第8回小林秀雄賞とある。(こんな賞があるとは知らなかった) 始めは軽い日本語文化論かと思ったが読ませる面白い「着眼点」だ。但し、文章は冗長であり、論文形式にすれば大幅に縮小される内容で、諧謔のようなところもあり、文体のゆらぎがある。読み手を選ぶだろう。筆者はアメリカに渡り、馴染めず、日本文学を読み込み、フランス文学を学んでいる。<o:p></o:p>
着眼点として〈普遍語 universal language〉、〈現地語 local language〉、〈国語 national language〉(括弧表現はママ)を定義している。<o:p></o:p>
次に、図書館である〈普遍語〉から学び、そこに収まる文化吸収のために、翻訳が〈現地語〉を〈書き言葉〉に変身し〈普遍語〉に訳され、〈国語〉になるとあるが、論理に無理はないか。翻訳がなくても異文化の出会いで、反作用として国の共通言語が発生する可能性はある。論拠の証明がないのが欠点である。<o:p></o:p>
さらに、〈普遍語〉(英語)優先で、〈国語〉を読まなくなると「文学の終わり」となるというのは、ゼロサム論理の行き過ぎではないか。また、英語は一部の方が話せれば良く、国語の時間を増やすべきだというのも論拠が不足している。自分の海外生活の経験から、日本語が上手くないのに、英語が上手いわけはない。(もし英語の方が上手ければ第一言語は英語のはずだ)更に、いくら英語が流暢でも、日本文化が語れないと、面白い人物との評価もない。文化の根をしっかりさせるための国語理解であれば理解できる。また英語交じり日本語がおかしいとの指摘があるが、漢字があるのとおなじだろう。目くじら立てることはない。<o:p></o:p>
筆者は国語に重きをおいているが、日本文化は国語だけではない。他の、建築、音楽、芸能など幅広い。限定が過ぎる感がある。また、芸術とは音楽、絵画は言語を超越するはずだが、実は様式という「枠」がある。つまりは普遍的な芸術も実は「普遍」ではないということだ。<o:p></o:p>
逆に言えば、芸術は枠を破壊していく歴史だともいえる。ということは芸術の歴史が鑑賞にあたり必要になる。例えば、古典音楽(Classical Music)というのは音楽の様式であって、近代の作曲でも「古典」だ。(小林の指摘したヴィルヘルム・ヴォリンゲル 「抽象と感情移入」の議論に近いかもしれない) <o:p></o:p>
若いとき、絵を見て何が感動の源泉か分からなかった。ただただ好きな絵があっただけだ。歳をとると良さが分かるというのは様式への馴染みで奥は深いが、新しいものが見えないというトレード・オフがある。<o:p></o:p>
この本から何を楽しむかということまで考えが広がった。アクが強いが触媒機能のある著作で奨められます。<o:p></o:p>