(神田の喫茶店ルオー 2017年5月撮影。愛煙家天国として有名だけど照明はくらい。)
書籍は年々読まれなくなっている。
そういった現象に抗うように、わたしは書籍、つまり本を買い、読んでいる。「こんなにたくさんの本、読むつもりかね」
と、ボケがひどくなる前の母が、わたしの家にきてはよく口にしていた。
何か所もある書棚からあふれた本、本、本。平積みされた本は、読みたくなってさがそうとしても、容易にはみつからない(ノω・、)
さがして見つからないと、新たに買い直したりもする。
TVはないし、新聞もとっていないから、読む気になればずいぶんと読める。
■司馬遼太郎 街道をゆく37 ~「本郷界隈」(朝日文庫 2009年新装版)を読む
さてさて・・・と。
近ごろ読み終えた本の短めのレビューを三題書いておこう。忘れてしまわないうちにね。
司馬遼太郎「街道をゆく」には、江戸・東京ものがあり、この「本郷界隈」37と「本所深川散歩、神田界隈」36がその代表格だけど、ほかに「赤坂散歩」などがある。
とっくにご存じだろうが、司馬さんは大阪人。江戸を舞台とした小説は少ないのではないだろうか。
大きくわけて、戦国もの、幕末ものがあり、そのどちらも有名・無名の武士が主役。
山本周五郎と藤沢周平は、江戸期の町人を主役とした下町人情ものを多く書いている。しかし、司馬さんの場合は少ない(と思われる)。
《明治初期、お雇い外国人が住み、日本最初の大学が置かれた街。本郷は近代化を急ぐ当時の日本で、欧米文明を一手に受け入れ地方へ分ける“配電盤”の役を担った。今も残る団子坂、菊坂、真砂町、追分などの往来に、夏目漱石、森鴎外、樋口一葉ら、この街を愛した文豪が書き残した面影をたどる。》BOOKデータベースより引用
東京でわたしは8年間暮らした経験がある。
28歳のとき、ふるさと群馬に引き揚げてきた。農家の長男であったからだ。そのとき、女を一人つれて帰り(のちの妻)、同人雑誌に加わって書いていた詩を書くことをやめた。
それから20年30年が流れる。そして、50代になって、Kさんという高校時代の友人と、あらためて東京見物に出かけることになる。ほかの友人・知人を巻き込んで6-7回は“東京散歩”をしている( ゚д゚)
あのころ、池波正太郎の「鬼平犯科帳」「仕掛人・藤枝梅安」なども、日本製ハードボイルドとしてよく読んだなあ。
“東京散歩”には、Kさんは必ず切絵図を携えていた。Kさんはわたしよりはるかに徹底したマップ・ラバーであった。
2017年が一番新しい“東京散歩”だけど、もう5年も経過しているねぇ。
<東京SNAP 2017>興味がおありの方はどうぞ♪
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000102721111&owner_id=4279073
(2017年5月 本郷にて)
(2017年5月 本郷にて)
(2017年5月 神田にて)
(2017年5月 神田にて)
ところで、本編は文学散歩の味が濃厚。司馬さんもそのことを意識していて、「まるで文学散歩だなあ」と感想をもらしておられる。
本郷といえば、鷗外であり、漱石である。明治のはじめ、大学はしばらくは東京大学しかなかったのだ。そして本郷の谷の底に住んでいた樋口一葉という天才少女のこと。司馬さんは本郷を歩きながら彼らの往時をリアルに思い出し、感慨にふける。
おわりに近いあたりで、朱舜水、近藤重蔵、高島秋帆、緒方洪庵、最上徳内に筆をついやしているのは、やっぱり歴史小説家の本能か。
司馬さんはこまかいことにはあまりこだわらないので、専門の学者・研究者からあやまりを指摘されることもあるだろう。しかし、専門家に向けて書いているのではない。
普段着の司馬さんの息遣いが、ふっともれてくるところがある。
「街道をゆく」は全43巻なので、第37巻の「本郷界隈」は、終幕がすぐそこに見えているのを微かに感じる。
評価:☆☆☆☆
■吉村昭「わが心の小説家たち」(平凡社新書 1999年刊)を読む
本書はすでに絶版なのではないかしら?
こんな機会に手に入るとは予測していなかった。
刊行されたのが1999年。代表作の多くを書いたあと、もとめに応じておこなった講演記録が元になっているのだそうである。
講演のたぐいが苦手な吉村昭にとっては、めずらしい一冊(^^♪
これがおもしろくて、ほぼ一夜で読んでしまった。
《森鴎外、志賀直哉、川端康成、岡本かの子、平林たい子、林芙美子、梶井基次郎、太宰治──最も敬愛する小説家たちの文章の魅力を語りつくす。吉村昭版「名作案内・小説入門」。歴史小説とは何か。文章とは何か。小説の命とは? 待望の吉村昭版「小説入門」。》
吉村さんが森鷗外のファンであることはうすうす気づいていた。でも、どこをどんなふうに読んで小説家たる自分の血肉と化していったのか?
それが第1章「『歴史其儘』の道」において語られている。吉村さんの歴史小説群は、やっぱり鷗外に淵源をもっているのだ。事実への強烈なこだわりは、鷗外の歴史小説や晩年の評伝を模範としているのである。
志賀直哉、梶井基次郎はともかくとして、川端康成を非常に高く評価しているのは意外であった。
しかも全7章のうち、2章を川端文学に割いている。
第4章「川端康成『千羽鶴』の美」では“激賞”のレベル!
「千羽鶴」はきっちりと読んだことがないので、本屋へ走って買ってこようか・・・と思ったほど。評論家とは違う、小説の実作者ならではの説得力がある
第5章は「女性作家の強烈な個性」と題して、岡本かの子、平林たい子、林芙美子の3人を取り上げている。
あとがきをふくめ、187ページ。吉村昭版「名作案内・小説入門」なので、もっともっと語ってほしかった。吉村さんの根が、どういった文学から、どのように栄養素を汲み上げてきたのかが理解できる。
「小説は文章がすべて」と、若き修行時代に目覚めたという。
わたしも吉村文学の“根”のありどころをさぐる思いにかられてあっというまに読みおえた。
コアなファンならずとも、必ずや愉しめるに相違ない。
評価:☆☆☆☆
■養老孟司「『自分』の壁」(新潮新書 2014年刊)を読む
養老孟司さんのお店には、養老孟司さんの料理がならんでいる。あの料理、この料理。気に入って通いはじめたら、きっと病みつきになる。
養老孟司さんや内田樹さんは、悪くいえば“屁理屈”の人ではないか・・・とわたしはかんがえている。
人びとの常識を疑い、ひっくり返す。そのことに、大いなるよろこびを見出しているのだ。
だから、じっさいにご当人とおつきあいしたら、かなり“偏屈”な人であろう。
一党一派ということばがあるけれど、養老孟司さんも内田樹さんも、一党一派を厳守しておられる。
YouTubeに公式サイトがある。
「そうでしょ!?」それが養老先生の口癖。
その裏には「これ、屁理屈ですかね?」と聴衆に問いかける心理作用がある、とわたしは邪推している。
本編「『自分』の壁」は、他の“壁シリーズ”同様、語り下ろしである。
養老先生がしゃべり、編集者がテープ起こしし、著者が再度目を通してけずったり、書き換えたり、補足したり。
書くのと違って、大幅に時間が短縮できるのだ。
ある意味で、ラクをして、本(著書)を出している。元が話ことばなので、とてもわかりやすい。
「おや? うーん」とうなってしまうこともある。話題は全体として“裏づけ”が乏しいからだ。
「あんたのこれまでの常識、間違っているところがあります」
養老さんも内田さんも屁理屈の名人で、ひっくり返りそうになる話題を多々ふくんでいる。
だけど屁理屈は屁理屈なので、しばらくすると、何が書いてあったか忘れてしまう。
わたしはこのお二人を、思考のアクロバットがうまい人、と呼んでいる。これまで見たことない風景を見せてくれるから、読者は思わず「へえー」とうなる。
そして、・・・そして忘れる(笑)。おもしろいこといっていたな、ということだけ覚えている。そう感じるのはわたしだけかしら。
評価:☆☆☆☆
※それぞれのお店、それぞれの味。何もかも5点にばかりするクセがあるので、今回は4点に留めました。
書籍は年々読まれなくなっている。
そういった現象に抗うように、わたしは書籍、つまり本を買い、読んでいる。「こんなにたくさんの本、読むつもりかね」
と、ボケがひどくなる前の母が、わたしの家にきてはよく口にしていた。
何か所もある書棚からあふれた本、本、本。平積みされた本は、読みたくなってさがそうとしても、容易にはみつからない(ノω・、)
さがして見つからないと、新たに買い直したりもする。
TVはないし、新聞もとっていないから、読む気になればずいぶんと読める。
■司馬遼太郎 街道をゆく37 ~「本郷界隈」(朝日文庫 2009年新装版)を読む
さてさて・・・と。
近ごろ読み終えた本の短めのレビューを三題書いておこう。忘れてしまわないうちにね。
司馬遼太郎「街道をゆく」には、江戸・東京ものがあり、この「本郷界隈」37と「本所深川散歩、神田界隈」36がその代表格だけど、ほかに「赤坂散歩」などがある。
とっくにご存じだろうが、司馬さんは大阪人。江戸を舞台とした小説は少ないのではないだろうか。
大きくわけて、戦国もの、幕末ものがあり、そのどちらも有名・無名の武士が主役。
山本周五郎と藤沢周平は、江戸期の町人を主役とした下町人情ものを多く書いている。しかし、司馬さんの場合は少ない(と思われる)。
《明治初期、お雇い外国人が住み、日本最初の大学が置かれた街。本郷は近代化を急ぐ当時の日本で、欧米文明を一手に受け入れ地方へ分ける“配電盤”の役を担った。今も残る団子坂、菊坂、真砂町、追分などの往来に、夏目漱石、森鴎外、樋口一葉ら、この街を愛した文豪が書き残した面影をたどる。》BOOKデータベースより引用
東京でわたしは8年間暮らした経験がある。
28歳のとき、ふるさと群馬に引き揚げてきた。農家の長男であったからだ。そのとき、女を一人つれて帰り(のちの妻)、同人雑誌に加わって書いていた詩を書くことをやめた。
それから20年30年が流れる。そして、50代になって、Kさんという高校時代の友人と、あらためて東京見物に出かけることになる。ほかの友人・知人を巻き込んで6-7回は“東京散歩”をしている( ゚д゚)
あのころ、池波正太郎の「鬼平犯科帳」「仕掛人・藤枝梅安」なども、日本製ハードボイルドとしてよく読んだなあ。
“東京散歩”には、Kさんは必ず切絵図を携えていた。Kさんはわたしよりはるかに徹底したマップ・ラバーであった。
2017年が一番新しい“東京散歩”だけど、もう5年も経過しているねぇ。
<東京SNAP 2017>興味がおありの方はどうぞ♪
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000102721111&owner_id=4279073
(2017年5月 本郷にて)
(2017年5月 本郷にて)
(2017年5月 神田にて)
(2017年5月 神田にて)
ところで、本編は文学散歩の味が濃厚。司馬さんもそのことを意識していて、「まるで文学散歩だなあ」と感想をもらしておられる。
本郷といえば、鷗外であり、漱石である。明治のはじめ、大学はしばらくは東京大学しかなかったのだ。そして本郷の谷の底に住んでいた樋口一葉という天才少女のこと。司馬さんは本郷を歩きながら彼らの往時をリアルに思い出し、感慨にふける。
おわりに近いあたりで、朱舜水、近藤重蔵、高島秋帆、緒方洪庵、最上徳内に筆をついやしているのは、やっぱり歴史小説家の本能か。
司馬さんはこまかいことにはあまりこだわらないので、専門の学者・研究者からあやまりを指摘されることもあるだろう。しかし、専門家に向けて書いているのではない。
普段着の司馬さんの息遣いが、ふっともれてくるところがある。
「街道をゆく」は全43巻なので、第37巻の「本郷界隈」は、終幕がすぐそこに見えているのを微かに感じる。
評価:☆☆☆☆
■吉村昭「わが心の小説家たち」(平凡社新書 1999年刊)を読む
本書はすでに絶版なのではないかしら?
こんな機会に手に入るとは予測していなかった。
刊行されたのが1999年。代表作の多くを書いたあと、もとめに応じておこなった講演記録が元になっているのだそうである。
講演のたぐいが苦手な吉村昭にとっては、めずらしい一冊(^^♪
これがおもしろくて、ほぼ一夜で読んでしまった。
《森鴎外、志賀直哉、川端康成、岡本かの子、平林たい子、林芙美子、梶井基次郎、太宰治──最も敬愛する小説家たちの文章の魅力を語りつくす。吉村昭版「名作案内・小説入門」。歴史小説とは何か。文章とは何か。小説の命とは? 待望の吉村昭版「小説入門」。》
吉村さんが森鷗外のファンであることはうすうす気づいていた。でも、どこをどんなふうに読んで小説家たる自分の血肉と化していったのか?
それが第1章「『歴史其儘』の道」において語られている。吉村さんの歴史小説群は、やっぱり鷗外に淵源をもっているのだ。事実への強烈なこだわりは、鷗外の歴史小説や晩年の評伝を模範としているのである。
志賀直哉、梶井基次郎はともかくとして、川端康成を非常に高く評価しているのは意外であった。
しかも全7章のうち、2章を川端文学に割いている。
第4章「川端康成『千羽鶴』の美」では“激賞”のレベル!
「千羽鶴」はきっちりと読んだことがないので、本屋へ走って買ってこようか・・・と思ったほど。評論家とは違う、小説の実作者ならではの説得力がある
第5章は「女性作家の強烈な個性」と題して、岡本かの子、平林たい子、林芙美子の3人を取り上げている。
あとがきをふくめ、187ページ。吉村昭版「名作案内・小説入門」なので、もっともっと語ってほしかった。吉村さんの根が、どういった文学から、どのように栄養素を汲み上げてきたのかが理解できる。
「小説は文章がすべて」と、若き修行時代に目覚めたという。
わたしも吉村文学の“根”のありどころをさぐる思いにかられてあっというまに読みおえた。
コアなファンならずとも、必ずや愉しめるに相違ない。
評価:☆☆☆☆
■養老孟司「『自分』の壁」(新潮新書 2014年刊)を読む
養老孟司さんのお店には、養老孟司さんの料理がならんでいる。あの料理、この料理。気に入って通いはじめたら、きっと病みつきになる。
養老孟司さんや内田樹さんは、悪くいえば“屁理屈”の人ではないか・・・とわたしはかんがえている。
人びとの常識を疑い、ひっくり返す。そのことに、大いなるよろこびを見出しているのだ。
だから、じっさいにご当人とおつきあいしたら、かなり“偏屈”な人であろう。
一党一派ということばがあるけれど、養老孟司さんも内田樹さんも、一党一派を厳守しておられる。
YouTubeに公式サイトがある。
「そうでしょ!?」それが養老先生の口癖。
その裏には「これ、屁理屈ですかね?」と聴衆に問いかける心理作用がある、とわたしは邪推している。
本編「『自分』の壁」は、他の“壁シリーズ”同様、語り下ろしである。
養老先生がしゃべり、編集者がテープ起こしし、著者が再度目を通してけずったり、書き換えたり、補足したり。
書くのと違って、大幅に時間が短縮できるのだ。
ある意味で、ラクをして、本(著書)を出している。元が話ことばなので、とてもわかりやすい。
「おや? うーん」とうなってしまうこともある。話題は全体として“裏づけ”が乏しいからだ。
「あんたのこれまでの常識、間違っているところがあります」
養老さんも内田さんも屁理屈の名人で、ひっくり返りそうになる話題を多々ふくんでいる。
だけど屁理屈は屁理屈なので、しばらくすると、何が書いてあったか忘れてしまう。
わたしはこのお二人を、思考のアクロバットがうまい人、と呼んでいる。これまで見たことない風景を見せてくれるから、読者は思わず「へえー」とうなる。
そして、・・・そして忘れる(笑)。おもしろいこといっていたな、ということだけ覚えている。そう感じるのはわたしだけかしら。
評価:☆☆☆☆
※それぞれのお店、それぞれの味。何もかも5点にばかりするクセがあるので、今回は4点に留めました。