
写真とおつきあいしていると、よく「質感表現」「質感描写」ということばとぶつかる。
これは、ものの表面を写しとり、再現する写真というメディアの独特なキーワードだと、
わたしは考えている。たとえば、隣接分野といってもよいムービーなんかでは、質感描写が、その作品のよしあしを制するなんてことは、あまり聞かない。
レンズや画像エンジンは、その被写体がもっているテクスチャーを、十分描写し、再現しなければならない。ものの存在感は、テクスチャーの中に、その根拠のようなものを据えている。野菜は野菜らしく(しかし、キュウリとトマトの“質感”は違う)、プラスチックはプラスチックらしく、人の皮膚は皮膚らしく、鉄製品は鉄製品らしく・・・そのらしさに、リアリティーを感じている。
眼でふれる・・・といってもいいかも知れない。人間の視線は、そのくらい精妙に対象の表面に“ふれて”いるのである。
トップの一枚を眺めていて、わたしはその質感をまざまざと感じる。
西日を浴びた一足の靴。ここはフォークリフトなどが出入りする作業場なので、安全靴なのかも知れないし、違うかもしれない。
履き古されていて、ヨレがなんとも深みのある味わいをかもし出している。
靴の質感を、歩道のアスファルト、ポールのペンキ、コンクリートの基礎コンクリートと比較してほしい。この靴には、手でさわなくても、どんな感触なのか、どんな重みなのか、ある程度想像できる。
ほんとうは、もっと高精細な大きい画像でご覧にいれたいところだけれど、mixiのアルバムなので、これがほぼ限界。
ものの輪郭は線ではなく、面であることを“発見”したのは、セザンヌだったろうか?
あるいは、点描画のスーラを思い出してもいいだろう。写真を眺めるキーワードはさまざまあるけれど、グラデーションと質感描写と色再現がその中心的なエレメントだろう。
もう少し、例をあげてみよう。


ホーロー看板と、駐車場のポールを、なぜわたしは撮影したのか?
むろん、これを「美しい」とおもって・・・レンズを向けている。
若いはつらつたる女性の肌も美しいが、これらだって、見方によっては、それ自体が十分美しい。
撮影したのは、いずれもX10。光を見極めれば、コンパクトなデジタルカメラで、被写体の質感にここまで迫れるのであ~る。そしておもうのだ(=_=)
被写体とは、すべて、“わたし”なのではないか、と。