オハキを設えた本当屋たちが向かう先は平群町の檪原に鎮座する生駒山口神社。
神社下を流れる川は檪原川。
神前橋すぐ傍にある御幣岩下辺りの流れに本当屋と敬用人(けいようにん)は祭りの前に身を清める禊ぎの垢離取り(※檪原ではこうりとりと称している)をしていたそうだ。
檪原は平群町の北域にあたる地。
西の山は生駒山系の一山をなす鳴川山がある。
鳴川山から流れる川が鳴川川。
檪原付近に下った川の名は檪原川になる。
檪原の戸数は88戸。うち、氏子は60数戸になる。
氏子圏は向浦(むかいうら)、下庄(しもんじょ)、上垣内、中垣内、美之谷(みのたに)、椿木(つばき)の6垣内。各垣内から選ばれた8人の氏子総代(※向浦に美之谷は2人ずつ、他垣内は1人)が神社の管理、運営を担っている。
平成3年4月、㈱桜楓社より発刊された『生駒谷の祭りと伝承―古典と民俗学厳書― 第二章生駒山口神社の大祭―祭祀の構造と意義―』によれば、滝の宮と称されていた生駒山口神社である。
祭神は2柱。男神の素盞嗚命に、姫宮の櫛稲田姫命を祀るとある。
中央に位置する本殿が2柱を祀るが、江戸期には「牛頭天王社」とも称していたとある。
本殿右に「大神社」と表示した社殿がある。
2基の灯籠に「牛頭天王 天明四年辰(1784)十二月」の刻印があるから牛頭天王社に違いない。
生駒山口神社の年中行事、特に大祭を務める当屋の組織は「座」とも呼ばれ、毎年を輪番で交替する。
当屋の呼称は「座」構成員、全員に対する呼称である。
「座」は当屋の中から1名の本当屋と補佐役を務める1名の敬用人(けいようにん)を選出する。
また、2名以外の当屋たちはマジリコと称して、主に本当屋の手伝いを担う。
現在の「座」は氏子全体を、垣内を拠り所に5組に分け、14~15人程度を一組として構成。
廻りの当番は30年に一度になるそうだ。
「座」の組織の在り方は平成元年に大きく変えた。それまでの「座」は、二座で各10名の構成であった。
二座それぞれに本当屋と敬用人を選んだ。
二座だから、本当屋と敬用人とも2名。
合計で4名となる。
2名の本当屋は区分するために年長者を兄当屋、年少の者を弟当屋と区分していた。
また、本当屋家の身内や親類に不幸があった場合は「ヒが悪い」と云って、務めを翌年に延ばし、敬用人が本当屋の務めを代行するとしている。
なお、不幸ごとが敬用人であった場合は、「座」の話し合いによって代行を決める慣例がある。
ただ、この在り方は昭和42年に一座、10名の体制に縮小、改組されている。
ただ、一年間の忌みを申し合わせで、これもまた変革されて、一親等の場合の忌明けは百カ日、二親等で四十九日、三親等の他、親族関係の場合は特に設けないことにしたそうだ。
本当屋と敬用人が正式に決まる日は3月28日(※現在は28日に近い日曜日)に行われる「当屋渡し」である。
かつては籤を引いて本当屋を決めていたが、現在は年齢順である。
朝8時、幕を張った本当屋家に参集する「座」の人たち。
15人の“当屋“座中たちは、それぞれが風呂敷に包んだ重箱をもってきた。
お重の中に一升米を詰めている。
これより出かける生駒山口神社・社務所に掲げているご神号「天照皇大神」横の内宮(うちみや)に供える参米(さんまい)である。
座敷に参集された“当屋“の人たちに挨拶をされる本当屋。
「今日はお渡り、よろしくお願いします」と挨拶をされて、本日の神幸祭(しんこうさい)における連絡事項を伝えられる。
「これより生駒山口神社に向かいますが、お渡りの前にしておく作業があります。神社拝殿や社務所に幕を張ります。シデを付けた榊を本社殿や鳥居などに括り付けます。鳥居文様の高張提灯や板膳11枚中5枚、お神酒などを運んで所定の位置に・・」。
続いて、本日の役割決めも発表される。
先頭を行く鍬持ちにお神酒、一対の長提灯、高張提灯、旗、幟旗持ちや交通整理をする人も。
「祝詞奏上を終えたら、直ちに神遷しをされた榊を受け取ります。それと同時に供えたお神酒、板膳を下げて、行列を組みます。宮司は見送りに立たれるので、行列よりも先に階段を下りて鳥居横に就きます。また、本日は一連の檪原のオハキツキを記録する“奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会”撮影班に配慮した動きをお願いしたい。また、地域ボランテイアガイドの人たちが神事の妨げをしないよう、また行列の先に行かないよう、後列の人は注意をかけて・・・」と、伝える本当屋のTさん。
私ども撮影隊にも気配りされるお言葉がありがたい。
続けて「神事の際の拝礼も息を合わせて、みなは揃って・・。また、行事の見学ならびに参拝される地域ボランテイアガイドや参加者の歴史ウオークの人たちにも、この行事について私自身が説明し、それから参拝してもらいます」と、本日の進行について細かく気配りされる本当屋である。
生駒山口神社に参拝されて姫君を本当屋がもつ榊に遷す神事は午前10時より始まる。
それまで調えておく作業があるから、集まった本当屋家を出るのはもっと前。
ひと通りの説明を終えた座中の“当屋”一同はネクタイを締めた正装姿。
風呂敷に包んだ参米(さんまい)を手にして集落を下っていった。
鳥居前に着いた座中は一人一人が拝礼。
そして階段を登っていった。
まずは社務所へ参って持参した参米を宮司に渡す。
神社を訪れる座中は行事の都度、参米を持ち寄るのが習わし、だという。
風呂敷ごと預かった宮司は、折敷に移した参米を社務所内に祀る内宮(うちみや)に供える。
上着を脱いで作業をする。
座中は分担して、御幣を付けた榊を本社殿の両柱や鳥居にも括り付けて固定する。
本当屋は東側の位置にある朱塗りの鳥居に榊を立てていた。
本社殿に幕を張ってからは綺麗に掃除をするなど準備を調える。
あらかた準備が調えば本当屋と敬用人は狩衣装束に着替える。
烏帽子を被って足袋を履く。
足元は新しく編んだ草鞋を揃えてしばらく歓談する。
時間ともなれば神幸祭の神事に移る。
社務所前に並んだ座中一行。
宮司に頭を下げた本当屋と敬用人はこれより参進する。
手水鉢で清めて本社殿に向かう3人。
歴史ウオークの人たちは参進に頭を下げて迎える。
境内はざわめきもなく野鳥が囀る音色だけが聞こえてくる。
本当屋と敬用人は本社殿前の拝殿にあがるが、マジリコと呼ばれる当屋中はその下に列を作って並ぶ。
中央は参道。
神さんが通る石畳の参道をあけて並んだ。
修祓に祓詞、献饌、宮司拝礼、祝詞奏上を経て神遷し。
姫君こと櫛稲田姫命を本当屋がもつ榊に遷される。
神妙な面持ちで本社殿より出てこられた本当屋に続いて杓を持つ敬用人。
そして宮司、神饌のお神酒抱え、一対の長提灯持ちが階段を下りて来た。
階段下に着くなり、鳥居横に直立した宮司は深く頭を下げて神さんを受け取った本当屋をこの場から見送る。
先頭は本当屋でなく新しく作った鍬である。
先頭をきって道を祓い清める所作をするマジリコは道作り。
シャリシャリと音を立てて、鍬で掃き清める道作りは神さんの通る道を先に祓っていく。
里に聞こえるのはこのシャリシャリ音だけ。
厳かさが伝わる音である。
提灯、提灯、赤の鳥居印がある高張提灯、お供えを載せる板膳、幟旗が続く。
道行きの間は口を開くことさえ許されない神幸祭のお渡りである。
この年は地域ボランテイアガイドが率いる歴史ウオークに参加する一般の人たちがお渡りの行列にぴたりとくっついていた。
行事の見学に、本当屋家に着いてからの一般参賀であるが、神さんが遷される、オハキの神事までは・・・と制止された。
およそ30分もかけてお渡り一行が本当屋家に着いた。
この日の檪原の朝の最低気温は17.2度。
午前10時ころより一挙に上昇した気温は28.4度にも。
お渡りの最中が最も暑かったと思われる暑い日。
撮影班は撮影のポジション確保の都度、立ち止ったとたんに汗が流れ落ちる。
拭う間もなく急な坂道を登ってお渡りに備える。
二日前の6日の最低気温は18.3度だった。
気温はまったく上昇もせずに最高気温は19.4度であった。
室内も室外も寒かった。
身体はそれに慣れていたものだから、強烈に感じる夏日であった。
姫神さんを遷された榊を手にした本当屋は直立姿勢。
オハキの正面にしばらく立って動き出す。
移動する場はオハキの裏側。
大切にもっていたサカキをオハキに立つ鳥居の向こう側に立てる。
オハキを作る際に仕立てた筒にすっと下ろして安置された。
神酒口を開けたお神酒を供える。
次に海、山、里の幸を盛った膳も供える。
その膳には垢離取りのときに清めた小石に漆材を削った箸を添える。
これらの作法に必ずといっていいほど敬用人がついて補助していた。
そして、小石を三つ、手水鉢に沈めて清める。
本当屋は、この日から毎日のオハキにお参りする際に、必ずこの小石で手水を清める作法をする。
姫神さんが遷られたオハキが調ったところで、一同揃って正面に向き、2礼杯、2拍手、1礼。
無事に姫神さんがオハキにお越しいただいた神幸祭はこうして終えた。
緊張感はほぐれることのない神さんが座います社である。
本当屋の許可を得た地域ボランテイアガイドならびに歴史ウオークに参加する一般の人たちが参拝される。
本来的には地区集落の人たちの参拝であるが、地区外の一般の人が参拝できることはたいへんありがたいことである。
参拝する前に本当屋自らがオハキツキの在り方について解説をされることもおそらく初めてではないだろうか。
しかも、禊ぎの垢離取りに清めた歯固め小石も配られて一人一人が手を合わせて拝礼していた。
これまで奈良県内各地で行われている多くの神遷し神事を拝見してきたが、本当屋のこうした心遣いをされるのは私自身が初めてである。
ありがたい配慮に身も引き締まる次第である。
特別に配慮された一般参賀はすべての人が参り終えてから、地区の人たちが参拝である。
座中の“当屋”の人たちも一人一人が神さんに向かって参拝していた。
そのあとに続いても参拝される人たちは本当屋のご親族である。
参拝の順は特に決まっていないが、遠方から駆けつけてくれた本当屋の姉さんや奥さんもきっちり手水をされて参拝されていた。
尤も本当屋のご家族はこれより毎日が参拝である。
姫宮を迎えた毎日は朝7時になれば宮司が参られる。
そのときに参拝されるご家族。
今年は14日に行われる還幸祭・後夜(ごや)送りまでの期間は、家族以外の人たちも参られる。
地区の人たちは、通勤、通学前にお参りをされる。
宮司も毎朝訪れて祝詞を奏上されると伺っている。
神迎えの神事を終えた座中は本当屋家が接待する慰労の場に招かれる。
「みなさんありがとうございました。本日は、ご苦労さまでした。これからの一週間。神さまのおもてなしをさせていただきます」とお礼を述べられて乾杯した。
撮影班の皆さんも慰労の場に着いてください、とありがたくも上らせてもらった。
この日の記録は上手く撮れたかどうか、そのことばかりが気になる記録班。
ノンアルコールのお酒にも酔えず、ひとときの宴も記録していた。
宴もたけなわ。
手拍子で歌う本当屋の江州音頭に聞き惚れる。
手拍子、手拍子に場が盛り上がってお姉さんも歌いだしたのが印象的に残る。
こうして記録したビデオ動画もスチル映像も一連の年中行事を終えてから編集される。
動画もスチル映像のすべてが、檪原および本当屋に記録として報告、伝承される。
(H29.10. 8 EOS40D撮影)
神社下を流れる川は檪原川。
神前橋すぐ傍にある御幣岩下辺りの流れに本当屋と敬用人(けいようにん)は祭りの前に身を清める禊ぎの垢離取り(※檪原ではこうりとりと称している)をしていたそうだ。
檪原は平群町の北域にあたる地。
西の山は生駒山系の一山をなす鳴川山がある。
鳴川山から流れる川が鳴川川。
檪原付近に下った川の名は檪原川になる。
檪原の戸数は88戸。うち、氏子は60数戸になる。
氏子圏は向浦(むかいうら)、下庄(しもんじょ)、上垣内、中垣内、美之谷(みのたに)、椿木(つばき)の6垣内。各垣内から選ばれた8人の氏子総代(※向浦に美之谷は2人ずつ、他垣内は1人)が神社の管理、運営を担っている。
平成3年4月、㈱桜楓社より発刊された『生駒谷の祭りと伝承―古典と民俗学厳書― 第二章生駒山口神社の大祭―祭祀の構造と意義―』によれば、滝の宮と称されていた生駒山口神社である。
祭神は2柱。男神の素盞嗚命に、姫宮の櫛稲田姫命を祀るとある。
中央に位置する本殿が2柱を祀るが、江戸期には「牛頭天王社」とも称していたとある。
本殿右に「大神社」と表示した社殿がある。
2基の灯籠に「牛頭天王 天明四年辰(1784)十二月」の刻印があるから牛頭天王社に違いない。
生駒山口神社の年中行事、特に大祭を務める当屋の組織は「座」とも呼ばれ、毎年を輪番で交替する。
当屋の呼称は「座」構成員、全員に対する呼称である。
「座」は当屋の中から1名の本当屋と補佐役を務める1名の敬用人(けいようにん)を選出する。
また、2名以外の当屋たちはマジリコと称して、主に本当屋の手伝いを担う。
現在の「座」は氏子全体を、垣内を拠り所に5組に分け、14~15人程度を一組として構成。
廻りの当番は30年に一度になるそうだ。
「座」の組織の在り方は平成元年に大きく変えた。それまでの「座」は、二座で各10名の構成であった。
二座それぞれに本当屋と敬用人を選んだ。
二座だから、本当屋と敬用人とも2名。
合計で4名となる。
2名の本当屋は区分するために年長者を兄当屋、年少の者を弟当屋と区分していた。
また、本当屋家の身内や親類に不幸があった場合は「ヒが悪い」と云って、務めを翌年に延ばし、敬用人が本当屋の務めを代行するとしている。
なお、不幸ごとが敬用人であった場合は、「座」の話し合いによって代行を決める慣例がある。
ただ、この在り方は昭和42年に一座、10名の体制に縮小、改組されている。
ただ、一年間の忌みを申し合わせで、これもまた変革されて、一親等の場合の忌明けは百カ日、二親等で四十九日、三親等の他、親族関係の場合は特に設けないことにしたそうだ。
本当屋と敬用人が正式に決まる日は3月28日(※現在は28日に近い日曜日)に行われる「当屋渡し」である。
かつては籤を引いて本当屋を決めていたが、現在は年齢順である。
朝8時、幕を張った本当屋家に参集する「座」の人たち。
15人の“当屋“座中たちは、それぞれが風呂敷に包んだ重箱をもってきた。
お重の中に一升米を詰めている。
これより出かける生駒山口神社・社務所に掲げているご神号「天照皇大神」横の内宮(うちみや)に供える参米(さんまい)である。
座敷に参集された“当屋“の人たちに挨拶をされる本当屋。
「今日はお渡り、よろしくお願いします」と挨拶をされて、本日の神幸祭(しんこうさい)における連絡事項を伝えられる。
「これより生駒山口神社に向かいますが、お渡りの前にしておく作業があります。神社拝殿や社務所に幕を張ります。シデを付けた榊を本社殿や鳥居などに括り付けます。鳥居文様の高張提灯や板膳11枚中5枚、お神酒などを運んで所定の位置に・・」。
続いて、本日の役割決めも発表される。
先頭を行く鍬持ちにお神酒、一対の長提灯、高張提灯、旗、幟旗持ちや交通整理をする人も。
「祝詞奏上を終えたら、直ちに神遷しをされた榊を受け取ります。それと同時に供えたお神酒、板膳を下げて、行列を組みます。宮司は見送りに立たれるので、行列よりも先に階段を下りて鳥居横に就きます。また、本日は一連の檪原のオハキツキを記録する“奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会”撮影班に配慮した動きをお願いしたい。また、地域ボランテイアガイドの人たちが神事の妨げをしないよう、また行列の先に行かないよう、後列の人は注意をかけて・・・」と、伝える本当屋のTさん。
私ども撮影隊にも気配りされるお言葉がありがたい。
続けて「神事の際の拝礼も息を合わせて、みなは揃って・・。また、行事の見学ならびに参拝される地域ボランテイアガイドや参加者の歴史ウオークの人たちにも、この行事について私自身が説明し、それから参拝してもらいます」と、本日の進行について細かく気配りされる本当屋である。
生駒山口神社に参拝されて姫君を本当屋がもつ榊に遷す神事は午前10時より始まる。
それまで調えておく作業があるから、集まった本当屋家を出るのはもっと前。
ひと通りの説明を終えた座中の“当屋”一同はネクタイを締めた正装姿。
風呂敷に包んだ参米(さんまい)を手にして集落を下っていった。
鳥居前に着いた座中は一人一人が拝礼。
そして階段を登っていった。
まずは社務所へ参って持参した参米を宮司に渡す。
神社を訪れる座中は行事の都度、参米を持ち寄るのが習わし、だという。
風呂敷ごと預かった宮司は、折敷に移した参米を社務所内に祀る内宮(うちみや)に供える。
上着を脱いで作業をする。
座中は分担して、御幣を付けた榊を本社殿の両柱や鳥居にも括り付けて固定する。
本当屋は東側の位置にある朱塗りの鳥居に榊を立てていた。
本社殿に幕を張ってからは綺麗に掃除をするなど準備を調える。
あらかた準備が調えば本当屋と敬用人は狩衣装束に着替える。
烏帽子を被って足袋を履く。
足元は新しく編んだ草鞋を揃えてしばらく歓談する。
時間ともなれば神幸祭の神事に移る。
社務所前に並んだ座中一行。
宮司に頭を下げた本当屋と敬用人はこれより参進する。
手水鉢で清めて本社殿に向かう3人。
歴史ウオークの人たちは参進に頭を下げて迎える。
境内はざわめきもなく野鳥が囀る音色だけが聞こえてくる。
本当屋と敬用人は本社殿前の拝殿にあがるが、マジリコと呼ばれる当屋中はその下に列を作って並ぶ。
中央は参道。
神さんが通る石畳の参道をあけて並んだ。
修祓に祓詞、献饌、宮司拝礼、祝詞奏上を経て神遷し。
姫君こと櫛稲田姫命を本当屋がもつ榊に遷される。
神妙な面持ちで本社殿より出てこられた本当屋に続いて杓を持つ敬用人。
そして宮司、神饌のお神酒抱え、一対の長提灯持ちが階段を下りて来た。
階段下に着くなり、鳥居横に直立した宮司は深く頭を下げて神さんを受け取った本当屋をこの場から見送る。
先頭は本当屋でなく新しく作った鍬である。
先頭をきって道を祓い清める所作をするマジリコは道作り。
シャリシャリと音を立てて、鍬で掃き清める道作りは神さんの通る道を先に祓っていく。
里に聞こえるのはこのシャリシャリ音だけ。
厳かさが伝わる音である。
提灯、提灯、赤の鳥居印がある高張提灯、お供えを載せる板膳、幟旗が続く。
道行きの間は口を開くことさえ許されない神幸祭のお渡りである。
この年は地域ボランテイアガイドが率いる歴史ウオークに参加する一般の人たちがお渡りの行列にぴたりとくっついていた。
行事の見学に、本当屋家に着いてからの一般参賀であるが、神さんが遷される、オハキの神事までは・・・と制止された。
およそ30分もかけてお渡り一行が本当屋家に着いた。
この日の檪原の朝の最低気温は17.2度。
午前10時ころより一挙に上昇した気温は28.4度にも。
お渡りの最中が最も暑かったと思われる暑い日。
撮影班は撮影のポジション確保の都度、立ち止ったとたんに汗が流れ落ちる。
拭う間もなく急な坂道を登ってお渡りに備える。
二日前の6日の最低気温は18.3度だった。
気温はまったく上昇もせずに最高気温は19.4度であった。
室内も室外も寒かった。
身体はそれに慣れていたものだから、強烈に感じる夏日であった。
姫神さんを遷された榊を手にした本当屋は直立姿勢。
オハキの正面にしばらく立って動き出す。
移動する場はオハキの裏側。
大切にもっていたサカキをオハキに立つ鳥居の向こう側に立てる。
オハキを作る際に仕立てた筒にすっと下ろして安置された。
神酒口を開けたお神酒を供える。
次に海、山、里の幸を盛った膳も供える。
その膳には垢離取りのときに清めた小石に漆材を削った箸を添える。
これらの作法に必ずといっていいほど敬用人がついて補助していた。
そして、小石を三つ、手水鉢に沈めて清める。
本当屋は、この日から毎日のオハキにお参りする際に、必ずこの小石で手水を清める作法をする。
姫神さんが遷られたオハキが調ったところで、一同揃って正面に向き、2礼杯、2拍手、1礼。
無事に姫神さんがオハキにお越しいただいた神幸祭はこうして終えた。
緊張感はほぐれることのない神さんが座います社である。
本当屋の許可を得た地域ボランテイアガイドならびに歴史ウオークに参加する一般の人たちが参拝される。
本来的には地区集落の人たちの参拝であるが、地区外の一般の人が参拝できることはたいへんありがたいことである。
参拝する前に本当屋自らがオハキツキの在り方について解説をされることもおそらく初めてではないだろうか。
しかも、禊ぎの垢離取りに清めた歯固め小石も配られて一人一人が手を合わせて拝礼していた。
これまで奈良県内各地で行われている多くの神遷し神事を拝見してきたが、本当屋のこうした心遣いをされるのは私自身が初めてである。
ありがたい配慮に身も引き締まる次第である。
特別に配慮された一般参賀はすべての人が参り終えてから、地区の人たちが参拝である。
座中の“当屋”の人たちも一人一人が神さんに向かって参拝していた。
そのあとに続いても参拝される人たちは本当屋のご親族である。
参拝の順は特に決まっていないが、遠方から駆けつけてくれた本当屋の姉さんや奥さんもきっちり手水をされて参拝されていた。
尤も本当屋のご家族はこれより毎日が参拝である。
姫宮を迎えた毎日は朝7時になれば宮司が参られる。
そのときに参拝されるご家族。
今年は14日に行われる還幸祭・後夜(ごや)送りまでの期間は、家族以外の人たちも参られる。
地区の人たちは、通勤、通学前にお参りをされる。
宮司も毎朝訪れて祝詞を奏上されると伺っている。
神迎えの神事を終えた座中は本当屋家が接待する慰労の場に招かれる。
「みなさんありがとうございました。本日は、ご苦労さまでした。これからの一週間。神さまのおもてなしをさせていただきます」とお礼を述べられて乾杯した。
撮影班の皆さんも慰労の場に着いてください、とありがたくも上らせてもらった。
この日の記録は上手く撮れたかどうか、そのことばかりが気になる記録班。
ノンアルコールのお酒にも酔えず、ひとときの宴も記録していた。
宴もたけなわ。
手拍子で歌う本当屋の江州音頭に聞き惚れる。
手拍子、手拍子に場が盛り上がってお姉さんも歌いだしたのが印象的に残る。
こうして記録したビデオ動画もスチル映像も一連の年中行事を終えてから編集される。
動画もスチル映像のすべてが、檪原および本当屋に記録として報告、伝承される。
(H29.10. 8 EOS40D撮影)