
これといった用事のないぶらり旅。
いや、旅というほど遠くへ出かけるわけではない。
4、5キロでもいいし、7、8キロでもいい。
すぐそこに、未知の世界・・・ワンダーランドが存在している。
6×6判の空間や被写体の把握力は、35mmサイズとはずいぶん違う。
トップに掲げた一枚を見てなにを感じる?
わたしはこの写真から、あらためて「見る」ことを学んでいる。
その場にいたら、人はこんなふうにディテールを認識できないはずである。
ところが、その場にあるものを撮影し、しばらくたって写真として眺めるとき、人の眼は、そのディテールの隅々を認識できる。
これは写真の不可解な効用だろう。


ディテールの豊富さ。
そこにあるもののたたずまいを、光や影や空気感を、レンズとフィルムは把握し、再現する。ここにあるのは平面上の画像にすぎないのに、わたしは奥行き感を感じ、かすかな風の音や、湿り気のようなものを認識できる。
布は布らしく、女性の肌は肌らしく、板塀は板塀らしく、漆喰の壁は漆喰の壁らしく。
3群4枚のゾナータイプのこの素朴なレンズは、80mmF3.5の世界像を、わたしに提示する。
レンズ交換はできないから、いろいろなものをあきらめ、野心や欲望をある程度すてて、偶然を受け容れなければならない。だから、ものの輪郭というか、存在感が際立ってくる。
世界はあなたがおもっているほど美しくもないし、醜くもない。
あるがままの光景を受容しなさい・・・と、これらの光景が告げている。
不完全で凡庸きわまる“わたし自身”を受け容れるのと同様、これらの光景を受け容れる。
むろん、積極的に! いやいやながら・・・というわけではないのだ。
ヤシカマット124G。
このわずか2万円弱で手に入れた40年ばかり昔のレトロなカメラが妙に愛おしい。そして、そのカメラが取り込む世界像が。

二眼レフのファインダースクリーンは、こんなふうに被写体を映し出す。
古いカメラだからだろうか?
あらゆる光景が、わたしの記憶の中の光景とオーバーラップしてくるような錯覚に陥る。
そこにあるのは、シャッターを押したその瞬間の光景にすぎない、というのに。
スクエアフォーマット。スイングバックミラーがないから、ブラックアウトがない。
レンズシャッターのカシャという機械音。巻き上げクランクを操作するときの手応えが、なんともいえない。
「さあ、わたしといっしょに、見ることを学びましょう。世界とはこういうものだ。あなたがそう考えていた世界とは、少し違った世界を」
カメラを携えて旅に出る・・・とは、おそらくそういうことである。
ヤシカマット124Gは、かのローライのコピー機である。
しかし、二眼レフ入門機としては、よくできている。
そもそも、この二眼レフという形式は、1950年代に全盛期があった、古いカメラなのである。日本人のだれもが、将来へ向けて、夢や希望がすなおに語れた時代の遺物。
レトロなカメラの愛おしさには、そういう過去への愛おしさがかくれている。