マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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霊安寺町の御霊神社を訪ねて

2014年11月16日 09時32分04秒 | 楽しみにしておこうっと
隔年の4月に太々神楽祭が行われると知って訪れた五條市霊安寺(りょうあんじ)町の御霊神社。

今年がそうである。

時間は不定と思われたので、ゆっくりとした気分でかけた。

御霊神社は五條市の他、たくさんある中のご本社。

創建は不詳であるが、延暦十九年(800)七月に霊安寺の建立に伴って御霊神社も創祀したのではと伝えられる。

御霊神社へ向かう道は毎年十津川に向かう街道筋。

丹生川を跨ぐ橋のすぐ手前の坂を登る。

そこに鎮座していたのが御霊神社だった。

人影はなかったが、神社境内から車を出そうとしていた方に声を掛けた。

お姿は神職。F名誉宮司であった。

前年の3月に退官されて名誉職となった。

この日かどうか判らなかった太々神楽の件をお聞きした結果は、前日の日曜日に終わっていた、であった。

その日より二日前はセンターに集まった氏子たちがたくさんのお米洗いとしていたという。

一日かかる作業は翌日もある。

ゴクツキである。

お米はモチゴメであろう、杵で搗いていたかどうかは聞きそびれたが、十数斗にもなるというモチ搗き。

これも一日を費やす作業である。

それほど多いゴクモチは祭りの午後に神振行事の「大餅撒き」をする。

大量なモチに氏子圏が広い御霊神社のゴクマキは2回に分けて撒くそうだ。

この日に訪れた時間帯はゴクマキをしていた櫓がまだあった。

隔年で行われているという太々神楽は、2年待たなければならない。

名誉宮司の話しによれば田原本町の守屋家と婚姻関係にあるそうだ。

そのときに伝わったのかどうか判らないが、守屋家では途絶えている御湯があるそうだ。

守屋家の代々が継承してきた太々神楽は、霊安寺町御霊神社の2カ所だけであると云う。

(H26. 4.28 SB932SH撮影)

東佐味百体観音落慶法要の日

2014年11月01日 08時58分47秒 | 楽しみにしておこうっと
今年のとんどの際に聞いていた御所市東佐味の峯山に安置する百体観音の落慶法要。

毎年の4月18日には百体観音の場で観音祭をしていると弥勒寺檀家総代が話していたが、今年は落慶法要。

大幅に時間を繰り上げられた。

峯山は京奈和道路の建設によって一部の百体観音を移さざるをえない状況になっていた。

長年に亘って損傷もある。

これを機会に補修するとともに全面移転を決定した東佐味百体観音。



道造りもされた山を整備して奇麗になっている。

「是非見にきてほしい」と云われていが、生憎我が家の車はエンジントラブルで出動不可となった。

中古車を買ったセンターで代車を借りてでかけたが、間に合わずに終わった直後に到着した。

ぞろぞろと法要を終えた村人が下りてくる。

参拝者はおよそ45人にもなったというこの日は雨天。

傘をささなければならない雨天法要になった。

参拝を済ませた人たちは傘を手にして下って来た。

峯山の百体観音は西国・坂東・秩父の写し霊場。

江戸時代の文化八年(1812)に開創されたようだ。

かつては峰山こと観音山の広場で村芝居もしていたとか、相撲もあったと、とんどの日に聞いた。

時代は昭和26年頃の様相である。

法要を終えて戻られたお寺関係者にご挨拶をさせてもらった。

参拝もできずの私であったが、法要の記念品や下げた御供モチまでいただくことになった。

自宅に戻って開けてみれば柿の葉寿司ヤマトのちらし寿司まであった。



夜食に美味しくいただいた。

とんでの際にお世話になったM総代やNさんもおられた会所。厚く御礼を申し述べる。

普段の年は「小学校を終えた子供らを待ってゴクマキをするんや」と云っていた。

弥勒寺では「牛滝さん」の行事もあると聞いている。来年こそは訪ねてみたいものだ。

(H26. 4.18 SB932SH撮影)

田原横田の行事

2014年09月29日 07時14分09秒 | 楽しみにしておこうっと
子供の涅槃が行われている東山中。

これまで奈良市の矢田原町須山町大野町日笠町や天理市の藤井町、山添村の勝原の行事を拝見してきた。

その他の地域においても行われているやに聞いているが、行事日は特定日でなく、大体が春休み期間中で子供が日程を決めている。

毎年替るだけに予め尋ねておかねばならない。

もしかと思って探していた奈良市田原の里の横田町。

ここら辺りだろうと思っていたが地図をもっていないから判らない。

須山町、矢田原町、和田町、中之庄町、大野町、日笠町、沓掛町、茗荷町などを巡っていたが見つからない。

そう思って停車した信号。

田原の里辺りの案内地図があった。

見上げてみれば信号に「田原横田」とある。

ここだったのか。

しょっちゅう通る道が何故に気がつかなかったのだろうか。

行事の場はおそらく白山神社の会所。

その神社は案内地図に書かれていない。

すぐ近くだろうと思うが判らない。

仕方なくすぐ近くのお店におられた婦人に尋ねた結果は「あそこ」だと云う。

道路からすぐ近くにあった白山神社。

境内には数台の車が停まっている。

会合をしているらしいが、まずは神社にお参り。

そうしておれば会所から男性が出てこられた。

おそらく不審者であろうと思って声をかけられたのであろう。

男性が話した「ねはんこう」。

かつては西地区と東地区に分かれて行われていた。

中学生の子供が村を巡ってお金を集めていた。

少子化によって随分と子供の数が減ったと話す。

行事の場はそれぞれの地区のヤドの家。

昼食・夜食にだされるイロゴハン、シロゴハン、セキハン、串団子、カマボコなどを食べていた。

夜遅くまで遊んでいた。

少子化となった20年ほど前からはヤド家でなく、会所に集まる合同体になった。

食事は子供が好きなカレーライスに替った。

お金集めは小さな子供にも分けあう。

年長者は多めになるようだと話すお金集めは西・東で競い合っていたようだ。

神社にヒサカキをおましていたと話す男性。

2月と6月、9月の28日の夜には大日籠りをすると云う。

念仏を唱えて語り合う籠りの夜は村のコミュニケーションの場になるそうだ。

白山神社は六人衆が勤めている。

毎月1日は清掃されている六人衆。

マツリに斎主を勤めているのは北森宮司。

誓多林町長谷町の神社造営などでお世話になった宮司さんだ。

話を伺った男性は同性。

もしやと思って伝えた宮司さんの名。

なんと弟さんであったのだ。

奇遇な出合いである。

話しをしている際に目に入った十九の文字がある石仏。

これも気になって尋ねた結果は十九夜さんだった。

石仏は如意輪観音さんで、3月19日に婦人たちが参っているという。

この日は道造りを終えて村の総会。

忙しい合間に教えていただいたことに感謝する。

総会が終わってから自治会長に取材の旨を伝えると話していた。

それから数時間後に電話が鳴った。

自治会長からの電話である日程は決まっているが、始まる時間は両地区のヤドで決めるそうだ。

教えてくださった男性もその1軒。

担っているのはもう一人の婦人。

数日後には決まるのでお許しをいただいて電話をすることになるだろうが、子供たちの顔を公開することは厳禁であると伝えられた。

(H26. 3.23 SB932SH撮影)

下高家のツナカケ場

2014年08月26日 07時12分34秒 | 楽しみにしておこうっと
見誤って侵入した高家(たいえ)からすぐ近くに今井谷(いまいだに)があると標識にあった。

どこでどう間違ったのか下った処に掛けてあったカンジョウツナ。

下高家のツナカケ行事で掛けられたカンジョウナワのようだ。

旧暦の1月11日であったが、今は第二日曜日と聞く。

この地が上高家との境界だとすれば、カンジョ場が何故にここなのか皆目判らない。

県内各地で行われるカンジョ場は集落の下である。

そこにはたぶんに川がある。

疫病が川を遡ってやってこないようにとするカンジョウカケ。

通例でない場に掛けられた下高家の在り方に不思議さを感じる。

(H26. 2.22 EOS40D撮影)

吉隠の行事

2014年08月23日 08時30分50秒 | 楽しみにしておこうっと
桜井市の大字和田で桑山宮司からお聞きした吉隠の行事。

かつて山の上に住んでいた5軒が山を降りたが、今でも正月初めに鎮座する春日神社に参って籾撒きや松苗植えの所作をすると話していた。

今月に下見をしたのは天満神社と極楽寺の所在だったが、春日神社はどこにあるのか判らなかった。

そのときに見つけた旧暦閏年に行われていたのであろう竹製のゴクダイ、花立ても確認したくて立ち寄った。

村人が見つからず、ある一軒の家を訪ねた。

ご主人が案内してくださった春日神社は谷間を歩いて20分ほど。

同神社の氏子ではないから、あの人に聞けばと紹介してくださった。

その人が云うには同じように籾を撒いて松で模した苗を植えル所作をすると云う。

ケイチンを所作する弓は梅の木の枝で作る。

矢はススンボである。

昔は神社で作っていたが今では当番が予め作っておく。

的は鬼だ。

それを神社に持ってきて所作をすると云う。

神官は小夫でも行事を勤めている神官。

おじいちゃん、親父さんのあとを継いだ神官である。

そのおじいちゃんは歩いてここまで来た。

角柄の神社行事に出仕されていたおじいちゃんは神官の先々代だったのだ。

ちなみに最初に聞き取りした男性は天満神社の氏子総代。

春日神社の氏子ではない。

下層に鎮座する狭井神社がある。

一部は天満神社の氏子と同じであるが、行事は別にあると云う。

下見の際に見つけた極楽寺の旧暦閏年のゴクダイを尋ねたが、お二人とも存知しない。

昔は天満神社・極楽寺を守っていたのは12軒の家。

今では村氏子になったが、その人たちがしているのだろうかと話す。

(H26. 2.22 記)

角柄の行事2

2014年08月22日 07時21分22秒 | 楽しみにしておこうっと
この年の1月初めに訪れた宇陀市榛原角柄(つのがら)。

2月には正言祭の呼び名もある祈年祭があると聞いた。

もしやこの日ではないだろうかと思って再訪した。

史料によれば氏神さんを祀る神社は高おかみ神社。

それには清水山を充てている。

その所在を知りたくて再訪したのであるが、母親も奥さんも存知しない。

それはともかく正言祭は既に終わっていた。

神官は墨坂神社の宮司。

都合に合わせて行われたそうだ。

正言祭は御戸(おと)渡し。

その日までの一年間、分霊を祀ったヤカタを家で守っていた。

ヤカタを持っていって神社で次の頭屋に受け渡したそうだ。

ヤカタを家で祀っておれば良いことがある。

ある頭屋が云うには、その年に子供を授かったこともあると話す。

行政区割りはかつて桜井市だった角柄。

いつしか神官は榛原の墨坂神社になった。

それまでは上之郷から歩いて来られたと云う。

上之郷であれば瀧ノ蔵か笠。

おじいちゃんだったそうだ。

ちなみに角柄は長谷寺に参る三社権現がある。

今年も出かけたそうだが当たりの村は国道向かい側の柳の地。

昨年は角柄であったが、今年は柳。

来年には吉隠(よなばり)になる三村の廻りである。

おじいさん、旦那さん、息子、孫のそれぞれの長男が任につく。

かつては村一軒ごとに素襖を持っていた。

徐々に勤める家も減った。

廻りは早くなるが素襖は各家にあった。

頭屋に当たればカニノモチを作った。

タチと呼ばれる長いモチもある。

それは半分に切った竹に盛ったそうだ。

1月末には頭屋座の御田植祭がある。

かつて杉葉の苗を植える所作もあった簡略化されたと云う。

角柄を訪問したのはもぅ一つの行事である。

旧暦閏年に行われる庚申講だ。

今年はそれに当たる年。

何時頃されるのか知りたかった。

奥さんが云うには今年の大の月は9月。

そのころになれば日程が確定するらしい。

竹で作ったゴクダイにはトーフを乗せる。

どういう理由があってのトーフか判らないと話す。

(H26. 2.22 記)

和田祈年祭の出合い

2014年08月10日 08時06分53秒 | 楽しみにしておこうっと
桜井市の三谷の神縄掛祭取材を終えて立ち寄った同村和田。

鎮座する高龗(オカミ)神社では村行事の祈年祭を終えたばかりだった。

平成24年に大改正された行事である。

その年以前までは、オコナイの行事があった。

稲穂や(ネコ)カワヤナギを作ってゴーサンの朱印を額に押していたトーヤ(頭屋)座があった。

大字和田の12戸の営みであった。

頭屋家がふるまう馳走もあったが、座を廃止することに決められたのである。

宮司を勤めておられたのは小夫の桑山宮司。

度々の行事取材でお世話になっている。

この日の和田の行事には間に合わなかったがご挨拶をさせていただいた。

祈年祭では幕を張っていた。

祭典を終えた村の人たちは神社下に建つ新福寺会所で直会を始められる。

「あんたも上がって」と区長らから云われてありがたく同席させていただいた。

供えたモチをストーブで焼く。

こんがりしたモチは美味しい。

和田を訪れた目的がある。

旧暦閏年に行われるうる庚申である。

平成25年2月にマツリの件の聞取り調査をした。

お話ししてくださったのは下垣内のN夫妻だ。

トーヤ(頭屋)座を廃止され神社祭祀に移ったと云っていた。

そのときに聞いていたのが祈年祭である。

夫妻に教えてもらったうる庚申の場を探してみた。

和田村講中が寄進した青面金剛石仏前に祭った竹製のハナタテとゴクダイが残っていた。

そこで行われるうる庚申について尋ねたかったのだ。

この日に集まっていた氏子たちにその件を尋ねた。

平成26年は旧暦閏年。和田ではどうやら大の月に行うそうだ。

日程はまだ決まっていない。

和田では庚申トアゲと呼んでいるうる庚申。

9月か10月辺りになるそうだ。

講中は上・下垣内であるが、上は解散したこともあり、直前ぐらいに日程が決まる。

決まれば区長から連絡すると伝えられた。

ありがたいことである。

直会の座におられた桑山宮司は小夫や和田の他にも兼務社を勤めている。

話しを伺えば白河(しらが)も吉隠(よなばり)もそうである。

この日に訪れていた白河の秉田(ひきた)神社。

「ケイチン」行事で行われた弓・矢の映像を見てもらった。

「ケイチン」行事は旧家の特定家の営みであるゆえ、宮司は出仕されない。

初めて知ったと云う。

この月の23日には秉田神社の祈年祭に出仕される。

村の人たちとお会いされるので聞いておきたいと話していた。

この日の出合いはありがたい繋がりになったのである。

桑山宮司が出仕される吉隠の行事も教えてくださった。

吉隠には山頂に鎮座する春日神社と集落中央辺りに天満神社がある。

かつて山頂にあった5軒集落。

正月初めに春日神社に登って弓打ちをしていると云う。

かつては旧暦の1月8日であったが、今では成人の日の前日の日曜日だ。

当日は祈年祭。

弓打ちのケイチンやオンダ祭もあると云う。

オンダ祭は籾撒きをして松苗を植える所作がある。

それを終えて座ヨバレ。

区長も参集されるので7人の集まりであると云う。

(H26. 2.11 記)

白河秉田神社の鬼鎮

2014年08月06日 07時19分00秒 | 楽しみにしておこうっと
4日前に下見に訪れた桜井市の白河(しらが)。

神社があるはずだと思って、慣れない集落道を通って行くが道路は工事中で通行不能だった。

諦めて下った畑におられた婦人に聞いた秉田(ひきた)神社は急坂を数百メートルも登る地に鎮座する。

その婦人は神社で「ケイチン」行事をしていると話していた。

『桜井町史』によれば「ケイチン」は「鬼鎮」と書いてあった。

「ケイチン」は村行事ではなく、旧家の特定家6軒の営みのようだ。

その6軒以外の村の人は知らない行事だと話す。

伺った婦人は6軒のうちの1軒だったので判った「ケイチン」を拝見したく再訪した白河。

当番の2軒が梅の木の枝で作った弓・矢で「鬼」を射ると云うのだが、時間帯は2軒の当番で決められるので判らないと話していた。

この日にされることを信じて北椿尾のとんど取材を終えて急行した。

裏道の農道を登っていった。

この日は祝日だったので道路工事はされていない。

秉田神社は見つかったが、それらしき村人はいなかった。

参拝を済ませて帰ろうと思ったときのことだ。



傍に立っていた木の下にあった白い紙。

もしやと思ってみれば「鬼」の字の書である。

「ケイチン」は既に終わっていたのだ。

鬼の的の枠組みも、弓も、矢もすべてが梅の木の枝である。



実にシンプルな手作りである。

鬼の的には2本の矢が刺さっていた。

その辺りをみれば前年の弓・矢と思われる残骸もあった。



映像では判り難いが、左側である。

このとき訪れていたハイカーは、その残骸にまったく気がつかなかった。

「ケイチン」を意識していない男性は発見できなかったようだ。

秉田神社拝殿前に建ててあった燈籠に刻印があった。

左側の燈籠は嘉永七年(1854)三月に建之された白山大権現。

右側は同じく嘉永七甲寅年三月に建之された春日大明神である。

鳥居前にあった石塔は天保十二年(1841)七月に寄進された大神宮だ。

「ケイチン」の痕跡を拝見したお礼に立ち寄った婦人の家は区長家。

婦人が云うには、6軒の営みであるが、当番の人しか行かないようだ。

矢は一人ずつ、鬼に当たるまで射ると云う。

この年はおそらく9時にしたようだと云う。

最近発行された『大和さくらい100選』の伝統行事の一つに「白河のケイチン」が選ばれていることを知ったのは後日だ。

桜井市各地でされているケイチンとも呼ぶ鬼打ち行事は白河の他に小夫、鹿路、吉隠、三谷もある。

市内外からの公募400点余りから選択された結果であるが、何故に白河が選ばれたのか判らない。

(H26. 2.11 EOS40D撮影)

吉隠および白河の行事調査

2014年07月30日 07時17分48秒 | 楽しみにしておこうっと
この日も『桜井市文化叢書(民俗編)』に書かれていた行事の調査。

昭和36に発刊された史料である。

そこに書かれてあった吉隠(よなばり)の旧暦正月七日の行事。

「宮座の結鎮祭」である。

「結鎮」はおそらくケイチンであろう。

そうであれば鬼打ちと思えるのだが・・・。

大字吉隠には春日神社の他、天満神社、狭井神社の行事日もあった。

お寺は薬師如来を安置する極楽寺もある。

始めに訪れたのは吉隠東之堂極楽寺である。

急こう配の坂を下りて、それからぐるりと回って登る。

近道もあったがそうした。



村内に人かげが見られないが、青面金剛石仏を安置する庚申堂の前に立ててあった二本の竹。

右側には竹で編んだものがある。



紛れもない旧暦閏年に行われている行事の痕跡。

形式で判断するに隣村の角柄と同じようなゴクダイであろう。

されるとすれば今年。

3月終わりころに再訪して尋ねてみたい。

お寺近くに天満神社があるらしいが判り難い。

一旦、車を走らせて谷道から登った。



そこにあった天満神社。

痕跡は見られないが、半紙に包んだモチが数個あった。



何を意味するのか判らないがお供えであることは間違いない。

狭井神社の場所もある程度は判ったが、春日神社が見つからない。

春になれば耕作する村人が居るであろう。

その頃にもう一度立ち寄りたい。

この日の調査はもう一カ所の大字白河(しらが)。

探す神社は秉田(ひきた)神社。

旧暦正月十一日に行われていると思われる「鬼鎮」であるが、神社はさてどこにある。

集落はある程度離れている。

ぐるりと旋回するように集落を通り抜ける道がある。

ところが一部が工事中で通行止め。

おそらくその先が秉田神社と思われるが行くこともできない工事中。

諦めて下った田畑で作業をされている婦人がおられた。

もしやと思って尋ねた結果は2月11日。

村の戸数は35戸の集落であるが、「ケイチン」と呼ぶ行事は村行事でなく、特定家の6軒の営み。

我が家も該当すると云う。

宮さんで行われる「ケイチン」は弓で鬼の的を射る行事。

村に疫病が入り込まないように祈願する正月行事である。

史料に書いてあった「鬼鎮」は「ケイチン」と呼ぶのである。

弓・矢は梅の木で作る。

梅は厄払いの木。

「ケイチン」行事に相応しい道具である。

2軒の当番の人が作っておくそうだ。

日程は判ったが、始める時間は当番の人が決める。

早いうちに訪れたいとお願いしたのは云うまでもない。

(H26. 2. 7 SB932SH撮影)

角柄高おかみ神社参拝

2014年06月05日 09時04分59秒 | 楽しみにしておこうっと
昭和44年ころまでは桜井市であった角柄(つのがわら)。

今では行政区割りが宇陀市に移った。

それまでの神官は桜井市の初瀬から来られていたが、行政区割りが替ったことで榛原の墨坂神社の神官が勤めているという。

氏神さんの高おかみ神社を守っている角柄の集落は12軒ほど。

かつては17軒もあったが村から出ていって氏子家が少なくなった。

神社の年中行事は多くある。

平成27年には20年に一度の造営(ぞうく)が待ちうけている。

年中行事で調べていたのは正月初めに行われていた初山や初祈祷だった。氏子であるKさんの家を訪ねてお聞きした。

そのような行事は聞いたこともないと云うが、正言祭は祈年祭のときに行っているという。

その日は御戸渡し。

いわゆるトーヤ受けである。

トーヤは頭屋と充てるそうだ。

分霊を祀ったヤカタを受け取って我が家にやってくる。

神社の行事に毛掛け籠り(5月)がある。

村の田植えを始める際に豊作を願う行事である。

6月は毛掛けヨロコビだ。

田植えを終えて雨が降ればそれを喜ぶという行事も籠りである。

8月には風日待ち籠りもある。

里道(りどう)作りの日(10月)には二夜三日籠りもあるという角柄は男性たちが集まる行事。

特に決まりはないが、婦人が集まるのは、何故か庚申講、伊勢講があるそうだ。

下角柄の庚申講は9戸の営み。

上角柄もあるらしいが集まりはないようだ。

その庚申講は旧暦閏年の庚申講は集落より東に行った場である。

平成24年の4月に拝見したことがある。

願文を寄せた木はたしか杉だったと思う。

ゴクダイは竹製であった。

そこにトーフを載せていたようだ。

お聞きした角柄は長谷寺内の三社権現で綱掛けをしている九カ大字の一つ。

旧暦一月十一日に行われる行事である。

K家には長谷寺より授かった補任状があるという。

家の長男が受け取る補任状は代々。

息子も入れて四代の補任状を保管しているそうだ。

ちなみに高おかみ神社にあった燈籠には九頭大明神と春日大明神が刻まれていた。

年代もあったが判読はできなかった。

(H26. 1. 5 SB932SH撮影)