
(一週間ほど前に手に入れた内田光子のベートーヴェン最後のピアノ・ソナタ、輸入盤)
ベートーヴェンのピアノ・ソナタは、わたしにとってなくてはならない音楽である。全部で32曲つくっているが、どれも他の作曲家を寄せ付けない、建築物のような、圧倒的な音楽のモニュメント♪
12月後半ころから、ブルックナー、モーツァルトにはじまって浴びるようにクラシックを聴いている。
例年なら野鳥を撮りに、防寒着をまとって、超望遠ズームをセットしたカメラ片手に、そこいらをうろつくのだけど、今年の冬はクラシック熱が再発し、CDを50枚ばかり仕入れ、主としてコタツにもぐり込んで聴きつづけている。
なぜ野鳥を撮影しに出かけないのか?
長らく風邪をひいていて、体調がすぐれなかったのだ。だからコタツに「しけ込んでいる」というわけだ(=_=)タハハ
これ以上やっても「同じような野鳥写真しかとれない」というあきらめもある。
そうしたら、「ああ、明日も明後日も休みか!」と気が付いた(笑)。長年の習慣は、1年以上たたないと抜けないのかもねぇ。
新品も買ってくるが、ほとんどはリユースのCDを、安いものだからしこたま買って帰る。所有CDが、600枚を超えたと思うが、友人の友人には、1500~2000枚持っている人がいる。オーディオもお金がかかっている。お邪魔したとき、6帖の壁一面が、CDラックになっていた。
ご当人も奥様もピアノを少々やるし、二番目のお嬢さんは音大を出て、中学校の音楽教師をしている。
そういう人は世の中にいくらでもいるだろう。わたしなどタカがしれている|*。Д`|┛
クラシック・ファンというのもおこがましいし、コレクターにはほど遠い存在だ。
さて、何を書こうとしたのか・・・そうか、ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタについてだった。
32曲をすべて聴いたことはない。「月光」「悲愴」「アパッショナータ」「テンペスト」等、あだ名がついたごくポピュラーなものはすぐに思い出せる。しかし、それ以外だと、32曲の半分以上は聴いたことがあるはずだが、思い出すことはむずかしい。
28番や29番(ハンマークラビーア)あたりはそもそもわたしの手には負えない世界を構築しているしね(;゚д゚)
わからないため、途中でうつらうつら寝てしまったり。
結局一番「好き」といえるのは、最後の3曲。
ピアノ・ソナタ30番 ホ長調
〃 31番 変イ長調
〃 32番 ハ短調
ベートーヴェンの32番は1822年、彼が52歳のときのもの。だから56歳まで生きた、彼の最晩年の境地を語っているわけではない。
デァアベリ変奏曲
交響曲第九番
弦楽四重奏曲12~16番
・・・といった作品が、このあとつくられている。
とはいえ、最後の4-5年といえば、すでに“晩年”。
老境のベートーヴェンの心象風景を、ここから聴きとってもまちがいではないし、一般的にそのように受け止められている。
3曲のどれもすばらしい(^^♪
この音楽がいつまでも終らないでほしい・・・と、そう願いながら、耳をすましているときの浄福感といったら。
ピアノ・ソナタは、そのほとんどが、彼が自分自身のためにつくった曲だそうである。楽譜を売って生活の糧をうるためでも、演奏会のためでもない。創作の動機といえば、不可避的にもれてしまったため息であり、ひとりごとなのだ。
そう考えて聴くからだろうか、他に比類のない、神々しさがつきまとっている。「ああ、なんて身軽にふるまっていることだろう。彼は音楽の中でだけ、ほんとうの自由を味わうことができたのだ」
とくに31番のト短調で現われる第2楽章(歎きの歌)、主題と5つの変奏からなる32番の第2楽章!!
32番はハ短調ということもあって、聴くものの心を震わせずにはおかない。
聴覚障害がひどく、晩年には自分が弾くピアノの大音量さえききとれたかどうか?
聴いていると、広い家の中を、いろいろな過去を背負った姿の美しい人(男でも女でもいい)が歩きまわっている気配がする。声にはならないつぶやき・・・のようなものや衣ずれが聞こえるのだ。
32番の第二楽章では、その人の頭上から音の粒が、光のシャワーとなって降りそそぐ。
「ああ、ああ。これは何だろう!?」
そういう音楽なのである。諦念に満ちた深い瞑想であり、なぐさめであり、涙のない悲哀が、音の粒となって天空から降りそそぎ、北風のように渦巻いては走り過ぎていく。
いうまでもなくピアノ・ソナタは純粋な器楽曲。
そのため、ことばの制約はいっさいうけない。
彼の目尻には涙がにじんではいるが、泣いているのではない。ことばを使わず、まもなく死んでいくであろう自分と、ここまでの半生を振り返って、天上にあるものを見あげている。
彼が晩年に到達した“軽み”が、一陣の風となって吹き過ぎる。
ピアノ・ソナタ32番とは、そうした音楽である。むかし聴いたときは胸がしめつけられ、苦しいほどだったが、いまとなって聴きなおしてみると、むしろ音楽の明るさ、軽さのトーンが胸にしみ入る。
ブルックナーの8番や9番は壮大な音楽の伽藍だが、ここにあるのはシンプルな、とても澄みきった音の響きだ、幼い子どもが、子猫と戯れているような・・・。
あの気むずかしいベートーヴェンの心の片隅に、こういう人なつこさが眠っていたのだ。そのことに、いまあらためて目を瞠る思いがする。

これまでもっともよく聴いたのは、バックハウス盤。つぎがケンプ♪
バックハウスは堅牢なピアニズムでゆるぎのない硬質な抒情を奏で、ケンプはやわらかなタッチで、こわれやすい胸の震えをていねいにつつんで差し出す。
この2つの盤があれば、わたし的には十分。
基準となっているのはバックハウスの演奏なので、いつもそれと比べてしまう。

(左はバックハウス「モツーツァルト・リサイタル」。これもなくてはならない大事な一枚)

このあいだ、ハイドシェックの31番32番も手にいれたが、ドイツ人によるドイツ音楽とはひと味違った音楽になっている。アシュケナージのものはうまさでずば抜けてはいると思うけど、たびたび聴きたくなるような何かが欠けている・・・ようにわたしには思える。シンフォニーと違って、ある意味とても単純な音のビーズ玉なのだ。

そこにさらにやってきたのが内田光子。一度聴いただけでは違和感がある。
これが“内田流”と感じられるためには、これから4回5回と聴き込んでいかねばならないだろう。
この数日、内田光子が気になって仕方ないのだ。
うーん、モーツァルトのソナタの場合、これまで内田さんよりピリスの方を好んで聴いてきた。
情緒過多というのか、湿度が高いというのか(?_?) ベタついている。
曲想への没入の仕方が半端じゃない。そこがどうもねぇ、わたしの好みに合わないところ。
ケンプに近いといえる気がするが、うまい表現がみつからない、いや、まだよくわからない。
「もっとサラリと弾いてよ」とケチをつけたくなっている。その方が、聴き手の胸をえぐるはず。
しか~し、内田さんにはベートーヴェンよりシューベルトがお似合いだろう、まだ聴き込んではいないだのだけれど。いずれ、そのあたりをたしかめてみよう♪
内田光子のシューベルト。わたしにわかるかどうか、はたして(ノ_σ)タハハ
ベートーヴェンのピアノ・ソナタは、わたしにとってなくてはならない音楽である。全部で32曲つくっているが、どれも他の作曲家を寄せ付けない、建築物のような、圧倒的な音楽のモニュメント♪
12月後半ころから、ブルックナー、モーツァルトにはじまって浴びるようにクラシックを聴いている。
例年なら野鳥を撮りに、防寒着をまとって、超望遠ズームをセットしたカメラ片手に、そこいらをうろつくのだけど、今年の冬はクラシック熱が再発し、CDを50枚ばかり仕入れ、主としてコタツにもぐり込んで聴きつづけている。
なぜ野鳥を撮影しに出かけないのか?
長らく風邪をひいていて、体調がすぐれなかったのだ。だからコタツに「しけ込んでいる」というわけだ(=_=)タハハ
これ以上やっても「同じような野鳥写真しかとれない」というあきらめもある。
そうしたら、「ああ、明日も明後日も休みか!」と気が付いた(笑)。長年の習慣は、1年以上たたないと抜けないのかもねぇ。
新品も買ってくるが、ほとんどはリユースのCDを、安いものだからしこたま買って帰る。所有CDが、600枚を超えたと思うが、友人の友人には、1500~2000枚持っている人がいる。オーディオもお金がかかっている。お邪魔したとき、6帖の壁一面が、CDラックになっていた。
ご当人も奥様もピアノを少々やるし、二番目のお嬢さんは音大を出て、中学校の音楽教師をしている。
そういう人は世の中にいくらでもいるだろう。わたしなどタカがしれている|*。Д`|┛
クラシック・ファンというのもおこがましいし、コレクターにはほど遠い存在だ。
さて、何を書こうとしたのか・・・そうか、ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタについてだった。
32曲をすべて聴いたことはない。「月光」「悲愴」「アパッショナータ」「テンペスト」等、あだ名がついたごくポピュラーなものはすぐに思い出せる。しかし、それ以外だと、32曲の半分以上は聴いたことがあるはずだが、思い出すことはむずかしい。
28番や29番(ハンマークラビーア)あたりはそもそもわたしの手には負えない世界を構築しているしね(;゚д゚)
わからないため、途中でうつらうつら寝てしまったり。
結局一番「好き」といえるのは、最後の3曲。
ピアノ・ソナタ30番 ホ長調
〃 31番 変イ長調
〃 32番 ハ短調
ベートーヴェンの32番は1822年、彼が52歳のときのもの。だから56歳まで生きた、彼の最晩年の境地を語っているわけではない。
デァアベリ変奏曲
交響曲第九番
弦楽四重奏曲12~16番
・・・といった作品が、このあとつくられている。
とはいえ、最後の4-5年といえば、すでに“晩年”。
老境のベートーヴェンの心象風景を、ここから聴きとってもまちがいではないし、一般的にそのように受け止められている。
3曲のどれもすばらしい(^^♪
この音楽がいつまでも終らないでほしい・・・と、そう願いながら、耳をすましているときの浄福感といったら。
ピアノ・ソナタは、そのほとんどが、彼が自分自身のためにつくった曲だそうである。楽譜を売って生活の糧をうるためでも、演奏会のためでもない。創作の動機といえば、不可避的にもれてしまったため息であり、ひとりごとなのだ。
そう考えて聴くからだろうか、他に比類のない、神々しさがつきまとっている。「ああ、なんて身軽にふるまっていることだろう。彼は音楽の中でだけ、ほんとうの自由を味わうことができたのだ」
とくに31番のト短調で現われる第2楽章(歎きの歌)、主題と5つの変奏からなる32番の第2楽章!!
32番はハ短調ということもあって、聴くものの心を震わせずにはおかない。
聴覚障害がひどく、晩年には自分が弾くピアノの大音量さえききとれたかどうか?
聴いていると、広い家の中を、いろいろな過去を背負った姿の美しい人(男でも女でもいい)が歩きまわっている気配がする。声にはならないつぶやき・・・のようなものや衣ずれが聞こえるのだ。
32番の第二楽章では、その人の頭上から音の粒が、光のシャワーとなって降りそそぐ。
「ああ、ああ。これは何だろう!?」
そういう音楽なのである。諦念に満ちた深い瞑想であり、なぐさめであり、涙のない悲哀が、音の粒となって天空から降りそそぎ、北風のように渦巻いては走り過ぎていく。
いうまでもなくピアノ・ソナタは純粋な器楽曲。
そのため、ことばの制約はいっさいうけない。
彼の目尻には涙がにじんではいるが、泣いているのではない。ことばを使わず、まもなく死んでいくであろう自分と、ここまでの半生を振り返って、天上にあるものを見あげている。
彼が晩年に到達した“軽み”が、一陣の風となって吹き過ぎる。
ピアノ・ソナタ32番とは、そうした音楽である。むかし聴いたときは胸がしめつけられ、苦しいほどだったが、いまとなって聴きなおしてみると、むしろ音楽の明るさ、軽さのトーンが胸にしみ入る。
ブルックナーの8番や9番は壮大な音楽の伽藍だが、ここにあるのはシンプルな、とても澄みきった音の響きだ、幼い子どもが、子猫と戯れているような・・・。
あの気むずかしいベートーヴェンの心の片隅に、こういう人なつこさが眠っていたのだ。そのことに、いまあらためて目を瞠る思いがする。

これまでもっともよく聴いたのは、バックハウス盤。つぎがケンプ♪
バックハウスは堅牢なピアニズムでゆるぎのない硬質な抒情を奏で、ケンプはやわらかなタッチで、こわれやすい胸の震えをていねいにつつんで差し出す。
この2つの盤があれば、わたし的には十分。
基準となっているのはバックハウスの演奏なので、いつもそれと比べてしまう。

(左はバックハウス「モツーツァルト・リサイタル」。これもなくてはならない大事な一枚)

このあいだ、ハイドシェックの31番32番も手にいれたが、ドイツ人によるドイツ音楽とはひと味違った音楽になっている。アシュケナージのものはうまさでずば抜けてはいると思うけど、たびたび聴きたくなるような何かが欠けている・・・ようにわたしには思える。シンフォニーと違って、ある意味とても単純な音のビーズ玉なのだ。

そこにさらにやってきたのが内田光子。一度聴いただけでは違和感がある。
これが“内田流”と感じられるためには、これから4回5回と聴き込んでいかねばならないだろう。
この数日、内田光子が気になって仕方ないのだ。
うーん、モーツァルトのソナタの場合、これまで内田さんよりピリスの方を好んで聴いてきた。
情緒過多というのか、湿度が高いというのか(?_?) ベタついている。
曲想への没入の仕方が半端じゃない。そこがどうもねぇ、わたしの好みに合わないところ。
ケンプに近いといえる気がするが、うまい表現がみつからない、いや、まだよくわからない。
「もっとサラリと弾いてよ」とケチをつけたくなっている。その方が、聴き手の胸をえぐるはず。
しか~し、内田さんにはベートーヴェンよりシューベルトがお似合いだろう、まだ聴き込んではいないだのだけれど。いずれ、そのあたりをたしかめてみよう♪
内田光子のシューベルト。わたしにわかるかどうか、はたして(ノ_σ)タハハ
