二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

明治150年

2018年08月20日 | エッセイ(国内)
  (どちらも昭和40年代の本なので、黄ばみ、汚れがひどい)



タイムカプセルの中から出てきた本の中に、この2冊がある。
「小説とは何か?」を学習するため、高校時代に読んだ。
どちらも理路整然としていて、無知だった頭に沁み通ったので、少し読みはじめたら、すぐに思い出した。

中村光夫「風俗小説論」と、臼井吉見「小説の味わい方」。
その昔は新潮文庫で手軽に読めた。

この2冊は、要するに小説における“近代化理論”を推進した本。お手本は欧米にあり、日本が文化的、社会的に、あるいは文学的に、いかに遅れをとっているかを論証している。
大雑把にいえば、中村さんの理想は「マダム・ボヴァリー」、臼井さんのそれは「アンナ・カレーニナ」。

しかし、このお二人も、形こそ違え輸入品の崇拝者。日本は辺境の国だから、海外から入ってくるものにいたって弱い。その現象は現在でもつづいている、いや、半永久的につづくだろう。

したがって、すでに“解決ずみ”として、文学的にまるっきり反故にはできない内容をふくんでいる。
私小説は彼らがいうほど、それほどつまらないか、下らないか? 
そんなことはないのだ。あれはあれ、これはこれ。
視点をパンすれば、こういった問題は、現代のグローバリズムと反グローバリズムのケンケンガクガクにも結びついてくる・・・と思われるが、いかがなものであろう(=_=) 

今年は明治元年(1868)からちょうど150年目。いっそ和暦など廃止してしまえという意見もある。

しかし、わたしはそれには組みしない。そういうことをいう人は、いずれは日本語を廃止し、英語に乗り換えようといい出しかねない。
日本語を廃止するとは、日本人が日本人でなくなることである。

母国語とはそういうものではないのか!?

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