昨日は連休の2日目。いいお天気だったので、埼玉県の児玉町へ出かけた。
そのアルバムをアップしたいところだけれど、そちらは後回しにして、この写真についてコメントしておこう。
この一枚は「わが家の家宝」といっていいような写真なのである。まあ、ほかには貴重品らしきものがなーんにもないから・・・ですけどね(笑)。
撮影年月日は不明。わが直近のご先祖たちが写っている。
いちばん左が、善太郎さんといって、わが家系のご本家のご当主。その右が、次男でその後隣りに分家した祖父がいる。祖父喜四郎はこのときまだ独身。
真ん中で椅子にすわっている、性格のきつそうなおばあちゃんが、わたしの父方の曾祖母ということになる。この曾祖母はわたしが生まれたころ亡くなっているので、写真でしか知らない。
わたしの父は来年そうそうに88歳となる。そこから推定し、この一枚はおよそ90余年まえ(1921~22年)の写真ということになる。後ろに立っているのは、祖父の8人の兄弟姉妹。
祖父の時代の一族が、ここに参集している。
写真というもののすごさ! 写真の記録性とは、こういう力のことを指すのだろう。
90余年まえの空気や人が、冷凍保存され、化石化している。この「化石」は、わが家系にとってはとても貴重なものである。
この写真はじつはオリジナルプリントがあって、それはキャビネサイズで、本物のセピア調となっている。その写真を、いまから30年ばかりまえに、父の従弟が精密に複写し、四つ切りに引き伸ばして親戚に配布した。その四つ切りのプリントが、額に入れられ、仏壇の上の長押にかけられている。
それをはずし、ほこりを払って、E-P3で、わたしが再度コピーした(~o~)
父の従弟は、東京近郊で町の写真館をいとなんでいた。だから、わが家へ年始にやってきて、父からこの写真を見せられたとき、すぐにその“貴重性”に気がついた。
祖父は分家に出してもらって故郷にとどまったが、女兄弟や、弟たちは、新天地をもとめて故郷からはなれた。大叔父のうち、わたしが思い出せるのは二人だけ。
このころ、父方の曾祖父周蔵が若くして亡くなっている。その三周忌の法要かなにかで、一族が参集し、「親戚のおじさん」のような人に撮影してもらったものらしい。
父にはむろん、ここに写っている親戚の人びとすべてがわかる。
撮影地は、写真館ではなく、本家の庭先である。
このころ、親戚の子どもをあずかったり、食いつめた兄弟がころがりこんできたり、どうやらわが家はてんやわんやの大家族だったらしい。一人だけスーツを着ているが、これが「服屋の叔父さん」と幼いわたしが呼んでいた人で、あとはご覧の通り時代がしのばれる和服である。
祖父の兄弟たちは職をもとめて、東京、横浜、広島などへ散らばっていき、いまではつきあいがあまりない。終の栖だけは生れ故郷に置きたいという大叔父の孫が、正月とお盆にやってきて、挨拶に立ち寄る程度。
故郷をはなれた人たちがどんな苦労をし、一家をなしていったか知るよしもないが、およそ見当はつく。太平洋戦争の荒波にもまれ、波瀾万丈の「戦中・戦後」を送ったことだろう。
この日、この場所が、化石化し、時間の長いながいトンネルを、旅しつづけている。
血や涙や汗をかいくぐり、かいくぐりしながら。
それをわれわれは一枚の写真を通して感得する。
はるかな、はるかな彼方へと失われてしまったなつかしい歳月。