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行く春を近江の人と惜しみける
これは芭蕉の一句。
わたしは昨日、今日と、カメラを手にしてゆく秋を惜しんできた。
遠くへ出かけていく必要なんて、まったくない。
わたしの日常の中の秋。その美しさにこそ、価値のようなものがある。
そんなことをおもいながら、30分ばかりクルマを走らせた。
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まあ、なんてきれいなんだろう。
春は生殖の季節だから、装うのはわかる。しかし、まもなく冬がくるっていうのに、この秋の彩りは、ちょっと想像を絶しているところがある。だれのために、なんのために、こんなに美しく装うのだろう。
新古今の昔から、日本人はこの「秋の風情」に気がついていた。
それから、およそ千年が経過している。
秋の美に心打たれるというのは、日本人の繊細な歴史意識、美意識のなせる技である。
エスキモーや常夏のハワイの人に、秋の美しさを理解してもらうのは、そうなまやさしいことではない。
そう・・・まさに、この美は、日本人のものである。
中国やお隣韓国に、こんな秋の紅葉の美をめでる伝統があるのか、どうか?
行く春を近江の人と惜しみける
この一句から「京ちかきこころ」を読み解いたのは、安東次男さんだった。
わたしのような関東人に、「京ちかきこころ」の粋がわかるはずもない。
日本列島に暮らす人びとの、ある種の通過儀礼としての紅葉狩り。
観光化されてしまったような「観光スポット」ではなく、さりげない日常と隣り合った自然の移ろいに、こころなごますひととき。
わたしはそんなものが好きである。