二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

街角のオブジェ(ポエムNO.66)

2011年10月30日 | 俳句・短歌・詩集



それはなぜそこにあるんだろう?
わかる場合もあるし、わからない場合もある。
かつては意味があったのだ。
なにかの、だれかの役に立っていたのだ。
その意味が時間にさらされ、消えかけているか、消えてしまった。
あるいは、いままさに、消えようとしている。
町を歩いていると、ときたまそういった「現場」に遭遇する。

人間や人間がつくり出したものに対して時間がおこなう犯罪の現場。
犯行現場。

オブジェはなにも語らない。
ただ、その前に立った者が、想像をめぐらせる。
推測する。経験や知識にもとづいて類推する。
写真を撮って、ファイル・・・この場合、
とりあえずはSDカードだけれど、そこに収める。

わたしが「記録した」ことによって、
オブジェやオブジェともいえない被写体や、
その時空を照らしていた光は、一瞬だけ、ある意味を獲得する。
フォトジェニックなものは、ときに少しも美しくなんかない。

これはなに?
あれはなに?
名づけてはいけない。
撮った写真に署名をしてはいけない。
それはそのとき、たしかに「そこ」にあったのである。
その尊厳をおかしていけない。





あなたがコピーした現実のかけら。
そいつらは、いつから「そこ」にあるんだろう?
いつまで「そこ」にあるんだろう。
わたしという存在とは、たぶん、なんの関係もない。
それらは、わたしの外にある。
被写体を眺めていると、こころだとか、内部だとか、
見ることができないものが、いかにあやふやな存在かわかるだろう。

これを、見て!
さあ、これを。こっちもだよ。
これを見て!
いっしょに見て!

被写体がわたしに駆け寄ってくる。
そして通りすぎていく。
どんどん、時空の彼方へ遠ざかっていく。
壊れかけた自動販売機や咲いていることを気づいてもらえない花。
高橋眼科医院の看板。
眼でふれる。
そう・・・まさに、これらは、
わたしの眼が「ふれた」ものたちなのだ。





ミシャ・マイスキーのチェロが、
シューベルトの「アルページョ・ソナタ イ短調」を奏でている。
アルコール度のひくい、蒸留酒のような透きとおった音楽。
しらべの向こうに、今日歩いた町々がうっすらと、
あるいはくっきりと浮かんでは消えていく。

写真がむすぶ無縁の縁。
視覚という蜘蛛の巣にかかった小さな獲物。
美しい・・・というのではない。
いや、美しいといってもいいだろう。
ゴミが美しく見える瞬間だってある。
写真はオブジェの表面を瞬間だけなぞる。
そこに、新たな意味がくわわったり、くわわらなかったりする。

人間がつくり出したもの。
人間がつくり出したのではないもの。
足や眼の延長としてのカメラは、わたしがいるところへ、
どこでもついてくる。



※日記を書こうと思っていたのに、詩になってしまった一編。

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