
■レイモンド・チャンドラー「大いなる眠り」村上春樹訳(ハヤカワ・ミステリ文庫 2014年刊)
よく知られているように、本書「大いなる眠り」は、レイモンド・チャンドラー(1888 - 1959年)の長篇第1作である。
1.大いなる眠り(The Big Sleep, 1939年)
2.さらば愛しき女よ(Farewell, My Lovely, 1940年)「さよなら、愛しい人」村上春樹訳
3.高い窓(The High Window, 1942年)
4.湖中の女(The Lady in the Lake, 1943年)「水底の女」村上春樹訳
5.かわいい女(The Little Sister, 1949年)「リトル・シスター」村上春樹訳
6.長いお別れ(The Long Goodbye, 1953年)「ロング・グッドバイ」村上春樹訳
7.プレイバック(Playback, 1958年)
長篇はこの7冊しか書いていない。それはこの「大いなる眠り」を書いたとき、すでに51歳になっていたことに理由があるのだろう。
しかし、チャンドラーの人気は、ハードボイルド作品の中でも特別なものがある。
数年前、村上春樹さんがチャンドラーの長篇7作の新訳を出したことで、読書界にあらためて話題を投げかけた。
《チャンドラーの長編小説の一部は文学作品として重要とされており、特に『大いなる眠り』(1939)『さらば愛しき女よ』(1940)、『長いお別れ』(1953) の3作品は傑作とされることが多い。》ウィキペディアより
なぜチャンドラーの地位が高いかといえば、ここを見ればわかるように、単なるミステリ、ハードボイルドではなく“文学作品”として評価されているからである。
《私立探偵フィリップ・マーロウ。三十三歳。独身。命令への不服従にはいささか実績のある男だ。ある日、彼は資産家の将軍に呼び出された。将軍は娘が賭場で作った借金をネタに強請られているという。解決を約束したマーロウは、犯人らしき男が経営する古書店を調べ始めた。表看板とは別にいかがわしい商売が営まれているようだ。やがて男の住処を突き止めるが、周辺を探るうちに三発の銃声が…。シリーズ第一作の新訳版。》BOOKデータベースより
さあて、どこを引用しようか。過去に読んではいるがすっかり忘れてしまっている。
身振りの大きな文体であり、ユニークな比喩の連続技に戸惑った。20世紀前半のアメリカでは、こういう文章がはやっていたのかなあ。現在と比較すれば、古い時代の映画を観ているようで“わざとらしさ”が目立つのはやむをえない。
《「ひょっとして・・・」と彼女は言って立ち止まった。彼女の銀色の爪が身体の両脇でそわそわしていた。微笑みに緊張の色が加わった。それはもう微笑みとも言えそうにない、ただの顔の歪みだった。それを微笑みだと思っているのは本人だけだ。》(79ページ)
こういったところは、小説的な描写としてシニカルなユーモアがそこはかとなく滲んでいる。ところが・・・。
《彼女はグラスを持ってきた。ピンク色の泡が儚い希望のように立っていた。彼女は私の上に身を屈めた。その息は小鹿の目のように繊細だった。わたしはグラスから一口飲んだ。彼女はグラスを私の口から離し、液体が少し首筋を垂れていくのを見ていた。
彼女は再び私の上に屈み込んだ。血液が私の身体を駆けめぐった。将来の我が家を隅々まで念入りに見てまわる入居希望者みたいに。
「あなたの顔は防水マットみたいなありさまよ」と彼女はいった。》(304ページ)
「ピンク色の泡が儚い希望のように立っていた」
「将来の我が家を隅々まで念入りに見てまわる入居希望者みたいに」
こういう比喩は正確さに欠ける・・・とわたしには思われる。チャンドラーの文体は、無理を承知で、無理をしているところがある。読者としてのわたしは、こういう部分はやれやれである(^^;;)
ことばは節約して使わないと、液状化を起こして始末の悪いものになる。「大いなる眠り」には、しばしばそれがある。
ストーリィテラーとしては、チャンドラーはたぶんB級の小説家なのである。本作には、魅力的な登場人物は、まったくといっていいほど存在しない。プロットはやたら込み入っているし、わけがわからないところもある。しまいまで読むのが苦痛で、何度か投げ出しそうになった。
創元推理文庫の古い「大いなる眠り」(双葉十三郎訳)も、30代で読みはじめ、20~30ページあまりで挫折。「わけがわからん」と思ったからだ。
《チャンドラーの長編小説の一部は文学作品として重要とされており、特に『大いなる眠り』(1939)『さらば愛しき女よ』(1940)、『長いお別れ』(1953) の3作品は傑作とされることが多い。》
・・・ということなので、わたしは再挑戦することにしたのだが、村上春樹訳で読んでも、やっぱりおもしろくない。
人びとは、警察の関係者をはじめ、すべて“トラブル”(利害関係、金など)を通してつながっているが、その関係がリアリズムの手法で手堅く書かれているわけではない。
だいたいにおいて、依頼人ガイ・スターウッド将軍がつまらない老人でしかないし、その娘ヴィヴィアンとカーメンの姉妹二人が、半分狂っているようで、見方によっては女としてやや突出している程度。
《私はシャーロック・ホームズでもないし、ファイロ・ヴァンスでもありません。警察が既に調べ終えた場所に行って、壊れたペン先を見つけて、そこから事件をするすると解決するなんて芸当はとてもできません。》(336ページ)という有名なセリフがある。
これは作者のDeclaration(宣言)というべきもの。
まあ、“男の気取り”といえば、気取りそのままである。
本書は最後の第32章にいたって、謎の大部分が解決をみる。そういう意味では、否応なくジャンルとして“ミステリ”に属している。ここを読まなければ、星3つにとどまっただろう。
20代の終わりころ読んだ記憶だけでいわせてもらうと、「さらば愛しき女」と「長いお別れ」(清水俊二訳)の2作は、間違いなく秀作であった・・・と思う。その記憶に、今回はみちびかれている。
気合が入ったら、「高い窓」「プレイバック」あたりは村上訳で読むつもりで、スタンバイさせてはある。
はーてはて、どうなることやら(^ε^)
評価:☆☆☆☆
よく知られているように、本書「大いなる眠り」は、レイモンド・チャンドラー(1888 - 1959年)の長篇第1作である。
1.大いなる眠り(The Big Sleep, 1939年)
2.さらば愛しき女よ(Farewell, My Lovely, 1940年)「さよなら、愛しい人」村上春樹訳
3.高い窓(The High Window, 1942年)
4.湖中の女(The Lady in the Lake, 1943年)「水底の女」村上春樹訳
5.かわいい女(The Little Sister, 1949年)「リトル・シスター」村上春樹訳
6.長いお別れ(The Long Goodbye, 1953年)「ロング・グッドバイ」村上春樹訳
7.プレイバック(Playback, 1958年)
長篇はこの7冊しか書いていない。それはこの「大いなる眠り」を書いたとき、すでに51歳になっていたことに理由があるのだろう。
しかし、チャンドラーの人気は、ハードボイルド作品の中でも特別なものがある。
数年前、村上春樹さんがチャンドラーの長篇7作の新訳を出したことで、読書界にあらためて話題を投げかけた。
《チャンドラーの長編小説の一部は文学作品として重要とされており、特に『大いなる眠り』(1939)『さらば愛しき女よ』(1940)、『長いお別れ』(1953) の3作品は傑作とされることが多い。》ウィキペディアより
なぜチャンドラーの地位が高いかといえば、ここを見ればわかるように、単なるミステリ、ハードボイルドではなく“文学作品”として評価されているからである。
《私立探偵フィリップ・マーロウ。三十三歳。独身。命令への不服従にはいささか実績のある男だ。ある日、彼は資産家の将軍に呼び出された。将軍は娘が賭場で作った借金をネタに強請られているという。解決を約束したマーロウは、犯人らしき男が経営する古書店を調べ始めた。表看板とは別にいかがわしい商売が営まれているようだ。やがて男の住処を突き止めるが、周辺を探るうちに三発の銃声が…。シリーズ第一作の新訳版。》BOOKデータベースより
さあて、どこを引用しようか。過去に読んではいるがすっかり忘れてしまっている。
身振りの大きな文体であり、ユニークな比喩の連続技に戸惑った。20世紀前半のアメリカでは、こういう文章がはやっていたのかなあ。現在と比較すれば、古い時代の映画を観ているようで“わざとらしさ”が目立つのはやむをえない。
《「ひょっとして・・・」と彼女は言って立ち止まった。彼女の銀色の爪が身体の両脇でそわそわしていた。微笑みに緊張の色が加わった。それはもう微笑みとも言えそうにない、ただの顔の歪みだった。それを微笑みだと思っているのは本人だけだ。》(79ページ)
こういったところは、小説的な描写としてシニカルなユーモアがそこはかとなく滲んでいる。ところが・・・。
《彼女はグラスを持ってきた。ピンク色の泡が儚い希望のように立っていた。彼女は私の上に身を屈めた。その息は小鹿の目のように繊細だった。わたしはグラスから一口飲んだ。彼女はグラスを私の口から離し、液体が少し首筋を垂れていくのを見ていた。
彼女は再び私の上に屈み込んだ。血液が私の身体を駆けめぐった。将来の我が家を隅々まで念入りに見てまわる入居希望者みたいに。
「あなたの顔は防水マットみたいなありさまよ」と彼女はいった。》(304ページ)
「ピンク色の泡が儚い希望のように立っていた」
「将来の我が家を隅々まで念入りに見てまわる入居希望者みたいに」
こういう比喩は正確さに欠ける・・・とわたしには思われる。チャンドラーの文体は、無理を承知で、無理をしているところがある。読者としてのわたしは、こういう部分はやれやれである(^^;;)
ことばは節約して使わないと、液状化を起こして始末の悪いものになる。「大いなる眠り」には、しばしばそれがある。
ストーリィテラーとしては、チャンドラーはたぶんB級の小説家なのである。本作には、魅力的な登場人物は、まったくといっていいほど存在しない。プロットはやたら込み入っているし、わけがわからないところもある。しまいまで読むのが苦痛で、何度か投げ出しそうになった。
創元推理文庫の古い「大いなる眠り」(双葉十三郎訳)も、30代で読みはじめ、20~30ページあまりで挫折。「わけがわからん」と思ったからだ。
《チャンドラーの長編小説の一部は文学作品として重要とされており、特に『大いなる眠り』(1939)『さらば愛しき女よ』(1940)、『長いお別れ』(1953) の3作品は傑作とされることが多い。》
・・・ということなので、わたしは再挑戦することにしたのだが、村上春樹訳で読んでも、やっぱりおもしろくない。
人びとは、警察の関係者をはじめ、すべて“トラブル”(利害関係、金など)を通してつながっているが、その関係がリアリズムの手法で手堅く書かれているわけではない。
だいたいにおいて、依頼人ガイ・スターウッド将軍がつまらない老人でしかないし、その娘ヴィヴィアンとカーメンの姉妹二人が、半分狂っているようで、見方によっては女としてやや突出している程度。
《私はシャーロック・ホームズでもないし、ファイロ・ヴァンスでもありません。警察が既に調べ終えた場所に行って、壊れたペン先を見つけて、そこから事件をするすると解決するなんて芸当はとてもできません。》(336ページ)という有名なセリフがある。
これは作者のDeclaration(宣言)というべきもの。
まあ、“男の気取り”といえば、気取りそのままである。
本書は最後の第32章にいたって、謎の大部分が解決をみる。そういう意味では、否応なくジャンルとして“ミステリ”に属している。ここを読まなければ、星3つにとどまっただろう。
20代の終わりころ読んだ記憶だけでいわせてもらうと、「さらば愛しき女」と「長いお別れ」(清水俊二訳)の2作は、間違いなく秀作であった・・・と思う。その記憶に、今回はみちびかれている。
気合が入ったら、「高い窓」「プレイバック」あたりは村上訳で読むつもりで、スタンバイさせてはある。
はーてはて、どうなることやら(^ε^)
評価:☆☆☆☆