
(いまから20年ほど前、このCDとめぐり逢った。DECCA モノラール録音)
先日取り上げたバックハウスについて、もう少し書いておく気になった。
なぜかというと、この人の演奏をよく聴くからである。
■ウィルヘルム・バックハウス(1884~1969年)ドイツ、ライプツィヒ生まれ、1946年スイスに帰化。
生涯一ピアノ弾き。
短期間教職についたことはあるが、それ以外、自伝、音楽論のようなものを書かず、講演もせず、弟子らしい弟子もとらず、ひたすらピアノを弾くことに専念した。
風貌は、無骨なドイツの農民か、職人の親方にしか見えない。ヒトラーの政権下でもよく乞われるまま演奏をつづけたため、ナチ協力者の疑いをかけられ、渡米することを禁じられていた時期があったそうである。
戦後スイスに帰化したのも、そのあたりに原因があったのかもしれない。
1969年、死ぬ直前まで演奏し、そのピアニズムは衰えることを知らなかった。「鍵盤の獅子王」と呼ばれたそうだが、最後は演奏中のステージで倒れた。
「最後の演奏会」というアルバムがあるが、わたしはまだ手に入れていない。
1969年まで第一線で演奏活動をおこなっていたため、多くの録音が残されている、モノラールではあるが。
個人的なことをいわせてもらえば、33-4歳のころオーディオを買ってCDを聴くようになり、ピアノ曲ではまずベートーヴェンのポピュラーなピアノ・ソナタを手に入れた。
「モーツァルト リサイタル」というこのアルバムを買ったのはずいぶん後のこと。一度聴いただけで惹きつけられたことを覚えている。
「バックハウスといえばベートーヴェンに定評があるけど、モーツァルトもいいじゃないか」
それから数年、ピアノ曲では、何だかんだといいながら、この一枚をじつによくコンポのトレーにのせた。20回、いや30回くらい聴いているかも(^^)/
いかにも職人気質というのか、ぶっきら棒で大向こうを唸らせるようなパフォーマンスはなく、硬質な抒情性、楽譜に忠実な、やや地味な演奏が持ち味♪
飽きのこない演奏といっていいだろう。フォルテシモは力強く、ほとんど無表情で弾ききる。
感情のゆらめきがないはずはないのだが、じつに淡々としている。
わたし自身が昔人間なので、古い時代の演奏家に心惹かれる。真の巨匠とはこういう人である、と思っている♪
新しがる必要なんて、ほとんど感じない。写真でフィルムにこだわっているのと、同じような好み。
かの松尾芭蕉先生は「不易流行」といっているけど、わたしの場合、流行にはいたって鈍感なのだ。
ところで、このアルバム、つぎの4曲が収録されている。
1.幻想曲 ハ短調 K475 10分18秒
2.ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K457 およそ14分
3.ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 およそ12分
4.ロンド イ短調 9分15秒
バックハウスのモーツアルトにこれだけはまったのは当CDの選曲によるところが大きいかもしれない。
幻想曲、ソナタ、ロンド。
これらは数ある作品の中でも名曲中の名曲(^ー゚)ノ モーツァルト・ファンを陶酔の淵に誘い込まずにはおかない。
「幻想曲 K475」は「ピアノ・ソナタ 第14番」と一対になって出版されたため、よく続けて演奏されるそうである。激しく暗い動きをみせたあと、アレグロで緊迫し、やがてハ短調のアダージョに戻る。
短いだけに、非常に完成された美しさをおび、終るとすぐにふたたび聴きなおしたくなる魅力を持っている。
「ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K457」は、モーツァルトのピアノ・ソナタの中でも、一、二を争う名曲。のちにベートーヴェンのソナタにつながっていく悲壮感も聴きどころ。バックハウスは淡々とやっているようだが、こまかい部分にまで神経がはりめぐらされている。だからおよそ14分なのに、聴き手にはもっとずっと長い時間がたったように思える。
第3楽章がすばらしい(^^♪
モーツァルトは“劇的効果”をよく心得ていたのだ。暗い情調のままフィナーレとなるが、つぎの曲へと期待をつなぐ気配が濃厚。オペラの傑作をたくさん残したセンスが、ありありと息づいている。
トルコ行進曲(ソナタ11番)はともかく、この曲を聴いて感動しないようなら、モーツァルトとは縁がないと考えた方がいいかもね。
そして4曲目「ロンド イ短調」。
《哀愁ただよう味わい深くも美しい作品》とライナーノートにしるされている。
ロンドというより、やがてくるロマン派の幻想曲そのもの。ソナタのようなしばりがないから、旋律はモーツァルトの心から放たれて、音はそのまま無数の宝石のように、あるいは極上の絹織物のように輝いている。
元はただの音符なのに、なぜこんなに優美なのか! そう問いかけずにはいられない。しかもこの哀しみの極みの音楽、無骨なバックハウスの指先からしたたり落ちたとは!
多くのピアニストが、好んでアンコールで弾いているのには、理由があるのだ。
美しい人は足早に立去っていく。それがそのままモーツァルトの面影に重なる。
「さよなら」がこんなに美しくあり得るということを、わたしはこの曲によって知ったのだ!

(「カーネギー・ホールリサイタル」1954年3月。観客の拍手まで収められている。)

(80過ぎでまったく衰えを感じさせなかったのは、ルービンシュタインとこの人くらいだろう。指揮者とはわけが違う)
さて・・・と。自分自身のため、これまで聴いてきたピアニストについて思いつくまま列挙してみると・・・。
■好きなピアニスト
バックハウス
ケンプ
ルービンシュタイン
グルダ
ブレンデル
■好きでも嫌いでもないピアニスト
アルゲリッチ
アシュケナージ
バレンボイム
ミケランジェリ
リヒテル
■嫌いなので滅多に聴かないピアニスト
ポリーニ
ホロヴィッツ
グールド
(ほかのピアニストは単発的にしか聴いていない。)

数学や物理の法則とちがい、どれが「正解」というものがない世界。
参考書をいくら読み漁っても、最後の頼りは自分の耳と心のありよう。「聴いてみなけりゃわからない」ということなのだ♪
聴いてみてはじめて「好き」と「嫌い」がはっきりする。こうして“わたし”というものの存在が、少しずつ明らかになる。
※このアルバムは「不滅のバックハウス1000」というシリーズの一枚。
1000円なので、ほとんど“廉価盤”といえる。
共感して下さる方がいないのは淋しいけど、カラヤンが現役だったころに比べ、クラシック・ファンは激減してしまったのだろう(;´д` )
先日取り上げたバックハウスについて、もう少し書いておく気になった。
なぜかというと、この人の演奏をよく聴くからである。
■ウィルヘルム・バックハウス(1884~1969年)ドイツ、ライプツィヒ生まれ、1946年スイスに帰化。
生涯一ピアノ弾き。
短期間教職についたことはあるが、それ以外、自伝、音楽論のようなものを書かず、講演もせず、弟子らしい弟子もとらず、ひたすらピアノを弾くことに専念した。
風貌は、無骨なドイツの農民か、職人の親方にしか見えない。ヒトラーの政権下でもよく乞われるまま演奏をつづけたため、ナチ協力者の疑いをかけられ、渡米することを禁じられていた時期があったそうである。
戦後スイスに帰化したのも、そのあたりに原因があったのかもしれない。
1969年、死ぬ直前まで演奏し、そのピアニズムは衰えることを知らなかった。「鍵盤の獅子王」と呼ばれたそうだが、最後は演奏中のステージで倒れた。
「最後の演奏会」というアルバムがあるが、わたしはまだ手に入れていない。
1969年まで第一線で演奏活動をおこなっていたため、多くの録音が残されている、モノラールではあるが。
個人的なことをいわせてもらえば、33-4歳のころオーディオを買ってCDを聴くようになり、ピアノ曲ではまずベートーヴェンのポピュラーなピアノ・ソナタを手に入れた。
「モーツァルト リサイタル」というこのアルバムを買ったのはずいぶん後のこと。一度聴いただけで惹きつけられたことを覚えている。
「バックハウスといえばベートーヴェンに定評があるけど、モーツァルトもいいじゃないか」
それから数年、ピアノ曲では、何だかんだといいながら、この一枚をじつによくコンポのトレーにのせた。20回、いや30回くらい聴いているかも(^^)/
いかにも職人気質というのか、ぶっきら棒で大向こうを唸らせるようなパフォーマンスはなく、硬質な抒情性、楽譜に忠実な、やや地味な演奏が持ち味♪
飽きのこない演奏といっていいだろう。フォルテシモは力強く、ほとんど無表情で弾ききる。
感情のゆらめきがないはずはないのだが、じつに淡々としている。
わたし自身が昔人間なので、古い時代の演奏家に心惹かれる。真の巨匠とはこういう人である、と思っている♪
新しがる必要なんて、ほとんど感じない。写真でフィルムにこだわっているのと、同じような好み。
かの松尾芭蕉先生は「不易流行」といっているけど、わたしの場合、流行にはいたって鈍感なのだ。
ところで、このアルバム、つぎの4曲が収録されている。
1.幻想曲 ハ短調 K475 10分18秒
2.ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K457 およそ14分
3.ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 およそ12分
4.ロンド イ短調 9分15秒
バックハウスのモーツアルトにこれだけはまったのは当CDの選曲によるところが大きいかもしれない。
幻想曲、ソナタ、ロンド。
これらは数ある作品の中でも名曲中の名曲(^ー゚)ノ モーツァルト・ファンを陶酔の淵に誘い込まずにはおかない。
「幻想曲 K475」は「ピアノ・ソナタ 第14番」と一対になって出版されたため、よく続けて演奏されるそうである。激しく暗い動きをみせたあと、アレグロで緊迫し、やがてハ短調のアダージョに戻る。
短いだけに、非常に完成された美しさをおび、終るとすぐにふたたび聴きなおしたくなる魅力を持っている。
「ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K457」は、モーツァルトのピアノ・ソナタの中でも、一、二を争う名曲。のちにベートーヴェンのソナタにつながっていく悲壮感も聴きどころ。バックハウスは淡々とやっているようだが、こまかい部分にまで神経がはりめぐらされている。だからおよそ14分なのに、聴き手にはもっとずっと長い時間がたったように思える。
第3楽章がすばらしい(^^♪
モーツァルトは“劇的効果”をよく心得ていたのだ。暗い情調のままフィナーレとなるが、つぎの曲へと期待をつなぐ気配が濃厚。オペラの傑作をたくさん残したセンスが、ありありと息づいている。
トルコ行進曲(ソナタ11番)はともかく、この曲を聴いて感動しないようなら、モーツァルトとは縁がないと考えた方がいいかもね。
そして4曲目「ロンド イ短調」。
《哀愁ただよう味わい深くも美しい作品》とライナーノートにしるされている。
ロンドというより、やがてくるロマン派の幻想曲そのもの。ソナタのようなしばりがないから、旋律はモーツァルトの心から放たれて、音はそのまま無数の宝石のように、あるいは極上の絹織物のように輝いている。
元はただの音符なのに、なぜこんなに優美なのか! そう問いかけずにはいられない。しかもこの哀しみの極みの音楽、無骨なバックハウスの指先からしたたり落ちたとは!
多くのピアニストが、好んでアンコールで弾いているのには、理由があるのだ。
美しい人は足早に立去っていく。それがそのままモーツァルトの面影に重なる。
「さよなら」がこんなに美しくあり得るということを、わたしはこの曲によって知ったのだ!

(「カーネギー・ホールリサイタル」1954年3月。観客の拍手まで収められている。)

(80過ぎでまったく衰えを感じさせなかったのは、ルービンシュタインとこの人くらいだろう。指揮者とはわけが違う)
さて・・・と。自分自身のため、これまで聴いてきたピアニストについて思いつくまま列挙してみると・・・。
■好きなピアニスト
バックハウス
ケンプ
ルービンシュタイン
グルダ
ブレンデル
■好きでも嫌いでもないピアニスト
アルゲリッチ
アシュケナージ
バレンボイム
ミケランジェリ
リヒテル
■嫌いなので滅多に聴かないピアニスト
ポリーニ
ホロヴィッツ
グールド
(ほかのピアニストは単発的にしか聴いていない。)

数学や物理の法則とちがい、どれが「正解」というものがない世界。
参考書をいくら読み漁っても、最後の頼りは自分の耳と心のありよう。「聴いてみなけりゃわからない」ということなのだ♪
聴いてみてはじめて「好き」と「嫌い」がはっきりする。こうして“わたし”というものの存在が、少しずつ明らかになる。
※このアルバムは「不滅のバックハウス1000」というシリーズの一枚。
1000円なので、ほとんど“廉価盤”といえる。
共感して下さる方がいないのは淋しいけど、カラヤンが現役だったころに比べ、クラシック・ファンは激減してしまったのだろう(;´д` )