マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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杣之内町の風の祈祷調査

2021年06月21日 08時42分24秒 | 天理市へ
取材の際に拝見した地域行事資料『天理市の歳時記』。

社会教員の一環に天理市の年中行事を調査、編纂の元資料にあった杣之内町の風の祈祷。

ちら見でしか見なかった風の祈祷は、行事日もわからない、行事日もわからない。

現地調査に訪れた天理市杣之内町。

木堂の信号に気づかずに通り過ぎたもう一つの信号。

三叉路から戻ろうと思ったが、時間的に余裕がある日。

間違いも何かの縁だろう、と判断し、集落を東西に走る里道をぬって移動した。

左手に見えた建物は、杣之内町公民館。

その付近に停めて伺った民家。

お声をかけたら婦人の声が・・。

ここは杣之内町。

神社といえば、近距離にある都祁山口神社がある、という。

その神社を訪ねてくる人は、割合に見かけるそうだ。

実は、行事がいつされているのか、わからないが、風の祈祷行事を調べていると、伝えたら屋内屋敷におられるご主人に・・・。

ここは、杣之内町の東垣内(※・旧山口村)。

生まれ育った当地に、風の祈祷とか風祈祷なんてものは聞いたことがない、という。

東垣内に風の祈祷がない、とわかったが、これも縁だと思って教えてもらった東垣内に鎮座する都祁山口神社を参拝することにした。

ここは、もう一つの神社がある、という。

細い村の道であるが、軽バンなら十分に通れる道。

都祁山口神社の先向こうに弁天さんこと厳島神社がある、と。

その神社は、信号杣之内町南から、東へ。

勾田町から山間地の福住に向かう県道25号線バイパス走行中に見える神社。

通るたびに、気になっていた神社への行き方がやっとわかった。

聞き取りしたY家の了解をいただいて、停めさせてもらった杣之内町公民館の駐車場に。

先に目に入ったのは、たくさんの石仏が並んでいた地蔵堂。

出かける前にお聞きした地蔵堂に寄りあうことは・・。

奥さんの話によれば、中学生の娘がいるが、生まれるころから、各地で行わるような地蔵祭りはなかったそうだ。

ただ、それ以前の時代にはしていたようだ、と・・。

地蔵堂の前の道。

急坂の道を登ったところに都祁山口神社の参道がある。

左曲がりの参道道の先に石の鳥居がある都祁山口神社。

掲げる扁額に文字は不鮮明。

風化による欠損なんだろうか。



都祁山口神社と同名の神社が奈良県内にある。

数々の年中行事や造営事業も取材させてもらったことがある旧都祁村・小山戸に鎮座する都祁山口神社。

参拝する人多いらしく、何人かの参拝ブロガーさんが、訪問記をアップされており、「『延喜式神名帳』にある都祁山口神社(大和国・山辺郡)に比定される式内社。近代社格では村社」とある。

また、歴史文化を学ぶハイカーさんも多く、天理駅から丹波市、上ツ道を経て都祁山口神社、旧内山永久寺跡、石上神宮、天理教本部などを散策しているようだ。

神社参拝を終えて戻った坂道の左手。



石段登った一段高い位置に建つ地蔵堂

お堂の前も、際にも、たくさんある石仏群。



板石仏の双体地蔵もまた数多く並べている。



風化激しく、年代不明の石仏群は、他所から運ばれ、寄せられたように思える。

公民館に停めさせてもらった車に乗り、東に向かう村の道。



ぱっと拓けたそこに数台が停められる神社の駐車場が。

ただ、状況によってはチェーンを張り、利用できない日もあるようだ。

石段を登って参拝した厳島神社。

石灯籠に弁財天女の刻印があることから、通称は弁天さんであろう。

神社社殿も鳥居も真新しい造り。

平成拾五年拾二月六日の刻印があった鳥居でわかる真新しさ。



そういえば、ずいぶん前だが、県道25号線バイパスを走っていたときに見ていた厳島神社は、かすかに私の頭の中に映像が残っている神社。

ネットに過去の厳島神社を探してみたが見つからなかった。

散策した集落は、都祁山口神社にいちばん近い東垣内から西に、中垣内、北垣内、南垣内に西垣内。

また、厳島神社が鎮座する地は、谷垣内。

その他に辻垣内や丹後垣内などの垣内名が小字データベースにあった。

建物の立地位置のほぼ全容はわかったが、年中行事については掴めなかった。

一方、戻った木堂である。

信号を右折れした集落入口付近。

池の前にずらりと並べた石仏地蔵群がある。

設えた屋根下に整然と並べた地蔵石仏群。

中央に地蔵菩薩立像を配し庚申石も観られるここ木堂も、東垣内と同様に石仏を1カ所に寄せたのである。

ところで、小字データベースによれば、池の西角辺りに、小字”神縄”表記があった。

”神縄”は、間違いなく集落入口に、勧請縄をかけていた場である。

”神縄”の位置は2カ所。

1カ所は山手川。別途にあった”カンジ・・”場も、山手側に文字表記がある。

集落の奥側にあった小字”堂ノ東”。

他にも小字”北門外”、”北門”、”大門向”、“大門東”。つまりこれらは、かつてあった旧内山永久寺跡の北門、大門跡に違いない。

明治12年、木堂と都祁山口神社が鎮座する山口(山ノ口)、そして内山永久寺が存在していた3村を合わせた杣之内町

村の入り口は、木堂。

つまり元々は関所のような木戸(城戸)口であったのだろう。

(R1. 9. 7 SB805SH撮影)


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