「生まれ故郷に今でも疱瘡まつりをしてるやろか」。
そう話していた女性は大和郡山市内の櫟枝町に住むIさん。
嫁入りしてからはずいぶんとご無沙汰している故郷。
自家用車に乗ってあっちこち出かけるIさんは、現役バリバリ。
年齢は88歳の卓球クラブ員。
噂によれば、それは、それはお元気なご様子。
出里は奈良市横井町。
今でも疱瘡神社を「くさがみさん(※瘡神)」と呼ぶIさんが育った時代。
「旧添上郡明治村(※明治22年成立~昭和30年消滅)・北永井村小字登坂」の地に鎮座していたようだ。
疱瘡神社の鎮座地を探す目的に出かけた令和2年7月15日。
所在地がまったくわかっていないから、カーナビゲーションの力を借りて探した下見調査は、果たして・・・
北に向けて走っていた国道。
右手に、見えた鎮守の森。
その辺りに行けば、なんとかなるだろう。
う一ん、鳥居が見つかったが、ここはどこなんだろうか。
水草がいっぱいに広がっている石の構造物。
これはいったい何だろうか。
水は溜まっているが、実に浅い。
手水鉢でなく、これは礎石では、と思った。
鳥居から西へ、西へと参拝道。

振り返り見れば、東に山々が。ここからは見えなかったが、左手に若草山がある。

奥に入って参拝。神門をくぐって、本殿に参拝。
ここの神社は、いくり(伊久里)の杜に鎮座する穴栗(あなぐり)神社。

万葉歌碑を設けている神社に訪れる人は多く、鎮座地が「日本書紀」景行天皇の条にある「春日穴咋邑」に推定されていることから歴史ファンも来訪しているようだが、私の調査は民俗行事。
どなたにも遭うことなく、ほんの数分間の滞在。
鳥居をくぐった辺りから、やぶ蚊がいっぱい。
痒みは、身体のあちこちに広がる攻撃。
早々、退散した神社。
時間帯も夕刻近く。
その日の下見はここまで。
翌日の16日にも訪れた奈良市横井町。
実は、手元に出里が横井だ、と云ってくれたIさんのメモがある。
よくよく見れば、「くさ上さん」に、「青井神社」のメモ記である。
そうか、「青井神社」が、探していた瘡神さんこと、瘡神神社であったのだ。
ネットに、見つかった青井神社。
ネット情報によれば、上街道沿いにある青井神社。
立地がわかった以上、再訪問するしかない。
関係者と巡り合えるかもしれない。
そう、思って車を走らせた。
その地は、まさに奈良から天理に向けて南北につながる上街道。
古来は、上ツ道と呼んでいた。
天理からは桜井へ。
そして長谷寺までの一本道。
の見方えあれば、長谷街道。

昔から街道沿いに暮らしてきた人たちは、必ずや上街道か長谷街道、と話してくれる歴史的に旧い街道である。
ちなみに、昭和初期の8年に発刊された高田十郎編/『大和の傳説(絶版)』に、疱瘡神・青井明神の項に掲載されているようだ。

広地に車を停めて、少し歩いたところに見つかった「青井神社」。
民家の庭に鎮座していた「青井神社」。

扁額をみて、間違いなくここだ、と思った。
神社の関係者は・・・。
立地する民家に住む方に尋ねるのがたしかな情報、と思い、呼び鈴を押した。
屋内から出てくださった青井家の家族さん。
大学生と思われる若い男性の話によれば、当主は今、出かけているので詳しいことはわからない、という。
ただ、前日の7月15日の午後の時間帯に、神職に来てもらって神事をしていたようだ。
名刺を渡して、来年の15日に、また伺います、と伝えた。
あらためて拝見した青井神社。
扉は閉められているので、内部の様相は見えないが、社前に建つ石燈籠に「疱瘡神社」。

比較的新しい、文久二年(1862)の建之である。
(R2. 7.15、16 SB805SH撮影)
そう話していた女性は大和郡山市内の櫟枝町に住むIさん。
嫁入りしてからはずいぶんとご無沙汰している故郷。
自家用車に乗ってあっちこち出かけるIさんは、現役バリバリ。
年齢は88歳の卓球クラブ員。
噂によれば、それは、それはお元気なご様子。
出里は奈良市横井町。
今でも疱瘡神社を「くさがみさん(※瘡神)」と呼ぶIさんが育った時代。
「旧添上郡明治村(※明治22年成立~昭和30年消滅)・北永井村小字登坂」の地に鎮座していたようだ。
疱瘡神社の鎮座地を探す目的に出かけた令和2年7月15日。
所在地がまったくわかっていないから、カーナビゲーションの力を借りて探した下見調査は、果たして・・・
北に向けて走っていた国道。
右手に、見えた鎮守の森。
その辺りに行けば、なんとかなるだろう。
う一ん、鳥居が見つかったが、ここはどこなんだろうか。
水草がいっぱいに広がっている石の構造物。
これはいったい何だろうか。
水は溜まっているが、実に浅い。
手水鉢でなく、これは礎石では、と思った。
鳥居から西へ、西へと参拝道。

振り返り見れば、東に山々が。ここからは見えなかったが、左手に若草山がある。

奥に入って参拝。神門をくぐって、本殿に参拝。
ここの神社は、いくり(伊久里)の杜に鎮座する穴栗(あなぐり)神社。

万葉歌碑を設けている神社に訪れる人は多く、鎮座地が「日本書紀」景行天皇の条にある「春日穴咋邑」に推定されていることから歴史ファンも来訪しているようだが、私の調査は民俗行事。
どなたにも遭うことなく、ほんの数分間の滞在。
鳥居をくぐった辺りから、やぶ蚊がいっぱい。
痒みは、身体のあちこちに広がる攻撃。
早々、退散した神社。
時間帯も夕刻近く。
その日の下見はここまで。
翌日の16日にも訪れた奈良市横井町。
実は、手元に出里が横井だ、と云ってくれたIさんのメモがある。
よくよく見れば、「くさ上さん」に、「青井神社」のメモ記である。
そうか、「青井神社」が、探していた瘡神さんこと、瘡神神社であったのだ。
ネットに、見つかった青井神社。
ネット情報によれば、上街道沿いにある青井神社。
立地がわかった以上、再訪問するしかない。
関係者と巡り合えるかもしれない。
そう、思って車を走らせた。
その地は、まさに奈良から天理に向けて南北につながる上街道。
古来は、上ツ道と呼んでいた。
天理からは桜井へ。
そして長谷寺までの一本道。
の見方えあれば、長谷街道。

昔から街道沿いに暮らしてきた人たちは、必ずや上街道か長谷街道、と話してくれる歴史的に旧い街道である。
ちなみに、昭和初期の8年に発刊された高田十郎編/『大和の傳説(絶版)』に、疱瘡神・青井明神の項に掲載されているようだ。

広地に車を停めて、少し歩いたところに見つかった「青井神社」。
民家の庭に鎮座していた「青井神社」。

扁額をみて、間違いなくここだ、と思った。
神社の関係者は・・・。
立地する民家に住む方に尋ねるのがたしかな情報、と思い、呼び鈴を押した。
屋内から出てくださった青井家の家族さん。
大学生と思われる若い男性の話によれば、当主は今、出かけているので詳しいことはわからない、という。
ただ、前日の7月15日の午後の時間帯に、神職に来てもらって神事をしていたようだ。
名刺を渡して、来年の15日に、また伺います、と伝えた。
あらためて拝見した青井神社。
扉は閉められているので、内部の様相は見えないが、社前に建つ石燈籠に「疱瘡神社」。

比較的新しい、文久二年(1862)の建之である。
(R2. 7.15、16 SB805SH撮影)