
やれやれ、ようやくスキャンに成功した。
誤りを訂正し、おわびしておこう。
スキャナはキヤノン8200Fで、このスキャナで6×6判は正しくスキャンできるのである。
たんにわたしの操作のやり方が誤っていた(^^;)
原稿(この場合は富士フィルムのネガカラー)のセットが正しくなされていなかったのである。まあ、ごく初歩的なケアレスミス・・・といったところか。
露出は経験と勘で決めているが、ネガカラーはラチチュードが±4EVはあるはずだから、ほとんど心配はいらない。なにしろ、トイカメラ(プラスチック製のおもちゃカメラ)であれほどよく、しかも、おもしろく写るのだから。
原稿は現像だけラボ(キタムラ経由)に依頼し、ネガカラーに設定して150dpiでスキャン。ここにあげた写真はフォトショップでほんの少し、レタッチしてある。


ネガカラーは本来は、インクジェット用のものとは違う印画紙にプリントして愉しむものなので、こうしてネガからスキャンし、J-peg変換して眺めるのは、わたしははじめての経験だった。かつて35mmのポジフィルムはかなりの本数をこなしたことがある。
300dpiだとデータ容量がふえるけれど、ディスプレイ上に表示される画像の「見え方」はあまり変わらない。むしろスキャンに時間がかかって、いらいらさせられるだけ(=_=)
コダックのワゴンセール中の35mmカラーネガも、5本買って、そのうち2本は撮影済み。
一本はOM-1(50mmF1.8レンズ)、もう一本は、ニコンF3hp(55mmF3.5マイクロ)で撮影してある。・・・現像はこれからだけれど。
じつに久しぶり、銀塩フィルムへの復帰となった。
パソコン上で見るかぎり、これもまたデジタル画像なのである。ただし、SDカードに記録するのではなく、カラーフィルムという実体のある「もの」に記録した画像を取り込んでいる。
いまから振り返ってみると、撮影し、現像プリントして写真を愉しむというのは、驚くほどスローライフな作業であった。わたしはこれらの写真を撮影したときの状況を、よく覚えている。フィルムを装填して絞りとシャッタースピードを選択し、被写体を発見したらピントを合わせ、シャッターを押し、フィルムを巻き上げる。これらの行為は、アナログ感覚そのもの。つまり、身体的な行為なのである。
「撮影したなあ。写真を撮ったぞ」という実感は、デジタルカメラの比ではない。
わたしがなぜフィルムカメラに復帰したのかというと、煎じつめれば、その実感が欲しかったからであろう。結果はほぼ同じ。しかし、プロセスがことなる。
カメラという機材、身体(足や手や眼)、脳。ややアナクロニズムともいえるこうした経験を通して、過去の“わたし”や、この世の中にとって、写真とは何であったのかを考えてみる。
二眼レフは、もしかしたら、わたしにとっては究極のカメラ・・・のように思われる。
ヤシカマットについているのは、80mmF3.5というレンズで、これは画角で比較すると、35mmフォーマットの44mmレンズだという。このレンズと、やや暗い全面マットスクリーンで世界を凝視する。しかも、このファインダーに映る世界は、左右が逆像なのである。
まだたいして撮影はしていないけれど、この二眼レフをネックストラップでさげて、街角に立って現実を眺める。そのときわたしの身体は、他人あるいは被写体からみると、まるで半透明のように静かな気配につつまれている。
通行人はわたしの存在に気がつかないかのように、通過していく。
もう40年も写真を撮っているというのに、二眼レフがもたらすこの静かな気配、なんともいえない静謐感ははじめての経験となる。
わたしの存在に気がつかないかのように・・・キーワードは、たぶん、そこにある。
これはオブセッションのようなものかも知れないが、そのとき、わたしの身体は半分は街に溶け込んでいるのである。
☆フィルムに関心がおありの方は、つぎのサイトが参考になります。
http://www1.bbiq.jp/nikoncamera/120.htm