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このあいだの水曜日、わが家の籾摺りの手つだいをしながら、
父親に、ほとほと感心してしまった。
そのねばり強い、ある種の闘争心に。
ことし86歳になるのだけれど、気力、体力はそう衰えてはいない。
籾摺りは九時ころからはじまり、わたしは午後三時ころにはギブアップ(=_=)
お昼ごろまでは順調に動いていたキカイの調子が悪くなって、仕事がすすまなくなったからである。
わが家では、父親が、餅米と、ウルチ米の双方を作っている。
ウルチ米は農業用の大きな乾燥機に収納してある。
餅米はフスマ(・・・昔でいう俵だが、正式名称は知らない)に入れてある。
三人家族のわが家では一年では食べきれず、妹どもの家にも届けている。
曾祖父の代から、あるいはもっとずっと昔から、毎年この作業をくり返してきたのである。
乾燥機も、籾摺り機も、20~25年前に購入した。
購入年月日が、マジックで書いてあるから、ことしが何年目なのか、一目瞭然。
米づくりは男の仕事で、女はアシスタントである。
機械化がすすんだ現在でも、そうとうな労働量。俗にいう「力仕事」に分類されるだろう。
コンバインで刈り取った米を脱穀し、軽トラに積んで家に持ってくる。
餅米は天日干し、ウルチ米は乾燥機に収納して、送風して水分を飛ばす。
そのあと、“籾摺り→精米”という作業工程が待っている。
キカイの調子がよければ、自家米の籾摺りは、一日で終わったろう。
しかし、乾燥機が止まってしまうのである。
籾摺り機からは、多種多様なゴミが出る。
農作業を知らない人は、稲わらから、どういったゴミがどれほど出るか、想像できないだろう。
農協に電話をかけて、メンテナンス・スタッフに出張してもらった。
乾燥機が止まってしまうと、中に収めた米が排出できない。
しばらく、原因究明の作業がつづく。
少し動いては、また止まる。
わたしはつきっきりだったわけではないから、その経過のすべてを見届けたわけではない。
いったん動きだした乾燥機は、しばらく作動していた。
すると今度は、籾摺り機の運転がうまくいかなくなった。
動力は農業用200V電力で動くモーターだが、いろいろなところに、いろいろなレバーがあり、複雑なメカニックが連動しながら作業をこなす。
ベルトだけで、いったい何本つかわれているのだろう。ガタガタ、バタバタと、そいつは老いた鶏のようにうるさく、何種類ものゴミを放出しながら作動する。
そして、玄米ができあがるのである。
食べるためには、つぎに精米機にかけ、白米にする必要がある。
これはまたあとで、必要な分だけ、一袋づつ精米する。そうしないと、酸化し、固くなって、米の味が劣化する。
乾燥機がだめ、籾摺り機がだめ。
農協の職員が「まあ、こんなもんでしょう」といって帰ってしまってからも、キカイはまた調子が悪くなって、作業が止まってしまう。
父親はそのつど、レバーをいじり、あちこちにたまった稲わらのゴミを除去し、電源をONにしたり、OFFにしたりのくり返し。キカイは老体なので、あっちもこっちも、ガタがきている。
それに辛抱強くつきあう。
あきらめない。
必ず直してみせると確信し、あちこち調整し、キカイはなんとかガタガタ動き出す。しかし、5、6分でまた玄米の排出が停止。
そんなことを、飽きもせず、二時間、三時間とやっている。
わたしにいわせれば、気が遠くなるような忍耐力である。
米などたいした値段ではないから、買って食えば、こんな効率の悪い、まあ、割に合わない作業は必要なくなる。
しかし、6時間ばかりつきあってわかったこともある。
父親は、そのまた父親がやっていたことを継いで、米の自給自足にこだわっているのである。大げさにいえば、米が農家にとって魂の一部だとすれば、老朽化しているキカイは、身体の一部。
「そんなことは、やめてしまえ」
しかし、その瞬間、なにかが消し飛んでしまう。
当然ながら、金にはならない。体がぼろぼろに疲れ、ほこりにまみれる。
そんなバカげた作業の果てに、ようやく「ご飯」が食卓にのぼるのである。
説教したり、もっともらしいアドバイスをしたりする父親ではないが、その背中が、雄弁になにかを教えてくれる。
徴兵され、命からがら北支から舞鶴に帰還したあと、戦後社会を、
もちまえのねばり強さで生き抜いてきた父親の背中は、三代目たるひ弱なわたしには、
到底およびもつかない偉大なものがある。
「すげえぞ、これは」わたしは、あたらためて舌をまかざるをえない。
その翌々日、父は残った半分あまりの籾摺り作業を独力でなしとげていた。
こういった問題を、わたしはじつは、どういったことばで語ったらいいのか、よくはわからない。
82歳で亡くなった祖父のテコとして、子どもだったわたしは農繁期には、夜遅くまで田んぼで、過酷な労働に従った。
子どもの眼には、三チャン農業は原始的で、非効率で、典型的な3K仕事だった。
父親は祖父が亡くなったあと、旧国鉄を退職して、田畑を継ぎ、自分の「やり方」を確立してきた。それは、間違いなく、なにものかとの格闘の日々であった・・・と、わたしはおもう。
いま、いささか頼りない三代目として、力量を問われようとしている。
さてさて、どうしたものか?
Uターンして帰ってきた「故郷」とは、わたしにとっては、こうした現実へ身を置くことであった。祖父や父が、地域社会にとけ込みながら送ってきた100年余の歳月と、流した汗と、それをささえた、辛抱強い鋼のような精神力!
トップに掲げたのは、わが家の裏庭。
左側にあるブルー・メッシュの袋には、籾殻が入っていて、少し腐敗させ、畑の肥料に使う。ここまで書いたのは、このブルー・メッシュの袋が、どのようにしてここに置かれているのかのストーリーの一端といっていいだろう。ため息ばかりついているわけにはいかない。