前置きの知識として:
明治政府は1872年の芸娼妓解放令以降、妓楼の縛りから解放( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E5%A8%BC%E5%A6%93%E8%A7%A3%E6%94%BE%E4%BB%A4 )公娼制度化( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%A8%BC )し登録認可により鑑札を交付した。
芸者は芸妓置屋・料理屋・待合、遊女(娼妓(娼妓取締規則))は貸座敷(取締規則あり)・茶屋・遊女(遊女屋は解放令により認められず)の三業となった。二業(芸妓置屋・妓楼)、茶屋(あるいは料理屋))もある。
本著作の知見は:
敗戦後すぐに、政府は「1億の純血」を護る「国体護持」のためアメリカ占領軍向け慰安所と慰安婦を整備した。
文献調査により東京での特殊慰安施設の候補は1945年9月では10ヵ所(遊廓(二廓(新吉原・洲崎)四宿(品川・千住・板橋・新宿))と私娼街)だったが、同年11月には25か所(三業地:向島、十二社等)に急増している。「接待所」(一部の三業地と私娼街が公認の売春街として再編成)と「慰安所」(軍部の要請として公娼と産業戦士慰安所)として戦時中から用意されていた事が判明した。
更に、「大阪と売春」には軍の要請により戦時中の従軍慰安婦の延長として政府が準備とある
1945年8月22日大森海岸の小町園からRAA(Recreation and Amusement Association 特殊慰安協会)が嚆矢となる。しかし花柳病のため、1946年3月すべて閉鎖となる。
1946年GHQ公娼廃止→私娼黙認、黙認地域(特殊飲食店)が赤線(警察用語が発祥)となる、しかし実際は:
①貸座敷(遊廓)指定地域を私娼黙認地域に
②接待所と接待婦として稼業継続
→前借金の拘束や売春の強要は禁止、但し「個人の自由意志による売淫行為は別個の問題」、稼業継続の場を「特殊飲食店等」に言い換える。→明治の芸娼妓解放令以降出現した銘酒屋( https://www.search.com.vn/wiki/ja/%E9%8A%98%E9%85%92%E5%B1%8B )の再来
東京での特殊飲食街の4類型
①旧遊廓移行型:新吉原、洲崎、品川、新宿、千住、八王子
②旧私娼街移行型:玉ノ井、亀戸
③旧遊廓・私娼街移転型:鳩の街、亀有、立石、新小岩、東京パレス(小岩、元精工舎女子寮の跡4,800坪)、錦町・羽衣町(立川)、武蔵新田
④新設:武蔵八丁、調布
1948年風営法の施行により特殊飲食店はカフェーとその女給、カフェーには店舗に鑑札も
1958年売春防止法施行により赤線は廃業の建前、その後、多様な風俗に変容した事例、移転や廃業も
全体に事例調査が多い、
・遊廓では前借金で縛り玉割(娼妓の取分)は1割(借金返済できない水準)から赤線では3~4割に
・京都 雇仲居→新妍芸妓 七条新地→五条楽園(廃業)
・沖縄 国際通りの東端にある旧女師一高女跡地(1万5千坪)が栄町料亭街に
なお、当方の研究では、これらの色街は、移転や新設にともない下記のプレイヤーが関わる
①認可・許可をする行政(パブリック)
②エリア開発をするディベロッパー:エリアの造成(周辺対策のため独立エリア化(堀・壁などで区画)、街区形成)、施設建設と(料飲)組合形成
③ファイナンス:金主と条件設定
④それぞれの店のオペレーター(運営者):前貸しなどで女性(働き手)を確保・管理するシステム構築と組織構築
⑤働き手(スタッフ)の確保:リクルート・トレーニング・組織運営・報酬分配
つまりは、バブル時代に脚光を浴びた民間活力導入(PPP)と同じことが行われていたと考えられる。赤線という装置のなかで私娼の労働集約型の感情労働が特徴になる。
現在計画中の大型IRの開発も施設整備・運営がPPPであること、そこで働くカジノのディーラーやホテルマンが労働集約型の感情労働であることが似ている。