川上村の高原に月遅れの節句のデンガラがあると聞いたのは平成26年の6月10日だった。
ホオ(朴)の葉包みのアンツケダンゴを毎年作って食べていると話していた高原住民のI夫妻である。
旦那さんは昭和5年生まれ。
奥さんは10歳ほど下になる。
お会いする度にさまざまなことを話してくださる夫妻に電話を架けたのは今月の2日。
そのときの返答は、もう家ではしていないということだった。
代わりではないが、現在の在り方を話してくださった。
奥さんがいう昨年のデンガラのこと。
お家の上の方にある施設で作っていたという。
そこは高原の山菜加工施設であるぱくぱく館。
昨年は20個も作っていたというデンガラ。
何個か買って親戚中に贈ったそうだ。
今年はいろんなことがあって買う気もない日々の暮らし。
なんならデンガラ作りをしている人に連絡しておくから、あんたからも電話したら、と云われて紹介してくれる。
高原までは足が遠い。
度々出かけることも難しい遠方の地。
奥さんが伝えてくれた電話を架けてみるが、出る気配はない。
鳴るには鳴っている電話であるが、電話に出られないワケがあるのだろうとIさんに問い合わせたら昼間は出かけているということだった。
実は電話番号は加工施設の番号。
利用しているときは電話に出るが、利用しない日もある。
そのときであればどなたも電話に出ることはない。
結果的にわかったのは5日の午後から作り始めるということであった。
作るデンガラの個数は注文数である。
その量によって1日、或いは2日間で作るというデンガラ作りである。
この日までにネットで調べたデンガラがある。
ブログ発信者は川上村の「かわかみブログ」の“きむら@森と水の源流館“だった。
形がよくわかる映像で紹介していた。
源流館施設は14年前までは度々伺っていた施設である。
K学芸員が在職されていた6年間は民俗に教えを乞うていた。
着いた時間帯は午後2時半。
我が家を出発してからおよそ1時間半もかかる片道距離にある高原の地である。
氏神神社下に手書き絵で紹介する高原の史跡を配置した所在地図。
昭和34年9月26日に高原を襲った伊勢湾台風の通り道、というか、台風の目が移動した状態を描いている。
当時の高原住民数は112世帯/488人。
台風によって大規模な山津波(土石流)が発生した。
流失した軒数は1軒。全壊は22軒。
半壊は4軒に亡くなられた方は46人もおよぶ大災害。
未だに不明な人数は12人になる甚大な被害であった。
掲示板があるここより台地上になっている地に向かう。
ぐるっと廻ったところに昭和58年に廃校となった高原小学校跡地がある。
校庭はだだっ広い。
そこからぱくぱく館を探してみるが見つからない。
その筋道向こうに二人の男性がおられたので館のある場所を尋ねた。
うち一人は記憶のある男性だ。
平成22年9月30日に取材したモチツキの夜。
祭りの宵宮祭に動き回っていた村神主役を務めていた白装束姿のKさんだった。
館の場所はと聞けば、振り向いたそこに建っていた。
高原のデンガラ作りの会場は農林水産省の第三期山村振興農林魚業対策事業・山菜等加工施設の「ぱくぱく館」である。
対策事業は昭和54年から平成2年の期間で定住条件総合的整備を図る、特に山村に移住する若者の定住化目的のようだ。
全国1106市町村で計画策定されて4期、5期、6期を経て平成27年より新法に基づく定住促進・・・。
村々で定住している状況は掴めないが・・ぱくぱく館の設備は十分に整っているように思える。
そこから眺める高原の景観。
下方に火の見やぐらが見えるところに絵画的地図板がある場所だ。
この日のぱくぱく館におられた婦人は4人。
代表を務めるIさんに取材主旨を伝えて承諾を得てから撮影に入る。
旧暦のひと月遅れの節句のころにホオ(朴)の葉があるからデンガラ作りをしているというIさん。
4日はもっと早い。
5日でも早い。
葉に茎のあるホオの葉は昨日に採ってきたそうだ。
また、昨年に採っておいたホオの葉は冷蔵庫に入れて保存していた。
それらもあわせて6月7日の節句の前に作っている。
つまりはホオの葉は前日まで摘んでおくということ。
多めに摘んだら、温めの湯で湯掻いておいて、冷蔵庫で保存できるホオの葉である。
奈良東山間部でも今もなお地域で作って食べている「ホオの葉飯」の場合は若葉であれば美味くできる。
ところが、日にちが経過して固くなった古葉では味が落ちる。
産毛が立つ若葉だからこその香りを賞味するのが「ホオの葉飯」であるが、デンガラの場合は若葉でなく、古葉でも構わないそうだ。
ホオの葉は採らずにいると一葉が出ない。
毎年採ってこそ良い葉ができる。
ホオの葉は軸に5枚の葉を付ける。
枚数は固定でなく6枚、7枚、8枚に3枚ものの葉もある。
えーもんは5枚であるが、なかなか採れないホオの葉である。
ホオの葉に自家製の小豆餡を包んで解けないようにする。
その括りに使う紐はシュロの葉。
葉の真ん中を割いて紐にするようだ。
つい数年前までは笹の葉で包んだチマキも作っていた。
ところが鹿が笹の葉を食い荒らして消えてしまった。
そんなわけで作りたくても作れなくなったという。
旧暦ひと月遅れの4月3日の節句はヒシモチ。
かつてはそれぞれの家で作っていたが、今では私たちがこのぱくぱく館で三色のヒシモチを作っているという。
Iさんがいうには、この「ぱくぱく館」の名前は高原の美女が集まる場所ということだ。
デンガラ作りは午前に餡作り。
午後も再び集まって作っているという。
着いた時間が遅かったものだから、すでに20束ほどを作り終えていた。
1束に五つのデンガラを作っている。
これらは注文を受けて作ったデンガラ。
そのうち注文した人が代金支払いと引き換えに持ち帰るという。
後半も注文のデンガラ作りである。
はじめの作業は杵・木臼で搗く餅搗きである。
杵で搗く婦人は76歳のKさん。
餅のカエシをしているのは84歳のIさん。
向こう側で見ている婦人はIさん。
一番若いUさんの4人が愛情込めてデンガラ作り。
原料は聞き取りする間がなかったのでわからないが、Iさんの話しによれば上新粉のようだ。
搗いた餅に艶があるから、たぶんそうだと思うが、粘りを要する餅粉も入っているようだ。
ただ、餅に味を出すために塩水をちょちょいとつけていた。
搗いた餅は木臼からヘラで掬ってコウジブタへ移す。
粘りがある餅に力強さを感じる。
搗いた餅は計量器に載せて測り、ホオの葉に包む餅を一定量にしておく。
計量した餅は手でヘソを作るような感じで押して平たくする。
餡はこし餡。
こだわりはなくつぶ餡でも構わない。
今では米の粉だけで餅を搗いているが、キビとかトウキビなどいろんな雑穀を混ぜて作っていたようだ。
こし餡は予め丸団子のように形作っていた。
これもまた餅と同様に一定量にしていた餡である。
こし餡は搗きたての餅で包む。
餅は搗いているときにわかったように粘りのある餅。
とても柔らかいのである。
こし餡を包んだ餅は俵型のおにぎりと同じような形にする。
餅はホオの葉にのせて包んでいく。
はじめに両側の葉で畳む。
その次は畳んだ葉が外れないように指で抑えながら、手前側にある葉を折りたたむ。
まるで蓋をするかのように閉じる。
折りたたんだら型崩れしないように、青いシュロの葉で解けないように括って1個作った。
なお、シュロの葉は堅い側の部分をはぎ取った中央の部分である。
ホオの葉はこの例で5枚葉。
枝付きのデンガラをぶら下げるとまるで鈴生りのような姿に見える。
軸から切り離さずにそのままの形で次の餅を包んで括る。
そして次の餅も・・。
合わせて5個のデンガラ餅ができあがる。
葉が3枚ものとか5枚より少ない場合でも作るし、5枚以上の多葉ももったいないから作る。
これは5枚葉であったが、汚い葉を千切って作ってくれた2枚もの。
味具合を試しに食べて、と云われてご相伴にいただく。
思っていた以上に香るホオの葉。
ホオの葉の香りがついた餡餅を口にほうばる。
甘さに香りが嬉しい。
かつてホオノハメシを食べたことはあるが、餡餅とはまた違う味。
どちらが良いとか比べるのも難しい。
要はどちらもホオ葉の香りが立っているのが嬉しい。
まるで和菓子屋さんが作った上等ものの餅のようなしっとり感が嬉しい。
それもそのはず上新粉であった。
つい数年前まではチマキ作りもしていた。
チマキの作り方は聞いていないが、2個並んだ間にチマキを並べたら・・の形になるという。
なるほどの形は男のシンボルである。
「セットで●ンタマ」と話してくれたけど・・。
この年の販売価格は1個が110円。
作っているときに予約注文者がやってくる。
手を止めて販売に移る。
注文者は顔のわかる村の人ばかり。
支払った注文者は笑顔で持ち帰った。
注文一覧を壁に貼っている。
注文者、個数、受け渡し/支払い済表示である。
話しによれば、注文してから翌日には追加の注文をする人が多いようだ。
親戚とか友人らに贈る連絡をした際に追加の注文が発生したような具合だ。
味を覚えた人はまた欲しくなるし、味を広めたくなるのでは、と思った。
注文数の多い順に200個、130個、100個、90個、80個、70個、60個、50個・・・。
少ない人でも15個、10個。
受取日を指定している注文者もいる。
5日、6日、7日・・それぞれお家の事情もある。
要望を受けてデンガラを作る。
明日もまた注文に合わせて作業をするデンガラ作り。
個数は少ないが、特別に私も買わせてもらってその場を離れた。
ちなみにその後の平成30年6月12日。
「かわかみブログ」がアップしていたデンガラは川上小学校の給食に提供されたようだ。
余談であるが、粽参拝の呼び名もある端午の節句の行事にホオノキの葉を使って粽を作り、供えていたという地域があった。
東山間の桜井市瀧倉・瀧の蔵神社行事であった。
端午の節句であるが、瀧倉のその行事は6月13日だった。
前日の12日は村の各戸がそれぞれの家単位で粽を作っていた。
ホオノキが多く生えていたからこそ、そのホオノキで粽を作っていたということだ。
ホオノキをカシワと呼んでいた村がある。
奈良市の旧都祁村の南之庄である。
行事取材にたいへんお世話になったMさんは、田畑周辺に生えていたホオノキを採取してカシワメシを作っていた。
名称こそカシワであるが、ホオノキのことである。
ホオノキをカシワの木と呼ぶ地域は他にもあるようだ。
粽は柏の葉で作られるが、柏葉が生息しない土地であったろう。
その代用に粽はホオノキ(朴木)で作った。
そういうことであろう。
さて、瀧倉の粽である。
平成27年6月13日に訪れた瀧倉は本頭屋施主に当たっていた前三老のNさんが数日前に死去したというのだ。
Nさんはこれまでずっとしてきたが、継承する人もなく、前年が最後になったということだ。
貴重な在り方であったが、至極残念なことである。
(H29. 6. 5 EOS40D撮影)
ホオ(朴)の葉包みのアンツケダンゴを毎年作って食べていると話していた高原住民のI夫妻である。
旦那さんは昭和5年生まれ。
奥さんは10歳ほど下になる。
お会いする度にさまざまなことを話してくださる夫妻に電話を架けたのは今月の2日。
そのときの返答は、もう家ではしていないということだった。
代わりではないが、現在の在り方を話してくださった。
奥さんがいう昨年のデンガラのこと。
お家の上の方にある施設で作っていたという。
そこは高原の山菜加工施設であるぱくぱく館。
昨年は20個も作っていたというデンガラ。
何個か買って親戚中に贈ったそうだ。
今年はいろんなことがあって買う気もない日々の暮らし。
なんならデンガラ作りをしている人に連絡しておくから、あんたからも電話したら、と云われて紹介してくれる。
高原までは足が遠い。
度々出かけることも難しい遠方の地。
奥さんが伝えてくれた電話を架けてみるが、出る気配はない。
鳴るには鳴っている電話であるが、電話に出られないワケがあるのだろうとIさんに問い合わせたら昼間は出かけているということだった。
実は電話番号は加工施設の番号。
利用しているときは電話に出るが、利用しない日もある。
そのときであればどなたも電話に出ることはない。
結果的にわかったのは5日の午後から作り始めるということであった。
作るデンガラの個数は注文数である。
その量によって1日、或いは2日間で作るというデンガラ作りである。
この日までにネットで調べたデンガラがある。
ブログ発信者は川上村の「かわかみブログ」の“きむら@森と水の源流館“だった。
形がよくわかる映像で紹介していた。
源流館施設は14年前までは度々伺っていた施設である。
K学芸員が在職されていた6年間は民俗に教えを乞うていた。
着いた時間帯は午後2時半。
我が家を出発してからおよそ1時間半もかかる片道距離にある高原の地である。
氏神神社下に手書き絵で紹介する高原の史跡を配置した所在地図。
昭和34年9月26日に高原を襲った伊勢湾台風の通り道、というか、台風の目が移動した状態を描いている。
当時の高原住民数は112世帯/488人。
台風によって大規模な山津波(土石流)が発生した。
流失した軒数は1軒。全壊は22軒。
半壊は4軒に亡くなられた方は46人もおよぶ大災害。
未だに不明な人数は12人になる甚大な被害であった。
掲示板があるここより台地上になっている地に向かう。
ぐるっと廻ったところに昭和58年に廃校となった高原小学校跡地がある。
校庭はだだっ広い。
そこからぱくぱく館を探してみるが見つからない。
その筋道向こうに二人の男性がおられたので館のある場所を尋ねた。
うち一人は記憶のある男性だ。
平成22年9月30日に取材したモチツキの夜。
祭りの宵宮祭に動き回っていた村神主役を務めていた白装束姿のKさんだった。
館の場所はと聞けば、振り向いたそこに建っていた。
高原のデンガラ作りの会場は農林水産省の第三期山村振興農林魚業対策事業・山菜等加工施設の「ぱくぱく館」である。
対策事業は昭和54年から平成2年の期間で定住条件総合的整備を図る、特に山村に移住する若者の定住化目的のようだ。
全国1106市町村で計画策定されて4期、5期、6期を経て平成27年より新法に基づく定住促進・・・。
村々で定住している状況は掴めないが・・ぱくぱく館の設備は十分に整っているように思える。
そこから眺める高原の景観。
下方に火の見やぐらが見えるところに絵画的地図板がある場所だ。
この日のぱくぱく館におられた婦人は4人。
代表を務めるIさんに取材主旨を伝えて承諾を得てから撮影に入る。
旧暦のひと月遅れの節句のころにホオ(朴)の葉があるからデンガラ作りをしているというIさん。
4日はもっと早い。
5日でも早い。
葉に茎のあるホオの葉は昨日に採ってきたそうだ。
また、昨年に採っておいたホオの葉は冷蔵庫に入れて保存していた。
それらもあわせて6月7日の節句の前に作っている。
つまりはホオの葉は前日まで摘んでおくということ。
多めに摘んだら、温めの湯で湯掻いておいて、冷蔵庫で保存できるホオの葉である。
奈良東山間部でも今もなお地域で作って食べている「ホオの葉飯」の場合は若葉であれば美味くできる。
ところが、日にちが経過して固くなった古葉では味が落ちる。
産毛が立つ若葉だからこその香りを賞味するのが「ホオの葉飯」であるが、デンガラの場合は若葉でなく、古葉でも構わないそうだ。
ホオの葉は採らずにいると一葉が出ない。
毎年採ってこそ良い葉ができる。
ホオの葉は軸に5枚の葉を付ける。
枚数は固定でなく6枚、7枚、8枚に3枚ものの葉もある。
えーもんは5枚であるが、なかなか採れないホオの葉である。
ホオの葉に自家製の小豆餡を包んで解けないようにする。
その括りに使う紐はシュロの葉。
葉の真ん中を割いて紐にするようだ。
つい数年前までは笹の葉で包んだチマキも作っていた。
ところが鹿が笹の葉を食い荒らして消えてしまった。
そんなわけで作りたくても作れなくなったという。
旧暦ひと月遅れの4月3日の節句はヒシモチ。
かつてはそれぞれの家で作っていたが、今では私たちがこのぱくぱく館で三色のヒシモチを作っているという。
Iさんがいうには、この「ぱくぱく館」の名前は高原の美女が集まる場所ということだ。
デンガラ作りは午前に餡作り。
午後も再び集まって作っているという。
着いた時間が遅かったものだから、すでに20束ほどを作り終えていた。
1束に五つのデンガラを作っている。
これらは注文を受けて作ったデンガラ。
そのうち注文した人が代金支払いと引き換えに持ち帰るという。
後半も注文のデンガラ作りである。
はじめの作業は杵・木臼で搗く餅搗きである。
杵で搗く婦人は76歳のKさん。
餅のカエシをしているのは84歳のIさん。
向こう側で見ている婦人はIさん。
一番若いUさんの4人が愛情込めてデンガラ作り。
原料は聞き取りする間がなかったのでわからないが、Iさんの話しによれば上新粉のようだ。
搗いた餅に艶があるから、たぶんそうだと思うが、粘りを要する餅粉も入っているようだ。
ただ、餅に味を出すために塩水をちょちょいとつけていた。
搗いた餅は木臼からヘラで掬ってコウジブタへ移す。
粘りがある餅に力強さを感じる。
搗いた餅は計量器に載せて測り、ホオの葉に包む餅を一定量にしておく。
計量した餅は手でヘソを作るような感じで押して平たくする。
餡はこし餡。
こだわりはなくつぶ餡でも構わない。
今では米の粉だけで餅を搗いているが、キビとかトウキビなどいろんな雑穀を混ぜて作っていたようだ。
こし餡は予め丸団子のように形作っていた。
これもまた餅と同様に一定量にしていた餡である。
こし餡は搗きたての餅で包む。
餅は搗いているときにわかったように粘りのある餅。
とても柔らかいのである。
こし餡を包んだ餅は俵型のおにぎりと同じような形にする。
餅はホオの葉にのせて包んでいく。
はじめに両側の葉で畳む。
その次は畳んだ葉が外れないように指で抑えながら、手前側にある葉を折りたたむ。
まるで蓋をするかのように閉じる。
折りたたんだら型崩れしないように、青いシュロの葉で解けないように括って1個作った。
なお、シュロの葉は堅い側の部分をはぎ取った中央の部分である。
ホオの葉はこの例で5枚葉。
枝付きのデンガラをぶら下げるとまるで鈴生りのような姿に見える。
軸から切り離さずにそのままの形で次の餅を包んで括る。
そして次の餅も・・。
合わせて5個のデンガラ餅ができあがる。
葉が3枚ものとか5枚より少ない場合でも作るし、5枚以上の多葉ももったいないから作る。
これは5枚葉であったが、汚い葉を千切って作ってくれた2枚もの。
味具合を試しに食べて、と云われてご相伴にいただく。
思っていた以上に香るホオの葉。
ホオの葉の香りがついた餡餅を口にほうばる。
甘さに香りが嬉しい。
かつてホオノハメシを食べたことはあるが、餡餅とはまた違う味。
どちらが良いとか比べるのも難しい。
要はどちらもホオ葉の香りが立っているのが嬉しい。
まるで和菓子屋さんが作った上等ものの餅のようなしっとり感が嬉しい。
それもそのはず上新粉であった。
つい数年前まではチマキ作りもしていた。
チマキの作り方は聞いていないが、2個並んだ間にチマキを並べたら・・の形になるという。
なるほどの形は男のシンボルである。
「セットで●ンタマ」と話してくれたけど・・。
この年の販売価格は1個が110円。
作っているときに予約注文者がやってくる。
手を止めて販売に移る。
注文者は顔のわかる村の人ばかり。
支払った注文者は笑顔で持ち帰った。
注文一覧を壁に貼っている。
注文者、個数、受け渡し/支払い済表示である。
話しによれば、注文してから翌日には追加の注文をする人が多いようだ。
親戚とか友人らに贈る連絡をした際に追加の注文が発生したような具合だ。
味を覚えた人はまた欲しくなるし、味を広めたくなるのでは、と思った。
注文数の多い順に200個、130個、100個、90個、80個、70個、60個、50個・・・。
少ない人でも15個、10個。
受取日を指定している注文者もいる。
5日、6日、7日・・それぞれお家の事情もある。
要望を受けてデンガラを作る。
明日もまた注文に合わせて作業をするデンガラ作り。
個数は少ないが、特別に私も買わせてもらってその場を離れた。
ちなみにその後の平成30年6月12日。
「かわかみブログ」がアップしていたデンガラは川上小学校の給食に提供されたようだ。
余談であるが、粽参拝の呼び名もある端午の節句の行事にホオノキの葉を使って粽を作り、供えていたという地域があった。
東山間の桜井市瀧倉・瀧の蔵神社行事であった。
端午の節句であるが、瀧倉のその行事は6月13日だった。
前日の12日は村の各戸がそれぞれの家単位で粽を作っていた。
ホオノキが多く生えていたからこそ、そのホオノキで粽を作っていたということだ。
ホオノキをカシワと呼んでいた村がある。
奈良市の旧都祁村の南之庄である。
行事取材にたいへんお世話になったMさんは、田畑周辺に生えていたホオノキを採取してカシワメシを作っていた。
名称こそカシワであるが、ホオノキのことである。
ホオノキをカシワの木と呼ぶ地域は他にもあるようだ。
粽は柏の葉で作られるが、柏葉が生息しない土地であったろう。
その代用に粽はホオノキ(朴木)で作った。
そういうことであろう。
さて、瀧倉の粽である。
平成27年6月13日に訪れた瀧倉は本頭屋施主に当たっていた前三老のNさんが数日前に死去したというのだ。
Nさんはこれまでずっとしてきたが、継承する人もなく、前年が最後になったということだ。
貴重な在り方であったが、至極残念なことである。
(H29. 6. 5 EOS40D撮影)