マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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手術入院

2014年02月08日 09時19分43秒 | むびょうそくさい(おかん編)
通院検査を何回受けただろうか。

9月30日は、産婦人科で受ける血栓検査。

この日も通院先は大阪市立総合医療センターだった。

結果は10月2日であった。

毎回の検査を受ける度に今後はどうなるのだろと思ってきた。

そんな検査に耐えてきたおふくろが入院をすることになった大阪市立総合医療センターは大阪市の都島にある。

過去に何度か入院したことがあるおふくろは、今回ばかりは初めて体験する手術を伴う。

受付を済ませて待つ病院。

行き交う人が多い。

案内されてエレベーターに乗る。

階ごとに診療科目に分かれている。

おふくろが入院した階は婦人科。

案内された階は展望が広がる。

北の方角にある連山はおそらく能勢のほうであろう。

左手には遠くであるが、中国自動車道の名塩辺りも判る。

病室は4人部屋だ。

テレビ・冷蔵庫も供えてあるが使用するには千円のテレビカードを購入しなければならない。

なぜかイヤフォンがあった。

見るには良いが、同室の人たちには迷惑になるからイヤフォンである。

耳栓をしたこともないおふくろにとってはこれもまた始めての体験。

装着するのがめんどいようだ。

食事は病室で食べるのが一般的だが、当院には食堂がある。

眺望が心にゆとりをもたせてくれる食堂。

動くことのできる患者はここでいただく。

病院食は患者によって制限があるものの、手術前のおふくろは一般食メニュー。

案内を終えた時間は丁度昼どき。



配膳されたメニューはカレーうどんが主食だった。

添えものにモヤシのドレッシング会え、シューマイがある。

おふくろの好のみでないシューマイは私の口に入った。

医師が来られるのはそれから一時間後。

かーさんとともに病院を一旦出て昼食を採った。

戻って早速、医師から手術の方法が伝えられる。

手術は腹腔鏡下両側附属器による卵巣膿腫の摘出だ。

腫れあがった卵巣は大きな塊。

高齢者のおふくろの身体に負担をかけずに縮小させて除去するには風船のように膨らますそうだ。

右か左かは開けてみなければ判らない卵巣摘出の手術。

出血を伴う場合には輸血もしなければならない。

そういった手術に同意書を求める医師が続けて求めた献体。

今後の病理に役立てるための献体である。

献体といっても身体でなく摘出した部位の献体である。

何通かあった同意書には本人だけでなく、同席家族の同意も求める。

宜しくお願いしますと提出した。

入院したおふくろに見送られて住処にやってきた。

長期間も不在となる住処には植木鉢がたくさんある。

水やりは当然できないから、我が家に持ち帰った。

ついでに立ち寄った住之江区役所。

高額医療申請書を入手して自宅に戻った。

(H25.10. 4 SB932SH撮影)

平宗炙り鯖ずしと袋麺ラ王で昼食

2014年02月07日 08時45分56秒 | あれこれテイクアウト
取材帰りに買っておいた平宗謹製炙り鯖ずしは800円。

イオンモール大和郡山店で売っていた。

その日は川上村や黒滝村などの奥吉野の木材文化や食べ物普及イベントだったようだ。

試食品も数々ある。

どれにするか迷うことなく売り子の販売員と目があった柿の葉寿司。

半分に切った柿の葉寿司に香りに釣られたのである。

それは柿の葉寿司ではなかった。

焼けた魚の肌は斑黒い。

炙りの鯖である。

これが香りの元。

思わず手を差し伸べた。

どうぞと渡されて口に入れた。

美味いのである。

この日の夜食はバラ寿司と判っていても買ってしまうほどの美味さ。

家族にも食べて貰いたいと思って買った。

炙り鯖寿司は2日間も保つ。

夜食に食べなくとも翌日でも十分に間に合う。

そんなことでこの日の昼食は平宗謹製の炙り鯖ずし。

それだけでは足らないと思ってラーメンも作った。

買い置きの袋入りラーメンは日清の「ラ王」。

これもまたイオン大和郡山店で買った。

5袋入りの袋麺ラ王は、たしか258円だったような・・・。

カップ麺でも販売されているが、具だくさんだけに、少々高め。

袋入りラ王は何もない。

スープだけである。

それでは寂しいと思って刻みネギを入れた。

麺はさすがのラ王。

袋麺であっても遜色ないモチモチのシコシコ麺。

まるで生ラーメンのような触感である。



喉で唸る麺は味わい深い濃い目の醤油味スープに絡んでいる。

なんの油か判らないが、その加減があって美味いのである。

炒めたモヤシなど余った野菜を入れればもっと美味さが引き立つと思った。

炙り鯖ずしは試食品で味わったものと同じだ。

美味すぎる鯖寿司は少しだけ家族分を残すことにした。

(H25.10. 2 SB932SH撮影)

山田の宮座講調査

2014年02月06日 07時54分55秒 | 桜井市へ
桜井市の山田にある東大谷日女命(やまとおおたにひめみこと)神社には宮座講があるらしい。

そう思って出かけたが、神社の所在地は判らない。

茶屋ノ前垣内に住むM婦人に尋ねた。

その結果は、右座・左座がマツリをしていると云うのである。

現在も行われている座中家を訪ねる前に探したⅠ区長家。

集落を巡っていたが見つからない。

集落の一角におられた数人の男性は水道工事の関係で業者と立ち話をしていた。

お声をかければそのうちの一人だったが、座中でないことから儀式のことは存知しない。

この人、あの人に聞けば判るであろうと案内してくださったU副区長について行く。

山田のことならFさんが史料を纏めるなどしているから声をかけたらどうかと、呼出のピンポンを押すも神社の行事なら区長に聞いてくれと云われて顔も見せない。

向かいに住む副区長にお礼のピンポンしていたときのことだ。

当主のFさんが門屋から顔を出されてびっくりする。

ご仁は桜井市地域の行事取材でときおりお会いするFさんだったのだ。

「もしかと思って出たら、やっぱりあんたやったんや」と云われてお互いが顔を合わせて笑顔になる。

「最近は鬱陶しい人がピンポンするんでやんわり断ったけど、名乗った名前はひょっとして」と思って門屋から顔を出したと話す。

久しぶりに顔を合わしたFさんは40年前までは右座の座中だった。

当時は学園の教師を勤めていた。

奥さんも教師であった頃、その年亡くなった親父さんの座を継ぐことは難しいと座中に伝えて退いたと云う。

そのことがきっかけになって、12軒もあった右座中は待っていたかのように一軒、一軒が辞めて残ったのは1軒。

その一軒は今でも座をしていると云うのである。



F家の前庭には当時供えていたオナンジ参りの小石が残っていた。

オナンジでないのもあるらしいが、数個がトーヤ(当家)を勤めたときの模様である。



当家の門屋には4年に一度の閏年の庚申さんの塔婆杖を掲げていた。

平成21年4月に実施された塔婆の祈祷文はFさんが書かれたそうだ。

桜井市の行事取材のおりには、そのような話題はまったく出なかった。

残されたF家の祭具にあらためて感動したのである。

Fさんが案内してくれた家はたった1軒で営みをされている右座のⅠ家。

この日の朝8時、東大谷日女命神社で神迎えをされた分霊の御幣はオカリヤ(御仮殿)に納められている。



現在のオカリヤは一本脚で立つ木製の社であるが、かつては四方を丸竹で組んだ形態で、屋根に杉葉を覆っていた。

それも2階建ての様式だったと話すご両人。

当時の形態を示す記録写真はないようだ。

親父さんから引き継いで40年間も勤めてきた右座のⅠさんが「古いボロボロの文書があるけど」と持ち出した講箱。



拝見した講帳には『當村宮座講 雑記』の書き出しは「享和三年(1803)九月二十四日」。

およそ210年前に書き記した講帳である。

記されていた宿主の名は昭和40年が最後であった。

その頃にたった一軒になったようである宿主の記帳にはFさんの名もある。

それを覚えていなかったFさんが驚くことも無理はない。

三人が目を凝らして拝見した『當村宮座講 雑記』には由来・御仮殿造り・一老二老の作法・御供・朝座・昼座献立の在り方を長々と書き記していた。

判読した文字にはシトギ、御湯釜もあった。

文中によれば、宮さんは八幡宮で末社は弁天社・牛頭天王社のようだ。

御仮殿を遷宮していたのは八月で、六尺六寸・六尺の高さ・幅寸法も記されていた。

Fさんも「初めて見たわ」という右座の文書は貴重である。

Ⅰさんが持ちだしたもう一つの箱。

おじいさんが、「これだけは処分せずに大切にせよ」と伝えられてきた本である。



それは、なんと寛政三年(1791)五月に発行された『大和名所図会』であった。

七冊すべてが紐綴じの本物の初版が大切に保管されていたのである。

Fさんともども感動するが、当主にとっては何がなんだか、重要度に関心がないお宝よりも、「座は辞めたい」の一言である。



山田の宮迎えのオカリヤは左座にもあった。

数年前までは4軒、それが1軒、1軒減って今では2軒だけとなった左座。

両座が平成21年10月1日に宮迎えをされた様子はFさんが撮っていた。



『當村宮座講 雑記』によれば、羽織袴着用で出仕のこととあるが、4年前の宮迎えは普段着だ。

19日に行われる右座・左座の宮送りは是非とも取材をさせていただきたくお願いしたのである。

(H25.10. 1 EOS40D撮影)

秋近し産直市場よってっての広島焼き

2014年02月05日 07時33分05秒 | あれこれテイクアウト
涼しくなればお好み焼きが恋しくなる。

本日の仕事を終えて直行した産直市場よってって。

大和郡山店は小泉町にあるが、ほとんど山田町寄りの松尾寺口辺りにあるお店である。

5カ月ぶりに買った広島焼きは店内で作っている。

良く売れているものだから、できたての温か。

持ち帰って家でパックを広げた。

多めに盛ってくれた削りカツオがキラキラと輝いている。

いつもと変わらぬその姿は画面に入りきらないほどの大きさだ。

キャベツ、キャベツがどっさりで麺はどちらかと言えば少ない。

甘めのソースを絡めて食べる広島焼きの美味しいこと。

抜群の味はいつも同じの300円。

量の割に安いのも魅力で、本日の昼腹を満たしてくれた。

(H25. 9.30 SB932SH撮影)

竜田川の御幣岩を探す

2014年02月04日 08時56分24秒 | 斑鳩町へ
天理市南六条の頭家たちに聞いた竜田川の御幣岩

30年前の竜田川はぬるぬるだったと云う。

御幣岩があるはずだと聞いた場は斑鳩町の神南。

竜田川から注ぐ川は大和川と合流するもっと手前。

三室山付近だという。

草むらに覆われていて、探してみたが見つからなかったと南六条の頭家経験者が話す。

その辺りを探してみるが見当たらない。

竜田川の水量は多い。

砂地などは見ることもできない川になっていた。

川底の砂地までを掬って壕のようになった川。

護岸工事がされたのであろう。

そこから北に戻って尋ねた西公民館。

ご親切な対応で私たちが探す御幣岩の所在を教えてくださったN職員さん。

回答してくれたのは斑鳩iセンターの方だ。

観光マップを広げて示してくれた場は三室山を登る階段右側に表示板があり、その左側にあると云う。

付近に生えている草まみれであれば見つけることは困難だと云うが、とにかく行ってみようということになった。

駐車場といえば、現在岩瀬橋の付け替え工事をしている東側に町営駐車場。

トイレも完備する無料の駐車場である。

聞いた通りに三室山に行ったが階段辺りにはそれらしきものが見当たらない。

道路を自転車で走っていた男性に尋ねても知らないと返す。

三室山がある地の小字は垣内山。

それより北側は稲葉車瀬になる。

山頂には神岳神社の祠があるらしい。

男性は川に下りていった。

そこでは鯉釣りをしていた若者がいた。

ロッド竿を投げていた場には鯉がうじょうじょいる。

そこにあった御幣岩の案内板。

その前が御幣岩である。

川に下りる階段もある。

ここが現在の禊の場であった。

川浚え工事の際に岸辺に移したのであろう。

御幣岩の裏側には昭和56年3月吉日とある。

今から32年前のことであるから南六条の人たちが云った時代と一致する。

風化によって刻まれていた御幣の形は判別し難い。

この辺り、江戸時代のころは御祓川と呼ばれていた。

御幣岩で神事が行われていたらしい。

御幣岩の存在を確かめた帰りがけたときのことだ。

若者が釣り糸を垂れていたロッドがしなった。

鯉のヒットである。

重量でロッドがひん曲がる。

鯉の引きは強い。

逃げようとする鯉との戦い。

気力を失ったのか。ロッド竿を持ち上げようとしても無理がある。

思わずタモを持ってきた男性は若者のおじいちゃん。

度々釣りにきているそうだ。

この日のヒットは3度目の投入。

うじょうじょいる鯉のエサは食パンだ。

鯉釣りのエサは蒸かしたイモではなく食パンだったのだ。

たしか麩でもエサになる。

ゲットした鯉の体長を測る。

体長は60cm。ずっしりとした重さである。

嬉しいヒットに笑顔を見せてくれたのは高校一年生のⅠくんだ。



ゲットした大魚はキャッチアンドリリースする。

調べてみれば本物の御幣岩は彼の後方に沈んでいるようだ。

西公民館のN職員が話した川施餓鬼。

それも確かめたくて堂山にやってきた。

観光マップには堂山の竜田城跡と示されている。

片桐且元が築城した城である。

堂山は公園化されていた。

そこには観音さんが立っていると話すiセンターの職員の声に釣られて探してみた。

高さは4メートルもある青銅製の観音立像。

近年に建てられたものであろう。

建碑に平成12年5月21日とある。

建之された団体は龍田観音建立奉讃会。

護持者は龍田和音之会であった。



iセンターの職員の話しによれば5月第二日曜日に施餓鬼法要が平成22年にあったそうだ。

水死者を弔う施餓鬼法要であったと思われる。

法要は50年間も続いているようだ。

(H25. 9.29 EOS40D撮影)

南六条新頭家の足洗い

2014年02月03日 07時50分56秒 | 天理市へ
10月6日に注連縄を立てて12日は宵宮を迎える天理市南六条町南方の新頭家たち。

杵築神社のマツリを終えるまでは翌年の頭家を勤めるミナライの人たちとともに桃尾の滝にやってきた。

マツリを始めるにあたって身を清める。

身を清めるといっても作法はである。



桃尾の滝から流れる清廉な水に素足を浸して洗い清める30年ほど前にも勤められた頭家の人々が口にしたかつての場は西の斑鳩町。

竜田川へ出かけて清めていた。

当時は川砂もあった竜田川。

川の中央辺りにあった御幣岩。

そこで足を洗って清めていた。

いわゆる禊である。

いつしか竜田川はぬるぬるの川になった。

上流から流れる生活排水によって汚れた川になった。

の場は逆方角の東に移した。

そこが天理市滝本町にある桃尾の滝である。

同様に竜田川から場を替えたのは南六条北方である。

三十八神社の祭礼を勤めるオヤ・コの二人の頭家。

南方と同じように頭家から頭家渡しされた新頭家の二人とともに桃尾の滝に向かう。

南方と違っていたのは滝の小石を拾って持ち帰ることだ。

拾った小石は12個。

毎月の1日に参る日には、拾ってきた小石を神饌米とともに洗う。

清めの小石は神さんのようなもの。

神さんに供える神饌米を洗うのである。

北方の氏子たちが云うには竜田川に出かけていたのは50年以上も前のこと。

その後においては桃尾の滝になった。

竜田川での禊は下着姿になって川に入っていったと話していた。

当時は清らかな竜田川であったのだ。

そのことを語った聞取り内容を産経新聞で連載していた「やまと彩祭」に記事を書いた。

(H25. 9.29 EOS40D撮影)

マルちゃんごっつ盛り坦々麺

2014年02月02日 06時15分40秒 | あれこれインスタント
いつかは役に立つと思って買っておいたインスタントラーメン。

どでか坦々麺はイオンでたしか98円だったような。

どでかラーメンはお腹が膨れる大盛りシリーズ。

家で沸かしたお湯を持ってきた。

もちろんポットに入れてである。

桃尾の滝に着いて早速、蓋を開けてお湯注ぎ。

3分間は待つのだぞ、である。

粉スープを入れて具材もだ。

Kさんと話している間に3分経った。

坦々味噌はたっぷり。

湯でふやけた麺に落とすドロドロ坦々味噌。

どちらかと言えば赤味噌か、茶味噌の色合い。

こってり感が漂う。



コクがある味に麺が絡んで上がってくる。

美味いのである。

ツルツルのど越しが良いから箸が進む。

麺は細麺。味噌と馴染んでいる。

気にいったのはネギである。

ラーメンに細かなネギは似合わない。

大きく切ったネギが好きみなのである。

こってりスープも美味しくいただいたころに待つ人来たるである。

(H25. 9.29 SB932SH撮影)

東井上須佐之男神社の秋嘗祭

2014年02月01日 05時07分58秒 | 田原本町へ
文化十年(1813)九月吉日に建之された燈籠には「牛頭天皇」の刻印がみられた田原本町東井上(ひがしいね)の須佐之男神社。

かつては川東村の一つである大字東井上は村屋坐弥冨都比売神社の郷中。

同神社の郷中は東井上、蔵堂、大木(おおぎ)、為川南方、為川北方、遠田、金澤、平田、西井上、伊与戸、笠形、大安寺、阿部田、南阪手、阪手の15ケ大字。

現在の遠田(とおだ)は天理市に属しているが、その他はすべて田原本町である。

東井上は、天保十一年(1840)九月、村屋坐弥冨都比売神社拝殿前に狛犬を奉納した旧村。

かつては16戸もあった明神講は、15、6年前に3戸となったことから止むなく解散したと話す参拝婦人のNさん。

今では東井上の戸数が47戸になったが、50年前に嫁入りをした頃は32戸だったそうだ。

その頃に発生した水ツキ。

トラック一台が通れるぐらいの細い橋があった。

水ツキによって移転した橋は須佐之男神社が鎮座する辺りに架かっている。

その橋の名は「天王橋」。

親しみを込めて「てんのうはん」と呼んでいる。

江戸時代は牛頭天皇社であった須佐之男神社鳥居前には「牛頭天王御宝前」の刻印がある燈籠もあるが、年号は見られない。

神社境内には昭和59年3月4日に遷座された市杵島姫社がある。

婦人が云うには「昔、昔、井上さぶろうが建てた」と伝わる市杵島姫社である。

日が暮れる直前ともなれば3人の敬神中の当番さんがやってきた。

支度を調える頃になれば蔵堂在住の女児巫女とともに到着した村屋坐弥冨都比売神社の禰宜さん。

いつもお世話になっている。

村役が参列する秋嘗祭の神事はそれより一時間前に終えていた。

17時半頃に鳴った村のサイレン。

それがシャンコシャンコの呼出の合図。



氏子たちが並んで待つシャンコシャンコのお神楽。

シャンコシャンコは女児巫女が舞う神楽舞で、舞いのあとすぐに参拝者に鈴を振ってくださる。

その音色から神社向かいに住む婦人はシャンコシャンコと呼んでいた。



その呼び名は県内各地でも聞いたことがある。

葛城市當麻・太田海積神社のボロソ(夏祭り)、天理市八田・道祖神社のむかしよみや、大和郡山市番条町・熊野神社の宵宮、大和郡山市額田部・推古神社のヨイミヤ、大和郡山市馬司町・杵築神社の宵宮であった。

この夜のお神楽を舞う女児は小学6年生で、夏越し祓えで茅の輪を運んでいた小学六年生の女の子。

禰宜さんが監督を勤める地区の少年野球チームの一員だそうだ。



「御神料」の神楽料を当番さんに渡して舞うお神楽は平神楽。

「御神料」は正式には「十二灯」と呼ぶようだ。

参拝する氏子たちは家族連れに子供たちも居る。

ありがたく受けるシャンコシャンコはおよそ一時間も続く。

お祓いの鈴を翳すが、一歳に満たない赤ちゃんは目線を外さない。



健康に育っていくことだろうと思った微笑ましさに思わずシャッターをきらせていただいた。

『田原本町の年中行事』によれば「天皇さんの宵宮」の呼び名であった一夜限りの秋嘗祭はマツリとも呼ぶようだが、「むかしよみや」のことであろう。

二日後の30日、隣村の平田の春日神社でも「薬師堂の宵宮」にお神楽があるという禰宜さん。

参拝者は少ないようだと云う。

(H25. 9.28 EOS40D撮影)