この日は近畿地方全域にわたって梅雨入りしたと気象庁が発表した。
この日が隆光僧正の命日にあたる日。
隆光僧正の遺徳を偲ぶ寺院僧侶たちが参拝すると聞いていた。
参拝される場は墓域。
昭和53年11月、遺徳を偲んだ有縁者らの手によって墓域を整備し顕彰碑を建之したようだ。
命日の法要であるが、お寺さんの都合もあって日にち、曜日は変動するから、出かけても外れることがある。
しかも、この日は梅雨入りの日。
雨天の日に命日供養をされるのか。
その確認もあって出かけた奈良市佐紀町。
場は旧佐紀幼稚園の南裏になる。
通りに立て看板があった。
ペンキ色は薄くなり錆も見られる立て看板は有志の人たちが立てたと思われる『隆光大僧正の墓石』に「この奥に隆光大僧正(慶安二年:1649~享保九年:1724)の墓石があります。隆光は慶安二年にこの付近で生まれました。長谷寺で学んだ後、江戸へ出て、関東新義真言宗本山の護持院を創設しました。大和の社寺修復につくし、特に東大寺大仏殿の再建にあたり、東大寺の公慶上人を助け、将軍綱吉とその母桂昌院に援助を勧めた人として知られています。後年はこの地にあった超昇寺に引退し、享保九年(1724)に没しました」が書かれていた。
2年前の平成27年6月7日にも訪れていた隆光墓である。
その日は日曜日だった。
供養されたと判断できる塔婆があった。
その塔婆に願文があった。
「平成27年6月4日 護持院大僧正隆光榮春大和尚貮百九拾壹年忌菩提也 顕彰会」である。
供養日から三日も過ぎていた。
この場で供養をしていると教えてくださった歓喜寺住職を尋ねて立ち寄った。
三日前だったのですねと伝えた住職の回答は「本来なら命日の七日にするのだが、法要に参列される僧侶らの都合で今年は早めた」と云っていた。
その都合は曜日の関係にある。
つまり、命日の7日が土曜、日曜の場合はしない、ということだった。
その年の7日は日曜日。
それで早めた金曜日であったわけだ。
今年の7日は水曜日。
間違いなく、聞いていた時間には来られるだろうと思ってやってきた
車が往来する通りに何人かが忙しく動き回っていた。
一人は僧侶でもう一人は事務の人だろうか。
本日の参拝に来られた顕彰会の人であろうと思ってお声をかける。
もちろん、この法要を教えてくださった佐紀二条町の歓喜寺住職のお名前も告げて承諾してくださった取材である。
歓喜寺住職が顕彰会を話してくださったのは平成26年7月23日に行われた二条町にある辻の地蔵尊の法要のときだった。
教えてもらってから3年経ってようやく拝見できる雨の日の顕彰会である。
会式に集まった僧侶は12人。
歓喜寺住職の他に長谷寺、元興寺、般若寺、福智院に、遠くは大阪泉南にある真言宗派のお寺さんも。
長谷寺からは僧侶以外に寺院職員関係者も来られて、一同揃って行われる顕彰会式である。
顕彰する墓石は「カラバカ」と聞いている。
その場に今年の塔婆を掲げてローソクに火を灯す。
墓石周辺にある石塔・石仏など、すべてに花を立てて唱える般若心経。
土砂降りの雨に心経は耳に届かない。
俄に張ったアウトドア用のテント内におられる僧侶に、入りきらずに傘をさしながら唱える僧侶も。
風はそれほど吹かなかったからいいようなものの濡れた身体では寒さを感じる。
いつもなら30分以上もかけて唱えるが、この日は昨夜から降った雨がやまない日。
簡易的に設営したテントでびしょ濡れは避けられたが、肩にどうしてもかかる土砂降り。
衣服も徐々に浸みこんで色が替わる。
参列者の中に隆光僧正が生誕した地に住む二条町の人たちがいる。
中でも本家を継ぐ川辺家に隣村の佐紀東に住む川辺家の分家になる3人の女性たちも参られる。
詳しいことは省くが、僧正隆光の初名は河辺隆長である。
ここ佐紀の川辺家出身。
名主二男の河辺隆長が出家されて、万治元年(1658)に仏門入。
その後、長谷寺に唐招堤寺で修学された。
心経を唱える間に焼香する僧侶。
顕彰会のみなさん方に隆光僧正に直接関係するお家の方々が終えてから一般焼香に移る。
一般焼香はこの日に取材していた私ともう一人であった。
塔婆の願文は「平成29年6月7日 護持院大僧正隆光榮春大和尚貮百九拾参年忌追善菩提也 功徳者 顕彰会」であった。
亡くなられてから293年目の顕彰供養。
7年後には記念の300年目を迎えることになるだろう。
供養を終えて一般の私にも配られた粗供養に「隆光僧正 顕彰会」の記しがあった。
なお、お布施は一切断っていると会の人たちが申しておられたことを付記しておく。
雨に濡れながらも顕彰会をされたそれからの毎日。
パラパラの小雨はあっても降ったような感じでもない日が続く。
曇りマークの日もあるが晴れ間ばかりの毎日。
20日ころまで続いていた。
(H29. 6. 7 EOS40D撮影)
この日が隆光僧正の命日にあたる日。
隆光僧正の遺徳を偲ぶ寺院僧侶たちが参拝すると聞いていた。
参拝される場は墓域。
昭和53年11月、遺徳を偲んだ有縁者らの手によって墓域を整備し顕彰碑を建之したようだ。
命日の法要であるが、お寺さんの都合もあって日にち、曜日は変動するから、出かけても外れることがある。
しかも、この日は梅雨入りの日。
雨天の日に命日供養をされるのか。
その確認もあって出かけた奈良市佐紀町。
場は旧佐紀幼稚園の南裏になる。
通りに立て看板があった。
ペンキ色は薄くなり錆も見られる立て看板は有志の人たちが立てたと思われる『隆光大僧正の墓石』に「この奥に隆光大僧正(慶安二年:1649~享保九年:1724)の墓石があります。隆光は慶安二年にこの付近で生まれました。長谷寺で学んだ後、江戸へ出て、関東新義真言宗本山の護持院を創設しました。大和の社寺修復につくし、特に東大寺大仏殿の再建にあたり、東大寺の公慶上人を助け、将軍綱吉とその母桂昌院に援助を勧めた人として知られています。後年はこの地にあった超昇寺に引退し、享保九年(1724)に没しました」が書かれていた。
2年前の平成27年6月7日にも訪れていた隆光墓である。
その日は日曜日だった。
供養されたと判断できる塔婆があった。
その塔婆に願文があった。
「平成27年6月4日 護持院大僧正隆光榮春大和尚貮百九拾壹年忌菩提也 顕彰会」である。
供養日から三日も過ぎていた。
この場で供養をしていると教えてくださった歓喜寺住職を尋ねて立ち寄った。
三日前だったのですねと伝えた住職の回答は「本来なら命日の七日にするのだが、法要に参列される僧侶らの都合で今年は早めた」と云っていた。
その都合は曜日の関係にある。
つまり、命日の7日が土曜、日曜の場合はしない、ということだった。
その年の7日は日曜日。
それで早めた金曜日であったわけだ。
今年の7日は水曜日。
間違いなく、聞いていた時間には来られるだろうと思ってやってきた
車が往来する通りに何人かが忙しく動き回っていた。
一人は僧侶でもう一人は事務の人だろうか。
本日の参拝に来られた顕彰会の人であろうと思ってお声をかける。
もちろん、この法要を教えてくださった佐紀二条町の歓喜寺住職のお名前も告げて承諾してくださった取材である。
歓喜寺住職が顕彰会を話してくださったのは平成26年7月23日に行われた二条町にある辻の地蔵尊の法要のときだった。
教えてもらってから3年経ってようやく拝見できる雨の日の顕彰会である。
会式に集まった僧侶は12人。
歓喜寺住職の他に長谷寺、元興寺、般若寺、福智院に、遠くは大阪泉南にある真言宗派のお寺さんも。
長谷寺からは僧侶以外に寺院職員関係者も来られて、一同揃って行われる顕彰会式である。
顕彰する墓石は「カラバカ」と聞いている。
その場に今年の塔婆を掲げてローソクに火を灯す。
墓石周辺にある石塔・石仏など、すべてに花を立てて唱える般若心経。
土砂降りの雨に心経は耳に届かない。
俄に張ったアウトドア用のテント内におられる僧侶に、入りきらずに傘をさしながら唱える僧侶も。
風はそれほど吹かなかったからいいようなものの濡れた身体では寒さを感じる。
いつもなら30分以上もかけて唱えるが、この日は昨夜から降った雨がやまない日。
簡易的に設営したテントでびしょ濡れは避けられたが、肩にどうしてもかかる土砂降り。
衣服も徐々に浸みこんで色が替わる。
参列者の中に隆光僧正が生誕した地に住む二条町の人たちがいる。
中でも本家を継ぐ川辺家に隣村の佐紀東に住む川辺家の分家になる3人の女性たちも参られる。
詳しいことは省くが、僧正隆光の初名は河辺隆長である。
ここ佐紀の川辺家出身。
名主二男の河辺隆長が出家されて、万治元年(1658)に仏門入。
その後、長谷寺に唐招堤寺で修学された。
心経を唱える間に焼香する僧侶。
顕彰会のみなさん方に隆光僧正に直接関係するお家の方々が終えてから一般焼香に移る。
一般焼香はこの日に取材していた私ともう一人であった。
塔婆の願文は「平成29年6月7日 護持院大僧正隆光榮春大和尚貮百九拾参年忌追善菩提也 功徳者 顕彰会」であった。
亡くなられてから293年目の顕彰供養。
7年後には記念の300年目を迎えることになるだろう。
供養を終えて一般の私にも配られた粗供養に「隆光僧正 顕彰会」の記しがあった。
なお、お布施は一切断っていると会の人たちが申しておられたことを付記しておく。
雨に濡れながらも顕彰会をされたそれからの毎日。
パラパラの小雨はあっても降ったような感じでもない日が続く。
曇りマークの日もあるが晴れ間ばかりの毎日。
20日ころまで続いていた。
(H29. 6. 7 EOS40D撮影)