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木の枝に残された紅葉もいいけれど、散り敷いた落ち葉の美しさにも、眼を瞠る美しさがある。
木の葉はどこからきたか?
木の葉は、土の中、地面の下からやってくる。そうして、秋がきて、その使命を終えると、また地面に還っていく。大気と同じように、この地球の循環系の一つだったはず。
このあいだ、近隣にある少林山達磨寺へいったとき、すれ違った庭師に「いやー、どこもかも、落ち葉が美しいですね」と挨拶がわりにいったら「お客さんにはそうですが、われわれにとってはゴミなんです。これだけの量を処分するのは、たいへんなことなんです」と愚痴っぽくいう。
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うん、それはわかる。街路樹の落葉高木が葉を落とすと、市から委託された業者のトラックがやってきて、清掃していく。
それはアスファルトが、地球循環システムを遮断しているから。だから、土と混じり合って腐葉土になるわけではない。落ち葉=ゴミというのは、都市生活を送る人間の“勝手ないい分”だと、わたしは思っていたが・・・。
明治の文学・・・徳富蘆花「自然と人生」や独歩の「武蔵野」を読んでいると、落ち葉にはちゃんと行く先があった。そういう文化がすたれ、いまや、落ち葉はゴミ(~o~)
なんと悲しいことだろう。
植木屋さんは少しは買っていくだろう。しかし大半はお坊さんなどが落ち葉をあつめて、毎日境内のはずれで焼いているという。葉は有機物だから、科学的に研究すれば、資源として使えないはずはない。こんなにたくさん、毎年くり返される「落ち葉」を再利用できたらいいのにとおもうけれど、コスト、効率の問題も無視できない。
わたしが「なんとまあ綺麗なんだろう」と見とれたような葉がいずれゴミとして処分される。世知辛い世の中なのだ。そういった現実には眼をつぶって、のほほんと、「錦秋の美」に、いつまでも浸っていたいのにね。