
寒がりなので、この時期になると、猫ではないけれど、陽だまりが恋しくなる。
低い位置にある太陽を背にして、太陽をいっぱいに浴びた被写体にカメラをむける。
逆光あるいは半逆光で、ものいわぬ不思議な影の住処をさがして歩く。
ずっと以前の日記でも書いたことだけれど、
「陽だまりの猫」は、そのままわたしの幸福論となる。
古い和風の家には縁側があって、近所の人や友達がやってきて、
小春日和のあたたかい陽ざしにつつまれ、四方山話に花を咲かせる。
甘そうな柿やミカン。
そのかたわらで丸まっている猫たち。

客が帰ったあとは、そこに寝そべって、新聞を読んだり、雑誌をひらいたり。
祖父や祖母がまだ健在で、ニワトリが鳴いたり、隣家で犬が吠えたりしている。時間はよどんだようにゆっくり、ゆっくり流れていき、空間をへだてた景物は琥珀の向こう側にあるように、少しにじんで見える。
二度と帰らぬそういった時間の、遠い記憶が、こういった写真の背後からうっすら立ち上がってくる。

今日は朝、県立図書館で5冊の写真集を借りてきた。
1.「凶区」森山大道(朝日新聞社刊)
2.「MORIYAMA・SHINJYUKU・ARAKI」森山大道vs荒木惟経(平凡社)
3.「フォトグラファーズ」木村伊兵衛賞の30年(朝日新聞社刊)
4.「日本の写真家19 桑原甲子雄」岩波書店刊
5.「日本の写真家36 中平卓馬」同上
桑原さんの写真は、30年代40年代に撮られたものが多いが、60年代70年代のものも、何作か収録してある。ずっと昔に、カメラ雑誌で見て、忘れかけた作品と、久しぶりの再会。生まれてもいない時代が、なぜこうも「なつかしい」のか。
記録と記憶。そのあたりを支配していた空気と、町のざわめき。
長生きできたとして、20年後30年後に、またこれらの写真を見ることになったら、
わたしの神経回路のずっと奥のかすかな場所で、いまとは違う「なつかしさ」の感情がスパークするのだろうなぁ。
「なつかしさ」とは、意外なくらい過激な感情である。
そういう年齢になったということか、たぶん(笑)。
低い位置にある太陽を背にして、太陽をいっぱいに浴びた被写体にカメラをむける。
逆光あるいは半逆光で、ものいわぬ不思議な影の住処をさがして歩く。
ずっと以前の日記でも書いたことだけれど、
「陽だまりの猫」は、そのままわたしの幸福論となる。
古い和風の家には縁側があって、近所の人や友達がやってきて、
小春日和のあたたかい陽ざしにつつまれ、四方山話に花を咲かせる。
甘そうな柿やミカン。
そのかたわらで丸まっている猫たち。

客が帰ったあとは、そこに寝そべって、新聞を読んだり、雑誌をひらいたり。
祖父や祖母がまだ健在で、ニワトリが鳴いたり、隣家で犬が吠えたりしている。時間はよどんだようにゆっくり、ゆっくり流れていき、空間をへだてた景物は琥珀の向こう側にあるように、少しにじんで見える。
二度と帰らぬそういった時間の、遠い記憶が、こういった写真の背後からうっすら立ち上がってくる。

今日は朝、県立図書館で5冊の写真集を借りてきた。
1.「凶区」森山大道(朝日新聞社刊)
2.「MORIYAMA・SHINJYUKU・ARAKI」森山大道vs荒木惟経(平凡社)
3.「フォトグラファーズ」木村伊兵衛賞の30年(朝日新聞社刊)
4.「日本の写真家19 桑原甲子雄」岩波書店刊
5.「日本の写真家36 中平卓馬」同上
桑原さんの写真は、30年代40年代に撮られたものが多いが、60年代70年代のものも、何作か収録してある。ずっと昔に、カメラ雑誌で見て、忘れかけた作品と、久しぶりの再会。生まれてもいない時代が、なぜこうも「なつかしい」のか。
記録と記憶。そのあたりを支配していた空気と、町のざわめき。
長生きできたとして、20年後30年後に、またこれらの写真を見ることになったら、
わたしの神経回路のずっと奥のかすかな場所で、いまとは違う「なつかしさ」の感情がスパークするのだろうなぁ。
「なつかしさ」とは、意外なくらい過激な感情である。
そういう年齢になったということか、たぶん(笑)。