マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

十津川山天・ハデ調査から山天のむこだましに出合えた①

2023年12月30日 08時12分35秒 | 民俗あれこれ(干す編)
何枚か撮った十津川村山天(やまてん)の多段型稲架け。

目的は、一応終わった。

停めた車に乗って帰宅・・・のつもりだったが・・。

まさか、まさかの干し物がある。

車を停めさせてもらった場所にあった干し物。

風物詩のように、木製の竿に吊っている、これってなんぞえ?。

たぶんに初めて実物を見た・・粟?。

後ほどお会いした高齢女性が教えてくれた「むこだまし」の名で呼ぶ粟だった。

駐車場の外。



竿の隙間から見える向こう側に、栽培地がある。

先っぽに見えるふわっとしたモノ。

重さで首を垂れているそれが「むこだまし」と呼んでいる粟の実だ。

近くに栽培している農家さんがいるようだ。

すぐ横に建ててある作業小屋。



日差しに光る黄色い干し物に眩しくて、目が点に・・

天井近くにも吊ってあったそれも粟?。



黒いけど粟?下にあった黄色いのはトモウロコシ?。

訪ねたお家は83歳のIさん。

むこだましに使う原材料などを干している、という。



正体はむこだましとも呼ばれる白粟

一般的に粟といえば黄色であるが、むこだましは白粟。

食べ物用語辞典によれば、ここ十津川村・山天や富山県などの地域で栽培されているそうだ。

粘り気があるむこだましは、搗くと餅のようになり、お婿さんが騙されるほど・・ということから名が付いたようだ。

黒いのんは、タカキビとも呼ぶトウキビ。

隅っこの暗がりにあったから携帯画像ではもやっとしてしまった。

光る黄色いのはトウモロコシと思ったが、それはナンバキビ。

十津川村・在来種の「十津川なんば」
だそうだ。

昔、私の祖母は、トウモロコシをナンバキビ、或はトウキビと云ってたことを思い出したが、粟は初めてだ。

写真映像ではわかりにくい。

粟が、こんなにふわふわした触感の植物だったとは・・・。

Iさんの出里は、十津川村の西川。

県指定文化財の大踊り
が、コロナで衰退せんように保存会を立ち上げたとか・‥。

つい2週間前の9月21日は芋名月だった。

かつては芋洗いもしていた。

自家栽培のコイモ洗い。

木の桶に水を汲んでXの字にした長い木。

左右、両手掴みにコイモごろごろ。

ごろごろ芋洗いしていた。

芋名月に芋たばりがあった。

山天はとうにしなくなったが、川津では今もしているようだ。

また、豆名月もしていた。

栽培した大豆だけをとって名月に供えていた。

大豆は作らへんようになったから、今はもうしていない、と話す。



オチエン(※腰掛ける場)にススキを立てて、膳をだす。

お月さんに家の畑で栽培したサツマイモをふかして供えていた、という。

おおみや(※大宮)と呼ぶ山天の氏神さんの祭りに一斗の甘酒を奉った。

甘酒まつりと呼ぶ山天の行事は、2軒がトーヤ務めをしていた。

そういえば名月のときに供えたふかしたサツマイモがある、という。



冷凍しているから、チンして食べて、といきなりのもてなしお接待。



初めて訪問したIさんの心遣いが嬉しい。

テレビが放映していた「家ついていっていいですか」の番組に栃木のカンピョウ祭り。

その映像に民俗の一コマが・・。

映像は、ポリバケツで洗う芋洗い。

その映像を観ていた95歳のおふくろが若いときに体験した遠い記憶が蘇った。

大阪富田林(とんだばやし)・滝谷不動駅近くにあった生家。

茅葺家民家が母屋だった。

正月前の父親は、いつも木桶に栽培したドロイモ(※里芋)を入れて芋洗いをしていた、と・・。

皮ごと入れたドロイモ。

水浸しのバケツに突っ込んだ板一枚を持って、左右に振りながらコネコネ。

それが芋洗いだった。

正月の雑煮に入れるドロイモもそうだがお皿いっぱいに芋を盛って食べていた。

また、お月見のときも同じように芋洗いをしていた。

奇麗になった芋を供えていた。

記憶が鮮明に蘇ったのだろう。

思わずメモったおふくろの芋洗い記憶。

今はもう見ることのない芋洗い民俗が、まさか母親も体験していたとは・・・

山天にやってくる移動販売は昨年に始まった。

一週間おきに来る販売は同村の平谷から。

通所している介護施設は、ここから1時間以上もかかる。

施設のデイサービスに行けば、お友達もいっぱい。



お外の畑地に栽培しているタカキビも見せてくれた。

(R3.10. 2 SB805SH 撮影)

山天に出会った干しもの民俗

2023年12月29日 08時27分24秒 | 民俗あれこれ(干す編)
10月2日、台風一過の晴れの日を狙って十津川村の山天(やまてん)に出かけた。

関東で放送されている「昼めし旅~あなたのご飯見せてください~」番組がある。

製作・放送はテレビ東京。

関東の放送から約3カ月遅れの映像を奈良テレビで見ている。

平成30年10月22日に放映された映像は十津川村だった。

紹介される地域は圧倒的に関東が多い中、稀に近畿圏を旅する昼めし旅。

一般市民が食する昼めしに、学ぶこと度々ある。

愉しみは何度も見たいし、見逃さないように録画している。

このときの旅人は俳優の山下真司。

スタッフが運転する車に乗って移動した地が山天(やまてん)だった。

その放送のサブタイトルは『日本一SP!84歳パワフルおばぁの元気めし』。

その旅のドキュメントがネットにある。

放送映像に見た山天の景観に、なんと多段型のハザカケがあった。

ちらっと映ったそれは稲架けの状態でなく、木製の構造物だけがぽつんとあった。

山下真司が山天に出会った高齢な女性は風雨で倒れた稲を起こしていた。

苦労されている女性を見かねて支援に立ちあがった山下真司も稲起こし。

そのお礼に、女性は昼めしをつくって撮影スタッフ一堂にご馳走をふるまっていた。

直に拝見したい山天の多段型稲架けの構造物。

標高500mとされる高地性地域の山天

構造物がどのような位置に建てているのか、一度は見たいと思っていた。

それから数年経った今年。

知人のMさんが、山天の地に訪れていた。

お友達がお住いの山天に多段型の稲架け作業。

「深い山村の暮らしを垣間見た稲刈りに稲架け」の映像は、テレビで見た場所ではなさそうに見えたが、今でも干した状態があるなら・・・・。

高まる気持ちに、Mさんにメールで伝えた「稲刈りは上三段、下四段は一週間前かな?ここは何処ですか?」。

教えてもらったのが山天。

3年前に観たテレビ映像と場所が一致した。

時を逃しては、干した稲も下ろされる。

下ろす前に、是非とも現状を拝見したく、家を出た。

実は、山天には行ったことがない。

所在地はどこであるのやらまったく存じていない。

地図で調べた山天は、谷瀬の吊り橋から、まだ先の南方面。

風屋ダムのもっと手前。



川津から分かれの十津川支流の神納川(かんのがわ)に・・。

三叉路から8km先は、世界遺産・熊野街道の小辺路。

案内標識によれば、三浦口登山口に着くようだ。

十津川情報によれば、登山口がある三浦集落は、石畳に美しい棚田があるらしい
が、私の目的地はもっと手前にある山天集落。

川津・三叉路に手入れが行き届いている公衆トイレがある。



登山客、ハイカーらは用足しに助かっているだろう。

見知らぬ道。

くねくねする和歌山まで届く旧街道。

ハイカーらしき人が歩いていた。

左に山駆け道がある三叉路。



目的地に向かう道は、さてどっち?

停車して確認した熊野参詣道・小辺路に向かう右行き選択。

そのとき、突然現れた大きな車体のダンプ。

伐った木材運搬なのか、土砂運搬なのか・・・。

何台か、交わした狭いカーブ道。

飛ばす運転は危険行為だと思った。

県道川津高野線をしばらく走ると、右手に視界が広がる地に出た。

〇にHマークはヘリポートの離発着地。



ここ内野地区のヘリポート用途は、第一に避難場所。

洪水、土砂災害、火災などの場合、近隣住民の避難行動に稼動する
ようだ。

向こう側に建つ数軒の民家は内野の集落。

ここもまた、山下真司が山天に続いて訪れた昼めし旅。

山天の映像に見た多段型稲架け構造物もあった。

今日は、余裕時間もなく、民俗調査は次回訪問の機会を待つことにした。

山天はすぐそこだ。

神納川に架かる橋を渡った地は山天口。

右手に見える登り口。

急な坂道を行けばそこが山天集落。

左手の道を行けば三浦口・五百瀬に着く。



ところで神納川は、渓流釣りの場として有名だ。

かつて渓流釣りにはまった時代があった。

奈良、兵庫、岐阜。ドライブがてらに走ったこともあるが、神納川は初めての地。

本流よりも渓谷の支流が狙い
、といいたとこだが、今じゃすっかり釣る気も抜けている。

山天口からは急坂。

フロントガラスから見えるのは青空ばかり。

右手に崖。ヒヤヒヤしながら登っていく。

狭い道に、狭い曲がり角であっても、乗用する軽バン車からは道が見える。

安心は禁物。

そろそろ登ったそこに・・・。

思わず車を停めてサイドブレーキを足踏みロック。



右手に向こうに見えた集落民家。

あそこが山天だろう。

昼めし旅に出演していた山下真司は、その景観をみて「(※南米の)マチュピチュみたい」とコメントした。

テレビでよく紹介される「マチュピチュみたい」なところは、各地に・・・。

なんといっても兵庫県朝来市にある竹田城跡。

後続に、うちも、うちもと名乗りをあげる始末に・・。

元会社の後輩が、旅行に行くと云った行先は、マチュピチュ・・・。

そりゃぁ、竹田城跡だろが


そのことはともかく、日当たりの良い民家の壁前に、木材を格子状に組んだ構造物が見える。

まさにここが山天である。

山天集落の入り口はこっちだろうと思って登ってきた。

急に広がったところに建つ民家。

1軒、2軒・・・奥の方にも見える民家がある山天集落。

車が入れる範囲まで突き進んだそこにあった屋根付きの多段型稲架け。

念願の多段型稲架けがここにあった。



稲刈りも稲架けもしていた人はMさんのお友達。

7段に架ける稲架け作業は2人がかり。

一人は、架けた梯子に登ったまま稲干し。

いちいち降りて稲束を架けるのではなく、下におられるもう一人が下から稲束を放り投げて、梯子に登った人が、空中でがっちり掴む。

掴んだ稲束を太い木の竿に架ける。

その作業を繰り返す情景を、Mさんが伝えていた。

9月20日に架けた稲の色は葉も茎も緑色。

それ以前に架けた稲の色は茶色。

2種類でわかる日程差。

私が訪れた10月2日は、すべてが茶色。

そろそろ下ろす時期にきていると思われた。

(R3.10. 2 SB805SH 撮影)

再訪、旧西吉野村・永谷のハゼ

2023年12月28日 08時30分07秒 | 民俗あれこれ(干す編)
目的地は十津川村・山天。

その途中に立ち寄った旧西吉野村・永谷。

先月の9月21日に訪れた永谷にお礼を伝えたくて車を停めた。

そこは、「旧西吉野村・ハゼ架けのある永谷」に、紹介したハゼ架けをしていた橋の欄干。

欄干はあるものの架けた籾付きの稲藁はない。

あったのは、籾のない稲藁。

辺りには籾殻ひとつも見当たらない。

近づいて、よく見た稲藁は綺麗にシビまで取り除いている。

もし、この藁がモチワラであれば、しめ縄用途が考えられるが、粳米なら野菜畑の霜よけ、保護用途の利用も考えられるが・・・・さてさてどうなんだろうか。



謎を残したまま次の場に移動するのもつらいが、余裕の時間が少なくなる。

最奥に向かってハンドルをきった。

数キロメトール走った右手の田んぼに目が・・・。

すべての稲を刈り取った場に、横一列に伸ばしたハザカケ景観に思わずシャッターを押した。



平成28年9月に訪れたときには見なかった光景を見届けて、再び走った稲刈り場にもあった。

二つとも雨除けのビニールシートをかけていた。

時間さえあれば、一人でもできる範囲内に作業していたのであろう。

謎を残したまま次の場に移動するのもつらいが、余裕の時間が少なくなる。

最奥に向かってハンドルをきった。

数キロメトール走った右手の田んぼに目が・・・。

すべての稲を刈り取った場に、横一列に伸ばしたハザカケ景観に思わずシャッターを押した。

平成28年9月に訪れたときには見なかった光景を見届けて、再び走った稲刈り場にもあった。

二つとも雨除けのビニールシートをかけていた。

時間さえあれば、一人でもできる範囲内に作業していたのであろう。

一列式のハゼ場を見た場からそれほど遠くない位置に多段型のハゼがある。

最奥手前の民家が所有するハゼ場。

前月、訪れた9月21日より増えている。



その量は2.5幅。

10段ぎっしり詰めているし、手前にある斜め竿にも多少ある。

お住まいは独り暮らしのYさんであるが、大和郡山市内に住む息子家族に姉家族に妹家族も口にするY家が収穫した食糧。

一年で食べきるそうだ。

家族みなが美味しくいただく自前の米。

田植えも稲刈り・ハゼカケも一挙に済ませないから、雨の降らない、仕事が休みの休日、祝日に兄弟姉妹が集まって作業をしている。

(R3.10. 2 SB805SH 撮影)

十津川滝川・激変した裏地のハデかけ

2023年12月14日 07時47分40秒 | 民俗あれこれ(干す編)
下地(しもじ)のハデを撮らせてもらって再出発。

道沿い、清流滝川上流を遡っていけば裏地に着く。

時季が外れたのか、今年もしているだろうと、期待していたハデ場に稲架けは見られなかった。

平成28年9月15日。



橋の向こうに裏地に初めて拝見したハデに、まさか、ここにこれほど素晴らしい景観を見るとは思っても見なかった。

かれこれ45年前。

上流にある笹の滝を拝見したくやってきたのが初めてだった。

「日本の滝 100選」に選ばれている笹の滝。

その後も訪れた滝川。

目的を替えて再三訪れ、おおかた40年間も。

時季は夏場だった。

平成28年になって初めて訪れる季節を替えた。

そのとき初めて知った滝川・裏地のハデ。

その美しさに心から感動した。

手前のハデは8段。

その向こうにもある。

さらにはもう一段上がった高台にもあった稲架け。

取材が目的に来たなら聞き取りをするのだが、目的外行動は不可の団体活動。

それからもずっと継続しているのだろう、と思っていたが、今年は・・・・ない。

稲田に刈り取った痕跡すらない。と、いうことは・・・

鉄橋を渡った向こうの地。

ほんの少し走ったところにもハデがあった。



これもまた平成28年9月15日に撮影した映像である。

車道から一段下がった地に拡がる稲作地。

刈り取った稲は、赤いトタン屋根が目立つハデに架けていた。

それから2年後の平成30年9月8日、9日にも見た裏地のハデは、変わりなかったが・・・

ここは6段構造。

横に広げた構造物。

水平に据えた竿は5間幅。

撮影に難しいハデであるが・・・・赤い屋根が下に・・。



今年は、構造物を解体したかのような状態だった。

外した屋根は積み重ね。

6段あった竿もすべてを取っ払っていたが、支柱だけは温存しているように思えた。

手前の稲田も耕作した様子は見られない。

おそらく昨年、或はその前・・に耕作放棄されたのだろう。

滝川の民俗取材にお世話になった在住のKさん。

「田んぼをしているお家は、どこにでもありました。小さい頃から見慣れている景観に、どこでもこうしていると思っていましたが、解体したところも・・」

暮らし、文化は時代の流れとともに変化するもの。決して普遍的ではなく・・・。

当地に限らず盆地、平たん部でも同じような状況にきている。

生まれも育ちも大阪市内。

今では大和郡山市内に居住している私であるが・・。

新幹線開通、東京オリンピックに万国博とともに水田も、肥えたんごも、どぶ川もみな消えた暮らしの原点。

農耕牛も見てきた世代。

その時代を覚えているのは記憶の映像ばかり。

今は、とにかくできうる限りの映像記録と聞き取り話者が伝える記憶の文字化。

それくらいしかできないが、少しでもお役にたてるように・・、と思っている。

多段型稲架けの構造物を据えて真っ黄色に実った稲を刈る情景を描いた作品がある。

作者は安野光雅。

今年、94歳に亡くなった作者が描いた作品は数多くある。

画風に憧れる人は多い。

いとこのねーちゃんもその一人だ。

平成23年からはじまった月一回の作品連載。

産経新聞日曜版に掲載される作品にいつも感動していた。

令和3年12月12日日曜に掲載された作品タイトルは「京丹後の稲刈り」

稲刈りする人多数。

楮物に梯子をかけて足場に就いた人は、一人。

刈った稲をまだ架ける様子は見られない。

稲刈り情景につばを飲み込む人は多いが、多段型稲架け構造物に目を落とす人は、体験者くらいか。

気になったのは作者の安野光雅氏の作品コメントはこうあった。

「わたしも戦後アルバイトで稲刈りをやったので、知ってはいたが、そのしぐさを記憶だけでは描けないので、スタッフの人に刈るところを演じてもらった。その様子は、わたしのアルバイト時代も今も、少しも違わないことがわかった。昔のわたしは若かったから、2株を左手に持って一気に刈った。刈ると。それをイナハゼ(※稲架け)に掛けて干す。京丹後とでは、このイナハゼ(※稲架け)が違っていた。はしごを掛けて高いところにもつるす。そういえば農繁期という言葉があった。いまもある、ネコの手も借りたいほどに忙しい、秋が実るのである」。

稲刈りの仕草はスタッフにしてもらって描いた、とある。

が、構造物に梯子。

そこに居る男性も描いたが、動きはない。

刈った稲束を手渡す人も周りにいない。

稲刈りは順当に進んでいるようなのに、稲架けに稲束がみられない。

空白の竿だけがわかる4段の竿。

写真を撮ったわけでなく、見てきたかのような描写としか感じえない。

せめて1段目、2段目に少しでも稲を架けておれば、作業の大変さがわかるのだが・・・

そのことはともかく安野光雅氏は、稲架けを「イナハゼ」と呼んでいた。

稲のハゼ。

つまり十津川村でも呼ばれている「ハゼ」場の稲架けである。

安野光雅氏が実際に、稲刈りをされた地域はどこなんだろうか。

違いがあった、とコメントにあるから、描写モデルになった京丹後の人たちに「イナハゼ」のことを教えてもらったのかな・・・・。

ちなみに、京丹後地域は京都の北部。

丹後半島の大部分を占める地域。

峰山町、大宮町、網野町、丹後町、弥栄やさか町、久美浜町が合併した京丹後市辺りを京丹後と呼ぶようだ。

(H28. 9.15 EOS40D 撮影)
( R3. 9.21 SB805SH 撮影)

十津川・滝川下地のハデかけ

2023年12月13日 08時04分30秒 | 民俗あれこれ(干す編)
旧西吉野村・永谷のハゼを拝見した次の訪問先は十津川村・上野地。

行事の聞き取り調査から確信を掴んだ。

さらに足を伸ばす目的地は滝川。

これまでなら、気がつかずに通り過ぎるのだが、左手に高台に見た多段型稲架けに、あっ、と声がでた。

車を停めたすぐ近く。

平成28年9月の行事取材にもお世話になった前総代とばったり出会う。

4年前と同じ場所。

畑つくりをされていた前総代に声をかけた。



前回に訪れた平成28年の9月15日は、稲架けの構造物の存在は知ったものの、かける材はなんにもない状態だった。

当時、前総代の話によれば、今はしていない、ということだったが、そこに、なんと今年は見事に干していたのだ。

撮らせてもらってもいいですか、に了解してくださったが、実は前総代家でなく、隣の家だった。

構わんからあがって行きなと云われて石段を登ったそこは、イワヒバだらけ。

それはともかく、下の道路からは全容が見えなかったが、登りつめたそこに拡がる景観に圧倒される。



許可を得て撮らせてもらった隣家はS家。

このときは不在だったが、数時間後にお会いできた際に、あらためて許可をいただいた。

なんでも毎年しているという稲架けを、当地ではハデと呼んでいる。

永谷ではハゼであったが、ここ滝川ではハデ。

どちらかが訛ったのでは、と思ってみても、確証は得られない。

(H28. 9.15 EOS40D 撮影)
( R3. 9.21 SB805SH 撮影)

旧西吉野村・ハゼ架けのある永谷

2023年12月11日 08時20分10秒 | 民俗あれこれ(干す編)
永谷の入り口にさしかかろうとしたそのときだ。

右手に当然の如く現れたハザカケに思わず車を停めた。

ここは旧西吉野村の永谷(えいたに)。

現在表記は、五條市西吉野町の永谷である。

平成17年9月25日、吉野郡西吉野村は大塔村とともに五條市に編入され、村を廃止し、西吉野村は西吉野町に大塔村は大塔町に冠を替え現在に至る。



この日は、十津川村の民俗取材。

はじまる時間は午後7時。

到着するまでの行程は自由行動。

余裕のある時間帯に、撮っておきたい山間地のハザカケ景観に出くわした。

さらさら流れる上流地の永谷川のすぐ傍に稲田がある。

干している稲は、今日に干したのなら緑色。

その色が見られないから一週間前くらいに稲刈りをしたのだろう。

川向こうの田んぼ。

両端に立てていたウマに架けたハザカケ景観。

午後2時過ぎの時間帯にお天道さんの光は差し込まない。

限られる時間に天日干し。



橋の欄干を利用したハザカケ。

左手の稲田にぽつんと残した稲田がある。

その奥にある構造物。

支柱も竿も木製の構造物もまたハザカケする道具。

近くまで寄っていけばわかるが、今は使っていない多段型のハザ場。

向こうにガードレールが見える。

奥に入っていけば数軒の民家がある。

平成28年9月15日に訪れた永谷

ご存じの方もおられると思うが、道に沿っていけば右手に温泉地がある。

平成27年4月10日に開業された西吉野桜温泉

宿泊もできる温泉地に、今も人気のようで、泉質がいいと伝える口コミも多い。

私が求める民家は、温泉地よりまだ向こう。

今もハゼ、またはハデと呼ぶ構造物に稲架けをしているのだろうか。

以前に訪れた日とは若干のズレはあるが、多段型のハゼ架けは、今から5年前の平成28年9月15日

その日も、今日と同じの中秋の名月。

十五夜の芋たばり行事をしている十津川村滝川行き。

実は、今日もまた同じく、滝川で行われる十五夜の芋たばりの取材行き。

まさかの同じ日になろうとは・・。

10日後の9月25日も訪れた永谷



両日とも取材させてもらった2家族は元気にしているだろうか。

ご高齢の住民は、今も当地で暮らしているのだろうか。

村の道はここまで来たら記憶が蘇ってきた。

道下に稲田が拡がる。

全面に拡がっているわけではなく。

狭い土地に・・・。

いちばん近いところの田んぼに稲はない。

刈り取りを済ませたのだろう。



狭い道に向こうに・・多段型のハゼ架けが見えてきた。



木造のハゼ架け。

多段型の構造に、初めて出逢ったときの感動は忘れもしない。

その場まで車を運転してきたそのときである。



道下に見覚えのある婦人の顔が・・。

思わず手を振りながら、大きな声で・・・。

こっちを向いて笑顔で返してくれたY夫妻。



「おっちゃんは、もう88歳になったんやで」、と話す婦人。

昨日までは三連休。

町に住む息子たちが、仕事休みに応援してくれた稲刈り。

刈った稲は、多段型のハゼに架けてくれた。

昨日に刈り取った稲は青々している。



一週間前に架けた稲の色とはまったく違う。

時季がわかる色具合は、十津川村滝川、内原で拝見したことがある。



今年は、特に天候不順。

稲刈りするのも天気予報に合わせて稲刈りをしている。

昨日の予報では、今夜から明日は雨の予報。

特に紀伊半島南部に雨が降る。

ここ永谷は五條市であるが、かつては西吉野村だった。

市町村統合に、五條市に編入されたが、物理的な地理位置は変わりない山間地。

狭隘な山間地だからこそ稲干しは、上へ、上へ、と高くなった多段型ハゼ。

最奥に住まいする高齢者が耕していた田畑に手を入れていない。

構造物のハゼだけが残されている。

そのハゼの位置は同じだが、どことなくおかしい。

以前に見た平成28年のときのハゼは十段もある段数。

幅はもっととっていた。

帰宅してから見た平成28年の様相は支柱が8本。

半分に縮めたハデ。



段数も3段。

規模を大幅に縮小したハデに何を干すのか。

考えられる干しものは野菜。

大豆、黒豆に大根などであろうか。

3段にしたハデは手の届く範囲内に限定されたのだろう。

(R3. 9.21 SB805SH 撮影)

野依の地に干す韓国唐辛子

2023年11月15日 07時29分10秒 | 民俗あれこれ(干す編)
撮り位置がわかった場を離れ、宇陀川に沿う土手道に出る。

すぐ近くのお家に人物二人。

会話をしている男女はK夫妻だった。

お家の前に来たら、真っ赤なものが目に入った。

器に盛った赤いものは何ですか?。

奥さんに尋ねたソレは、韓国の唐辛子だ、という。

真っ赤な唐辛子は、唐辛子の体をなしていない。

唐辛子の種を除去し皮だけに・・。

細かく刻んだ皮を干している、という。

最終的には粉にして、欲しい人に貰っている。

はじまりは、知人からもらった韓国唐辛子の種。

植えつけた唐辛子の種は育ち、やがて実をつけた。

栽培をはじめて、もう10年にもなる。



粉にした唐辛子は、一味代わりの香辛料。

とても辛いので、私は食べないが、欲しいという知人にあげている。

そう話してくれたKさんに、鳥居がすぐ傍だから、平尾ですよね、と云ったら、違うという。

ここは白山神社が氏神社の野依(のより)。

集落の一番北になる、と話してくれた。

(R3. 9. 5 SB805SH/EOS7D 撮影)

城町・東城のカンピョウ干し

2023年09月20日 07時54分16秒 | 民俗あれこれ(干す編)
今日は土用の丑の日。

あっちこちのスーパーで販売している鰻。

これでもか、これでもかと映し出す鰻の蒲焼に、鰻重、鰻丼、鰻巻き・・・。

思い切って、今日のお昼は鰻一匹売りの蒲焼を買ってきて、といわれて走ったスーパートライアル小泉店

あれこれ買って帰ってきた大和中央道。

城大橋行きの信号を渡った右手に、白いものが目に入った。

量は少ないが、これはカンピョウ干しに違いない。

そう思ってハンドルをきって右折れ。

右手に東城公民館が建つ位置から眺める白い干し物。



近づいて確認した白いものは、まさにカンピョウ干し。

大和中央道が完成、開通するまでは、まったく気づかない位置にあったカンピョウ干し。

これまで拝見してきた県内事例のカンピョウ干しは、もっと多いし、長さがある。



皮むきの道具は、おそらくカンナでなく、包丁切り。

その推定は、どんぴしゃ。

農小屋の前に放っていたカンピョウ剥きの残欠。

玉のユウガオも小さいような気がする。

竿は太い竹竿。



3本の木で組んだウマを立て、水平に据えた竹竿。

私が見てきた事例は、すべてが藁巻きだったが、ここにはそれが見られない。

尤も、竹には油があるから干したカンピョウは剥がしやすい。

理にかなった竹竿干しもまた民俗、暮らしに工夫がある。

面白いことに、すでにカンピョウ干しを済ませて、ひも状になったカンピョウを編んで束ねた形のものがある。



保管しやすいような形にされていた事例。

細切れになったカンピョウも美味しくいただく食材。

捨てるところは、ない、といいたいが・・。



実は、剥いた皮は、トウガンとかスイカの皮と同じよう、漬物にする家もある。

種は、場合によっては売り買いされ、金になる種。

カンピョウの種は接ぎ木に利用されるのだから、もっと栽培されてもいいのでは、と思うが、そうは簡単にはいかないらしい。

もう一度、きちんと撮っておきたいと思って鰻を食べた食後にもやってきた東城のカンピョウ干し。

撮ろうとしたときに出会った軽トラを運転していた農家さんに出会った。

お声をかけたのは、水路で何をされていたか、である。

S・Aさんは昭和18年生まれ。

2月1日の朝方にしている粥占いで知られる奈良市石木町に鎮座する登彌神社の氏子さん。

ここ城町・東城は大和郡山市。

実は、登彌神社の氏子区域は、ここ旧城村(東城・西城)に、行政区域が奈良市の石木町、大和田町の3町からなる。



今年の豊作を占った粥占いの結果は、東城公民館に貼りだしている。

78歳のSさんがいう旧城村の東城(ひがしんじょ)、西城(にしんじょ)。



江戸時代のいつごろであったか、はっきりしないが、ここら辺りの富雄川はよく氾濫したそうだ。

氾濫に水ツキに対策したのは、集落ごとの高台移転である。

東城、西城とも高台移転。

川の氾濫に旧村の城(じょう)は、そのことがあって、東西が離れ、分断した、ということだ。

氾濫が絶えなかったかつての富雄川は、ここ旧村の城から小南、豊浦、杉、番条を経て秋篠川に繫がっていた。

殿さんが令をだした大規模な河川付け替え工事。

今では富雄川は、ここ城からは、外川、田中、万願寺を経て南に流れる河川に。

そして大河の大和川に繫がり、現在に至る。

話題は、カンピョウ干しに戻そう。

話してくださったSさんによれば、ここ東城では3軒ある、という。



うち1軒が、今撮影させてもらっているS家。

苗字は同じだが、家は異なる。

我が家の息子と同学年だった学友の家も同じS家。

他にもS家が何軒もあるから、尋ね間違いは、多々あるらしい。

実は、話してくださったSさんも、またカンピョウを干しているそうだ。



昨年は、長雨で失敗したが、今年は梅雨明け一気に照りが続く日。

皮を剥いたカンピョウ干しは1日で竿から下ろした。

完全に水分を抜くために、それからも数日間も乾燥させるが、平らなところに広げて干す、という。

うちも、ここと同じようにウマを設えて水平にかける竹竿。

竹といっても青竹でなく、カラカラに乾燥させた枯れ竹。

剥いたカンピョウは、水分があるから、枯れ竹に垂らして干したら、くっついてしまい、剥がすのが難しくなる。

その対策にしているのが、藁巻きである。

かつては麦藁。

麦作りをしなくなってからは稲藁を巻いて干したそうだ

ところで、お昼前に稲地の水路に来られたのは、何をされていたのか・・。

実は、一週間前に水路を断って、堰を止め、土用干しをしていた、という。



田んぼの水を切った稲地はカラカラに乾く。

日干しの田んぼにひび割れ。

乾ききった田んぼの稲は、根の張りを強くする。

大風にあたっても倒れないように根をわざとはらす仕組みが土用干し。

水出しの日程は、地区ごとに水利組合が決める。

今日がその日だという78歳のSさん。

ここは、補助金をもらって休耕田施策にコスモス畑を栽培している。



「城町環境保全組合花畑」を表示しているのは、その施策を伝えるためでもあるが、道行く散歩の人たちが、「綺麗ですね」と言ってくれたときの気持ちが嬉しくて、続けている、という。

今の時季、コスモス花は、まだ少ないが、多くなってきたら、どうぞ切り花に使ってください、と伝えている。

一人、数本程度なら、どうぞお持ち帰りください、である。

今の時季、数は少ないが、猛暑日に咲くコスモスを前景において、カンピョウ干しを撮っていたが、これまで何人もの人たちが、コスモス花の群生を撮っていた。

が、カンピョウ干しを入れる人は初めてだ、という。

秋ともなれは、小山に植えている柿の実がいっぱいできる。

その柿をもぎ取って吊るしカキを作っている。

軒下に干しているここら辺りの家はあちこちに見られるが、うちは地産地消、産直市場のよってって大和郡山店に商品の吊るし柿を出している、という。

その時季になれば、吊るし柿の景観も撮らせてもらおう。

ちなみに「城町環境保全組合花畑」の前を流れる水路に思い出す。

小学校帰りの次男は、たいがいこの水路に入ってじゃぶじゃぶ・・・泳いだわけではなく、水生動物捕り。



主に捕ってくるのはアメリカザリガニ。

ときおりはカメ。

イシガメだったか、ミシシッピアカミミガメだったか、記憶は曖昧であるが、持ち帰ったザリガニもカメも飼っていた金魚がいなくなった水槽に・・。

生きながらえたザリガニもカメも数年間。

冬越しに落ちていた葉っぱを集めて水槽に入れていたら、そこに潜っていた。

春になったころ。腐葉土のようになった葉っぱを取り除くと、ザリガニもカメも生きていた。

そのままずっと、いうわけにはいかず、富雄川に生きる道を勧めた。

それから10日後の8月8日に出会えたカンピョウ干しの田主さん。

夕刻、業務スーパーににんにくを、と思って車を走らせたらカンピョウ干しの男性が見えた。

行き先は後まわし、勝手に写真を撮って勝手に公開、アップするわけには行かないから表敬訪問、自己紹介に撮影の主旨を伝えたら了解された。

s24年生72歳のS・Yさん。

母親は生前にカンピョウ作っていた。

場は高専向こうの城ケ丘住宅地。

かつては田畑が拡がる地だった。

また旭ケ丘住宅地に食料品店を営んでいた大牟礼さんが入居するまであった田畑で耕作していた今から50年前の田畑。

母親が亡くなってから辞めたカンピョウ作り。

S・Aさんに教えてもらって30年ぶりの今年初の収穫に干した。

日当たり良好すぎてデキは思ってより難しかった。

カンピョウの栽培地は柿山の辺り。

このときに干したカンピョウは友達にもらったものなど、いろいろ話してくださった。

(R3. 7.28 SB805SH/EOS7D撮影)

御所池之内・屋根付き家型藁積み

2023年02月08日 07時24分09秒 | 民俗あれこれ(干す編)
この年は、コロナ禍の影響を受け、2月8日からはじまった「きまぐれや写真展2021 💭リ・ビュー -もっぺん見たい大和の年中行事―」。

会場は、大淀町大岩に営業している平日だけのモーニング喫茶きまぐれやさん。

目的地は、まだまだ先になるが、直線的な道路を走っていた。

10日ほど前の2月17日。

御所の玉手辺りからの雪景色を愉しんでいた。

そこからすぐ近く、北に数キロメートル先だった。

2月の田園に見るものなく、拡がる田園地を車窓から眺めていた。

ハッと気づいた構造物。

アレは藁積みではないか。

思わず急停止し、Uターン。

東に向かう道筋に入ったそこに見た藁積み。



ここ数年前から、家形の藁積みに興味をもって記録、取材してきた。

特に、といえば大和郡山市の田中町とか小南町、豊浦町、池之内町、小林町北、小泉町東辺りに多く見られる藁干しのあり方。

この藁積み構造に名はあるのか。

あれば、田主さんはどう呼んでいるのか。

また、干した稲藁の用途はなにかである。

この家型藁積みは、どこにでもあるというモノでもない。

極めて狭い地域にポツンと見ることがある。

ここ池之内の田園地をぐるり見渡してみたが、遠くの存在もないとわかる。

仮に、池之内集落に農業を営むなかで、ただ一軒しかこの家型藁積みをしてないのなら、藁積み文化はどう伝わったのか知りたいものだ。

ちなみに、大和郡山に家形藁積みをされている用途ははっきりしている。

調べてもらったらわかるが、大和郡山はいちじく栽培農家が多い。

池之内町~満願寺町辺りが栽培の中心地。周辺地区は、稲刈りを終えて干した稲藁は、いちじく栽培農家に移し、栽培地の畑に置かれる。

畑地を乾燥させることなく、いちじくの生育に、需要な役割を果たしている。



ここ御所市の池之内には、いちじく栽培地のように大量の稲藁は必要としない。

おそらく田主さんの畑地乾燥防止用途に溜め置きをしているものと推定する。

(R3. 2.26 EOS7D/SB805SH撮影)

矢田山の麓に見たハザカケ

2022年08月17日 08時41分39秒 | 民俗あれこれ(干す編)
家人を施設に送っていった。

このまま帰るには後ろ髪がひかれたような気がして・・。

山麓に拡がる田園地は、住まい地からおよそ10分。

え、まさか・・・。

当地に越してから、すでに40年。



田植えの時季も知っている田園にハザカケがいっぱい並んでいた。



雨降る状況に持ち合わせの携帯電話で撮る映像にうろうろするが、足元はビショビショ。

奥にもなにかがありそうだと、車を動かした、そこもよく存じている垣内。



ここもまた、まさかのハザカケがいっぱい。



田主の家と思われる民家も入れて撮っていた。

ついでに撮っていたモノクロ映像。

雨降り情景を映し出すのは難しい。



この地以外にもあるかも、と思って足を拡げたが、ここだけだった。

この地に暮らして40年。

初めて見る麓のハザカケ。



遠くよりも近くにあったハザカケ。



目と鼻の先にあったとは・・。

灯台下暗し、とは、このことか。



携帯画面では物足りないから、自宅まで戻って再び訪れた田園地のカメラ撮り。

そのときの降りは土砂降り。

朝の通報に注意報の発令もあったが、雨の日に良きご縁をつないでくれたような気がする。

(R2.10.23 SB805SH撮影)