安産になるという。

言い伝えの安産で思い出した大和郡山市柏木町素盞嗚神社の宵宮がある。

柏木町の安産願いの印しは御湯をされる巫女さんの腹に巻くサンバイコである。

いただくモノは違っていても安産の願いは一つ。

子孫繁栄である。

また、直会と思われる座の膳に蒲鉾や芋、大根、牛蒡、松茸(椎茸)、白和え蒟蒻、柿、高野豆腐にアンパンがあると書いてあった。

大字畑の民俗行事は神社行事だけでなく村の年中行事に取材心が惹かれる行事がある。

一つはカラスノモチである。

鏡餅をとった残りモチのカラスモチは12個。

例年は12個であるが、閏年は13個になる。

餅つきの翌日に田畑に出向いて、「鳥来い、モチやるわ、ギンナン三つとかえことしょ」とおお声を挙げて畑に蒔く。

カラスノモチは畑以外に大字上居(じょうご)にもあった。

「カラス来い、モチやるわ 十二のモチは、お前に一つ、自分に二つ、ゴンゲンさんに三つ、ツレ(宙で)取ったら皆やるわ」と叫んで一升枡に12個(閏年は13個)入れてやりに行くと書いてあったが、今でもしているとは思えないカラスノモチの習俗であるが、かつて天理市の藤井や奈良市の誓多林町でされていた民俗を収録したことがある。

畑の年中行事はまだまだあった。

ウラジロを敷いた三方に盛る鏡餅、蜜柑、柿、昆布を玄関に祭る。

これを戸主から順番に頭上に掲げる作法をする。

戸主が終われば家族に廻して家人それぞれが頭上に掲げて拝むように作法をする。

これを元日祝いのイタダキまたはイタダキノゼンと呼んでいた。

奈良市長谷町・誓多林町や山添村周辺の奈良県内東部山間部は今でもイタダキノゼンをしているお家があるが、畑ではおそらく中断しているのだろう。

他にも初山、山の神、七草粥、ウヅキヨウカ、八十八夜のレンゾに8月13日のソンジョサン(※先祖迎え・送りであろう)。

また、下畑にはかつてイノコ行事をしていた記録がある。

平成11年に発刊された『奈良県立民俗博物館だより』に明日香村下畑で行われていたイノコ行事のことが書かれているそうだ。

各家を巡って「ホーレン」と呼ぶ稲の藁で打ちつけていた。

藁の内部には「クワエのヤ」を入れていたとある。

「クワエ」は「クワイ」が訛った表現であろう。

ちなみにクワイを充てる漢字は「慈姑」である。

「ヤ」はクワイの芽。矢のように突き出ているからその名で呼んでいたようだ。

イノコの詞章は「いのこのばんに おもちつかんいえに はしでいえたて かやでやねふき うしのくそでかべぬって ここのよめさんいつもらう 三月三日のあさもらう」であった。

かつては旧暦の11月15日であったが、12月1日に移ったとあるが、戦時中に中断したようである。

さまざまな年中行事があった大字畑。

かつての民俗の掘り起こしに、体験された人の記憶を辿ってみたいものである。

(H29. 9.14 SB932SH撮影)
(H29. 9.14 EOS40D撮影)

檜前・冬野の民俗探訪

2018年11月26日 08時48分29秒 | 楽しみにしておこうっと
昭和62年3月に発刊された『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。

編纂は飛鳥民俗調査会だ。

その中に明日香村大字檜前(ひのくま)にある於美阿志(おみあし)神社の行事が書いてあった。

「座は大講・新講・戦後組織されたおみあし講、大講の座の営みは一週間前に吉野川水垢離小石3個。9月5日米洗い・6日餅搗き(塩餡餅)・7日餅座・8日本座を8日に一本化、頭屋床の間オカリヤ、葦編み菰敷き・高杯盛り・御供下げ一升餅切りは髪の元結切り→現在は糸切り、杉板御供48枚(餅2個・餅3個・餅4個・餅6個を置く杉板はそれぞれ12枚)。8日は宵宮座の馳走(揚げ物多種類・底に油揚げ二枚敷いた平椀・汁椀・テショ皿盛り・クズシつくね薯)。9日は宮送り、午後1時頭屋女児正装板御供頭上にいただき作法、宮参り後に頭屋受け渡し、三献の酒宴(牛蒡のハリハリ・蒟蒻のピンピラ・蓮根・汁椀、一巡後に取り盃・飯椀を客前に進めおく・〆の当主口上に客人が詞返し)、神官祝詞奏上経て御幣納め、頭屋は月に3回が宮参り<三日(さんじつ)>・灯籠火点け」である。

宵宮に祭りは10月の7日、8日にあったが、今は集まりやすい土曜、日曜に移った。

神社前に御輿蔵がある。

まま高い蔵であるから御輿はそんじょそこらのようなものではないらしい。

昔は子どもが御輿に乗って村内を巡行していたが、今は少子化。

仕方なく、子ども不在の神輿であるが巡行しているという。

当家のK夫妻は昔から当村に住んでいたわけではなかった。

少し離れた隣村(大根田)で生まれ育った旦那さん。

一時は大阪市内の福島に住んでいたそうだ。

現在の屋敷は夫妻が建てたものではなく、明日香村に出仕する宮司家が住んでいたそうであるが、諸事情で家屋敷を手放すことになった。

不動産屋が売りにだしていたのを買い付けて住むようになったが、元々の住民でないから村行事を詳しく説明することはできないという。

ただ、9月の8日、9日にしていた神社行事の宵宮座、宮送りは記憶にあるようだ。

トーヤ(頭屋)制度もあった講中は三つの組があった。

いずれもご馳走を振る舞うなど、トーヤ渡しの引継ぎもあったが、何らかの理由で途絶えた。

9月の行事はなくなったが、10月のマツリはしている。

かつては10月の7日、8日であったが、現在は土曜、日曜。

サラリーマンの人が多くなり、行事日を替えたそうだ。

檜前は60戸ほどの集落。

うち20軒は祭りに来られて神事をしているようだ。

於美阿志(おみあし)神社は歴史ある神社。

この日も勉強されている団体が奥の神社前で何やら解説をされていた。

歴史ウォークの人たちであろう。

平成13年4月8日に拝殿を竣工された。

そのときの宮司、3人の神社役員、総代、副総代、4人の評議員が名を連ねている。

境内には稲荷神社などもあるが、祠もある。



格子扉の向こうにある石仏は紛れもない庚申さん。

青面金剛の立ち姿である。

庚申さんの周りには木の棒がいっぱいある。

目を凝らしてみれば文字が見える。

おそらく旧暦閏年に行われてきた閏庚申の塔婆である。

手前にある塔婆の願文は「干時 昭和参年閏弐月当ル今年閏弐月六日修之 上垣内講中当宿」。

その向こうにある塔婆は「干時 昭和四十六年閏三月 当ル 四月十一日 云々・・」。

その隣は「干時 昭和四十七年五月二十七日・・・」。

左に目を移したところにも立てている閏庚申の塔婆の願文は「・・云々青面金剛大童士天下泰平家内安全・・云々」とか「奉 祈南無青面金・・」とあることから繋ぎ合わせてみれば「奉 祈南無青面大童士天下泰平家内安全・・」であろう。

下部にも墨書が書かれているが、煤けているから判読不可。

埃に塗れているわけではないが、古くもない。

また、新しい年号ものの塔婆がないことから庚申講は廃れた模様である。

念のためにKさんに尋ねた結果は、40年も前に廃れたらしい。

塔婆の年号が一番近いのは昭和47年。

云われるとおりの40年ほど前になるから証言は正確だ。

ただ、祠は近年において新築したという。

その際にどっさりあった閏庚申塔婆を庚申石仏の周囲に並べることにしたらしい。

年号などの確認もなく並べたものだから、バラバラである。

里道を隔てた向こう側にも祠がある。

そこの格子扉から覗いてみたら、美しいお姿の坐像石仏がある。



これもまたKさんに尋ねたら薬師さんだという。

檜前の地は渡来した機織りが住み着いた処である。

そういうことで於美阿志(おみあし)神社は機織りの神さんを祀っている。

その神さんの関係で薬師さんを祀るようになったらしい。

そこらへんについては歴史研究家が詳しいであろう。

帰り際、ふと思い出された畑に立てていたお札。

施餓鬼のようなヒラヒラではないが、なんとなくのお札は竹に挟んでいた。

そこには松苗も立てたという。

ずいぶん前のことのようで、いつのまにか届けられなくなったと云う。

若干のお話しか聞けなかった檜前を離れて大字冬野に鎮座する波多神社を探す。

上(かむら)にあがる手前の大字細川の対岸に右折れするアスファルト舗装道がある。

カーナビゲーションが示す冬野は遠い。

緩いカーブもあれば急カーブもある登り全力の道にローリング走行。

どこまで行っても集落は出てこない。

途中に下る道はあるが、登りを目指す。

帰宅してから調べてみれば大字畑(上畑)と冬野の集会所があるようだ。

とにかくローリングが繰り返すアスファルト舗装道に右や左にひっきりなしにハンドルをさばく。

右手に見える明日香村のクリーンセンターごみ焼却施設も通り抜けて大字の畑。

眼下に見えたが先を急ぐ。

しばらく走っていけば数人の姿。左側には車が数台。

なにかがあるような感じであったので尋ねてみればこの先で撮影が始まるという。

撮影の邪魔になるからすべての車を移動させという。

そこより少し行ったところに三叉路がある。



右や左も行き止まり。

集落はどこにあるのだ。

その撮影隊の男性に聞けば、木村家に向かわれるのかと云われるが、私の目的地は神社である。

木村家とどういう関係にあるのか存じないが、鬱陶しい聞き方である。

こちらから木村家とは一切伝えていない。

まるで木村家には行ってはならない様子。

何様のつもりなのか。

鬱陶しい撮影隊に関係したくないと思った。

目指す波多神社は左の筋にあるという。

登って下っていけるが、車は通れない人道。

先にある談山神社から下った方が無難だという。

もうすぐ撮影が始まるというから遠慮して下った。

監督はあの有名な女流監督と云えば、そうだという。

撮影隊の男性がいうには右に数軒。

左も数軒の集落のようだ。

だいたいの場所がわかっただけでも御の字。

再訪するしかないと思ったが、神社名はよく読めば波多。

冬野の下にある大字も畑。

つまりは機織りの「機」ではないだろうか。

(H29. 9. 9 SB932SH撮影)

遅瀬の年中行事

2018年01月29日 09時22分45秒 | 楽しみにしておこうっと
遅瀬の初祈祷である。

地蔵寺の床の間に遺してあったハゼの木に挟んだ2本のごーさん札を拝見していた。

ハゼの木をもって米寿を祝う。

早朝から作業を始める古い版木でごーさん刷り。

朱印を一枚、一枚押して作られる。

遅瀬は65戸の集落。

かつては版木刷りも多かったが、JAから稲苗を購入するようになった関係で苗代作りをすることはなくなった。

そういう関係があって、ごーさん札を立てる苗代もない、時代になってからとんと見なくなった。

刷る枚数は極端に減った。

かつては、各家が四方の木肌を削った家の男の人数分だけハゼ木に“ソミンノシソンナリ”の文字を書いて祈祷してもらっていた。

床たたきのダンジョーや額押しもしていたが・・今はしていないという。

初祈祷行事は版木刷りを終えてから住職による法会がある。

枚数は少なくしたが、それでも余るという祈祷したハゼの木のごーさんは、苗代がなくとも、無理やり渡して貰って帰ってもらうそうだ。

遅瀬の初祈祷を初めて知ったのは平成22年10月10日の村当家祭行事の取材に来たときだ。

表小屋のガラス窓に挿していたごーさん札であった。



ところで遅瀬の寺行事は季節ごとに行われている。

3月は初午の厄除け大般若祈祷会。

同月21日は彼岸会。

7月20日前後は収蔵する経典の虫干し。

8月はどの地域でもある施餓鬼行事の盆供養もある。

10月の16日に近い日には氏神さんの行事もある。

また、山添村など付近の山間地区にもあるフクマル行事がある。

氏子総代らが云うには、数軒でしているらしい。

家から出てきた家長は藁に火を点けてとんど焚きにする。

その際に唱える詞が“フクマル コッコイ”とか、“フクマル コイコイ”、或いは“フクマル コッコー”など、フクマル呼びをする。

大工棟梁家がしている時間帯は除夜の鐘撞のころのようだ。

さまざまな行事のことを教えてくださる総代ら。

「遅瀬」の村名は二つからきているという。

一つは郡山藩の「おそせ」。

もう一つは藤堂藩の「うそせ」。

「おそせ」は「遅瀬」であるが、「うそせ」を充てる漢字は動物のカワウソの「(川)獺」の漢字だと話していた。

(H22.10.10 EOS40D撮影)

大岩・涅槃会の日に拝見する村の文化財

2018年01月26日 09時31分59秒 | 楽しみにしておこうっと
フェースブック(以下FBと表記する)で知り合った大淀町大岩のK区長は、3月に大日堂で旧安楽寺涅槃図を掲げて涅槃会をすると伝えていた。

K区長がリクエストしてくださったFBで繋がったのは平成29年の1月19日のころ。

かつては御所市戸毛にも立山があったと伝えてくれた。

50年前ではあるが、貴重な体験をされていた。

体験した年代は10歳のころの子供時代。

そこでサイダーを飲んでいたという。

区長が住む大字大岩は戸毛より一山超えた南側にある地である。

大字戸毛に立山があったと知った私は隣村の高取町丹生谷に住むNさんに尋ねた。

戸毛、丹生谷、大岩はまさに近隣の村。

一山を境にある地区である。

Nさんはあったという情報を基に地域在住の何人かに聞き取り調査をされた。

その結果わかったことは、確かにあったということだった。

Nさんから送られてきたメール文は「場所は戸毛の街道沿い。時期は8月23日と24日の地蔵盆の時。規模は街道沿いの町家や倉庫等数カ所で、夜店も出て花火もあがって賑やかでした。主催は、昔は商工会が主催し、その後戸毛の各隣組が、それぞれが一つの山を出したようです。動きがあるような山もあり、作り手が戸毛でいなくなった時に、上市の作り手から購入した事もあったという情報も得ました。いつまでやっていたのかは定かでないです。昭和40年頃まであったかな。今では元の戸毛小学校跡で同時期にイベントが行なわれています」。

続けて送ってきたメール文に「それは凄い人盛りでした。私が住む地区は高取町丹生谷ですが葛駅を挟んで西側が御所市戸毛、子供のころの買物の場、遊びの場でした。7月の23日、24日は隣の高取町谷田の地蔵さんで花火が上がり、8月には戸毛の地蔵さんで沢山の夜店が出て花火もあがり・・・。懐かしいです」とある。

さらに続くメール文は「場所は葛駅前でなく、飛鳥時代の紀路→高野街道→中街道(奈良~五條)→現県道高取-五條線の街道筋で行なわれました。当時は奈良交通のバスが御所~下市まで運行されており、この街道を走っていました。現在では国道309号戸毛バイパスが出来、車もそちらへシフトしましたが、御所市のコミュニティバスはこの旧街道を走っています」。

「カーバイト燈で照らされた夜店では、たこやきなどの食べ物やサイダーなどの飲物、金魚すくい、型抜き、あてもの、お面等が売られ、その日だけに和菓子屋が販売する「しんこ」(赤福のようなあんころ餅)が何よりの楽しみでした。今でもこの“しんこ”は存在します」だった。

Nさんの思い出話は尽きない。

貴重な体験話しにある「上市の作り手から購入した事もあった」という下りである。

実は上市町に今でも立山を実施していることがわかった。

平成28年7月30日にその実態を聞取りしていた中に“六軒町の立山”は橿原市の八木町に引き取られていたということだ。

上市の立山は廃れて、今では六軒町でしか見られないが、かつては街道沿いに連なる隣町でもしていたというこから、いずれかの町が戸毛に譲られたのであろう。

お二人の記憶が上市の立山に繋がったのであった。

さて、大岩の涅槃会である。

間に合うかどうかは、明日香村大字上(かむら)で行われていた「ハッコウサン」次第だった。

大岩の涅槃会は午後2時から行われると聞いていた。

上(かむら)の「ハッコウサン」の行事が始まる時間は午後1時。

短時間で終わりそうな気配だったが、直会も含めれば1時間以上も要する。

上(かむら)の村人たちに失礼してそこそこ早めに退席する。

明日香村から大淀町へ行くには一山越える。

距離はざっとみて片道12km。

距離はそれほどでもないが、カーブ道にアップダウン道。

しかも初めて訪問する大字大岩。

涅槃会をすると云っていた大日堂の場所すらわからない。

あっちでもない、こっちでもないと車を走らせたら町経営のパークゴルフ場を貫く峠道まで行ってしまった。

Uターンして下ったところに行事帰りの男性に尋ねた大日堂の場はわかった。

場所だけでもと思っていたが、お堂に待っていた人がいた。

丁度終わったばかりで扉を締めようとしたときに、村の人から訪問者が来たという連絡が入ったから待っていたといったのは区長さんだった。

時間は午後3時を過ぎていた。

ありがたいことに仕舞ったばかりの涅槃図を広げてくださった。

屋根瓦の風化に板材の腐食による雨漏りが激しかったことから、平成24年度に改修工事を実施された大日堂。



その工事のおかげもあって屋根裏から延宝八年(1680)の銘を刻んだ鬼瓦が発見されたそうだ。

安置されている仏像に木造大日如来坐像がある。

元禄十年(1697)に他所から移されたと伝わるが、来歴は定かでない。

平安時代後期の作と考えられている大日如来に伝わる話しがある。

「夏の日照りが続いたとき、大日さんが雨を降らせてくれると、お堂の前で雨乞い行事が行われていた」という伝承である。

大淀町に貴重な民俗行事を伝える大日如来。

吉野地域でも優れた仏像としての価値が認められて平成2年に大淀町の有形文化財に指定されたと町のHPに書いてある。

涅槃会行事には間に合わなかったが、89歳のおばあさん(区長の母親)が唄っていた雨乞いの詞章があると史料を見せてくれた。



書き遺した詞章史料は「たんもれたんもれ 大日たん 雨下され大日たん ナスビもキュウリも 皆やけた 雨下され大日たん たんもれたんもれ 大日たん たんもれたんもれ 大日たん 雨下され大日たん ナスビもキュウリも 皆やけた 雨下され大日たん たんもれたんもれ 大日たん」とある。

今にも母親が唄う声が聞こえてきそうな詞章である。

県内事例に「雨たんもれ・・・」と唄っていた事例は数多くあるが、全文が遺っている事例は多くない。

しかも自筆。

後世に遺しておきたいという思いが伝わる貴重な史料である。

大岩の雨乞い行事に、現存する打ち鉦も遺されていた。



外縁含む全幅直径は32cm。

縁部分を除けば28cm。

内径は25cmで高さは9cmの打ち鉦に刻印があった。

「和刕吉野郡大岩村安楽寺 住僧楽誉極念代 寶永三丙戌歳十月十五日 施主念佛講中」である。

寶永三丙戌歳は西暦1706年。

製作した年より雨乞い道具として叩いていたと推定してもざっと数えて310年間。

打つ鉦の音に合わせて「雨たんもれ」と唄っていた。



打ち継がれてきた鉦の音色はどことなく優しい。

大日堂は明治時代に廃寺になった。

現存する扁額に「安楽寺」とあったことから、寺の小堂であったようだ。

その「安楽寺」の刻印がある打ち鉦は大岩の歴史を物語ってくれる。

打ち鉦を寄進したのは当時の念仏講中であったことがわかる。

これまで私が拝見した雨乞いに打っていたとされる鉦の事例は2枚ある。

桜井市萱森・集福寺薬師堂の六斎念仏講が所有する雨乞い鉦と奈良市法蓮町の阿弥陀講が所有する農休みのアマヨロコビに叩いていた鉦である。

いずれも年代を示す刻印はないが、作者は西村左近宗春であった。

戦後間もないころまでしていた大岩の雨乞い。

今から70年も前のことである。

標高240mにある尾根道に井戸のように湧く泥水を掬って、「タンゴオケ(肥桶)」に入れて運んで尾根を下りた。そして、「雨たんもれ」と云いながら大日堂の屋根に泥水を放り投げていた。

行列を組んで尾根の井戸に向かうときに唄ったのが「雨たんもれ」である。

長らく井戸の所在がわからなかったが、現在77歳の男性が兄とともに行ったことのある記憶を頼りに探してみたら見つかった。

僅かに残っていた頭の中の記憶を頼りに探し当てた。

その地はまさに尾根であるようだ。

日照りであっても水が湧く不思議な地の池。

名前のない池であるが、そこは“大日さんの井戸”の呼称がある池。

高取町丹生谷の微妙な地域内になるそうだが、隣村の御所市葛と大淀町大岩3村の境界地点。

尾根そのものになる場に池がある。

そこには大日如来がおたびらをしていたという。

おたびらとは大和方言で“胡坐“を意味する。

おたびらしていた大日如来は大岩の大日堂に連れてきて納まったと伝わる

“大日さんの井戸”から運んできた泥水は大日堂の屋根に放り投げた。

その屋根を洗い流そうとしたら、雨が降ってきたという。

泥水が汚れておれば、なお一層の効果があったという。

雨乞いの詞章に打ち鉦。

そして、“大日さんの井戸”。

三つ揃った大岩の雨乞いは文化財。

90歳の男性体験者が生きている間に再現、復活したいと区長が話してくれたのが印象的だった。

この日の涅槃行事取材は翌年に持ち越しとなったが、雨乞い行事の復活に力添えができれば、と思った。



また、3月の涅槃会以外に大日堂行事は2月の「大日さん」と呼ぶ行事もあるそうだ。

大日堂は元真言宗派。

区としては宗派替えもあって現在は浄土真宗。

大岩区は東垣内と西垣内の二つ。

同じ浄土真宗であっても寺は異なる。

東垣内は大蔵寺。

西は西照寺になるそうだ。

また、月に一度は「おっぱん」を供えているらしい。

「おっぱん」は「仏飯(ぶっぱん)」である。

その「おっぱん」を盛る杯がある。

杯を納めている箱は当番が持ち回りする。

この日行われた涅槃会にも「おっぱん」をしていたという。

長々と話してくださった区長が云う。

家に来てもらったら、貴重な鰐口をみせてあげようと、いうことで上がらせてもらう。

箱に納めていた鰐口に刻印がみられる。



「城山国 相楽郡 賀茂 東明寺 永享ニノ十 六月十七日」と読めた鰐口は西暦1430年に製作されたものだった。

今から588年前に製作されたと考えられる城山国相楽郡賀茂(現京都府加茂町兎並寺山)東明寺の鰐口が何故に区長家にある経緯はわかっていない。

加茂町と大岩の繋がりすらわからない、という。

調べてみれば、加茂町に日蓮宗寺院の燈明寺がある。

寺伝の元禄九年記の「東明寺縁起」によれば奈良時代の行基が開基したと伝わるそうだ。

東明寺”は法人登記があるものの現在は廃寺同然にある燈明寺であったようだ。

“東明寺”は建武年間(1334-1336)の兵乱で廃絶したのち、康正年間(1455-1456)に天台宗の僧忍禅が復興したそうだ。

鰐口の製作年が永享ニ年(1430)とあることから、復興する前から寺の存在はあったとしても、持ち主を失っていたのではないだろうか。

製作はしたものの行き場を失った鰐口が、どういう経緯で大岩に行きついたかは不明であるが、これもまた歴史を物語る逸物である。

また、区長が伝えてきたFBメールがある。

「奈良県薬業史によると、文久三年(1863)に大淀町大岩に合薬業を営んでいた人がいたそうです。私の家には“重訂 古今方彙(安永九年(1780)版本”が残っています。なぜに我が家に残っているのか、大岩の薬業の歴史をこれから調べていこうと思っています)とあった。

数々の歴史文化がある大岩に魅力をもったのは云うまでもない。

(H29. 3.12 EOS40D撮影)

興隆寺町の年中行事

2018年01月07日 08時34分55秒 | 楽しみにしておこうっと
撮った時間帯は午前9時過ぎ。

帯解経由に旧五ケ谷村に向かう旧道を行く。

奈良市の高樋町を抜けて興隆寺町、そして米谷町に向かう道すがらに撮っておいた興隆寺町八坂神社の境内である。

この日の午後は祈年祭神事を終えて食べる佐平御供を下げて食べるシロモチ喰いがある。

シロモチを焼いて食べる場は本社殿下の境内である。

火の気のない場は午後ともなれば焚き木を燃やす。

トンド場に設えている金棒は鉄網を乗せる台脚である。

枯れた杉の葉は火点けに用いる。

予め準備していたのであろう。

午後に取材した祈年祭のシロモチ喰いの際に話してくださった興隆寺町の年中行事である。

一つは3月の第一日曜日の午前中に行われる「シバシ」である。

二つ目は、その日の午後に行われる「賀祝(がしゅ)厄祝い」である。

三つ目は秋のマツリで、四つ目に小正月のトンド焼きがある。

今年は3月5日が「シバシ」の日であるが、昔は3月1日であった。

山行きにシバ(柴)を伐ってくる。

朝8時ころに出発。村の山林に入ってシバ刈り。

伐った材木は割り木にする。神社行事の直会の場のトンド火に使う割り木は焚き木にする。

一年に一度、纏めて割り木作りをする日が「シバシ」の日であるが、なぜに「シバシ」の名であるのか・・。

「シバシ」の日の午後に行われる「賀祝(がしゅ)厄祝い」とは、村の厄年の人、男女関係なく厄年の人を祝う(賀祝)村行事である。

かつてはこの行事も3月1日にしていたが、祈年祭と切り離す村行事に分けて3月第一日曜日に移して、祝いの場を公民館にしているという。

祝いのヨバレに振る舞いもある。

大鍋で炊きあげるおでん料理がある。

また、10月のマツリの日も振る舞い料理がある。

それは千本杵で搗いたモチにキナコ塗し。

醤油と味噌で包んだモチもある。

松茸飯も炊くし、豚汁も。

神事を終えてもまだある。

後宴のシシ肉焼きパーテイがあるから、また来てやのお誘いに喉の奥がごくんとなる。

小正月のトンド焼きは成人の日。

午前7時の火点けに書初めの習字焼きをして天に飛ばす天筆(てんぴつ)の習俗も。

トンドの火で焼く餅は三ツ割の竹に挿して焼いている、というから、是非とも機会を設けたいと思ったが、お腹はパンクしないだろうか、といらん心配をしてしまう。

(H29. 3. 1 SB932SH撮影)

大宇陀・拾生の稲荷寒施行の聞取り

2017年11月15日 08時57分10秒 | 楽しみにしておこうっと
大宇陀・万六の自治会館でゆったり落ちつかせてもらっていたときである。

万六のカンセンギョ(寒施行)巡拝中にさまざまなことを教えてくださったⅠさんが飛び込んできた。

まさに、そんな感じだった。

今、行けるのなら隣町の拾生(ひろう)の住民を初回したいと云うのだ。

拾生(ひろう)の稲荷寒施行(かんせぎょう)を取材するなら、この人に話しを伺え、ということで口利きしてくださったM家に急行する。

Mさんは平成18年6月に発足した大宇陀まちおこしの会の代表者になる会長さんだ。

会の担当者はなにかにつけて宇陀・松山のことを教えてくださるUさんである。

拾生(ひろう)自治会の軒数は17軒。

街道沿いに商売をしているお家。

昔は街道に建つ家、皆が商売繁盛であったが、減債はたったの3軒になってしまったという。

元々は二つの拾生であった。

町屋にある地区は松山の拾生。

旧村にあたる神戸(かんべ)地区の拾生の2地区である。

拾生は万六(まんろく)と上新(かみしん)の間の区間。

そこをただ単に拾生と呼んで、向こうも拾生。

川向うとこっちと真っすぐ分かれているが、入り込んでいるところもある、というから実にややこしいことであるが、整理すれば、現町屋の松山町と宇田川西の元農村部神戸(かんべ)村が統合されてできた町ということである。

大宇陀中学校の跡地は市場にあたる。拾生は旧の町だった。

松山城の築造。

城は秋山城にくら替えになったときに旧町から新町名になった。

そのときによろづ町と呼んでいた「万」地区にろっけんしょう(六軒庄であろうか)呼んでいた「六」地区が合体して万六地区ができた。

合併というか、町が統合されて町名を一本化したわかりやすい事例を話してくださる。

ちなみに一番にお聞きしたかった拾生(ひろう)の稲荷寒施行(かんせぎょう)。

その件にさしかかったころにお客さんが来られた。

約束事のお客さんだけに退席したが、万六で若干の話しを聞いていたのでメモを残しておく。

稲荷寒施行の実施時期は、大寒期間中であるが、だいたいが2月1日前後の日曜になるらしい。

この年の実施日はすでに決まっている。

月末の日曜日の1月29日である。

施行に出発する時間帯は2回(2組み)に分けている。

そのわけはといえば、子どものことを考えた上でのこと。

夜間についていく子どもが施行をする場合は危険性があるという山は若い者がセンギョ(施行)する午後1時。

もう一組が出発する第二部は日が暮れた時間帯の午後6時。

出発地は大願寺からになるらしい。

センギョ(施行)に供える御供は赤飯のおにぎりにアゲサン、煮干し。

万六の会所で話してくれたある婦人の話しによれば、伺ったMさんの意向で奥吉野名物のサバメシのオニギリにしているようだ。

また、万六の“志を乃屋”野口昇栄堂のご主人の話しによれば、ドンゴロスの袋に御供を入れて、オーコ担ぎで廻っていたようだと話していた。

今年の日程は明日。

二日続きの施行は身体に無理をかける。

来年の楽しみにさせていただきたいと伝えて退席した。

ちなみに、その29日に行われたことを記事にしているブログが見つかった。

会長家で伺った件や、取材した万六施行のことを伝えたい人が居る。

前述した・・会の・・人であるUさん宅を訪ねる。

記した私のノートにこうある。

「もともとは高原(3代目)の稲荷講。野生の里山は獣の生活区域。供え物は寒中に供える。町に下りてこないように供える」と・・あるからUさんが話したことだと思う。

(H29. 1.28 記)

大宇陀・万六の年中行事

2017年11月14日 10時10分43秒 | 楽しみにしておこうっと
すべてのカンセンギョ(寒施行)巡拝が終わって戻ってきた一行。

大宇陀・万六自治会館に戻って食事を摂るというのであるが、お酒が飲めない男の人たちは自宅に戻っていった。

お仕事の関係もあって、巡拝が終われば開放のようだ。

町内のご婦人たちは、あっけに取られていたが、どうぞ休んでくださいと、熱々のお湯を注いでくれたきつねうどんのカップ麺をよばれた。

温かいもてなしはキツネの施行ではなく、取材に同行していた私への施行である。

昔は子どもも大勢おった万六のカンセンギョ(寒施行)。

ぜんざいと呼んでいたイロゴハンは炊き込みご飯。

いわゆる混ぜご飯で巡拝者を慰労する直会であるが、やがてちらし寿司に替えた。

その後に子どもも極端に少なくなって、手間のかからないカップ麺にしたようだ。

ありがたくいただいたお部屋に高さが1mほどもある長細いヤカタがある。

ヤカタは2本。右の黒ずんだ方が古い。

色具合から判断して明治時代を下った江戸時代のものであろう。

昔は愛宕さん、お伊勢さんの参会に近所の人たちがヤド家に寄っていたようだ。

ヤカタはどちらになるのか、聞きそびれたが、毎年に交替するヤド家に祭っていたそうだ。

なんせ大きなヤカタはヤド家からヤド家に運ぶのが困難になってきたことから、新築した自治会館の納めることにしたという2体はともに動いたというから人手が要ったわけである。

ちなみに万六の参会(さんかい)は御日待(おひまっつぁん)である。

万六は15軒で組織する自治会。

1月24日、5月24日に9月24日の年3回の御日待参会に2幅の掛軸も掲げる。

1幅はアマテラスオオミカミ(天照皇太宮)のようで、もう1幅は愛宕社であろう。

神饌は小豆を混ぜた洗い米に塩と水。

自治会館に提灯を揚げてめいめいが手を合わしているという。

また、3月の初午(旧の初午)はオゴク(御御供)を搗いて佐多神社でゴクマキをする。

朝の10時から三方に五品の神饌を供えて祭っている自由参拝。

午後3時に「なればゴクマキをする。

ちなみに万六が崇敬する神々は佐多大明神、地車大明神、朝日大明神、朝照大明神。

御日待の際には4神にお参りされて町内安全を願っているようだ。

(H29. 1.28 EOS40D撮影)